第30話 逃れられない業(カルマ)
伊佐谷の部屋を出て、裏口の玄関に立つ。
「伊佐谷はさぁ」
伊佐谷は妙にあたしにこだわってくれてる気がする。
それまで、何の接点もないはずなのに。
「なんであたしのこと好きみたいなこと言ってくれんの?」
「そこは、『どうしてあたしのこと好きなの?』でよくない?」
「……」
「蓮奈ちゃんって以外と自己肯定感低いよね」
「笑うなし」
「バカにしてるわけじゃないよ」
あたしの視界が、伊佐谷の胸元で遮られて、伊佐谷の感触でいっぱいになる。
「くっさ。ラーメンくっさ」
「ぼくじゃなくて店の方からだろ? 照れ隠しなんかしなくていいよー」
「……」
マジ。
伊佐谷から抱きしめられちゃったのは、ぶっちゃけ照れくさかった。
「蓮奈ちゃんは、ぼくにとって目を離せない存在だからね」
じゃああれか。
庇護欲で動いてるってだけで、別にあたしには恋愛感情的なのはないってこと?
あれ。なんかモヤるな……。
伊佐谷になんか好かれたってどうでもいいって、ちょっと前なら何の疑いもなく思えたはずなのに。
「蓮奈ちゃんは年下だから、学園内で関わるきっかけはなかったけど、いつも見かけるたびに他の子とは違う何かがあるって感じてたんだ。今になって思えば、ぼくと君で庶民同士通じるものがあったんだね」
「ガチお嬢様じゃなくて悪かったなー」
「いいや、ぼくとしては嬉しかったよ」
さっきからずっと伊佐谷は、あたしを抱きしめたままだったんだけど。
あたしは未成年の優等生だから酔っ払った経験はないけど、いい感じにお酒と付き合える人ってこんな感じなのかな。
自分の感覚を、自分以外の何かに預けたって安心できるような、ゆったりゆるい感覚になっていた。
「蓮奈ちゃんと共通点があるのは嬉しいからさ」
伊佐谷はいつだってあたしのペースを乱してくる。
そのせいで、ぜんぜんあたしらしくないことをしたり思ったりしちゃうんだよ。
伊佐谷のペースに飲み込まれそうになったら、さっさと距離を置くに限る。
「……あたし、もう行くから」
「またいつでも来てよー」
「ちょっと前までは家を見られるの散々嫌がってたくせに。ずいぶんウェルカムじゃん」
「もうバレちゃったしさ。それに、よく考えたら君に恥ずかしいところを見せれないのって、あとあと困ったことになりそうだから」
「はいはい。勝手に言ってればいいでしょ。あたしに全然その気はないからね」
伊佐谷を置いて、玄関口を出て、店舗側に回り込もうとしたとき。
「おう、お嬢様、ご帰宅か?」
声を掛けてきたのは、伊佐谷父。
調理場の出入り口が開いていて、伊佐谷父は抱えていた大きなペールを地面に置いたところだった。
「ええ。お邪魔いたしましたわ」
咄嗟にお嬢様モードに切り替えて、恭しく頭を下げるあたし。
「今日はありがとうな。しーちゃんが友達を家に連れて来るのは珍しいんだ」
「あら? そうなんですの?」
とりあえずあたし以外の誰かを連れ込んでる可能性は消えるってことか。
「そうそう。小学生の頃までは一人で遊ぶことが多くてなー。まあ、別にそれで充実してりゃ文句はねえんだけどさ、なにしろあいつの母親が亡くなったばかりの頃だったから。俺も神経質になってたんだけど」
ポケットからタバコを取り出して火を付ける伊佐谷父。
伊佐谷……あたしに言わないだけで、辛いこともあったんだね。
「まあ中学からは、つるむ仲間も増えたみたいだけどな」
え。待って。じゃあ中学以降は色んな女が出入りしてるってこと?
あたしはまた、何をモヤついてるんだ……。
でも不思議。
伊佐谷父はおじさんだから、年相応に声がザラついている感じはあるんだけど。
どこかで微妙に聞いた覚えがあるような声だ。
どこだったっけ?
まあ、いいや。せっかくだ。このタイミングで伊佐谷父に出くわしたのも何かの縁。
あれだけ伊佐谷から色々教えてもらったんだから、ちょっとはお礼になるようなことをしたっていいかもしれない。
「あの、雫さんの趣味のこと、少しでも認めてあげてくれませんかしら?」
「趣味?」
「雫さんがTARKÜSというバンドに執着してることですわ」
「ああ、あれな」
「雫さんは確かに奇妙な執着に突き動かされているように見えますが、あれは情熱の証。きっとお父様に見せたときにも、それを理解してほしかったのですわ。でも、雫さんは、お父様に笑われて、バカにされたようで悔しかったと」
「あいつ、そういう意味に捉えてたの!?」
びっくりする伊佐谷父にびっくりしちゃったよ。
「あー、そうか。だからあいつ何かにつけて機嫌悪くなってたのか……」
伊佐谷父は何やら一人で反省会を始める。
こうなったらもうあたしがインタビュアーになるしかないって話。
「あの、それではどういった意味で笑ってしまったんですの?」
「色々あるけど、しーちゃんをバカにしたかったわけじゃねえのは確かだよ。一つは、悔いなく全力で活動した青春の証を我が娘が熱心に愛でてくれる喜びで、もう一つは単純に昔取った杵柄を娘に見られるのが照れくさかったからだな」
ん?
聞き捨てならないセリフが聞こえたような気がしましたわ。
モノローグですらお嬢様口調になってしまうくらい動揺したっすわ。
「えっと……それだとまるで、お父様が過去にTARKÜSに関わっていたかのように聞こえるのですけれど」
「メンバーだったんだよ。今は麺BARの店主だけどな。わはは」
オヤジギャグにスンッ……ってなりそうな気持ちを抑えて、あたしは追及を続ける。
だって、伊佐谷が見せてくれたTARKÜSのメンバーはイケメン揃いで、こんなちょっとふっくらした髭面のおっさんが入る隙間なんてカケラもなかったのだから。
「わかりましたわ。バンドは入れ替わりが激しいものと聞きます。CDデビューする前のアマチュアバンド時代に一時的なメンバーだったと言いたいわけですわよね?」
「いいや、解散までいたよ。ていうか俺が実質的なリーダーだったな、うん」
「まさかと思いますけれど、ボーカルのSETH?」
「懐かしいなぁ、その名前で呼ばれるの」
…………マジ?
「じゃ、じゃあ『スロウ・ダンス』もここで歌えてしまったり……?」
「ああ、いいよ」
相変わらずニコニコしている伊佐谷父は、吸っていたタバコを口元から離すと、鼻歌でも歌うみたいな軽い調子で歌い始める。
若い頃の音源と違って、声がザラついて低くなっちゃってるけど、それでも生歌を聴いてわかっちゃったんだよ。
素人のあたしですら、熱狂的なファンを獲得するカリスマボーカルに必須な、上手いだけじゃない惹き込ませる特別な何かを持つ歌声を感じ取っちゃったんだから。
「た、確かに、お父様はTARKÜSのボーカルで相違ありませんわね……」
「へへへ……」
いいおっさんがめっちゃ照れてるんだけど。
それにしても……ここまでキャラが変わるもんか?
まあそれを言っちゃえば、あたしも伊佐谷も2面性はあるわけだし、クールなヴァンパイア風イケメンがふっくらラーメンおじさんになっちゃうこともあるか……。
「い、今!?」
血相変えた様子で駆け込んできたのは、伊佐谷だ。
やば。まさか、伊佐谷父の歌声を聞いていて、憧れの存在が実は煙たがっていた父親と同一人物だって気付いたんじゃ……。
あたしのせいって言えなくもないし、どうにかフォローしないと……。
「あのですね、伊佐谷さん……」
「すごいんだよ!」
あたしの肩をがっしり掴んでくる伊佐谷。
その表情はちっちゃい子みたいに無邪気に見えた。
「さっき、SETHの声がして!」
「あっ……」
「SETHはとっくに音楽業界を引退したって言われてて、だからぼくも若いときのSETHの歌声しか知らないんだけど、それでもぼくには歳を取って成熟したSETHの歌声が聴こえた気がしたんだ! これってぼくがSETHの未来すら想像できるくらいSETHと近い存在になれたってことだよね!?」
確かに近い存在だよ。
父娘だし。
大喜びな伊佐谷の横で、ニヤニヤする伊佐谷父ことSETH本人。
ああ、伊佐谷がTARKÜSフリークな自分の趣味を公開したとき、伊佐谷父はこういう顔でニヤニヤしてたんだろうなー。
「じゃあぼくは、この幸福の機会に感謝しながらTARKÜSの音源聞き直しの儀をするから! 蓮奈ちゃん、またね!」
スキップする勢いで戻っていく伊佐谷。
伊佐谷父は、タバコをポータブルの灰皿にギュッと押し込み、ぽつりと。
「このこと、しーちゃんには秘密な。下手に知ったら父娘の縁を切られかねねえ」
それな。




