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数え唄、巡転  作者: さよ
3/3

洸和・上

「ねぇ、ニュース見た?」

「見た見た。あの人、母親の知り合いの子どもらしい」

え、こわ〜〜。

口では怖いと言いながらも、どこか面白がっているような雰囲気が蔓延る。

所詮、他人事。

怪談さえも娯楽として楽しむ現代人は、結局のところ自分以外に関心がないだけなのかもしれない。

「そういえば」

一人の子が、何かを思い出したように口を開く。

「この間転校しちゃった子の名前、なんだっけ……」

別の子が言う。

「仲良い子もいたよね? ずいぶん前に転校しちゃったけど」

あの子の名前、なんだっけなぁ。あれ? でも、机は置きっぱなしだね。なんでだろう?

その問いに答えられる者は、いなかった。


この出来事は、のちに成間高校・七不思議が一つ、『忘れじの机』として語り継がれることとなった。

 1


 ♢


おばあちゃんが殺された。

私の、唯一の肉親だったおばあちゃんが。

他の人には見えないものが見える私のことを、受け入れてくれた唯一の人が。

いじめから守ってくれた大切なおばあちゃんが、殺された。

私のせい、なのかもしれない。



私をいじめた人たちは、ひどく陰湿だった。

先生がいるところでは媚びを売り、いなくなった途端に牙をむく。

殴る場所も、痣が見えないように服で隠れるところだけ。

それだけなら、まだよかった。

あの子たちは、家にまで来た。

どうやって突き止めたのか知らないけど、アパートの郵便受けに手紙が入っていた。

『死ねよ』と。

それだけが赤い文字で書かれた手紙だった。

おばあちゃんは気付いてしまった。

私がいじめられていることに。

おばあちゃんなりに、私に気を遣ったのだろう。

学校に直接電話をして、挙句の果てに足を運んできた。

その日のことだった。

階段で、頭から血を流しているのを見た。

あの人たちがやったのだと思った。

私は何も、していないのに。

ただ、『あそこは本当に出るよ』としか、言っていないのに。

冗談半分の肝試しを行うには、危険すぎる場所だった。

でも、私なりの善意は、あの子たちの逆鱗に触れてしまった。

そして、全ては巡り巡って、私へ悪意が帰ってきた。

私のせいだろうか。それとも、あの子たちのせいだろうか。


『死ねよ』と言いたいのは、こっちだよ。

家から走って逃げているうちに、荒廃した神社にたどり着いた。

そういえば最近、ここの神社から黒い靄が溢れていたかもしれない。

「もう、どうでもいい」

いっそ私も、死んでしまえばいい。

夢遊病者のような足取りで、鳥居の内側に入る。

湿気のように腕を這う空気に、吐き気を覚えた。

でも、これで全てから解放される。おばあちゃんの遺体は、きっと誰かが見つけてくれるはずだ。あの人には、それだけの価値があるのだから。

私は今から、おばあちゃんに会うのだ。やっと。やっと私も、自由になれる。


いや、待てよ。

なぜ私が死ななくちゃいけない。

私は何もしていないじゃないか。

死ぬべきなのは、あの子たちのはずだ。

なのに。

なのになんで、私が死ななくちゃいけない。

仇を。せめて仇を。それくらいの手土産がないと、私もおばあちゃんも浮かばれない。

あの子たちを、殺さないと。

でも、どうやって?

警察にばれたら、ダメだ。私が罪に問われてしまう。

それは、おかしいことだ。

どうやって、殺す?

どうやったら、罪に問われない?


そこまで考えて、後ろに気配を感じた。

素早く振り向いて、目を細める。深い暗闇のせいで、相手の顔がよく見えない。

「君、僕が視えるの」

驚きの混じった高い声が、鼓膜を震わせた。

「暗くてよく見えない」

走っていたせいだろうか。声は少し掠れていた。

一瞬ののち、目の前に一人の男の子が立っているのに気付いた。

「瞬間移動かなにかなの」

きっとこれは、私にだけ視える類のものだ。

いつの間にか吐き気は収まり、むしろこの空間に、居心地のよさを覚えている自分に気づく。

「まぁそうかもね。……へぇ。君、面白いね。ここにいても、平気な顔で生きてる」

相変わらず顔はよく見えないけど、すこし楽しそうなのは感じられた。

「何しにきたの、僕の家に」

「死のうと思ってたんだけど、よくわからなくなっちゃった」

するすると口から言葉が出てくる。すごく、息がしやすい。

「そうとは見えないけどね。だって君、『生きてる』って思えてるでしょ?」

小さな音がして、再び男の子が遠ざかった。

よく目を凝らすと、木の上に人影が見える。

「僕が、手を貸してあげようか?」

私がその提案に答えることはなかった。

ただ、木に手をかけて登り始めた。


 ♢

『次のニュースをお伝えします。

昨夜未明、東京渋谷区で連続神隠し事件が発生しました。

これで、5件目の発生を許した警察は、このあと12時頃に記者会見を開く予定です。

えースタジオには、元刑事で現在はジャーナリストとして活躍されている…』

そこでキャスターの声が途切れる。テレビが、部屋のライトを反射している。

「ちょっと。観てたんだけど」

朝ごはんの目玉焼きに、醤油を垂らしながら文句を言う。

さっきまでのスポーツニュースは、乗り気で観てたくせに。

「どうせただの殺人だろ。神隠しとか気軽に言うな」

なるほど。颯はそこが気に食わなかったのか。

確かに、不可思議な事象を実際に視れる人間からしてみれば、不可解な事件だからと言って簡単に『神隠し』などと言われるのは、不快なことだろう。

まぁメディアは、そんなマイノリティのことなんて気にしていないだろうけど。


新涼の秋が気持ち良くなることもなく、10月になった。

今夏、私の身は良くも悪くもいろいろなことに巻き込まれた。

呪術界の天皇家と呼ばれる神坂家の末裔だの死刑対象だのなんだの言われた挙句、この顔だけの男に保護される羽目になった。不快極まりない。

良かったことと言えば、本当に片手で足りる、いやむしろそれも余るくらいしかない。

目の前でガムシロを水のように飲み干しているこの男、五行颯の弟である五行律と出会えたのは、悪く無い部類に入る数少ない出来事だ。竜樹さんや、実緒さんに出会えたことも。

「あ。事前に言ったけど、俺も行くからね」

「ちっ」

「舌打ちするなよなぁ! 親しき仲にも礼儀あり、だよ! もっとこう、なんていうのかなぁ、えっと、年長者を敬いなさい!」

「イマイチ決まってないよ。あと颯が言えたことじゃないと思うんだ」

「いつの間にいたの、嵐馬⁉」

幼児のように喚く大男を黙殺し、胸中で激しく同意する。

そうですよね、嵐馬さん。私の記憶が正しければ、この人ついこの間、『幹部のジジイたちはついに認知症にでもなったのかねぇ、逝き先にも迷ってんじゃね?』とか言ってましたもん。

「でも、どうして来たんですか。今日は用事があるって」

「そうなんだよ。実は三年間続けてきた任務に、進展があって、いてっ」

颯に叩かれた頭を押さえ、きっと睨みつける。

「叩くな。俺を労われ。まず褒めろ」

「はいはい、三年間もかかるなんてまだまだでちゅね~」

普段は颯をあしらうことの多い彼が、このようにいじられているのを見るのは、なかなかに新鮮で面白い。

「どんな任務なんですか、三年間もなんて」

「あんまり詳しくは言えないんだけどね。祓えばいいってものじゃなくて」

そんな任務もあるのか。とはいえ、大きな仕事を任されるのも、嵐馬さんが上から信用されているからだろう。よくこんなクズみたいなやつと仲良くしてくれてるよなぁ、うんうん。

「ちょっと光梨。今何か失礼なこと考えてたでしょ」

「いや~、改めて颯ってクズだなぁと思ってただけで、そんな失礼なこと考えてないよ~」

「十分失礼だからね、それ」

颯の言葉を無視して、食器を台所に下げる。

「なんでもいいから早く食べて。律の学祭に間に合わない」

昨日、学祭を堪能してきた律さんと実緒さんによると、どうやら律は1年南組でホストをやってるらしい。

一言言わせてほしい。

こんなの行かないわけないじゃん⁈

あの切れ味鋭いツッコミで有名な律が! ホスト!

待って想像しただけで笑えてきた。

今日のためにSHEINでお洋服も買ったし、久しぶりの外出を全力で楽しもうと思った。


律は男子校の中高一貫に通っているらしく、文化祭はとても活気に満ちている。

すれ違う女子たちが、颯のことをチラチラ見ている気がするが、本人は特に気にしていないらしい。これだからイケメンは。

「混んでるね」

「男子校って感じがする。むさ苦しい」

お前も男だろってツッコミたいのは山々だが、その言葉は押し留める。

今日は可愛い女の子の振る舞いをするんだ。頑張れ、私。我慢できる。

「1年南組ってどこ? 1号館3階って書いてあるけど」

「あー、あそこじゃね?」

颯に引かれて、人混みを掻き分け、進む。

2日目で慣れている女子もいるのか、ナンパしている子たちもいる。女って恐ろしい。

でも一つ言うとしたら、階段でナンパはしないでほしい。邪魔。

「はい、ビンゴー!」

一人で喜んでるやつを横目に、列の最後尾に並ぶ。

それにしても、列整理のお兄さんもかっこいいな。

「あ、律」

教室のドアから、顔を覗かせている律に声をかける。

私の声が聞こえたのか、隣にいる颯のインパクトか、気づいた律がぎこちなく手を振る。

前に並んでいる女子が、何人か倒れた音がするのは無視しておく。

「さすが俺の弟だね。顔がいい」

「あんたと違って、性格もいいわよ」

一緒にされてしまってはあまりに可哀想すぎるので、しっかりちゃっかり否定しておく。

「まぁそれはそう」

よかった。自分がクズな自覚はあるらしい。それなら直す努力もしてくれ。

「お客様〜。こちらでご説明いたしますので、おかけください〜」

受付係のお兄さんが、椅子を示す。

勧められるがままに腰掛け、同時に説明係のお兄さんもしゃがんだ。

「本日は、ホストクラブ『サンティエ』へ! このお店では、ドリンク、パンケーキ、クレープなど幅広い飲食物を提供しておりまっす。えー、3枚200円のチェキ券をご購入いただけますと、ご希望のホスト1名と写真を撮ることができます。よければお買い求めください。こちらがですね、ホストの一覧となっております。ご覧になってお待ちください。最後に確認です。当店は、空いているスタッフが対応するという制度なのですが、問題ないでしょうか?」

「大丈夫です」

今すぐ就職できそうなくらい、接客に慣れている雰囲気だ。

「それではお入りください! 君の日常に、ほんの少しの彩りを」

キザなセリフを吐いて、教室のドアを開ける。

すると眼前には、安っぽいセットで装飾された教室が広がっていた。

「いらっしゃいませー! こちらのお席へどうぞ〜」

手の空いているお兄さんが私たちを案内する。

そして椅子に腰掛けたところで、彼の肩に右手が置かれた。

「その2人は俺が接客する。あっちの3人組を頼む」

「おー、わかった。ついにお前もやる気になったか。まぁこの子かわいいもんな」

「そういうのじゃない。2人は俺の知り合い」

律の不満が滲んだ視線が向けられ、軽く頭を下げる。

長い足を組んでいる颯も、ひらひらと左手を振った。

「ふ〜ん? ま、いいけど。ごゆっくり〜」

意味深に笑いながら、彼は新しい客のもとへ向かった。

「お騒がせしました。ようこそ、いらっしゃいませ。

本日、お相手をさせていただく律です」

慣れた調子で、挨拶をする。こんな一面もあったのか。

「チョコバナナパンケーキ、チョコ大盛りで。ドリンクはココア」

「甘党ですね。知ってましたけど」

テーブルに置いてある注文用紙に、颯が言ったことを書き連ねていく。

「七星は?」

「うーーーん………律のおすすめとかはある?」

どのメニューも美味しそうで、なかなか決められない。

「そうだな……ここら辺のクレープとか結構美味しいよ。ドリンクだと、このジュースが人気」

「じゃあそうする」

「了解」

「あ、チェキ券も買う。1枚で大丈夫だけど」

律が注文の品を取ってくる前に付け加える。すごく嫌そうな顔をされたけど、満面の笑みで押し切る。颯も笑顔が爽やかすぎて、少し恐ろしいくらいだ。

「はい、どーぞ」

手際良く商品を用意し、お皿を席まで運んでくる。

そして再び腰掛けると、勢いよくパンケーキを食べている颯に向き直り、口を開いた。

「少し相談があるんですけど」

声を落として言う。律の瞳が細められる。

颯の纏う空気が一変し、私たちのところだけ空気が張り詰める。

「どうした」

言葉を続けようとして辞める。緊張しているのか、軽く唇を湿らせる。

「おかしいと思いませんか」

律が窓の外を見はるかす。視線を雲の方へ動かし、眉を顰める。

「空が重いんですよ」

眉間に小さく皺を寄せたまま、こちらへ向き直る。

颯も正面から見つめ返し、目を細める。

「何かに覆われているみたいに」

颯が視線を外し、雲を一瞥する。つられて私も外を見る。たしかに、秋特有の空の高さは、雲のせいで感じることができない。

「それは俺も思っていたことだよ。このところ、星はおろか、月も見えない。

呪霊はいるけど、呪力への反応が鈍くなってる」

「まさかそこまでとは……。颯さんはこの件を、どういうふうに考えていますか」

「お兄ちゃんって呼んでくれていいんだよ?」

「質問に答えてください」

軽くあしらわれて、颯が項垂れる。

私は、それを横目に、ジュースを一口、口に含んだ。見た目のファンシーさに対して、甘さ加減が釣り合っていない。

「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」

「は?」

「マーク・トウェインの言葉だよ。一つだけ、思い当たる節があってね。少し調査をしてるんだけど、進捗はあまり芳しくない。本当に、何かを隠してるみたいだ」

颯がパンケーキを口に運ぶ。もともと育ちが良かったのが、手に取るようにわかる。一つ一つの所作が、美しい。

「たとえば」

切り分けたパンケーキに、フォークを刺して言う。

サングラスが軽くずれて、綺麗な碧い眼が覗いている。

「どこかから、瘴気が溢れ出てるとか。或いは強力な呪力を隠すため、とか。

そこらへんは一応、調査済み。他に思いつくのある? もう俺、お手上げなんだけど」

2人を横目に、スイーツを口に運ぶ。色とりどりのゼリーに、光が反射している。

「ないです。あまり、いい兆しではなさそうなことくらいしか」

律が再び、窓の外に目を向ける。

しばらくそうしたあと、颯を真正面から見据えて言った。

「手を貸してくれませんか。貴方の力が、必要なんです」

「貴方の力が必要、ねぇ……」

頬杖をついて、ブツブツと何かを言っている。遠くを見つめる碧い瞳には、その名にふさわしくないほど凪いでいた。

「これに気づいてる術者は少ない。たぶん父は気づいてますが、何故か触れないようにしてるんです。問いただしても答えてくれなかった」

そこで言葉を区切り、顔を上げる。喧騒が、遠くに聞こえる。

「頼れる人が、いないんです……」

律が、拳を強く握りしめる。

颯は軽く目を瞠ると、それをすぐに戻し、口端に仄かな笑みを浮かべた。

「わかった。やってみる。でも一つ、頼まれてくれない?」

「俺にできることなら」

「律にしか頼めないことだ」

一切れのパンケーキを口に運び、しばらく味を堪能したあと飲み込む。

「塗籠から資料を取ってきてほしい。タイトルは『虎狼紀』。禁書の棚にあるはずだ」

そして、律の頭を2回ほど優しく叩いた。

「触らないでください。とにかく、その本を取ってくればいいんですね? 受け渡しはいつにしますか」

「明日」

律の問いに颯が即答するが、無理難題だという自覚はあるのだろうか。

禁書なら厳重に保管されているはずなのに、明日が受け渡しなんて。

「分かりました。家のポストに入れとくので、取ってってください」

「ん。じゃ、帰る。さー、仕事仕事♪」

席を立ち、左手をポケットにツッコむ。

そのままスキップをしようと一歩踏み出した瞬間、その背中に向かって律が言った。

「五行翔から伝言です。七星と北斗さんに、挨拶をしたいと」

颯の動きが、ぴたりと止まる。

何か言ったような気がしたが、囁きは誰の耳にも届かなかった。

「……じゃあね」

ひらひらと降られた左手が、少し寂しそうだったのは、気のせいだろうか。


校舎を出て何気なく開いたスマホに、1件の通知が届いていた。

メールの差出人は、嵐馬の捨てアドレスだ。

アイツがこれを使うのは、俺に仕事を依頼するときだけだ。

添付されていたのは、圧縮されたファイルらしい。それを解凍して、二重にかかっていたロックを外す。

よっぽど知られたくないことみたいだ。

その証拠に、中の文章も暗号化されている。

それを解読し、読み終えたところで、光梨に電話を入れる。

『もしもし? 今、ミスコン見てるから、大した用がないなら切るけど』

「めちゃくちゃ大事なことなんだけど」

『だったら早く言いなさいよ』

「しょうがないなぁ。————」

一拍置いて、光梨の息を呑む音が聞こえる。

『それは、どういう』

問いかけを無視して、電話を切る。

背後に感じる、敵意を伴った視線。少し様子を見ていたが、まだ俺を見ているのか。

「誰だ」

低く落とした声で、問いかける。しかし後ろには、誰もいない。ただ黒猫が一匹。

訝しく思って目を凝らしてみると、巧妙に隠された呪力の残滓を見つけた。

禍々しい、妖術師の。

「失せろ」

左腕を薙ぎ払うと、猫は塵となって消えていった。

何回か頭を振って、歩き出す。

一度感じた恐ろしさは、消えなかった。


 2


 ♢


安いアパートの一室でも、ひとりだととても広く感じる。

おばあちゃんが死んで、早一ヶ月。

心も淋しさに慣れ始め、最近は手を汚すことに対して、特に何も感じなくなった。

あの御方が、社で何をやっているかは、知らない。

否。薄々気付いていた。あの御方が、人を食べてていることに。

怖くないと言えば、嘘になる。

でも私だって、戻ることのできないところまで、きてしまっているのだから。

それに、あの御方は私の恩人なのだ。裏切るなんて、有り得ない。

「時間、かな」

形見の懐中時計を一瞥して、支度を始めた。


学校は、楽しい。

私をいじめているコイツらが、いつの日か地獄に堕ちると思うと、笑いが止まらない。

私の手で、絶対に。

握り込んだ拳に、青い炎が宿る。

『これを使うといいよ』

あの御方が授けてくれた、素晴らしい力。

これがあれば、あいつらを殺してしまうのは容易いことだ。

『でも、一個だけ忠告しておくね』

どうしても思い出せない、続きの言葉。

あの時の、あの人の笑みは。

嫌というほど染みついているのに。

『――――』

嗚呼、洸和様。

貴方はなんとおっしゃいましたか——。


 ♢












お前の邪魔を、せんとする者がいる。









「ちゃんと説明して、颯!」

ドアを怒りに任せて閉め、大きな声で言い放つ。

「どういうことなの! 協力者って信用していい人なの⁈ ねえ聞いてる⁈」

胸ぐらを掴みかからんとする剣幕で、颯の元へ足を進める。

それもそのはず。

電話で聞かされた言葉は、『協力者が増えた』の一言だけ。

詳しい説明もなく、誰が味方なのかも分からない。

もしかしたら、今この瞬間にも殺されるかもしれないのに、なぜそんな気楽そうなんだ。

「はいはいはいはい。これ見て」

ポケットから、流れるように取り出されたスマホには、数式のようなものが表示されていた。

「なによ、これ」

「これは嵐馬から送られてきたメール、に添付されてたファイル」

「内容は」

気持ちが逸り、颯の言葉を待つことができない。

「これを解読すると、『協力者が増えた』と読むことができる。さらに読み進めていくと、その人の名前なんかも書いてあるんだけど………」

「あ、ほんとだ。ハセアヤカってかいてある」

次いで颯が、とあるサイトを表示する。

「連盟公式術師回録、極秘…………極秘〜〜〜⁈」

がばっと颯に向き直り、そして再びスマホを見る。

絶対見ちゃあかんやつやろがいっ‼︎

「ちょっと手が滑っちゃって」

「んなわけあるかーっ!」

「まぁいいじゃん、バレないんだし」

きっとこの人は、何回もハッキングしているのだろう。そういえばこの人は、そういう人間だった……。

「んで、調べてみたんだけど」

「うん」

颯が素早く文字を打ち込み、検索を始める。

「ほら見て。ハセアヤカの情報が、何もない」

協力者として嵐馬さんが名を挙げた、ハセアヤカという術師は、存在しないらしかった。

「え、漢字じゃないといけない、みたいな」

「ない。この名簿は読み対応」

「嵐馬さんに連絡は」

「つかない」

なんでこういうときに限って⁈ そういえば今朝、新しい任務とか言ってたような。

「ってことはまさか」

颯が人の悪い笑みを浮かべる。あー察した。どうせ「会ってみよう!」とか言うんでしょ。私、知ってるんだからね?

「うん、会ってみよっか!」

「ほら言ったじゃーーーーん!」

私の声が、天高く響き上がる。そして、思いついた問いを投げかける。

「でも、どうやって会うの。情報がないんじゃ、連絡も取れないじゃん」

「まぁ任せてよ。きっと明日にでも会えるって」

「えーそういうもん………?」

不信感を抱きつつも、頼れる人がこれしかいないので、私は颯を任せることにした。この際不安は、無視することにした。


翌日、テレビを見て、大笑いする颯を睨みつけながら、夕食の支度をしていたとき。

我が家にインターホンの音が木霊した。

誰なのかを確認しようとして、颯に止められる。

すると再び、インターホンが鳴らされた。

連続で五回も。しかも全て、一定の間隔だ。

これは確実に、故意。

「ちゃんと来てくれたみたいだね」

颯が玄関へと向かう。途中で、胸元のポケットに何かしまったらしい。よく見ると、黒いものが光に反射している。

「そこで待ってて」

玄関から姿の見えない角で待機を命じられた私は、いつでも術を使えるように準備をする。

そして、準備ができたことを、軽い相槌で伝えると、颯が勢いよく玄関のドアを開けた。

お互い相手の姿を認めた二人は、即座に胸ポケットから銃を取り出した。

客人は、左手で扉を閉め、そのまま構えを続ける。

すらりと伸びた背筋に、肩に付かないよう切られた癖毛。

私より少しだけ背が高そうに見えるのは、彼女から零れる自信によるものだろうか。

「名前は」

緊迫する空気の中、先に口を開いたのは颯だった。

私たちを見定めるような視線をしていた客人が、鋭い口調で答える。

「長谷彩香。お前が五行颯か」

「そうだ。名乗ったんだから、銃を下せ」

「断る」

そして、顔を出しているのがばれたのか、私がいるところをひとしきり睨む。

銃を構えたまま、颯に向かって冷たく言い放った。

「いるんでしょう、そこに。……神坂光梨が」

颯は表情筋を使わないまま長谷彩香をしばらく見つめ、大きく息を吐き出した。

「光梨。おいで」

こちらを振り向きもせず言う颯に、大人しく従う。

以前、銃を突き付けられた時のトラウマだろうか。恐怖で、颯からもらったネックレスを、無意識に握り締めてしまう。

「早くそれを下せ。怖がってるのが見えないのか」

颯の言葉が、どこか遠くで聞こえる。

目の前で銃を構える女の姿に、死にかけたときのことが重なる。

「神坂の末裔なら、これくらい簡単に防げるでしょう」

「こいつは一度、殺されかけたんだぞ! 考えろ!」

絶対零度の声を遮るように、颯の怒号が鋭く響く。

そして、一発の銃声が、乾いた音を轟かせた。

一瞬ののち、彩香の瞳が驚愕で彩られる。

「死にたいか」

いつの間にか彩香の背後にいた颯が、彼女の首に腕を回す。

そして、それとは反対の手で、彼女のこめかみに銃を当てた。

「もう一度言う。死にたいか」

今までに聞いたことのないような、低い声で問う。

彩香は特に取り乱した様子もなく、ただ淡々と言った。

「いいえ。私にはまだ、やらなじゃいけないことがあるので」

彩香が両手を上げて、降伏を示す。颯は彼女を解放すると、銃を下ろした。

「これ、返す」

ひょい、と銃を渡す。彩香は銃を一瞥し、緊張が解けたのか、頭を抱えてうずくまった。

「あーあ。どうしてくれるのよ、ほんともう………」

うめき声をあげながら、続ける。先ほどまでの冷酷さとは打って変わって、どこか幼く見える。

「どうやって先輩に報告すればいいのよ……だいたい、一発打ってヒットって何⁈ あんたどんな教育受けてきたわけ⁈」

彩香の癖毛が、心なしか萎んでいる。

「てゆーか、武器に頼らないと戦えないのは、呪術師としてどうかと思うよ?」

相手の神経を逆撫でするであろうことを、容赦なく言い放つ。しかも、しゃがみ込んで見下ろすように言うから、なんとも腹立たしい。

「あんたが相手だからよ! 一級以上の相手じゃない限り使わないわ!」

「特級で悪かったね」

ペロッと舌を出して、彩香さんを挑発する。ほんと、人を煽るのが上手い奴だ。

「まぁとりあえず上がりなよ。聞きたいことは山ほどあるし」

「聞きたいこと? 私は先輩から伝言を預かってるんですが」

立ち上がって、ズボンに付いた埃を払い落としながら言う。

訝しがりながらも、彩香さんは靴を脱いで、私たちの家に上がった。

……ん? もしかして颯、靴下のままたたきに下りた?

「颯! 今すぐ靴下履き替えて!」

爆速で階段を駆け上がる私を、彩香さんが慌てて追いかけた。


上に着くと、ちょうど颯がジュースを注いでいるところだった。

「マンゴージュースしかないんだけど、ガムシロ入れなくて平気?」

「むしろ入れないでください」

表情一つ変えることなく、彩香さんが言う。

「みんなそう言うよね。一回、試してみればいいのに」

美味しいのにな~、人生損してそう。

隣から立ち昇る怒りのオーラがとてつもない。

この二人は相性が悪いのだろうか。大丈夫か、マジで。

「はい。そこ座りな。光梨はご飯の準備」

「お前が言うな」

炊飯器の残り時間を確認しながら、言い放つ。あとは炊けるまで待つだけだ。

「あと二十分くらいでご飯になるよ」

「了解。そしたらそれまで」

颯が両肘をついて、少し前のめりになる。

重ねた手の甲の上に顎を置き、正面に座る彩香さんに見せつけるかのように口角を上げた。

「おしゃべりしよっか」

「楽しいおしゃべりになりそうですね」

彩香さんがジュースを口に運び、ぐびりと飲む。

しかし様子がおかしい。口を右手で覆っている。

「うぇぇ」

「美味しいでしょ、ガムシロ入りマンゴージュース」

さっきの笑みとは異なり、心の底から嬉しそうに笑う。

かわいそう、彩香さん。ていうかこの状況で、喜んでるって考えられるこの男の思考が謎だわ。意味わからん。

「みず、みずください」

「これをどうぞ……」

私の物にもガムシロが入ってるんじゃないかと思い、水を二人分用意する。

最悪、颯に飲ませるだけだからいいんだけど。

「気を取り直して。まず、聞きたいんだけど」

お前のせいだろ、とツッコむのは心の中だけにしておく。話の腰を折るとややこしくなるからだ。

「嵐馬とお前は、どういうつながりなの?」

「どういうって……。普通に同じ職場ってだけです」

「なんで協力者になろうと思ったの?」

矢継ぎ早に質問をする。まるで、直感で答えるよう誘導しているかのようだ。

「別に協力するつもりはありません」

彩香さんがスマホをこちらに差し出す。

画面に映し出されていたのは、約一ヶ月前から話題になっている『神隠し事件』に関する記事だった。

「協力するつもりもないけど、殺すつもりもない。ただそれだけです。

だって殺しても、私の得にはなりませんから。……それに、今の私に、勝ち目なんてない」

「それならどうして銃を取り出したの」

話の主導権が、再び颯のもとへ戻る。

彩香さんは深くため息を吐くと、ぽつりと言った。

「貴方が、あの時と同じようなことをしているのなら、殺そうと。ですが、改心していたようので」

「光梨には、誰も殺さない術師になって欲しいからね」

そこに猫がいるよ、とでも言うかのような口調だ。透き通った瞳でそう言われると、心にストンと言葉が落ちて、疑問を抱かない。

「まぁいいや。んで? 俺にこの記事を見せた理由は? 俺、このニュース嫌いなんだけど」

スマホを彩香さんの方へ戻す。

それを受け取り、電源を落として、彩香さんは言った。

「秋庭先輩から伝言です。これが仕事だ、と」

私は口が渇いているのを無視して、話を聞いた。張り詰めた緊張の糸が、部屋の空気を引き締める。

しばらく睨み合いが続いたが、緊張感に耐えかねた颯が会話の火蓋を切った。

「チッ……。しょうがない、引き受けてやる」

「おぉ。自分から進んで引き受けるなんて、成長したねぇ」

思わず感動してしまう。しかし、この感動は、続く言葉によってどこかへ行ってしまった。

「俺じゃなくて、こいつが」

颯の立てた親指の先は、私の方に向いている。ということはまさか。

「わたしが?」

「そ。あいにく俺には先客がいるからさ。ちょっと行って、祓ってきてよ」

「え、ごめん。何言ってんの?」

「俺は席外しとくから、二人で頑張って協力してね、任せた」

にっこり笑顔で、更にはウィンクまでして階段へと足を向ける。

先ほど告げられた言葉をやっと理解した私は、大きな声で叫んだ。

「降りてこい、颯――――‼︎」

彩香さんの声も重なっているようなのは、気のせいだろうか。


何度か読んだにも関わらず、下りてこない颯に痺れを切らした私は、ご飯が炊けるまでの間、彩香さんに詳細を聞くことにした。

「改めて、こんばんは。上坂光梨です。外では今井七星って名乗ってます」

苦めのコーヒーを淹れながら、自己紹介をする。

マンゴージュースガムシロ入りには、これくらいの苦さがちょうどいいはずだ。

「ありがとうございます。……はぁ、美味しい。こんなに苦いコーヒーが美味しく感じるなんて」

何とも言えない、苦笑いを浮かべる。

本当に、あの人の甘党には困ったものだ。全く、誰に似たものか。

「長谷彩香です。以後お見知りおきを」

カップを置いて、再度スマホを差し出す。

「神隠し事件、ご存知ですよね」

「もちろん」

最近でもニュースになっているくらいだ。

この前、警視庁前で被害者家族を中心とした人々が、デモを行っていたと聞いた、

「このままだと警察の威信にかかわる、ということで、警察上訴部から直々に依頼がありまして。当初は先輩が担当する予定だったんですけど、新しい任務が緊急で入ってしまったらしく、こちらへ依頼するようにと言われました」

「協力者ってのは嘘だった……?」

思わず小さく呟く。先ほどから話を聞いている限り、とても協力するつもりはなさそうに思えるのだが。

「嘘ではないです。でも、まったく正しいわけでもない」

冷淡な言葉に、視線を落とす。

そして、記事の内容を見て、思わず声を上げた。

「成高の生徒………!」

「知り合いですか」

「もともと私が通っていた学校だもん。これ、いつの? 昨日のニュースではこの周辺って」

「捜査資料によると、同時刻に離れた場所で神隠しが起きているそうです。ここ二週間くらいですけど」

となると、まだこれは極秘の情報なのだろう。呪霊によるものだと考えれば納得できなくもないけど、一般人がそう感じるかは未知数。公表しても、混乱が深まるばかりだ。


当然と言えば、当然だろう。

人は、自分が見たいものしか見ないのだから。


「ここ二週間で、事件の謎は深まるばかりです。発生場所もですが、残滓もバラバラ。

毎回異なる呪力が残っています。逆探知をしても、そこにはいつも弱い四級呪霊がいるのみ。主犯は相変わらず闇の中です」

そして今度は、地図を表示する。たくさんの赤い印がつけられている。

「この印が、事件発生場所です。都内で八件、埼玉で三件、神奈川では五件発生しています。

他にも関西で三件、報告が上がっています。いずれも、海や川、湖や池などの近くであること以外、共通点はありません。移動経路から残滓を辿ろうとしましたが、不可能でした」

テレビの裏から、ホワイトボードを引き出してくる。これは、颯が座学のために、わざわざ買ったものだ。

金遣いが荒いのは、五行家にいたころの名残だろうか。

「そんなものまであるんですね」

「颯が買ったの。ここにまとめておきましょう」

ペンを手に取り、彼女から伝えられた情報を書き入れる。

発生場所が不明な以上、警戒を怠らないようにしなくては。

しかし、敵と会うことができなければ、倒すことも叶わない。

せめて何か、手掛かりが掴めればいいのだが。

「………あ」

一つの方法に行き当たる。もうやっているかもしれないけれど。

「同調はやってみましたか」

「やりました」

即答される。まぁそうだよね、そうだと思ったよ。

「でも、もう一回やってみてもいいかもしれません。同調は、いかに相手の呪力と波長をは合わせられるか、ですから」

炊飯器の、白々しいほどに明るい音楽が流れる。

「とりあえず、連絡先を交換しておきましょう。明日……は急すぎるか。明後日にでも直近の現場に案内します。今日と同じ時間にお邪魔しますので、軽食を済ませておいてください」

「え? しっかり食べた方がよくない? 同調って結構体力使うし」

彩香が、もう一つのスマホを取り出しながら、付け加える。

「言ったでしょう。現場にある呪力は複数だって。処理してるうちに気持ち悪くなるので、あまりおすすめしません。これ、私の連絡先です。何かあれば」

彩香さん、という名称でアドレスを登録し、メッセージを送信してみる。無事、受信できているのを確認してスマホをしまう。

階段を下り、玄関まで送り届ける。

「それでは、また」

「まだまだ未熟ですが、よろしくお願いします、彩香さん」

彼女はこちらを振り返りもせず、ドアノブに手をかけたまま言い放った。

「……あなたたちを許すつもりは、ありませんので」

返す言葉を見つけられないまま、彩香さんの姿は闇へと溶けていく。

扉の閉まる重厚な音が、玄関に低く轟いた。


早々に話を切り上げ、二階へと向かっていた颯は、棚から一冊の本を取り出した。

名は『虎狼紀』。

今日の昼頃、律から受け取ったものだ。

それにしてもあの家の警備、杜撰すぎないか? ちょっと変装すれば、あっさりと取れてしまったではないか。まあ、ありがたいけど。

そんなことを考えながら、ぱらぱらとページを捲る。

虎狼紀は、過去に起きた大規模な事件を、年代順に纏めてある書物だ。

最も古い記述は、平安頃まで遡る。

その歴史的価値から、五行家の塗籠の中でも特に厳重に管理されている禁書なのだが、よく一日で持ち出せたものだ。


「呪力を感じない、ねぇ……」

たしか、自分の記憶が正しければ、過去に同じような事案が発生しているはずなのだが。

「昭和の終わり頃……っと」

今から四十余年前。一人の幼子が生死の境を彷徨った。

証言よると、呪力を感じない日々が続いていたことで気が緩み、警備が手薄になっていたようだ。

本当は、国土全体が瘴気に包まれていて、身体が呪力に慣れてしまったから、らしいが。

発生から二週間後。いよいよ肉体が衰弱してきたというときに、幼子を目を覚ました。

被害者と加害者。ともに明確な情報は記載されておらず、救出された要因もわかっていない。

その幼子の証言を信じるのであれば、『幸せな世界』にいたようだ。

この特徴は、今の状況ととても似ている。

空が重いのは、雲が瘴気を含んでいるから。

呪力を感じないのは、覆い隠されてるから。

そしてきっと、隠されているのは呪力だけではないのだ。

「歴史は繰り返さないが韻を踏む、か。」

窓の外を見つめる颯の目には、夜空が映し出されていた。

暗闇に同化した鴉の姿は、見えなかった。



 3


 ♢


「殺したい?」

鈴を転がすような声で、あの御方は言う。

血に染まった唇から、蛇のそれのような舌が覗く。

「あの子たちのこと、殺したい?」

無邪気に遊んでいたと思ったら、突然問われた。

でももう、それに慣れてしまった。動揺も躊躇いも、とっくに失せてしまっている。

「本当はもう少し贄が欲しかったけど。ま、いっか」

一言も返していないのに、どこから読み取ったのか。

洸和様は、こういう方だ。

幼子のようでいて、実は大人びていらっしゃる。

残酷なようでいて、時に優しく接してくださる。

楽しそうに見えて、ふと淋しそうに目を伏せる。

それでも私は、この方に救われた。

生きる意味を、価値を、場所を、与えていただいた。

「さてと。大仕事といきますか」

「御意」


絶対に殺す。

祖母の仇のあの人たちを。


だから。


邪魔をする奴は、何人たりとも、許さない————。


 ♢


「こんなところで?」

一昨日と同時刻にやってきた彩香さんに案内されたのは、住宅街だった。

事件発生以前は、閑静な住宅街として人気だったのだろう。一軒家が多く立ち並び、家族連れの気配を感じる。

「被害者は十七歳の女子高生です。過去の事件同様、まだ発見できていません。発生場所はそこの小学校横の道路です」

指先を目で追えば、黒い靄の漂う様を認めた。

「気持ち悪い……」

離れていても感じるのは、肌に纏わり付くような陰気。

そしてそれを助長するように、腐卵臭が思考の邪魔をする。

なんとか意識を保ちながらそこに近寄り、現場検証を始める。

「……」

「何か」

突然黙った私を訝しんだのか、彩香さんが問いかける。

「いや、大したことじゃないので……」

「そうですか」

一言だけ返し、彩香さんも検証を始める。現場百篇とはよく言ったものだ。

それにしても。

隣の小学校を一瞥したのり、靄の辺りをじっと視る。

視線を感じた気がしたが、気のせいだろうか。

「プール、懐かしいですね」

「ですね」

私の言葉を最後に、静寂が訪れる。上手く会話が続かない。

「あ、そういえば彩香さんの呪法はなんですか?」

何とかひねりだした問いに返ってきたのは、深い溜息だった。かなしい。

「そういうの聞きます?」

「だって私のは知られてるじゃない」

颯のだって有名なのに、と付け加える。

彩香さんの顔の呆れが、色濃くなる。私、そんなに変なこと言った?

「はあー……。呪術の名家と一般家庭を一緒にしないでくださいよ。あんまり言いたくないので、黙秘します」

「つれないな~。そんなこと言わないでよ~。おーい、彩香さん?」

虚ろな目で、一点を見つめたまま動かない彼女に、声を掛ける。

顔の前で、はたはたと手を振ってみたりするが、気付く様子はない。

「あのー……どうされたんですか」

「うわっ!」

突然後ろから声を掛けられて、思わず大きい声が出る。

今ので現実に戻ったのか、彩香さんはいつもの彼女に戻っていた。

振り返るとそこには、私と同じ年頃の女の子が立っていた。制服を見るに、この近くの高校の子だろう。———確か、ここで姿を消した、女の子も通っていた。

「びっくりしたー……」

大きく息を吐き出して、心を落ち着かせる。冷静になるのです、光梨。

「それで、どうされました?」

いかにもな顔を装って尋ねれば、女の子はしばらくきょとんとして、途端に笑い出した。

「え、あ、あの……」

「はは、あははは。面白い方ね、はははは」

そして息を整えたあと、彼女は徐に手を合わせた。

「友だちだったの、神隠しにあった子」

彼女の長い髪が、風に合わせて揺れる。

黒い髪に良く映える、月をあしらった髪飾りは、街灯を反射して輝いている。

「いい子だったのに、なんで……」

彼女が目元を手で覆う。見てはいけないような気がして、目を逸らしてしまう。

「ごめんなさい。見苦しい姿を見せてしまって。それで、あなたたちはここで何をしてるの?」

鼻をすすって涙を拭い、こちらへ向き直る。

はて、何と答えるべきか。

「実は私たち、警察に協力しているものでして。私立探偵をやっております、長谷彩香です。

ほら、こちらの方が怪しんでいるでしょう。ちゃんと挨拶しなさい」

すらすらと紡がれる嘘だらけの言葉に、何と返すべきか、しばし躊躇う。これはどういう設定なんだ……?

「はぁ……。すみません。この子、人見知りで。助手の今井七星です。少しお伺いしたいことがあるのですが、今、お時間よろしいですか?」

「お話しなら他の警察の方にしましたが」

「え?」

思わず声が出る。クラスメイト全員に事情聴取をしているのだろうか。それとも、彼女が被害者と仲が良かったからか。

「彼女が最後に一緒だったのは、私なんです。一緒に帰ってて、そこの十字路で別れましたけど」

「なるほど、そうですか。ご協力感謝します。行くよ、七星。早く帰らないと、所長が怒る」

「え、あ、うん」

所長って誰だよ、とツッコミたいのは山々だが、何とか堪える。詮の無いことするのは、やめるべきだろう。

腕が千切れそうなほどの強い力で手を引かれる。木陰に入り、彼女が歩っていく様子を見届ける。これじゃあまるで、尾行ではないか。

「そんなに急いで、どうしたんですか」

声を潜めて尋ねる。彩香さんの顔が、先ほどよりも厳しく見える。

「彼女は嘘をついています」

「どこが。普通に友達を心配しているだけでしょ」

「いいえ、あれは嘘です。間違いありません」

「なんでそう言い切れるんですか、失礼でしょう⁉」

思わず声を荒げる。彩香さんは大きくため息をつくと、こちらに向き直り言った。

「私の耳は」

彩香さんは、私の瞳を覗き込みながら続ける。

「常人のそれより少し良いんです。意識すれば、心臓の音が聞こえるくらいに」

彩香さんは木陰から出て、女の子に距離を離されないように、歩みを進める。

「彼女が被害者の話をする時、本当に僅かですが、心拍数が増えていました。間違いありません」

「じゃあなんであの人は嘘をついたんですか」

「それを確かめるために追ってるんです。静かにしててください」

ぴしゃりと突き放すように言われ、口を閉ざすしかなくなる。

わかっていることを共有してもらえないことが、こんなにももどかしい。

「左折? そっちは何もないはずなのに」

スマホを開いて地図を確認する。確かに何もない。

「追いましょう。手がかりが掴めるかもしれま」

そこまでで、言葉が途絶える。

「消えた……」

一瞬。ほんの刹那。それこそ瞬きのうちに。

少女が一人、消えた。

「見失ったとか」

「そんなわけ……。曲がることまで見たのに」

それは私も確認した。ではなぜ。

「とりあえず進みましょう。何かわかるかもしれません。彼女もまた、神隠しにあった可能性もありますし」

「そうだね……」

背筋を這う寒気をなかったことにして、足を進める。

ここは危険だ、と。

本能の鳴らす警鐘を、見てみぬふりしてやり過ごす。

彼女がいるのなら、早く連れ戻さなければ。

本当に薄くだけど、感じる。

間違いなく、いる。

「止まって」

俯きがちに考え事をしながら歩っていると、彩香さんの硬い声が耳に届いた。

顔を上げて、そこにあるものに驚愕する。

「神社……」

ここには何もないはずじゃないか。

ではなぜ。

彩香さんが鳥居に近寄り、手を触れる。

しばらく瞑目したのち顔を上げると、胸ポケットから拳銃を取り出した。

「思いがけず見つかりましたね。まだ人間の気配がします」

「どうしてわかったんですか。私にも少しは説明してください」

鳥居をばしばし叩きながら、彩香さんが説明を始める。気が乗らなさそうな顔で。

「自分で言ったんでしょう、同調って」

「………あの数秒で?」

「結構かかった方です。先輩ならもっと早い」

唇を噛み締めながら、そう答える。

十秒もかかっていなかった。この前、実緒さんがやったときは、もっと時間がかかっていたし、今の何倍も苦しそうだった。

でも嵐馬さんは。

嵐馬さんはもっと早いのだ。そしてきっと、颯はもっと早い。

心に浮かんだ問いを、かぶりを振って掻き消す。そんなことを考えては、いけないような気がしたからだ。

「入りましょう。またアジトが変えられてしまう前に」

「わかりました」

いつでも応戦できるように、全身に呪力を巡らせる。

これが実在する建物なら、相手は一級程度。

もし空間そのものが敵によるものだとしたら、相手は間違いなく特級だろう。

しかも、この前のものよりも、確実に強い。

警戒しつつ、彩香さんの後を追い、中に入ろうとしたときだった。

「貴方たちにも、視えるのね」

背後から、声がした。

振り返るとそこには、少女がひとり佇んでいた。

年のころは私と同じ、あるいは少し上くらいだろうか。

軍服のようなものを着こんでおり、腰には何本か刀が刺さっている。

目深に被られた帽子で目元は見えない。しかし、隠しきれない敵意は、全身から闘気となって立ち昇っていた。

そして、下ろされた黒髪は闇と見紛うほど、暗く、黒い。

「〝も〟ということは、貴方にも視えてるんですね」

「じゃなかったら、私はここにいないわ」

嗤いながらこちらへ向かってくる。

軽く腰を落として、敵の攻撃に反応できるように用意する。

「何しに来たの、あんたたち」

「二人の少女を探してましてね。……ちょうど、そこにいる子くらいの年頃の」

彩香さんが目線だけでこちらを見る。

軍服の少女はこちらに顔を向け、すぐに視線を戻した。

「っ……!」

突如、身動きが取れなくなった。彼女がかけた術だろうか。私を拘束する黒い縄の触れた箇所が、いやに熱い。

彩香さんはこちらに目線をくれるだけで、解放するつもりはないらしい。自分でやれ、と言うことか。

せめてあともう少し木に近ければ。そうすれば、摩擦でどうにかなったかもしれないのに。

「人探しなら他を当たって頂戴。ここは神のお膝元よ」

「ええ、知ってますよ。神隠しにはもってこいですよね。だってここは……視える者にしか辿り着けないのですから」

少女が、弾かれたように面を上げる。

影の奥から覗いた瞳には、どこか見覚えがあった。

「図星ですか。さ、二人を解放して下さい。子供を捕らえるのは、寝覚めが悪いので……っ」

彩香さんが背中を反り、刃を躱す。勢いのまま飛び退り、宙で一回転し、着地する。

「邪魔をするな…………殺すぞ」

日本刀の剣先を彩香さんに向けたまま、言葉を続ける。

「やらなくちゃいけないことがあるんだ。その邪魔をする者は、皆、殺す」

「やらなくちゃいけないこと?」

少女の意識が、少しだけ私に向く。

思わず漏れた声だった。本当に小さな声で、かすかな吐息くらいのものだったけど。

一度溢れた思いは、堰を切ったダムのように止まることを知らない。

分かっている。愚者の遠吠えだと。誰の元にも届かず、虚空で漂うだけだと。

それでも私は、赦せなかった。

「やらなくちゃいけないことって何ですか。人を殺してまでやらなくちゃいけないことなんて、あるんですか。」

少女の視界に、初めて私が映ったような気がした。

ビードロのような瞳に、感情が見え隠れする。

刹那。

視界の端で、何かが光った。

一拍遅れて、爆発音が聞こえる。

あまりの煩さに顔をしかめてやり過ごしていると、大きな舌打ちが二つ聞こえた。

「逃げられてしまいましたか」

「それはこっちの台詞よ」

頭上から声が降ってくる。

見上げると、彼女は木の枝の上に立っていた。

「爆音を使って、この子を飛ばしたんでしょ。本当に厄介ね。あんたがいる限り、私は切ることができないじゃない」

「その通りです。今投降するなら、あなたの刑を軽くするよう、警察に交渉してみましょう」

彩香さんが、少女に自首を要求する。

少女はしばらく考え込んだのち、木から飛び降りて、しゃがみこんだ。

「たしかに、こんなこと間違ったわ。法治国家で、私的に弾劾するなど」

少し訝しがりながらも、彩香さんは距離を詰めていく。

始めは標点を定めていた拳銃も、距離二メートルを切ったところで下ろした。

「その通りです。まずは彼女を解放してください。そしたら次に刀を置いて」

「うっ………!」

「七星さん!」

黒い縄が、身体をキリキリと締め付ける。

苦しい。まるで、肺が押し潰されそうな感覚だ。

少女が右手捻る仕草をする。

それに呼応して、縄の締め付けも強くなる。

服に紅いものが滲みた場所が、焼けるように痛い。

「あああああ!」

あまりの痛みに、前に倒れこむ。

拘束を解こうとするが、もがくたびに苦しさが増している気がする。

「無様ね」

吐き捨てられた言葉に、反論する気力もない。

流石にまずいと思ったのか、彩香さんが駆け寄ってくる姿が見える。

しかし、そんな私の前に、少女が立ちはだかった。

「この女は献上する。そしてお前は、私が殺す」

腰にさされていた刀が、一つ、引き抜かれる。

そしてそれは、彩香さんの姿を捉えると、長く伸びた。

「危な、い」

掠れた声で告げる。

彩香さんは間一髪で、大きな音を立てながら飛び退った。

「怪我人は黙ってて下さい。これくらい私が」

「見くびるなよ」

怒気を孕んだ声で言い放ち、少女が跳躍した。

彼女のかざした切先の繰り出す斬撃が、刃となって彩香さんに降りかかる。

「っ………」

彩香さんは、首を流れる一筋の血を指で拭い、再び臨戦態勢へと戻った。

「あなたの負けよ」

少女が冷たく吐き捨てる。

「これくらいの怪我、なんてことはありません」

もう一丁銃を取り出した彩香さんを、少女は冷ややかな笑みで見つめる。

そして、彩香さんが引き金に指をかけた瞬間、天高く指を鳴らした。

「けほっ」

彩香さんが、肩に顔をうずめて咳き込む。

そして、再び面を上げたとき、そこには血が付いていた。

「え」

血は一瞬で黒く変わり、いつの間にか跡形もなく消えていた。

よく見ると、先ほど付いた首の傷からも、黒い血が流れている。

そしてその傷からは、血よりも黒い瘴気が溢れ出していた。

状況を把握しきる前に、彩香さんの絶叫が轟く。

首の傷を強く抑えつけたまま、地の上でのたうち回っている。

「何したの⁈」

彩香さんを無感動に見下ろす少女に、声を荒げる。

気づけば縄は解けていた。それを好機に、彩香さんの治癒を試みる。

苦しそうな息継ぎの合間にかけられた、制止の声を振り切って。

「けほ」

煙のように肺に入ってくる瘴気が、気持ち悪い。

思わず咽せると、口の端に冷たいものが滑り落ちる感覚がした。

そこを拭った手には、黒い血が染み付き、そして消えた。

「っ………!」

右手の感覚が麻痺し始める。咳が止まらなくなり、息を吸うこともままならない。

咳をするたびに出血し、血に触れた箇所から、麻痺が蔓延していく。

呪力で押し留めようとするが、広がる速さの方が速いせいで、治癒が追いつかない。

「じゅりょく、で……おさえようと、して、……は、いけま、せ、ん……」

彩香さんから教わった通り、呪力の流れを抑えると、幾分と速度が遅まった。

「余計なこと、言わなくていいのに」

刃を構えて、少女が歩んでくる。

応戦しようとするが、意識が朦朧として、うまく立ち上がることができない。

「なんの、どくです、か………」

彩香さんが、膝をついて立ち上がる。

首から溢れる瘴気は、手で抑えられる量を超えていて、吹き出したままだ。

足をもつれさせながらも、少女のところへ向かおうとする。

彼女は軽く目を瞠り、そしてすぐに元の表情に戻った。

薙ぎ払った切先が、彩香さんへと伸ばされる。

しかし彩香さんは、それを素手で掴むと、血を流したまま不敵に笑った。

「言ったでしょう……。これくらいの怪我、なんてことはないと…………!」

右手全体が瘴気に包まれても、彩香さんは刃から手を離さない。

「なんで動けるのよ……」

少女の瞳が、驚愕に彩られていく。

恐怖を感じたのか、刀を引き抜こうとするが、彩香さんの力は弱まることを知らない。

「やらなくちゃいけないことがあるのは……あなただけじゃないからだ………!」

少女が刃を伸ばして距離を取ろうとするが、それより先に彩香さんの声が高らかに響いた。

「不協和音———……!」

彩香さんの触れている箇所から、刀が砕けていく。

刀の半分の面影がなくなったところで、少女が柄を手放した。

腰のベルトから、短刀を新たに取り出して、腰を落とす。

一方の彩香さんは、震える腕で銃を構えていた。

立たなくちゃいけないと思うのに、膝に体重を掛けようとすると、そのままへたりと座り込んでしまう。

「なんの毒ですか、これ……。名の知れた毒は、ほとんどが私に効かないはず……。でも、これは……初めて、だ」

繰り返し発砲するが、少女が驚くべき短刀捌きで全てを弾き返す。

「当たり前でしょう……! これは蠱毒を塗った刀。しかも人間を集めて作ったもの」

彩香さんが弾倉を付け替え、発砲を続ける。少女は、絶え間なく降り注ぐ弾丸の雨を凌ぐのが限界だ。

「人を手にかけたことが、あるん、です、ね………」

身体を引きずりながら、少女の元へと歩き出す。

銃弾が少女の頬を掠めるが、お互いに一歩も引かない。

「お前もだろう。お前は私が、何も知らないとでも思っいるのだろうが。だってお前は、」

少女の声が途絶える。

視線を向けると、彩香さんが少女の首に手をかけているのが見えた。

「彩香さん! だめ、殺しちゃ……」

自分ものとは思えないくらい、引き攣った声が出た。

呪術は、人を殺すためのものではない。

だから彩香さんに、誰かを殺させてはならない。

「秩序のための粛清と、独りよがりの殺戮を、一緒にするな………!」

彩香さんが少女を睨みつける。

少女は短刀を両手で握り締め、彩香さんの右腕に深々と突き刺した。

「では訊くが……」

彩香さんは悲鳴を上げることもせず、鋭い眼光で彼女の首を絞めるだけだ。

刀の刺さった右腕からは、首よりも濃い瘴気が溢れ、どの傷よりも黒い血が流れている。

「殺人と言う罪が……大義為り得ると思っているのか…………っ!」

少女が刀を引き抜き、再び彩香さんに突き刺す。

「炎々長蛇あああああぁぁぁぁぁぁ!」

出せる声の限りで叫び、炎蛇を召喚し、少女に巻き付かせる。

しかし、炎蛇が少女を絡め捕るよりも早く、彼女が声を上げた。

「神刀洸和!」

光に包まれた刀が、炎蛇の脳天を貫く。

そして彩香さんの拘束を振り払うと、刀を手にしてこちらを振り向いた。

「彩香さん!」

力尽きたのか、倒れてしまった彩香さんへと手を差し伸べる。

倦怠感と痛みに苛まれる体に鞭を打って立ち上がり、転びながら彩香さんの元へ向かう。

「遺言はなんだ」

私は、目の前に突き出された切っ先を、真っ向から睨みつけて言った。

「私の遺言なんかない。あるのは、お前の遺言だけだ……!」

炎の槍を顕現させ、右手に構える。

本音を言えば、もう一歩も動けない。立っているだけで、意識が飛びそうになる。

でも彼女の間違いを、正さなくてはならない。

浄化の力を持つ、この炎の槍で。

「まだやってたの、斎希」

するとその時、境内の奥から高めの声が聞こえてきた。

かつかつと靴音を鳴らし、月明かりの影から現れたのは、一人の少年だった。

「僕のこと呼んだくせに、まだ殺れてないのはどうして?」

齢十ほどの彼は、首をこてんと傾げて、無邪気に、そして無慈悲に問うた。

「洸和様……!」

斎希と呼ばれた目の前の少女が、目玉が零れんばかりに瞳を開く。

「腰に差してある刀は飾りだったの? 早く殺っちゃいなよ」

笑顔から一転、低い声で指示を出す。

その瘦せ細った小さい体躯からは想像できないほど、大人びた雰囲気を持ち合わせていた。

顎辺りでぱっつんに切りそろえられた黒髪が、秋の夜風に靡く。

着ている白い着物と同じくらい白い肌は、栄養不調を疑ってしまう。

しかしその割に、唇だけは異様に紅かった。

まるで、血のように。

「さっきの女の子、君が殺したいんでしょ? こいつら早く殺っちゃわないと、僕が殺っちゃうよ?」

洸和は舌なめずりをしてみせる。

私はそれを見て、全てを察した。

「神隠しはお前たちの仕業か……!」

抑えきれない笑いが溢れてくる。そうすることしかできない、狂った人形のように。

ただ、ひたすらに。

「友だちというのも嘘だな? お前は始めから、あの子を殺すつもりで……!」

胸倉を掴み叫んでも、斎希は眉一つ動かさなかった。

こんな人間に騙されていた自分が、ひどく恥ずかしい。

彩香さんの言葉を、もっと信じるべきだった。

たとえ彼女が、私を仲間だと思っていなくても、それは信じない理由にはならない。

「そう。そして私の復讐は、こんなところで終われない」

言い終わらないうちに、私のお腹から生暖かいものが溢れた。

同時に喉をせりあがるように、熱いものが伝ってくる。

吐き出す息とともに零れた血は、相変わらず黒かった。

「ふくしゅう……ま……い」

離れていく背中に向かって言った声は、囁きにしかならなかった。

「たすけ、よばなきゃ……」

途切れゆく意識の中で、電話の呼び出し音だけが鳴り響いていた。



 ♢


遡ること数刻前。

少年は酷く取り乱していた。

「くそっ!」

人の腕らしきものに噛みつき、肉を食いちぎる。

骨があらわになるまで食してから、口端に付いた血を拭った。

「あいつの関与がばれた……。しかもあの女、僕の記憶が間違いなければ」

今度は胴に噛みつく。

悲鳴は聞こえない。なぜなら、もう死んでいるからだ。

斎希が連れてきたあの女。あれは、そこらへんに転がしてある。僕のご飯にする予定はなかった。

だがしかし。

狗が出てきたとなれば話は変わる。倒すことは出来るだろう。神坂の末裔もいたが、あれはまるで小石。殺すことなど、造作もない。

問題は狗だ。あの女自体の力は大したことがないが、仲間を呼ばれたりすれば厄介だ。

そして、それよりもまずいことがある。

斎希の存在がばれたことだ。

あれは僕の隠れ蓑なのに。最後の仕上げに、どうしても必要な器なのに。でもこれで、僕の正体が突き止められるのも、時間の問題。拷問でもされたら即終了だし、そもそもこの異空間まで入られた時点で、呪力が露見してしまっている。

斎希は自分の復讐のことしか考えていないから、僕のことを売る可能性だって否定できない。

目標達成には、あいつの身体が必要なのに。

あぁ、でも。

斎希のそれよりも、良い血筋の女がいるではないか。

なんだ。それなら斎希はもう必要ない。捨ててしまえばいい。勿論、使えなくしてから。

「ひっ……」

がぶがぶと人肉を貪っているところを、見られてしまったらしい。

女の子は僕から少しでも距離を取ろうと、虫のような歩き方で後ろに下がる。

「そんなに怖がらないでよ~……」

裾に付いた砂を払って、立ち上がる。

う~~~~ん。どうして僕は、そんなに怖がられるんだろうか。

まぁいい。こいつを使うとするか。

「こ、こないで!」

悲痛な叫びを無視して、足を進める。

袂から小刀を取り出し、その刃を舐める。

うん、ちゃんと塗ってある。これならきっと、問題ないだろう。

「いや、いや」

「いやいやしないで、ね? 大丈夫、君のことは殺さないから」

適当にあしらい、彼女の前に腰を下ろす。

「ころさ、ない……?」

「うんうん殺さない。君みたいないい子のこと、僕が殺すわけないでしょ?」

ね?と、首をかしげてみせると、少女の震えが止まった。

成人男性の姿をとるよりも、こちらの方が女の子受けがいいらしい。最近の子は、こういうのが好きなのか。

「ほんと? ほんとに殺さないでくれるの? 家に帰してくれる? わたし、怖くて……」

そう言って女の子は涙を流す。

「泣かないでよ。せっかくの綺麗な顔が、台無しになっちゃう」

幾百年の人生で培ったのは、人肉を上手く食べる知識と、女を誘惑する技術だ。

手で拭ってやると、案の定少女は頬を赤らめた。

「でも僕ね、少し君とお話ししたいんだ。いい?」

少女は少し訝しがりながらも、首を縦に振った。

「ちょっと待っててね」

踵を返して、器を取りに行く。

食器は僕のコレクションにあったはずだ。毒は壺から取り出して、血液と八対一くらいの割合で混ぜれば丁度いいだろう。ついでにお気に入りの酒でも混ぜておくか。理性は少しでも削った方がいい。

「光陰呪法、千紫万紅」

毒々しい色を隠すためにまじないを掛ければ、飲み物は三鞭酒のような色へと変わった。

千紫万紅。

光を使うことを応用し、人の目に届くそれの量を七変化させる術。

人間だったころは使えなかった、人知を超えた技。

この身を鬼に堕としたのは、徳川の時代のことか。はたまた戦乱の世か。

「お待たせ~!」

表情筋をはたらかせて笑顔を作る。

彼女にグラスを渡してしゃがみこみ、それを空に掲げた。

「では、乾杯」

「何に向かって? ていうか、子供はお酒を飲んじゃダメじゃん」

「うん。だからこれは、ただの飲み物だよ」

薄く笑いながら、彼女はグラスに口を付ける。僕はそれを、ただ見つめるだけだ。

「うっ……うああああああぁぁぁぁああ!」

絶叫が聞こえたあたりで、僕はその場から立ち上がった。

醜い人間の姿など、誰が好んで見るものか。

「常しえの怨毒に、乾杯」

悲鳴を背中に受けながら、僕は姿を隠した。


 ♢


 4


 ♢


あの女。

短髪の女は、洸和様から聞かされていた《狗》で間違いないだろう。

ではあの少女は。

七星と呼ばれていたか。私より年下に見えた。随分と大人びた雰囲気ではあったけれど。

「斎希」

「何でしょうか、洸和様」

大岩の上に座る洸和様の前に、深く跪く。

「君が捕まえてきた子が、逃げた」

「逃げた?」

思わず顔を上げて訊き返す。

この御方はいま、何と仰った?

「そう。僕が刀に変化してる間に、逃げたみたい」

彼は私の返事を待つことなく、続ける。

「僕の貯蓄も逃げちゃってるし」

洸和様は、岩からぴょんと飛び降りて、私に言った。

「君の責任だからね。ちゃんと全部取り戻してきてよ」

「ですが」

「何? 君が僕を呼んだのが原因でしょ? もしかして」

奥の森へと足を進めていた彼が、こちらを振り返る。

その眉間には、深い皺が刻まれていた。

感情が複雑に混じり合った鋭い眼光が、私に向けられる。

「自分は悪くないって思ってる?」

「いえ、そんなことは」

すると彼は、にっこりと笑みを浮かべて言った。

「そうだよね! 疑ったりした僕が悪かったよ~。じゃあ、よろしくね!」

ばいば~い、と手を振って立ち去る彼を、ただ見つめることしかできなかった。

初めてこの御方を、怖いと思った。




森に入ってすぐのところに、何かが転がっている。

「ウウウウゥゥゥゥゥゥゥ……ガルルルルルルル!」

獣のような唸り声をあげる禍物は、もとは人間の女だった。

常しえの怨毒という呪いを授けられたそれは、恨みなどの負の感情を喰らって生きる妖へと姿を変えた。

蟲毒に織り交ぜた血は、僕の眷属とさせる契りだ。

これの手綱を握れるのは、世で唯二人。

僕と教祖様だけ。

「お前を捕らえたのは東雲斎希。この姿にさせたのも、あいつだ」

袂から懐中時計を取り出す。さっき、こっそりと掏ったものだ。

「殺せ」

禍物は懐中時計を喰らい、そのまま姿を消した。

「始まりの鐘を、鳴らすとしよう——」

その言葉を皮切りに、まばゆい光が僕の身体を包んだ。

光が収まったとき、そこに洸和はおらず、一人の幼子が、てちてちと歩いているだけだった。


重い瞼を何度か開閉し、意識を覚醒させる。

「ここはど……いたっ」

勢いよく上体を起こすと、何か硬いものに激突した。

うう…………おでこ痛い……。くらくらする……。

「いっっったーーーーー! ちゃんと見なさい!」

どうやら私は、自宅に戻っていたらしい。

目の前にあったのは、私が世界一見たくない顔だった。

そう。覗き込んでいた颯の石頭と、衝突したのである。あぁ痛い。

「うるさい、颯。てあれ、彩香さんは?」

「あの人なら嵐馬が持ち帰ったよ」

ベッド脇のサイドテーブルには、颯が食べていたと思われるプリンが置かれている。

こいつ、美味そうなもん食いやがって、この……!

ていうかおい待て。こいつ今、なんて言った?

モチカエッタ⁇ え、もしかしてあの二人ってそういう……。

「いやー、そういうのじゃないと思うよー。みっちり躾け直すとか言ってたし」

いや、それはそういう関係なのよ。大丈夫か、こいつ。

やーばい、オタクの血が騒いじまう。自制しないと。

「これ以上の詮索はしません……」

「うん、その方がいいと思う」

颯が神妙な面持ちで頷く。やっぱりそういう……。

「ところで、何かわかったの?」

突然、颯がまともになる。普段から、これくらい大人しいといいのだが。

「何かって? 主犯者二人には会ったけど」

「祓えてないんでしょ。君たちが発ってから七十二時間経過したところで、応援に向かったけど。俺が付いた時には、異空間ごと消失。犯人たちとも会えてない。呪力で辿ってみようとも思ったけど、いまいちだった。律から頼まれてる件も進捗悪いし。少し腕が鈍ったのかな~?」

う~~ん、やっぱ適度に任務があった方がいいかもしれない。でもだるいよ~、やだよ~。

喧しく言い募る颯を放って、ベッドを下りる。

あまり見慣れない部屋だな、と思ったら、なるほど、ここはコイツの部屋だったのか。どうりで汚いわけだ。

床に踏み場はないわ、服はそこらへんに散らかってるわ、机の上は荒れてるわ……。

ほんっっっっと颯って、顔がいい以外の取柄ないよね⁉

「今度この部屋、掃除しとくよ……」

「いやん、光梨のえっち」

「ちげーわ! 人にやられたくなかったら、ちゃんと片付けとけ!」

自分の身を抱くように腕を組んだ颯に向かって、思わず声を荒げる。

はぁ。

何度目のものかも分からない溜息を吐いた。

「元気そうで何より」

「そりゃどーも」

後をついてくる颯を適当にあしらって、階下のリビングを目指した。


「ここは綺麗なのね」

「使ってないからねぇ」

しれっと人を煽るようなことを言うコイツに慣れてしまったのか、大した怒りも感じない。

慣れたくなかった、こんなこと。

「今は一時か……。お昼食べたの? 私は小腹空いたから、10秒チャージもらうけど」

「お昼は食べてないよ。さっきまで寝てたし」

「早寝早起き朝ごはん。長生きしたけりゃ、その三つを守りなさい」

冷蔵庫から、ストックしてあるゼリー飲料を取り出し、颯に手渡す。

「さんきゅー。んで? あの日、何があったの?」

颯が律儀に、ホワイトボードを引っ張ってくる。

以前彩香さんから聞いた情報を書いた面は、まだ半分ほど余っている。

「まず、主犯は男女二名。二人とも本名不明、年齢も分からない。女の子は二十歳くらいの見た目だったけど、男の子の方は十歳くらいだった」

ちゅうちゅうと飲み続ける颯を横目に、書き込みを続ける。

「女は斎希、男は洸和と呼ばれてた。コードネームか何かかもしれないけど」

「いや、それはない」

頭上からいきなり声が降ってきて、びっくりする。

左を見ると、いつの間にか颯が隣に来ていた。

「術師にとって、名前は呪文に等しいからね。共犯同士でコードネームを使うことは、ほぼないと言っていい。ちなみに、男が女を従えてる感じだった?」

「うん、そう。男は洸和様って呼ばれてたし、間違い無いと思う。実際、女は洸和に命じられて、私たちにとどめを刺そうとしたから」

颯が口元に手を当てて、考え込む。

「洸和……どこかで聞いたことがあるような気がするんだけどなぁ……」

「洸和の目的は分からないけど、斎希は自分で言ってたよ。復讐、って。やらなきゃいけないことがあるから、それを邪魔するものは殺すって」

あの時聞いた言葉を、反芻する。


―――秩序のための粛清と、独りよがりの殺戮を、一緒にするな………!


―――殺人と言う罪が……大義為り得ると思っているのか…………っ!


まるで彩香さんが、人を殺したことがあるような言い方だった。

確かに拳銃を携帯しているし、人を殺すことに躊躇いはないのかもしれない。

だが、本当に手を汚したことがあるとは限らないではないか。

どうしてあんなに、確信のある言い方ができたのだろうか。

「なかなかの過激思想だね。そういうタイプは、何を言っても聞かないからねぇ」

どうしたものか……、と颯が首を竦める。

そうしていると、突如インターホンが鳴り響いた。

「どーぞ」

颯のその言葉と同時に、玄関のドアが開いた。

「ナイスタイミングー! ちょうど光梨も目覚めたところだし、訊きたいこともあったし」

「お前の訊きたいことって、ほとんど面倒くさいお願いだからヤなんだけど」

嵐馬さんが、心底嫌そうな顔をして答える。

「まぁまぁそう言わずに。とりあえず座りなよ。今日はメロンジュースしかないんだけど」

「コーヒーでいいです」

間髪入れずに彩香さんが答える。

こっそりガムシロを入れられたことを、まだ根に持っているみたいだ。

「あっそ。光梨と嵐馬は?」

「コーヒー」

「エナドリ」

二つの言葉が重なる。

嵐馬さん、疲れてるんだなぁ。

化粧をして隠しているみたいだが、目の下に薄らと隈が出来ている。

よく見ると彩香さんの目の下も、隈らしきものがある。お疲れ様です……。

「疲れた時こそ甘いものを摂らないと。はい、これ」

二人は、チョコが大量に入ったカゴを差し出す颯に、大きな溜息を吐く。

当の本人は、うきうきでチョコを頬張っているのが憎らしいい。

「んで? なんで来たのさ」

二人が腰掛けたのを見計らって、問いかける。

「斎希の素性が分かったから、伝えにきた」

嵐馬がエナドリを一口飲んで、席を立つ。

「先輩、ここは私が」

「病み上がりは黙っていろ」

嵐馬さんが冷たく言い放つ。私はこの時、初めて嵐馬さんの冷酷な姿を見た。

「………はい」

彩香さんは少し寂しそうな表情で、再び椅子に腰掛ける。

「本名、東雲斎希。二○○三年十二月五日生まれ。都立桧山高校の三年生で、所属クラスはB組。出席番号は十二番。クラブ活動には参加してないらしく、帰宅部。

クラスでは若干浮いた存在だったらしいが、どうやら一部生徒にいじめられていたみたいだ。まぁ、物証は掴めてないけどな。

家族構成は祖母と本人の二人。斎希が六歳の頃に、父親と母親が蒸発。その二年後に、母親と別の男が再婚しましたが、連れ子だった彼女は虐待を受けていたと聞いた。

見兼ねた母方の祖母が彼女を引き取り、現在に至る。その祖母も、一ヶ月前に階段から転落して、死亡している」

事細かに説明される斎希の説明を聞き、私は僅かながら、怒り以外の感情を抱いた。

同情と、共感。

その哀しい生い立ちを憐れむ一方で、どこか自分と重なる境遇に、納得できるものもある。

そう。

一歩違えば、私は彼女のようになっていたのかもしれないのだ。

「復讐の相手はいじめた奴らの可能性が高いと考えている」

「ううん、たぶん違うよ」

嵐馬さんの言葉に、否定の意を表す。

斎希はきっと、おばあちゃんの死を事故死だと考えていない。

だって、受験が近い今の時期に、わざわざいじめてきた相手に復讐しようだなんて、普通は考えないだろう。

そして、大切な人を亡くした人間が真っ先に考えるのは、その原因の正当性なのだ。

「あの子はきっと」

確証はない。

それでも。何もかもを、失ったことのある私だから分かる。

「おばあちゃんを殺した人間を、殺すつもりだよ」

「そう考える理由は」

間髪入れずに、彩香さんが問いただす。

「まず、高三なら受験が控えてるはず。復讐するにしても今の時期にやるのは、合理性に欠ける。それに、わざわざ殺すかな? いじめの程度にもよるんだろうけど、いくら何でもやりすぎな気がする」

疑問に思った点を列挙しながら、続ける。

「そう考えると、復讐はいじめた人たちに対するものじゃないと思うんだ。それにほら、一ヶ月前と言えば、ちょうど神隠し事件が話題になってきたころでしょ? 有り得ないことじゃない気がする」

その言葉に、颯が応じた。

「なるほどね。それなら、長谷と光梨ちゃんを実働部隊にして、俺は二人の目的について探ってみる」

「おい嵐馬」

「なに」

無愛想に返事をする。嵐馬さんは、眉間に皺を寄せながら、颯の言葉に耳を傾けた。

「洸和の正体、調べてるよな?」

「それは……」

嵐馬さんが、言葉に詰まった。それを颯が、目敏く見つける。そして大きくため息をつくと、席を離れ、嵐馬さんの正面に立った。

「馬鹿か、お前は。あれは洸和の駒でしかない。斎希を調べても、その奥で蠢く闇は振り払えない。どうして洸和を追わない。なぜ斎希を助けない」

息をつく間もなく、颯が問い詰める。

「それは、物証がないからだ」

先ほどとは異なり、揺るぎない眼差しで、嵐馬さんが言い切る。颯に言葉を許すこともなく、続ける。

「俺たちは探偵でもなければ、正義の味方でもない。一介の呪術師だ。

故に、事件が発生してからでないと動けない。それは、持てる者が持たざる者を踏みつけにしないようにするための、絶対不可侵の掟だ。お前も分かっているだろう」

颯が、負けじと言い返す。

「俺には分からない。だって俺は、一介の呪術師じゃないから。一人の呪術師だから。

だから俺は、洸和を優先する。そして斎希も助ける」

「颯。斎希は自らの意志で、洸和に与している可能性だってあるんだぞ。二人は等しく犯罪者だ。なら『今』を優先すべきだ。守るべきは、使われる犯罪者ではない。すべきことは、不確かな未来への防衛ではない。一般人を守るために、俺たちはいるんだ」

「守るべき一般人には、等しく犯罪者も含まれる!」

颯が語気を荒げて言った。

今までに見たこともないほどに、強く、哀しく、脆く、淋しく。

そして、怒りに満ちた瞳をしていた。

「少なくとも斎希は、救うべき犯罪者だ。——————お前が俺を、そうしたように」

「それは……」

「もう、使い捨てられる術師を、見たくないんだ」

颯が伏し目がちに言った。

嵐馬さんは、かける言葉を探しあぐねているかのように、視線を彷徨わせる。

「とにかく俺は、洸和を追う。後は好きにしろ」

颯は私たちに振り返ることなく、歩き出した。

階段を登っていくその背中に、声をかけることはできなかった。

「……ごめんね、重い空気にしちゃって」

嵐馬さんが、困ったような表情で笑う。この人も、颯も、何も間違っていないのに。

「先輩が謝る必要は、ないです」

首を横に振るので精一杯の私とは異なり、彩香さんははっきりとした口調で言った。

「だって先輩は、何も間違ってないじゃないですか。五行颯は前科もあります。あの人はこちら側の人間ではないのに」

彩香さんの言葉が途絶えた。

見ると、嵐馬さんが矢のように鋭い瞳で、彼女を見つめていた。

パチン。

乾いた音が響く。

嵐馬さんが、彩香さんの頬を平手打ちしたのだ。

「弁えろ。お前に、颯の正義をどうこう言う資格はない」

「でも」

「人にものを説きたくば、相手より強くなれ。いいな?」

彩香さんは、赤く腫れた左頬を抑えながら言った。

「…………はい」

ビリリリ。

突如、不快な警報音が鳴り響く。

発信源は、二つ。

嵐馬さんと彩香さんのスマホだ。

「緊急招集だ。向かうぞ」

「はい」

その間、嵐馬さんの携帯が、休む間もなく通知音を鳴らし続けている。

「もしもし、秋庭だ。……え? わかった、すぐ向かう。俺が着くまでは、一条を前線に配置しろ。戦闘要員は配置するな。負け戦は無駄になるだけだ」

電話越しに指示を飛ばしながら、片づけをする。

そして電話を切ると、次は私に指示を出した。

「倉庫に何者かが侵入し、特級妖術師一人と特級呪霊一体の封印が解かれた。侵入者は目視できず。呪霊の方は、もう遠くに逃げているだろうから、術師を再度封じることしかできないけど。

俺たちはしばらく動けないだろうから、あとのことは任せた。一人でやるのが大変だったら、颯をこき使っていいから。……あぁそうそう、颯に伝えておいてほしいことがあるんだ。

『時計の砂が落ち始めた』。そう言ってくれれば分かると思う。よろしくね」

「しっかり伝えておきます。私は斎希の復讐を止めます」

嵐馬さんが大きく頷く。

彩香さんは、少し驚いた表情をしていた。私、何か変なことでも言ったか?

「頼んだよ。……行くぞ」

二人が玄関へと駆け出すのを見送り、私は階段を登り始める。

『時計の砂』とは、なんのことだろうか。

「颯。入るよ」

拗ねているのか、鍵がかけられたドアからはなんの返事も聞こえない。

面倒くさい大人だ。

「嵐馬さんから伝言だよ。『時計の砂が落ち始めた』だって。どういうこと?」

「なんだって?」

ものすごい勢いでドアが開けられる。

「だから『時計の砂が落ち始めた』って言ってたよ」

颯の目が驚愕に彩られる。

顔は青白く変化し、力が抜けてしまったのか、腕がだらりと下げられている。

「大丈夫……?」

声が届いていないのか、返事がない。

「………が…か……ってる」

口から零れたのは、声と呼ぶにはあまりにも苦しそうな呻き。

「颯?」

颯がどこか遠くにいるような気がして、空恐ろしくなる。

名前を呼べば、戻ってくれる。きっと、いつものあの飄々としたやつに戻ってくれる。

犯罪組織(マフィア)が関わってる……」

私はその言葉の意味を、理解することができなかった。

颯だけが、その重みを知っていた。



 ♢


「待たせたな。代わろう。」

一条さんに、先輩が声を掛ける。

五行颯や神坂光梨と居たときの先輩の姿は、私が今まで見たことのないほどに優しかった。

そして、年相応に、よく笑った。

あんな風に笑えるものなのだ、と。

一方で、どうして私には厳しく接するのだろうと、疑問に感じた。

「長谷。ぼさっとするな。働け。働かないなら、死ね」

「すみません」

ほら、こんなふうに。

私とあの人たちでは、何が違うのだろうか。立場だろうか。

次に叱られたら、きっと平手打ちが飛んでくるので、急いで対呪霊用の武装準備をする。

音を使う私の呪法は、この組織内で最も使いにくいものとして知られている。

広いところでないと攻撃ができないし、防御に使える術が少ない。挙句、何をやるにしても煩いのが一番の問題だ。これについては、どうしようもないものではあるけれど。

「愚か者!」

厳しい叱責の声が飛んでくる。

同僚たちがこちらを振り返るが、助け船を出すことはしない。

所詮、他人事。

それに、この場で先輩以上の術師はいない。故に誰も、逆らえない。

「攻撃はしないと言っていたのが聞こえなかったのか!」

電話で言っていたことを思い出す。

「すみません」

「分かればいい。下がっていろ」

「でも一人は危険です」

「病み上がりが戦線に出ることの方がよっぽど危険だと思うが?」

反論を、ぐうの音も出ないほど綺麗に封じ込められる。

結局私は、先輩の役に立てないのだ。

嵌めていた手甲を外しながら、先輩は言った。

「落ち込んでいる暇があったら働け。お前の力を使って呪霊を探すんだ。その耳は何のために付いている?」

先輩が振り返ることはない。

敵としっかり向き合うこと。

それがこの人の流儀だからだ。私はこの人のそんな所に惹かれて、直属の部下になることを志願した。

だから、どれほど辛くとも。どれほど苦しくとも。

辞めたいなどとほざいては、ならないのだ。

耳を制御できるようになった時、一番喜んでくれたのは、この人なのだから。

「全特殊班員に告ぐ! 倉庫から特級呪霊一体が逃走した! 固体識別記号はΣ。一係は建物内の監視、二係は建物外での捜索、三係は二係の補助を命ずる!

第一・第二遊撃隊員は係員のそばで待機! 特別遊撃隊員は前線にて呪霊を捜索をせよ! これよりΣを指名手配とする! 見つけ次第攻撃して構わない!」

壁にかけられていた無線に向かって、大声で叫ぶ。

部屋にいた同僚たちが走っていくのを確認したのち、先輩へ向き直る。

「捜索へと向かいます」

返事はない。元から期待など、していなかったけど。

小走りでドアへ向かい、外へと足を踏み出したところで立ち止まった。

「……では、また」

「その言葉、違えるなよ」

閉めた扉の向こうから、呪霊の絶叫が聞こえてきた。


世界には音が溢れている。

昔はこの耳が嫌だった。

嘘もお世辞も、すべてわかってしまうこの耳が。

知りたくない真実を、見つけてしまうこの耳が。

この耳が、誰かのために使えると分かったときの喜びは。

安心感は。

「…………聞こえた」

外界に存在する数多の音から、目的の一つを探し当てる。

大量の呪力を内包する音は、極僅かだ。これで間違いないはず。

だが。

「人の、足音…………?」

違和感。

何かが引っかかる、不快感。

逃げたのは、呪霊ではなかったか…………————?



颯が落ち着いてきたのを見計らって、私は外に出た。

行先は、近所のスーパーだ。

あの男には、呪霊を祓う以外の能が著しく欠如しているらしく。放っておいたら人間らしからぬ生活を送っている。

例えば、食事を抜く、とか。

例えば、床で寝る、とか。

私が最も驚いたのは、「これが三途の川か! ここを超えたら、俺はもっと強くなれる!」と言って、風呂にダイブしたことだ。

それはそれは凄まじい音が聞こえてきたから、何事かと思って声を掛けたところ、扉越しに嬉々とした声でそう言われたのだ。果たしてこれが、本当に成人男性のやることだろうか。

たしかに、死にかけた術師は強くなると言われているけれど!

本当に実践する奴がいるなんて、誰が思うだろうか。

あーなんか、この野菜たちが可愛く見えてきた。私、自分が思っている以上に疲れているのかもしれない。毒のせいなのもあるだろうけど。

私や彩香さんを侵した毒は〝蟲毒〟と呼ばれるものだった。

しかも一般的なものではない。人間を集めて作った、蟲毒。

神隠しは、殺すことが目的ではなかったのだ。

でも、この毒を作ることで終わるとも思えない。

となると、彼は何のために動いているのだろうか。

斎希の思惑は分かる。復讐だ。

では洸和は?

あれに関する情報が足りない。

そもそもあれは何なのか。

呪霊か。はたまた人間か。

斎希は言った、『神刀洸和』と。

それならば神か。或いは刀か。

「ステーキの試食やってまーす! お姉さん、いかがですかー?」

「下さい〜」

店員さんの声掛けで、物思いから浮上してくる。

情報を探るのは、私より颯とか嵐馬さんの方が得意だろう。

私がやるべきなのは、斎希の復讐を止めることだ。

そのためにも、今は鍛錬を。

強くなるための、鍛錬を。

よし、帰宅したら筋トレしよう。私ってば偉すぎる。

我知らずと口角が上がっていた時だった。

もう会うはずのない人物を見かけたのは。

「久しぶり」

手渡されたステーキを飲み下して、声をかける。

特徴的だった長髪は、短く切り揃えられてしまっているが、見間違えるわけなどない、

声をかけられたその人は、鶏肉を見るのを中断して、こちらを振り返った。

彼女の視線が、誰だと問いかけてくる。

「えっと」

そうか。髪が黒くなっているから、誰だかわからないのか。

「覚えてる? あのあと私、転校しちゃって」

そこまで言うと、彼女は何かに気づいたようにはっとした。

「光梨………? でもなんで」

「ね。まさかこんなところで会うなんて。久しぶり、渚」

続けて尋ねる。

「渚も引っ越したの?」

「え、うん。仕事の都合で、少し」

渚にしては珍しく、歯切れの悪い言い方だ。

「そうなんだ~。あ、LINEやってる? やってたら繋がりたい!」

「あー……ごめん、私、成績悪くてスマホ解約されたんだよね~……」

渚らしい言葉に、笑いが零れる。前から言ってたもんなー。

懐かしい思い出に、人知れず笑顔が浮かんだ。

「そっか、残念。でもここら辺に住んでるなら、また会えるかもね!」

「そうだね。あ、私この後用事があるんだ。ごめん、行かなきゃ」

渚が、腕時計をちらりと確認して言った。

「頑張って~! じゃ、また!」

「じゃあね」

足早に去る彼女の姿は、数カ月前よりずっと大人びて見えた。



結局、今日はいいお魚が見つからなかったので、夕食は生姜焼きに決まった。

明日はお魚食べたいな。もしかしたら、海が少し荒れているのかも。

「ただいま~!」

「おかえり、光梨。元気だね」

病み上がりなのに、という言葉が含まれいる気がするのだが、如何に。

「高校の同級生に会ったの! 前話した、渚って子なんだけど」

颯はしばし逡巡したのち、あぁ、と呟いた。

「平井渚だっけ?」

「よく覚えてたね」

「人名を覚えるのは得意な方なんだ~。見直した?」

「いや別に」

素っ気なく返して、階段を上り始める。

まだ倦怠感が抜けきっていないようで、少し動くのが億劫だ。

なにかお腹に食べ物を入れてから、少し仮眠でもとろうかな。

「ねぇ光梨。もしかしてまだ、毒抜けてないの?」

颯が気遣わしげに訊いてくる。珍しい。明日は槍でも降るのかもしれない。

「うん。まぁ、ちょっとだけど」

後ろから、考え込むような唸り声が聞こえてくる。こわいこわいこわい。

そして、颯は何かに思い当たったかのように息を呑むと、私を追い越して、素早く2階へと上がっていった。

慌てて追いかける。せめて一声、かけてくれればいいのに。

しかし、リビングに颯の姿はない。

「颯〜。どこ〜?」

声をかけてみるが、返事はない。

よく見てみると、どうやらベランダで黄昏ているようだ。

上着も羽織らないで外に出ていては、風邪を引くだろうに。

なにをしているのだろうか。

「どうしたの?」

開け放たれた窓に、そよぐカーテン。

そして、その爽やかさからかけ離れた、真っ黒な人影。

その人が見上げる空は、重い雲が立ち込めており、狭間から差し込む日光が目を射抜くように鋭い。

そっと上着を肩にかけてやると、やっと私の存在に気づいたらしい。

聞こえるか否かくらいの小さい声で、感謝の意を述べてきた。

「なに見てたの?」

颯の視線を追ってみる。しかしそこには何もない。

あるのは雲が立ち込めた重い空だけ。

「嫌な予感がして」

声音に焦りが滲んでいる。

現代最強。

そう謳われる颯には、いささか似合わない声音だ。

「戻れ、光梨。来る」

鴉が高く鳴き、羽ばたく。

視界の端に、黒いなにかが見えた。

私たちの家は、靄に囲まれていた。

瞬時に状況を理解した颯が、ベランダの柵を乗り越え、跳躍する。

「失せろっ………!」

疾風のような速度で、目に映らぬ呪力の波動を生み出し、着地。

周囲の靄は弾け飛ぶが、所詮、焼け石に水だ。

靄が意志を持っているかのように、颯を覆い尽くそうと蠢く。

「颯!」

黒に紛れて姿を垣間見ることすら叶わないのに不安を覚え、思わず名前を呼ぶ。

今更ながら、応援へ行かなければと思い、宙へ足を伸ばすが、それを颯が止めた。

「来るな!」

怒号とともに、水龍が靄の檻を突き破る。

龍はその勢いのまま、私に巻き付こうとしたが、それを黒い靄が阻んだ。

まるで処刑されるキリストのように、磔にされる。

「うっ……」

煙たい。

肺に入り込んだ空気が、身体を蝕むようにさわさわと動く。

「ガウゥゥゥゥ」

〝憎い〟

耳に届くのではない。

頭に響く、憎悪の声。

「ガウゥルルルル」

〝お前が。この姿に堕とした、お前が〟

脳を逆撫でするかのような、ざらざらした鳴き声。

しかし、その裏にある愁いは、まるで人間を思わせる。

身体を侵食してくるこの声に、生気を吸い取られてしまいそうだ。

「同情するな」

水龍に支えられ浮上してきた颯が、こちらに声を投げかけてきた。

妙な安心感が、黒い靄から私を救い上げてくれる。気に食わないけど。

強風に煽られ、靄が一瞬——ほんの一瞬——怯んだ、気がした。

その隙に、颯が私の腕を強く引く。

「離してよ」

「ありがとうくらい言えよ」

颯に抱きかかえられるようなこの体勢は、誠に深いこの上ないのだが。

「で? どう祓うの」

この形が一番動きやすいということだろうと結論付け、潔く諦める。

そうだ、そういえば颯はこういう人だった。どうして忘れていたんだろう。

「おおもとを祓わないと、意味なさそう。……やっぱこれかな」

まだ重い瞼を何とか開けて、黒い靄を凝視する。

私が奪われたことに気づき、機嫌が悪いようだ。唸り声を上げながら荒ぶっている。

「うるさいよ、君」

私のことを水龍に任せ、颯が一歩前に出る。

といっても宙に浮いているので、ただ浮遊しているだけなのだが。

「がウウウウウウ…………」

〝殺せ、殺す、殺さないと。この匂いの者は——〟

人の声が遠くに聞こえる。

どす黒く塗りつぶされた恨みの声が、気味悪いことに私の耳にだけ届いてくる。

胸が苦しい。

同情か、嫌悪か。胃の中のものが逆流しそうになって、どうにかそれを押しとどめた。

「はぁ~~~……久しぶりだなぁ、これ使うの」

かく言う颯は呑気そうにそう呟き、それから、空を突くかのように鋭く人差し指を掲げた。

「風神雷神」

呪文に呼応して、掲げた指の先に呪力の渦が現れる。

そしてそれは、真っ直ぐ呪霊へ向けられた。

悲鳴にもならない絶叫をあげながらのたうち回る、黒い靄を見つめる颯は、今までに見たことないほど冷めた目をしていた。

やがて、カタンという何かが落ちる音を最後に、風が止むと、そこに呪霊の姿はなく、微動だにしない颯がいるだけとなった。

「あのー……ハヤテサン?」

そーっと近づいて声を掛けると、颯は私の頭をはたいた。

「痛い! ひどい! 人でなし!」

普段は颯が叫んでそうな言葉が、すらすらと出てくる。やだな、私この人に似たくないな。

「来るなって言ったろうが!」

「だって助けないとと思って」

「光梨に助けられるほど衰えてないんだけど」

言葉の意味を消化するのにかかった時間は、約2秒。

「なっ、なっ、なっ……!」

あまりの言い方に、言い返すこともままならない。

「分かってるけどね⁈ 颯が強いことくらい! でも!」

「でも何さ⁉ 来るなって言ったんだから、守れよなぁ!」

そういう問題じゃなくてですね!

口をはくはくと数回動かし、大きくため息を吐く。なんかもう、何とも言えないや。

「まぁ退けただけだから、まだ油断はできないよね」

「倒してなかったんか」

思わずツッコミを入れてしまう。私、生まれも育ちも東京なのに。

「手応え無くてさ。固形物以外の物だと、イマイチ自信ないんだよね」

左手を閉じたり広げたりするのを繰り返しながら言う。

颯の呪法は、攻撃特化型のはず。

火力を重視しているから、建物が近くにある場所では本来の力を発揮できないのも、納得できる。

風神雷神も結構迷惑になると思うけれど。

そんなことはどうでもいい。

あれの言葉で一つ気になる点があるんだった。

「ねぇ颯、私ってどんな匂いすんの?」

「…………は?」

上から注がれる視線が痛い。

逃げるようにそそくさと家へ戻り、颯が窓を閉めたのを見計らって続ける。

「呪霊がさ、〝この匂いの者は一人残らず殺さないと〟って言ってて。普通だったら、〝この匂い〟なんて言い方しなくない?」

「たしかに。じゃあさっきのは、光梨が目的だったとは限らないね」

一歩先の推理を展開されて、大きく頷く。

「逆にきくけど、あれは誰が作ったものなんだろう」

「え? 呪霊って作れるもんなの?」

すると、メロンジュースを注いでいた颯が、こちらに向き直って言った。

「俺、あれが呪霊だなんて、一回も言ってないよ」

は、と吐息に近いような声で問う私を無視するような形で、続ける。

「あの黒い靄から放たれていた呪力は、あれ固有のものじゃなかった」

そこまでで区切り、ジュースのパックを置くと、私のことをビシッと指さす。

「光梨が持って帰ってきた呪力と同じだったんだよ」

「……………え、私?」

ていうか、私が持って帰ってきた呪力って何? 花粉みたいなものなの、呪力って。

「うーん、正確に言うと呪力本体を持って帰ってきたわけではないんだけど……。

なんていうのかな、こう……残り香、みたいな」

残り香……。そんな綺麗なものではないでしょ……。

「まだ毒が残ってるって言ってたでしょ」

「うん」

「たぶんそれだと思うんだよね。呪力も、匂いも」

「はぁ……」

つまり、匂いは呪力とほぼ同じ意味ということだろうか。いや、犬かよ。

「とはいえ、あの毒は二つの呪力が残ってたから、どっちがどっちかわかんないんだけど」

「あぁ、作ったのは洸和だけど、使ったのは斎希ってことか」

なんとなく読めてきた。となると、まさか。

「あれを作り出したのは洸和で、狙いは斎希だったってことも」

颯がジュースをぐびりと飲む。喉仏が動くさまが、やけにゆっくりと見えた気がした。

「ありえないことじゃない。……だから言ったんだよクソ」

珍しく(そこまで珍しくもないけど)颯が、苛立ちを露わにしている。

「ところで光梨」

「なに?」

打って変わって明るい口調で尋ねてくる。こわいこわい。

「これ、落ちてたんだけど、知ってる?」

そう言って颯がポケットから取り出したのは、重厚なつくりの懐中時計だった。

「いや、知らないけど……」

知らないけれど。

これは、とても大事なものだと、脳裏で告げる声がある。

これはとても大事なもので、かつ私が持っておくべきものだ、と。

「私が持ってても、いい?」

颯は少し驚いたような表情をすると、すぐにいつもの調子に戻って、それを私の方へと寄越した。

「はい」

ずしっと重みを感じる。

近くで見てみると、凄く精巧に作られていることが分かった。

それにしても重いな、この懐中時計……。

持ってると、やけに頭がふわふわしてくる感じがする。

あぁ、違う。

そんなものではなくて、もっとこう、身体の奥の芯が揺さぶられるような、そんな感覚。

引力、とでもいうのだろうか。

引きつけられて、惹きつけられて、自分の奥にある何かが抉り取られるような……。


「光梨」


はっと目が覚める。

颯が名前を呼んで、引き留めてくれたのだ。

そういえば、前にもこんなことがあった気がする。

「これは俺が持っとくよ」

颯が、私の手の上に鎮座している時計を取ろうとする。

「だめ」

しかし私の声が、それを阻んだ。

確証はない。根拠も、自信も、ない。だから断言もできない。

ただ、私の中の‘毒’が告げるのだ。

これは、あの二人のどちらかにとって、とても大切なものである、と。

「……そ」

意外にもあっさりと、颯はそれを私に返した。

「気を抜かないようにね」

そんな忠告だけをして、自室へと引き上げた。


 5


 ♢


あれがない。

あれは唯一の形見なのに。

あれは唯一の架橋なのに。

あれは唯一の————。


 ♢


私は此奴のことが嫌いだった。

いや、過去形にするのは間違っている。

ここは『嫌いである』に訂正すべきか。

しかし、私が此奴を嫌っているのに対した理由はなく、強いて挙げるとするならば、大した力もないのに【大罪】に名を連ねているからだろうか。

いや、首領のことを、未だ『教祖様』と呼んでいるのも気に食わない。

ここはgiftとは違うのに、何故それを引き摺るのだ。

といっても、位は私の方が高いわけで、だから別に、今までは此奴のことを大して考えていなかった。

そう、今までは。

私は此奴に、誠に不本意な形で、借りを作ってしまったのだ。

全力の恨みを込めた目で、私の一歩前を歩く幼子をねめつける。

嗚呼、憎らしい。

「どうしたの、空音?」

自分は人畜無害である、とでも言うかのような眼差しでこちらを見てくる。

本当に気色悪い。

「別に何でもないわよ」

全てを取り繕った笑みで、此奴の問いに答える。

私の嘘に気づく者はいない。

敵も、部下も、【大罪】も、或いは首領も。

だって私は、〝空音〟なのだから————――———。


結局、Σの確保は出来ず、先輩の方も封印に失敗したらしい。

先輩が失敗するのなんて、全然想像できないけれども、この人が人間であることを再確認できたようで、少し嬉しく思ってしまう自分がいる。

「今回取り逃がしたのは、呪霊Σと指定術師C635。両方、特級に相当する力を持っている。本部と連携して、今日、2021年11月25日より全国的に指名手配をすることが決定した。もし発見したものがいれば、直ちに秋庭まで連絡するように。以上解散」

「はい」

手際よく指示を出す先輩の後に、猛々しい声が続く。

本当に男臭い社会だ。ここも、術師界も。

そんなことはさておき、私が先ほど感じた疑問を早く伝えなくては。

「あの、先輩」

「どうした」

新しい任務が始まったせいか、以前よりも少しやつれた表情をしている。

「少し気になってことがあって……。私の気の所為かもしれないんですけど」

「前置きはいらない。手短に」

そう急かされて、まだ頭の中でまとまりきっていなかった考えを、どうにか言葉に落とし込んでいく。

「Σは不定型の呪霊、なんですよね」

「そうだが」

呪霊には二種類ある。

一つが定型呪霊。多くは人型をとるものを指すが、別に異形であっても固体であれば、それは定型に分類される。

もう一歩が、不定型呪霊。これは靄のような形状をとる、実体のない呪霊を指すことが多い。

Σは、高等呪霊には珍しく後者だった。

詳しいことはよく覚えていないが、それはあれ自身が、人の悪意を具現化したものであることに由来するのだろう。

「私には足音が聞こえたんです。C635の方には、何も違和感はありませんでしたか」

自分で言っていて、凄く馬鹿らしく思えてくる。

聞き間違いかもしれないのに。

「…………かった」

「え?」

口元に手を当てて深く考え込んでいるせいか、よく聞き取れない。

「目視できなかった。C635はずっと煙の中にいたんだと思っていた。でもそうじゃなくて、あぁ!」

先輩が大きく目を見開く。

そしてポケットからスマホを取り出して、どこかに電話をかけ始めた。


 ♢


うるさい。

嵐馬の飛ばしじゃない携帯からの着信音であるこの曲のことが、俺はあまり好きではない。

シューベルトは短命だし、題名は不穏だし。

なにがいいんだかさっぱり分からない。

でも、だからこそ、この電話は普段の3倍くらいの速度で応答する。

それがあいつの狙いなのかもしれない。

「なに。あ、わかったー。逃げられたんだー。だっさー」

「ださくて悪かったな。ところで訊くが」

「切り替え早すぎね?」

「犯罪組織内に、姿を隠したり、誤魔化したりできる術師はいたか?」

しばらくの間、沈黙が電波を支配する。

はて、そういう術師はいただろうか。少なくとも、俺の身近にはいなかった気がしないでもないが……。

「あぁ……!」

首領は言った。

〝人間の目を欺くなど、隠形するより容易い方法があるだろう〟と。

あの人がそんな初歩的な間違いをするはずがなかったのだ。

当時俺が知らなくても、今なら。

「いる。光を操る術師が」

「光を……。そういう……! すまん、切る」

「おい待て。おい!」

言うが早いか、すでにもう切られていたらしい。

待て、という声は嵐馬に届くことがなかった。人の話くらい、ちゃんと聞けよな。


光を操る術師。

少なくとも、俺は直接会ったことはない。

今も組織にいるかは不明だが、まぁ大抵の者はあそこから出ることはないだろう。

首領の言葉は、『そもそも目に映らなくしてしまえばいい』という意味だったのだ。

光を操る術師がいれば、錯覚を引き起こすなど、赤子の手をひねるよりも簡単だ。

でも、その術師が誰だったのか。

肝心の部分が思い出せない————。




誰……?

そこにいるのは。

そこで話しているのは。

その目に映っているのは。

誰……——————?



あのね、聞いてほしいことがあるの。

ずうっと隠していた、とても大事なこと。


おばあちゃんもね、斎希ちゃんと同じ〝眼〟を持ってるの。

若いころは大変だったわぁ……。周りからも、いろいろ言われて。

だからね。

おばあちゃん、斎希ちゃんが視えるって教えてくれたとき、少し怖かったの。

この娘も、わたしと同じ道を進んでしまうのかって。

だってほら、ひとりは寂しいでしょう?

でも斎希ちゃんは、おばあちゃんがいるからだいじょうぶ~って言ってくれたの。

覚えてるかな?

おばあちゃん、とっても嬉しかったのよ。

お母さんはこの力がなかったから、きっと信じてくれないだろうなって。

だから。

だからせめて、わたしくらいは。

わたしくらいは、この子のそばにいようって決めたの。


あらやだ。

伝えたいことはそんなことじゃないのよ。

信じられないかもしれないけど、聞いてちょうだい。


おばあちゃんの家、つまり神崎のおうちは、代々術師を輩出する家系なの。

分かりやすく言うと、魔女のお家ってところかしらね。

だから、おばあちゃんも斎希ちゃんも、悪い妖怪とかを祓うことができるの。


二十歳くらいの頃かしらね。

わたしが祓えなかった呪霊——あ、その悪い妖怪のことなんだけど、それが一人だけいたの。

名前は洸和。

人を喰らうことで力を蓄える、元人間の呪霊。

年齢も、性別も、容姿も分からない。

だってあれは、光を操るから。

だからわたしたちの目に映る洸和が、本当の洸和の姿とは限らないの。


なんで急にこんな話をしたのか、わからないわよね。

でもね、もう後がないと思って。

最近、神隠しが起きているでしょう?

あれは、あの時も起きたことなの。

きっと洸和が、また動き始めたんだと思う。

おばあちゃんが祓えなかったせいで、誰かが死ぬのは耐えられないわ。

どうせ老い先短いんだから、久しぶりにいってくるね。




斎希。

罪なき希望の子。

あなたを導くのが光であれ、と。

あのときわたしは、切に願った……——————。


     ー続ー

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