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第33話 彼は誰時の油膜に映る背徳の瞳

「蓮奈ちゃん、今日はありがとねー。おかげでいつもよりずっとやる気出たよ」


 NI≒KELLが『ディー・キュセ』でのトリを見事に務め終えて、無事終演を迎えたあと。


 あたしは、伊佐谷と合流して帰ることになった。

 せっかくだし、送るよ。

 って、ライブが終わった直後にメッセージが来たから。


「別にあたしのおかげじゃないでしょ」

「蓮奈ちゃんが観てくれてたおかげだって」

「そんな露骨にモチベ変わる?」

「今夜はこいつを絶対落とすんだって気持ちで歌ったからね」


 ライブ中のことを思い出す。

 また頬が熱くなってきた……。


「そ、そうやって過去の女をお持ち帰りしましたってアピールいらんから」

「こんなこと、蓮奈ちゃんにしか言わないししないんだけどなぁ」

「はいはい。でもいいの? ホルスのあんたとこうしてアフターするなんて、あんたのファンが知ったら悲しむんじゃない?」

「そこはしょうがないよ。蓮奈ちゃんはぼくの『妹』だから。もともと、他の子より贔屓はしちゃうよね。それに、ここならバレないからさ」

「密会って雰囲気じゃないしね」

「ごめんね、ライブ後ってお腹減っちゃうからさ。ご休憩できるところの方が良かった?」

「そんな疲れてるなら一人で行ってきていいよ?」

「つれないなぁ」


 隣に座る伊佐谷の軽口にうんざりするんだけど、ちょっと安心しているあたしもいた。


 伊佐谷とライブ後に合流した場所は、ホテル街ことライブハウス街からほど近い場所にあるラーメン屋さん。


 24時間営業だから、明け方でも入店できた。

 カウンターの座席を区切る仕切りで半個室状態にできるんだけど、隣の伊佐谷とは仕切りは取り払ってある。


「蓮奈ちゃんっていつもぼくの言うこと本気だって信じてくれないよね」

「あんたの言うこと全部真に受けてたら身が持たないから」


 たまーにだけど、伊佐谷の言う通りにしたら、本当にこいつはホテルに連れ込むのだろうか? と試したい気持ちも湧いたりする。


 仮にそうなったときに、あたしに拒否する気持ちが湧かなかったら、自分に対する戸惑いがクソデカになりそうだからやらないけど。


「あたし、こんな時間に外でラーメン食べるのなんて初めてなんだけど」

「ちょうど食べ終わった頃に始発が出るよ。あ、来た来た」


 あたしより先に伊佐谷の前にどんぶりが置かれる。ここのシステムは特殊で、席の前にある横穴から向こう側にいる店員さんが食事を差し込んでくれる牢屋スタイルだ。


「実家のことラーメン屋だって隠したがってたわりにはウキウキでラーメンすすろうとするじゃん」

「ラーメンは好きだよ。バンドマンだから」

「バンドマンかどうか関係ある?」

「バンドマンはツアーで各地を周る影響か、ラーメン通が多いのさ。ほら、蓮奈ちゃんのところにも来たよ」

「マジだ。ふひひ」


 空腹のところに、アブラ感マシマシの香ばしい匂いがして、ついつい冷静さを失っちゃいそうになる。


「蓮奈ちゃん、たぶん寝る前のラーメンになっちゃうけど太るとか気にしないの?」

「あんたのところから美味しそうな匂いさせてきたところで、それ言う?」

「ふふふ、ごめんね。まあ今日だけはグルテン無礼講ってことにしておくといいよ。そうだ。せっかくだし、せーので一緒にすすろっか? 蓮奈ちゃんと同じタイミングで食べたいな」

「どっからそんなキモい発想出てくんの……」

「大きなライブが終わったあとだし、蓮奈ちゃんと共有したいんだよ」

「だからって同時に食べなくていいでしょ。ずずっ」

「あっ、フライングずるい」


 伊佐谷のことなんかより食欲に負けたあたしは、どんぶりに髪が入らないように気をつけて麺をすすり始めちゃう。


「へえ、蓮奈ちゃんってそうやってすするんだ」

「……人がせっかく美味しくいただいてるのに、なんかセクハラっぽいこと言われるとは思わなかったわ」


 色々うるさい伊佐谷のことは無視して、食欲を満たすことに集中した。

 美容とも健康とも完全に無縁な、立ち込める湯気とアブラの匂いがするジャンクな食べ物をすすってる間、あたしは満たされた気持ちだった。


 初めからなにも、足りないものなんてなかったみたいに。


 ホルスの歌声や楽器の音が、ねばねば取り巻いていた重苦しい気持ちを削ぎ落としてくれたライブのときと違って、もう鳴ってる音なんて、周りで食事をしている人の物音やちょっとした話し声くらいしかないっていうのに。


 隣に伊佐谷がいるから?


 ……納得行かんし。


「どうしたの? 伸びちゃうよ?」

「えっ? ああ」

「君、ラーメン食べてるときはついつい伸ばしちゃうクセあるよね。初めてうちに来たときもそうだったけど」

「そうだったっけ?」

「そうだよ。君のことだからよく覚えてる」

「変なところは見てなくていいのに」

「変なところも変じゃないところも、蓮奈ちゃんのことなら何だって見てたいけど?」

「あたしにそんな撮れ高ないってば」

「そうは思わないけどなぁ」


 伊佐谷は、食券と一緒に手元のどんぶりを押し出した。

 替え玉をするつもりらしい。まあ伊佐谷は歌ってカロリーを消費したから、今食べても実質カロリーゼロなんだけどさ。


「表も裏も、お嬢様な君もギャルな君も、ぼくは好きだからさ」


 そこら辺の人の言ったことなら、はいはいそうですかって適当に流しちゃったかも。


 でも伊佐谷の言葉だと、手元に置いときたい感覚っていうか、耳を通り抜けるだけのただの音波にしておきたくないんだよね。


「あたしも」

「え?」

「歌ってるときのあんたは、まあ、結構……良かったんじゃない?」

「君がそう言ってくれるなら、歌ったかいもあったよ」

「別にあたしは――」


 あんたを応援しに行ったとか、そういうつもりじゃないから。

 なんてバシッと言ってやるつもりだったんだよ。

 それで、伊佐谷の方に振り返ったの。


 そしたら。


 身を乗り出した伊佐谷の唇と、あたしの唇が衝突した。


 軟着陸っていうか。


「おい……」

「ごめごめん、蓮奈ちゃんが急に振り返るから」

「明らかにキスする気だったでしょうが」

「そうだけど何か問題でもあるのかな?」

「潔ければいいってもんじゃないから」

「でも、蓮奈ちゃんだってキス待ちだったよね?」

「…………」


 どうして即否定できなかったんだろう?

 結局あたしは、伊佐谷から興味を持たれてるってことで満たされちゃうから?


「とんこつのラードでコーティングされてるから、今のはノーカン」

「蓮奈ちゃんのアリナシの基準もユニークだね」


 笑う伊佐谷は、食事提供用の穴から差し出された替え玉入りラーメンを前にして、喜び勇んで箸を突っ込んだ。

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