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第32話 吸血鬼

 観客席フロアの真ん中で後方彼氏面できるほど余裕のある状況じゃなかった。

 深夜どころか明け方近いっていうのに、フロアは大熱狂のバンギャルたちで押し合いへし合いしてたから。


「ホルス~!」

「こっち見てホルス~」


 バンギャルたちは食い入るようにステージに集中していて、救いの神でも求めるみたいにホルスに声援を送る。


 いや、みんなからすれば、本当に神様なのかもしれない。


 それでも全然胡散臭く思えないのは、前よりずっと伊佐谷のことを知るようになったからかも。


 ホルスはクールな表情を保ちながらも、光る汗が顎先を伝るくらいの熱唱で応えていた。

 そうやってNI≒KELLっていうか、ホルスのパフォーマンスを観ているうちに、だんだん気持ちがスッキリしていくのが自分でもわかった。


 なんか不思議なんだよね。


 会場に来る前は、楽しみだけじゃなくて、不安だってたくさん抱えてたはずなのに。


 あたしは気楽に生きてるわけじゃない。


 学園のみんなにバレないようにお嬢様でい続けないといけないこととか、慣れない父娘を相手に上手く家族をやっていかないといけないこととか、あたしには不安やプレッシャーが多いから。


 だから、賑やかな会場内でイベントが始まっても、どこか胸の内が重苦しいような、ドロっとした重い膜が全身にまとわりついているようなダルい感覚から抜けられなかった。


 でも今は、ホルスの歌声は当然として、髪から足の先までとにかくホルスの動きすべてから目を離せなくなってしまっている。


 それ以外のことなんて、まるでこの世から消え去っちゃったみたい。


 あたしはフロアの真ん中くらいのところにいたはずなのに。


 気づくと、ホルスがすぐ目の前に来ていた。

 違う。

 あたし自身が、自分でも気付かないうちに最前列まで引き寄せられちゃったんだ。


 たぶん、熱狂的なバンギャルに釣られただけなんだろうけど。


 あたしは両腕を天に突き上げて、周りのみんなと同じような腕の動きをしてしまっている。


 すっかりバンギャルに擬態完了っていうか。


 で、やべーことが起きたのはそのあと。

 途中からホルスは、マイクスタンドから外したマイクを握りながら、ステージを上手へ下手へ行ったり来たりしてたんだけど、あたしがいるちょうど目の前で立ち止まった。


 演奏する曲も盛り上がりが増して、ホルスの熱唱が激しくなる頃。


 ステージと鉄柵の間には、人一人入れるだけのスペースがあって、ホルスは歌ったままそこへと降りて、あたしのすぐ目の前までやってくる。


 そして、あたしの頭を抱えるようにして引き寄せると、マイクをパッと口元から離して。


「この前はできなくて悪かったな」


 超至近距離でホルスが言った。


 あれ? 謝られるようなことしたっけ?


 なんて疑問よりも、強引な感じであたしを引き寄せてきたことが気になって、普段のあたしならイラッとしてるはずなのに、なんかドキドキしてしまっていた。


 やば。

 ホルスの顔がめっちゃ近い。


 激しいライブ中なだけあって、ホルスは汗だくだったから、長い髪もしっとりした感じになってたんだけど、むしろ濡れ髪のせいで色気が増してるような感じがして、あたしは気が気じゃなかった。


「せっかくここまで来たんだし、ぼくにしか見せれない顔してくれるよね?」


 一瞬だけホルスじゃなくて伊佐谷に戻るのは、ホルスに熱狂しているこういう場なだけあって、あたしだけの特別みたいな感じがした。


 感情ぐっちゃぐちゃなあたしは、顔面の筋肉まで緩んでるみたい。

 自分が今、どんな顔してるのか全然わからん……。


 胸の内が感情の嵐状態のあたしに構うことなく、額同士がくっつくくらいの距離感のまま歌い続け、やがてステージへ戻っていく。


 でも、ここから先の記憶、あんまりないんだわ。


 気づいたら、ライブが終わってたから。


 なんでかしらないけど、涙でぐしゅぐしゅだったし、ちょっと鼻水すら出てたかもしれない。


 それだけ、一切何も取り繕わないあたしでいたってこと?


「やば……」


 鉄柵前にいたせいで、ステージのマイクスタンドのところにいたホルスからすれば、最前列特等席でやべーあたしを見たってことになる。


 会場を出て、次にホルスに会うときのことが恥ずかしくなるけど、どういうわけか会いたくないとは思わなくなっていたあたしだった。

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