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数え唄、巡転  作者: さよ
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黎明・下


このメンバーで集まるときは、現地集合が基本だ。

みんな、住んでいる場所が異なるため、自動的にそうなることが多い。

今日もそうだった。目的地であるひばりヶ丘駅で、みんなと合流した。

「それにしても遅いな」

「そうだねぇ……」

「今日の担当もあの人でしたっけ?」

「あぁそうだ。あの人は遅刻癖はひどいからな……。もう車で行くのを諦めて徒歩で向かうか?」

「駅から遠いことを理解したうえで、それを言ってるんですか」

スーツを着た若い女性が、急に声をかけてくる。

顎のあたりで切りそろえられた髪は、染められているのか毛先だけが赤い。

「道路が混んでたんですよ。一五分くらいで遅いとか言わないでください」

監督と思しき女性の後を追って、階段を下りる。

そして駅のロータリーに停められている、一台の黒い車に乗った。

「シートベルト、着けましたね。現場に向かう途中で、任務の詳細について話しますから、しっかり聞いててください。あ、そう言えば初めまして。監督を務める、坂本由紀です。この保の担当になることが多いので、覚えてもらえると」

車の中で自己紹介をした後、けたたましいエンジン音を鳴らして、発車する。

助手席に座る実緒さんは、相変わらず足と腕を組んで窓の外を眺めていた。

「事の始まりは、八月一日。小学生の男の子が、マンションに併設されている公園で遊んでいたところ、行方が分からなくなりました。しかし、八月六日に、公園で発見されました。誘拐されていた時の記憶は曖昧で、あまり思い出せないようです。

八月七日。再度、誘拐事件が発生。二人目の被害者は、一般OL。一人目との共通項はなし、現場は被害者の自宅付近の道路です。その後、同月十日に発見。記憶は混濁し、聴取はあまりできませんでした。これ以降に関しては説明が面倒なので、この地図に印を付けてあります。確認しといてください」

赤信号になったのをいいことに、ポンと後ろに地図を投げる。

一番真ん中に座っていた私が、それを受け取り広げる。横からは竜樹さんと律が、前からは実緒さんが覗いてくる。

「場所もばらばらですね……」

律は基本的に、敬語を使うらしい。言ってることは辛辣で冷たいこともあるけれども。

「そう……だね、通達書の内容を見ても、被害者に共通点はないみたいだし」

「ちなみに、呪霊の仕業だと判断した証拠は?」

運転席にいる坂本さんに視線を向けて、実緒さんが問いかける。視線がどことなく挑発的な気がする。

「残滓が出たんですよ。共通する残滓が」

「確認を取ったのは、事件発生から何時間後だ?」

「四八時間以内です。間違いはないかと」

そうか、と呟いて、再び視線を外に向ける。そういえば私は、実緒さんのことを正面から見たのは少ない気がする。

「となると、調査はほとんど必要ないかもね。それに、次の事件がいつどこで起こるか、だいたいの予想がついてるんじゃない?」

竜樹さんが、坂田さんに確認する。しかし彼女の反応は、あまり芳しくなかった。

「場所については、分かりませんでした。日時は今日の夕方で間違いないと思いますが」

「じゃあ俺たちは、どこに向かっているんですか」

そうだそうだ、と竜樹さんも頷く。確かに、律の言う通りだ。場所が分からないのに、どこに向かっているのだろう。

「昨日発見された方の、ご自宅へ向かっています。この方も記憶は曖昧ですが、残滓などは感じられるかと」

その人は、ひばりヶ丘駅から約二〇分ぐらいのところにあるマンションに住んでいるらしい。

「あと五分くらいで着くと思います。それまではご自由に」

それなら寝てようかなと思った矢先、私の右の席から、ごそごそする音が聞こえた。竜樹さんが、カバンの中を探しているようだ。

「じゃじゃーん! 僕、UNO持ってきたんだー。みんなでやろうよ」

満面の笑みでUNOを掲げる。竜樹さんは、実緒さんに鋭く睨まれても、答えないらしい。私の左側に座る律から、盛大なため息が吐き出された。

「やけに、竜樹さんの鞄だけ重そうだったのは、その大量のカードゲームが原因だったんですね。てっきり色々な呪具を持ってきているものだと」

「呪具なんて、あの人たちが持たせてくれるわけないでしょ。ね、実緒もやろ」

「五分でUNOが終わると思ってんのか?」

「相変わらず、生意気ですね。運転している人のことを考えて、静かにしてて欲しいんですけど」

着きましたよ、という坂本さんの一言により、実緒さんと竜樹さんの睨み合いは停戦を迎えた。

駐車場に車を停め、完全に停止したのを確認して、律がドアを開ける。

「トランク、開けていいか」

全員が降りたところで、実緒さんが坂本さんに確認する。

坂本さんが頷いたのを確認して、実緒さんは荷物を取り出す。

その時にちらりと見えた、左手首を彩るブレスレットは、貝殻があしらわれていて可愛かった。

「相変わらず長いですね。どういう風に使ってるんですか」

「あ? そんなん簡単だよ。今度、稽古つけてやろうか?」

「お願いします。父に話は通しておくので、家の道場でも庭でも使ってください」

実緒さんは、背中に何か長いものを担ぐと、スタスタと歩き出した。すごく重いはずだろうけど、足取りが軽やかなせいか、あまり重くなさそうに見える。

「三〇六号室です。向かいましょう」

我先にと向かうみんなに一歩遅れて、私は駆け出した。

任務用の服はそれぞれ違うのに、後ろから見ると、どことなく調和がとれていて、面白かった。



三〇六号室は、暗かった。

まだ正午なのにカーテンは閉め切られ、空気がひどく濁っているようだった。

「どうぞ……」

「失礼します」

住人とは対照的な毅然とした態度で、坂本さんが中に入る。

そして窓まで歩み寄ると、勢いよくカーテンを開けた。

「ひっ! 閉めてください今すぐに」

「こんなに空気が澱んでたら、陰気になるのも必然でしょう。換気は一つのお祓いです。

みなさんも開けるのを手伝ってください」

手際よく窓を開ける姿に、呆気にとられる。呪術師には、強引な人が多いのかもしれない。脳裏を過る面影に手を振り、窓を開けるのを手伝う。

「光がぁ…………。うぅ、目が痛いぃぃ……」

名前を呼ばれたように感じて、少しビクッとする。なんだ、気のせいか。

「あ、律さん。網戸を閉めてください」

「すみません」

そんなこんなで換気を終え、住人の近くに正座する。

目の下には濃い隈が出来ているのに眼球は少し血走っており、姿勢の悪さも相まって不健康に見えさせる。被害者情報には、大学生と書かれていたのに。

「改めまして、坂本です。本日は捜査に協力していただき、ありがとうございます」

一五度くらいの軽い礼をする。みんなが頭を下げているのを見て、私も慌てて合わせた。

「いえ、あの、警察関係の方と伺っていたんですけど、その、こちらの学生の方はどうして……?」

実緒さんが、鬱陶しさを含む視線を浴びせかける。

住人は居た堪れなくなったのか、顔を下に向けた。

「相川さん、失礼ですよ。……こちらの四人は、我々が特別に捜査協力をお願いしている方たちです。どうぞお気になさらず」

ていうかちょっと待って、警察関係なんてデマじゃない⁇ 大丈夫なの⁇

「そう、ですか……。改めまして、灰田直哉です。それで、ご用件は……?」

「以前お伺いしたと思いますが、誘拐時の様子について尋ねたく、」

その瞬間、直哉の顔に怯えが走る。

「話すことなんてもう、なにもない! 出てけ!」

先ほどまでとは人が変わったように、声を荒げる。

すると、実緒が勢いよく立ち上がり、直哉の肩を揺さぶった。

「お前は!」

直哉がヒュッと息を呑む。構わず実緒は、続ける。

「自分の身に何が起きたのか、知りたくないのか⁈」

誰一人として、実緒を止める者はいない。

「怯えたままでいいのか⁈」

竜樹が、まくしたてる実緒を直哉から引き剝がす。

実緒は決まりが悪いのか、顔を背けながら正座をし直した。

「とは言っても、実緒の言うことは最もです。……あ、実緒ってのはコイツのことなんですけど。僕たちには、貴方しかいないんです。攫われた時のことを、教えてください」

竜樹が、言葉巧みに相手を乗せる。

すると、直哉が当時のことを話し始めた。

ポツリポツリと。記憶の断片を辿りながら。

「もう話したことです。八月二九日のことです。飲み会の帰りでした」

直哉の目をまっすぐ見て、続きを待つ。

「酔ってたせいか、あんまり記憶はありません。エレベーターを待ってたときのことでした。何かに足首を掴まれた感覚がして、そのまま引きずりこまれたんです。

そこからは覚えてません。気づいたら、もと居た場所にいました」

覚えてなくてすみません、と付け加える。信じてもらえませんよんね、とも。

「どうしてさっきは、取り乱したんですか」

律が問いを投げかける。

「? 取り乱してましたか?」

落ち着いた声で、訊き返される。

あれだけ怯えてたのに、異様なまでの雰囲気の変わり方だ。恐怖による、精神障害か何かだろうか。

律は何かを考えこむように髪をいじり、実緒さんは手のひらをグーパーしている。

一方、竜樹さんと坂本さんは、何かを確証しているかのように頷いていた。

これまでの話の中で、何に気づいたというのだろう。

直哉はなぜ、ここまで雰囲気が変わったのだろう。

なぜ、実緒さんは激昂したのだろう。

見てきた光景を、逆再生する。

直哉さんははじめ、すごく陰気な人だった。まるで黒い靄が纏わりついているような。

〝黒い靄が纏わりついているような〟?

自分の例えに違和感を覚える。出会った時のことをもう一度思い出し、事実確認を試みる。

なんで気付かなかったのだろう。

たぶん、この人は〝黒い靄が纏わりついていた〟んだ。呪力という、黒い靄が。

何かに取り憑かれたかのように怯えてたのも、実緒が肩を揺らした後に正気に戻ったことも、これで説明がつく。

あの一瞬で、実緒はあの人に憑いていた呪力を、祓ったのだ。

「こんな情報でいいんですか、本当に。なにか分かるんですか、あの時のこと」

「分かりましたよ。……あぁ、安心してください。僕たちが決着をつけてきますので」

そう言って、竜樹は颯爽とこの場を去った。

私たちも慌てて後を追ったが、痺れた足では上手く歩けなかった。


「場所だけがな……」

「同感です……」

辟易した様子で、二人は言う。

カフェで遅めの昼食をとりながらも、会話内容は暗いものだった。

「夕方ってあと三時間くらいだろ。どうすんだよマジで」

パスタに添えられている海老に、ぷつりとフォークを突き立てる。

「実緒、下品だよ。それに場所の特定は、できないことじゃない」

サンドウィッチを一口頬張ってから、続ける。

「あのとき実緒は、直哉さんに取り憑いていた呪力に触れたよね」

「?……あぁ、そういうこと」

そして何かに気づいたのか、サングラスの奥の目がきらりと光る。

一拍遅れて、律も反応した。取り残されたのは、私だけだ。

「同調か……!」


同調。

それは、他者の呪力を自らの身体に落とし込み、世の名に溢れている莫大な種類の呪力から、目的の一つを探り当てる技。

呪力を形として捉える力や、洗練された五感が要求される、難易度の高いものだ。

経験者は語る。一度できれば、何回でも出来る簡単なものだと。

たぶんどんな技でも、一回出来れば何回でも出来ると思うんだけど。

ていうか待って、この人たち同調出来るの⁈


「でも出来るんですか、同調なんて」

律が率直に問いかける。竜樹さんは、机に肘をついて考え込む。

「あ、実緒なら出来るんじゃない?」

パスタを美味しそうに頬張っている実緒に、水を向ける。

「は?」

「だってほら、実緒は呪力を形として視ることが出来るでしょ」

自分の左目を指さしながら、言う。実緒は左目をサングラス越しに手で覆うと、少し顔を歪めて応えた。

「視ることと視付けることは、違う」

「でも、この中で一番出来そうなのは実緒だよ」

「お前は〝あれ〟を呼び出せっていうのか」

「まぁそうなるね」

「諸刃の剣だぞ! これはそこまでの案件じゃない!」

「それを決めるのはお前じゃないだろ!」

双方が、バンと机を叩いて立ち上がる。

今まで、様子見に徹していた律が、仲裁に入る。

「実緒さん、竜樹さん。とりあえず座りましょう。他の方たちに迷惑です。ほら、実菜さんこちらを見てますよ」

言われてから気付く。確かに、他のお客さんがこちらを見ている。

別に私は、口喧嘩の主犯ではないけれど、申し訳なさで気持ちが一杯になる。

軽く頭を下げて、謝罪の意を見せると、お客さんたちは自分たちの会話に戻っていった。

「本当に情けない。どちらの言い分も分かりますけど、声を荒げるのは分かりません。

だいたい、七星まで困ってるじゃないですか。まずは仲間に、自分たちの呪法の説明をしたらどうです?」

「絶対に嫌だ」

先ほどまで喧嘩していたとは思えないくらいに、仲の良い返事が返される。

喧嘩するほど仲がいいとは、まさにこのことだろう。

「そんなん祓ってくうちに、分かんだろ。言うほどのことじゃない。というか明かす方が馬鹿だと思う」

「右に同じだね。呪法なんて、隠しといてなんぼだよ。奇襲攻撃だって出来る」

「仲間に攻撃したら階級が後退するって、この前言いましたよね?」

大人の出番だ、とばかりに坂田さんが声をかける。この人よりも、律のほうがしっかり者だと思うのは、私だけではないはずだ。一人だけデザートまで頼んでるし、ズルいと思う。

「お互いの呪法を知っていた方が、連携とか取りやすいでしょう。何のための『保』だと思ってるんですか」

「嫌だ、言いたくない」

「そうそう。とにかく、実緒。同調してね、場所探り当てるよ」

実緒は言い返すことをせず、無視をする。竜樹は盛大な溜息を吐き出すと、幼子に諭すように語りかけた。

「あのねぇ、実緒。あなたさ、本当のことを知りたくないのかって、直哉さんに言ったでしょ? 自分の言葉には責任を持てって、いつも言ってるだろ」

「誰が」

「俺が」

「お前がいつ、そんなことを言ったんだよ。今、初めて聞いたわ」

パスタの最後の一口を食べ、残っていた水を一気飲みする。

そして、それをゴクリと飲み下し、しばらく味の堪能したあと、言葉を紡いだ。

「……やってみるだけ、だからな。出来るとは限らない、いいな。

おい、竜樹。アクエリとコーヒー。分かってると思うけど、ブラックな」

「なんで僕なの、お金がありそうな律にしてよ」

「年下に奢らせるなんて、サイテーですね」

目すら見てくれない律のあしらい方に、珍しく竜樹もいじける。

「……ひどい」

「日頃の行いです。七星は何か飲みたいものある?」

「私は……自分で買いに行こうかなぁ~……。何があるか分からないし、見るのも楽しいから」

さりげなく竜樹さんの方を見る。めちゃくちゃありがたそうな顔してる。私は律みたいにならないようにしよう。

「坂田さん、ここら辺で人目に付きにくい場所はあるか?」

実緒が、水を足してきてくれた坂田さんに、問いかける。

坂田さんは、スマホをこちらに差し出して、説明した。

「向いてるのはここの林じゃないですか? 近くにコンビニもあるし」

「あなたまで僕の敵なんですね」

「じゃあ今から向かおう。陽があるうちに祓いたい」

いっそ清々しいほどの無反応を貫き、会話を強行させる。

「分かりました。車を回してきますので、店先で待っていてください」

駐車場へ向かう坂田さんを見送り、私たちも出る準備をする。

「七星、昼食あれだけで足りるの?」

「あー……うち、親がいないから、お兄ちゃんに負担をかけたくなくて」

ごめんね、嘘ついて。と、こっそり呟く。

あいつは私の兄じゃなくて、心配してくれている律の兄だし、たぶん収入も十分にある。

「そっか。でも任務の時は、昼食費とか出るから、たくさん食べなよ」

「……教えてくれてありがとう」

初耳なんですけど⁈ そんなの、教えてくれなかったじゃん!

帰宅したら、速効で問いただそう、うん。

「向かおうか。みんな、もう行ってる」

こんなに他人を思いやれる律の父親が、私たちの命を狙っているというのが、信じられなかった。


 8


お昼ご飯を食べたカフェから、車で一五分。辿り着いた先は、本当に都内なのか疑うような、広い林だった。

そして今、私たちはその中にいる。

「ここら辺かな。開けてるし、同調に向いてそうだ」

そう言うと、実緒さんはアクエリを一口飲む。

コーヒーはもう、飲み切っているらしく、握りつぶされたカップが、竜樹の手元にある。

「とりあえず、試してみる。んで呪霊の位置が分かったら、伝える。

もし、呑まれそうになったら、閉じ込めてくれ。頼んだ、竜樹」

竜樹さんは、その言葉に小さく頷くと、実緒さんからアクエリを受け取った。

神聖な儀式が始まる時のような緊張感が、漂う。

無意識のうちに襟を正し、姿勢を伸ばしていた。

「あと、こっち見んな」

思い出したかのように、付け加える。サングラスを取るところだったのか、手がテンプルにかかったままだ。

「別にいいじゃないですか。気にしすぎです」

「気にするだろ。見ても気分の良いじゃないし」

背負っていた呪具を開封しながら、実緒が言う。

中から現れたのは、身長よりも大きい薙刀だった。

サイズ感としては、颯よりも少し小さいぐらい、だいたい嵐馬さんの身長と同じような大きさだ。

「私の目を見た人間の反応は、大きく分けて二つ。気持ち悪いか、綺麗だ」

左目を隠すように垂らされた前髪を、搔き上げる。

そして、サングラスを取り払うと、再び前髪を下ろした。

「綺麗……」

一瞬だけ見えた目に対する、私の率直な感想は『綺麗』だった。

「いい加減、説明したらどうなんですか。〝あれ〟を顕現させたら、七星も巻き込まれるでしょう」

律が咎めるように言う。

観念したのか、盛大な溜息を吐いた実緒さんは、ポツリポツリと話し始めた。

「……私の目は、見て分かる通りオッドアイだ。まぁ、後天的なものだから、その言い方は正しくないかもしれないけど」

雲の流れを目で追ったまま、続ける。

「多くの呪術師は、この目のことを〝セキガン〟と呼ぶ。

こっちの黒い目では、呪霊も呪力も視えない。逆に左目は、呪霊と呪力しか視えない」

片方ずつ、指をさしながら言う。

そして再び、空に視線を戻すと、眩しそうに目を細めた。木が生い茂ってるから、光なんて届かないはずなのに。

「そして私は、自分の中に呪力を持たない。呪力は、このブレスレットから受け取っている。こういう大きい術を使う時は、本体を顕現させる」

手首から外したブレスレットを、くるくると器用に回す。

「本体って何ですか」

律が、余計なことを言うな、という視線を送ってくる。しょうがないじゃん、気になったんだもん。

「…………need not to know.」

「え?」

「知る必要の、ないことだ」

こちらをじっと見つめて、言い放つ。

実緒さんは、アクエリをもう一口飲むと、ブレスレットを左手首に嵌めなおした。

そして、こちらに向き直る。

「…………………」

瞼を閉じて、私たちには聞こえない、ささやかな声で何かを唱えた。

すると、実緒さんの背後に白い靄が発生し、纏わりつく。

呪霊……ではなさそうだ。何だろう。

禍々しくないと言ったら、嘘になる。でも、大きな波動は感じない。

穏やかな水面のような、薄く波立つ海面のような。

眉間に皺が寄るほど、深く瞼を閉じたあと、大きくその目を開いた。

手探りで呪具を取り、地面に突き立て身体を支える杖にする。

呼吸を忘れたように息を止め、ドライアイで目が閉じられなくなるのではないかと思うほど、見開き続ける。

「………いた」

喉に絡まったものを吐き出す、さながら呻くような声で絞り出す。

「北北東に五〇~一五〇m、たぶん四級くらいの低級呪霊」

「向かいましょう!」

林を駆け抜ける坂田さんにつられて、私たちも走る。

勢いよく車の扉を開けて中に乗り込むと、閉まっているかの確認もなく、そのままエンジンがかかった。


ナビの役目を実緒が担い、勢いのまま走行する。信号につかまると、坂田さんが舌打ちをする。

それもそうだろう。夕方に出る、というのは予想であって、確実なものではないのだから。

「三〇m先、左折! そのままずっと直進、気配が濃い!」

タイヤからすさまじい音が響くのを無視して、加速する。

アクション俳優さながらのハンドルさばきに、私は舌を巻く。

「ここだ!」

実緒が、車が止まったのを確認せずに飛び降りる。

私たちは後を追って、路地裏に入った。

「……景色が、変わらない」

歩っても歩っても、景色が変化しない。

「連れられたな。現に坂田さんの姿が、見えない」

注意深く視線を配っている、竜樹が言う。

「……おかしくないか」

先を歩いていた実緒さんが、確認するように振り返る。そして、返答を待たずに続ける。

「私が視たのは、四級だったんだ。空間形成なんて、出来るわけがないんだよ」

「そうですね。気配を巧妙に隠せていることからして、二級以上。空間形成という点から考えると、一級、あるいは特級の可能性も」

その言葉は、続かなかった。

「なに、してるのぉぉぉおおおお?」

耳障りな、声。

背後に感じる、気味悪い呪力。

竜樹さんと実緒さんが、私たちをかばうように敵の前に立つ。

実緒さんが薙刀を構える。律も腰を落とし、臨戦態勢を取る。

「じゃまぁぁああああ!」

その奇声を皮切りに、敵の攻撃が始まった。

呪力の塊を投げつけたり、拳を振り下ろしたりする、支離滅裂な攻撃が繰り出される。

それらを躱しながら、こちらも攻撃を加える。

「竜樹!」

呪霊の眉間に、薙刀を突き刺した実緒が、叫ぶ。

今まで戦うことに専念していて気付かなかったが、いつの間にか竜樹さんの姿が、見えなくなっている。

「律! 七星と一緒に竜樹を探せ! 見つけ次第逃げろ!」

突き刺さった薙刀を抜き、勢いよく着地する。

そして息をつく間もなく地面を蹴ると、呪霊の首を目掛けて飛んだ。

「じゃまああああぁぁぁあああ!」

呪霊は、水かきのようなものがついた手で実緒を掴み、遠くへ投げ飛ばす。

「あっち、いっちゃえぇぇぇえええ」

舌なめずりをして、こちらを見る。

目線を呪霊から逸らさずに、小さい声で律に問う。

「二人はどこに行ったの」

「さぁな。でも気配がしない。それに、食われたわけではなさそうだから、たぶん別空間にいる」

呪霊の足が律を目掛けて振り落とされる。

律は衝撃波に押され、受け身を取りながらも壁に背中をぶつけてしまった。

それが分岐点だった。

先ほどまで、肉体攻撃が中心だった律が、印を結んで攻撃の準備をする。

「出力最大……」

俯いていた律が、顔を上げる。その口には、不敵な笑みが添えられていた。

「炎々長蛇‼」

唱えた言葉の通りに、大きな蛇が躍り出た。


炎々長蛇。

五行操術・火ノ型において、奥義を除く究極技。

炎で出来た蛇が、使い手の思う通りに、あるいは蛇自身の意志で動くことで繰り出される、予測不能かつ強力な攻撃を得意とする。

しかしこの技は、術師の呪力を吸収することで動く。

そのため、長時間の使用や連続での発動は不可。術による跳ね返りもあり、使用後は数秒、空白が生まれることとなる。


「今だ、逃げろ! 竜樹さんと実緒さんを連れて、坂田さんの元へ!」

炎蛇が呪霊を拘束している間に、律が声を張り上げて言う。

「律はどうするの! 置いていけるわけ」

「俺のことはどうでもいい! コイツを祓う! 命に代えてでも‼」

呪霊が、炎蛇の拘束を解こうと藻掻く。

律が手首を捻り、炎蛇による締め付けを強くする。

呪霊の呻き声が、大きくなる。それに比例するように、律の呼吸が浅くなる。

「燃やせ!」

結ぶ印の形を変え、火力を増やす。

叫ぶ律の口元からは血が滴り落ち、くぐもった咳が溢れ出る。

「うぅぅぅううう……あああああぁぁぁぁああ」

一度は呪霊の動きを封じたものの、力ずくで呪縛を取り払われる。

炎蛇は律を目掛けて、一直線に空を駆けた。

「律!」

「か、はっ…………」

咳とともに血を吐き出し、地面に膝をつく。

慌てて律を拾い上げ、呪霊の視界に入らないところまで走り逃げた。

「律! いま止血するから。ねぇ死なないで、お願い」

建物の壁に背を立てかけた律が何か言おうと口を動かすが、それは辛うじて空気を微動させるだけで、言葉にはならない。

「なに、聞こえない、律」

口の近くに耳を持っていき、声を聞き取ろうと試みる。

〝炎々長蛇〟の反動か襲ってきからか、はたまた先ほど背中を打ったからか。

律の背中に回した右手に、生暖かいものが付着する。掌が赤く染まるのも構わずに、呪力を流し込み、止血と回復を促す。

「俺に、構う、な……。ここから、出るん、だ。い、ま…すぐ……に」

「ばかばかばか! 律のばか! このアンポンタン!」

小声で猛抗議をする。ほんとは肩もゆすりたいけど、怪我をしているのでぐっと堪える。

「…………五行操術・火ノ型、」

再び、炎々長蛇を繰り出そうとする律の口を左手で塞ぐ。

「!」

背後に呪霊の気配を感じ、急いで結界を張る。驚く律に、静かにしているよう、唇に指を押し当てる仕草をして、自らは結界の外に出る。

「お前の相手は、私だ!」

啖呵を切って、一気に間合いを詰める。

呪霊の腕が二本から四本に増える。攻撃の早さが、先ほどまでとは段違いに早い。

「よくも……よくもぉぉおおおお‼ ゆるさないゆるさないゆるさない! しねしねしねしね、みんなしんじゃえぇぇぇぇえええええええええ」

呪霊の長く大きい手と、光梨から放たれた呪力が衝突した。



遡ること数分。

実緒は誰もいない空間に来ていた。

「……気配を、感じない」

目視できる範囲に呪力は感じない。

眼前に広がる暗闇に目が馴染んできたところで、一歩足を進める。

左手に薙刀があることを、握りしめて確認する。大丈夫。何かあっても対応できる。

すると、途端に足元に穴が抜けたように下に落ちていった。着地する場所がどんなところかわからないため、受け身をとる姿勢に変える。

「どこまで落ちんだよ、これ」

永遠に続くのような落とし穴に、うんざりする。何なんだ、これ。

「実緒!」

切羽詰まった竜樹の声が、落ちるままに身を任す私の耳に届いた。

どこだ。あいつは今、どこにいる?

探れ。

受け身を取る姿勢から着地する体勢へと身を捩り、薙刀を地面に突き刺すよう、構えを取る。

「…………いた」

左に三〇m、五〇〇m以上は下だろう。

馴染んだ呪力の周辺に漂う、無数の禍々しい気配。

下に三〇〇mを切ったところで、横へ飛ぶために薙刀を右手で持ちながら大きく蹴り、竜樹のもとまで距離を詰める。

群がっていた呪霊を切りつけ着地する場所を確保し、竜樹と背中合わせに構える。

「遅かったねぇ」

「一番に戦線離脱した奴に言われる筋合いねぇよ」

竜樹が結んでいた印を解き、形を変えて組みなおす。

「数が多いのはやっかいだね、ほんと」

強くはないのに、やたら数が多いせいで、捌いても捌いても終わりが見えない。

「大本を、叩くしかないんだろうよっ!」

頬や腕から流れ出る赤いものには目もくれず、薙刀を振るい続ける。

「まぁ実緒も来てくれたことだし、攻撃は任せるね」

声にわずかな苛立ちを滲ませながら、呪霊の渦に身を投じていく。

竜樹のやろうとしていることを察し、薙刀の構え方を変えた。

これを好機と言わんばかりに、呪霊が全力で竜樹に襲い掛かかる。

しかし、呪霊たちは、竜樹に触れることが出来ない。周辺五㎝くらいのところで動きが止まる。

まるで壁でも、あるかのように。

「そうそう、それでいい。みんなもっと、こっちにおいで」

竜樹の唇の両端が、かすかに上がる。お前の方が、よっぽど呪霊みたいで怖いがな。

「かごめ かごめ」

呪霊の動きが止まる。しかし、竜樹の紡ぐ言葉はまだ続く。

いつにもましてやる気あんじゃん。さっきまで気だるげだったのに。

「かごのなかのとりは」

動く呪霊はもういない。それでもまだ、竜樹は言葉を続ける。

どことなく楽しそうにしながら、呪霊を言霊で縛り付ける。

「いついつでやる」

そこまで歌ったところで、竜樹を取り囲む空気が凍り付いた。

呪霊は石にでもなったかのように、固まっている。

しかし竜樹の術は、これで終わりではなかった。

「廓展延」

竜樹を中心とした半球が形成される。私は地を蹴り、結界を目指して駆ける。

「時花ノ唄・其捌、籠目」

完全に空間が隔絶される前に、籠目の内側に滑り込む。

「行こうか、〝ナオ〟」

呼びかけに応じる言葉はない。しかし私は、返事を待つこともなく、薙刀を天頂に突き刺した。柄から手を離さないように、右手で必死に握りしめる。

「祓え!」

〝ナオ〟の呪力が爆発する。

吹き荒れる爆風の中、落ちないように柄を固く握る。呪霊たちの最期の断末魔が煩い。

金切り声を上げるな、気色悪い。

耳を塞ぎたいのは山々だけど、今は手が離せないので堪えるしかない。不快だ、本当に。

しばらくして、断末魔が途絶えた。生き残りがいないか、呪霊の気配を確認する。

と、その途端、身体が浮く感覚がした。薙刀が手から離れていく。

まずい。世界が暗闇から、現実に戻り始めている。着地をしなければ、怪我をする。この高さなら受け身を取らないと、最悪——死ぬ。

でも、〝ナオ〟が戻ってきた衝動で、身体が安定しない。このままでは、着地も受け身も上手く取れない。

「実緒!」

竜樹が地上で、叫んでいる。解除された結界に刺さったままだった薙刀は、あいつが拾ってくれたらしい。

こちらに向かって手を伸ばしてくるが、届かない。

届かない?

違う。よく見ろ、あいつは手を伸ばしていない。あれは、呪力を放出するときの構えだ。

刹那。

落ちるスピードが、一気に遅くなった。

何かやわらかいものが、身体を包んでくれているかのような、そんな感覚。

周囲を見回すと、竜樹の結界がしゃぼん玉のように漂っている。

「……時花ノ唄・其参」

「しゃぼん玉。さすが、実緒。よく知ってるね」

着地できそうなところまでゆったり落下し、自然と膜が割れる。

「お前が愛用してるからな。誰だって嫌でも覚えるわ」

竜樹の手から薙刀を受け取り、背を受けて歩き始める。追いついた竜樹と一緒に、律たちのいる場所まで足を進める。

でも、数歩歩いたところで立ち止まり、私より少し先を歩く竜樹の背を見た。

どうしたの、と振り返る竜樹の目は見ず、そっぽを向きながら触角をいじる。

一体目の呪霊による攻撃で、サングラスを落としてしまったので、目を隠すものは何もない。

少し心許ないけど。あまり柄じゃないけど。

いま伝えないと。

「…………ありがと」

竜樹は大きく目を開いてから優しく微笑むと、こちらへ歩いてきた。

こんなに近くで顔を合わせるのは、いつぶりだろう。

私は女子の中でも身長が高い方なのに、竜樹の目を見ようとすると、若干見上げなくてはいけない。

中学に入学したばかりの頃は、対して身長差が無かったのに。

「んだよ」

近寄ってきたくせに何も言わない竜樹に、嫌気がさす。やっぱり、ありがとうなんて言わなきゃ良かった。

「………ちっちゃくなったなぁ、って」

「お前、ぶん殴んぞ」

私が小さくなったんじゃなくて、お前が大きくなったんだよ。バカ。

そんなことを思いながら、いつにも増して早歩きをする。

——置いて行かれるのは、いつだって私なのだから。


「馬鹿だね」

自分にも聞こえないくらいの声で、実緒を罵ることを言う。

人為的に引き起こされたわけではない、優しい風が一筋吹き抜ける。

馬鹿だね。

実緒はもう、相川実緒として生きていいんだよ——。


追いかけようと、竜樹が足を踏み出した時。

声を掛けようと、実緒がこちらを振り向いた時。

鼓膜を震わしたのは、衝撃波と爆発音だった。


「お前の相手は、私だ!」

間合いを一気に詰め、呪力を手に集中させる。

全身を強化するのはまだ上手くできないけれど、同時に二つまでならどうにかできる。今は手と足に、全てを懸けろ。

「ひゃはははははは! しんじゃえしんじゃえええええええええ!」

四つ腕になった呪霊が、今度は爪を使って攻撃してくる。

直接攻撃を受けなくても、斬撃までは躱しきれない。

攻撃に回していた呪力を、結界に回し、敵の攻撃を受け流す。

「あれぇぇぇぇぇえええ? いいのぉぉぉおおおおお?」

けたたましい笑い声を上げながら問うてくる。サイコパスの極みだろ、マジで。

「あっちのこ、しんじゃうよぉぉぉおお? かわいそぉぉぉおおおおおお!」

「律!」

律のもとに張った結界が、崩れかけている。律を庇いながら戦うのは、今の私には無理だ。できない。

「かんがえごとなんて、していいのかなぁぁぁああああ⁈」

今まで、IQ三くらいの知能だった呪霊が、達者に言葉を話し始めた。それに加え、攻撃のレパートリーも増えている。

「っ!」

耳が潰れそうなほどの爆音が、鳴り響く。

結界が強制的に壊されたのだと、気づいた時にはもう、遅かった。呪霊の鋭い爪が、私の首筋を目掛けて振り下ろされる。

「炎々長蛇ぁぁぁぁぁぁああああああああ‼」

光のような速さで、蛇が呪霊を拘束する。

「俺に構うな! もうこの技は使えない。頼みの綱はお前だけだ!」

「ひゃははははははは! これしかのうが、ないのかなぁぁぁぁあああ?」

呪霊の声に搔き消されながらも、律が負けじと叫び続ける。

「祓え! この呪霊を!」

「むりだよ、むりだよぉぉぉぉおおおおおお‼」

敵の焦点が、律に絞られる。私を見通して、遠くにいる律だけに攻撃する。

でも律は、きっと長くは持たない。

炎々長蛇の反動で、今も口から血を流している。

先ほどよりも速く強い炎蛇だけど、術師が倒れてしまえば意味がない。

私が祓わなければ。

考えろ。こいつの弱点を、私が勝つ方法を、律を助ける方法を!

「いいものもってんじゃぁぁぁああああああん‼︎」

皮一枚を犠牲に、なんとか攻撃を躱す。

数m後退しながらも、視線はひたと呪霊に据える。

「そのくびかざり、ほしいいぃぃぃいいいいい‼︎」

一気に距離を詰めてくると、私のネックレス狙って攻撃をしてくる。

庇う右腕には、何本もの赤い筋が刻まれる。

何か、引っかかる。でも、何が引っかかるのかわからない。

考えなくては。律が助かる方法を。


ーー……それを取るのは、誰かを助けたいときにしなさい。


攻撃の迫り来る中、思い出したのは颯の言葉だった。


ごめん、颯。


急いで律の元まで向かう。そして、ネックレスを引きちぎり、その装飾を上に向かって高く投げた。

「絶対にここから出ないで!」

律の返事を聞く前に結界から出て、呪霊に再度向き直る。

「とっちゃったのおおおおぉぉぉぉおおお?」

呪霊が嘆くように言う。

しかしそれを黙殺して、私は右手の掌を呪霊にかざした。呪力の塊が、呪霊を目掛けて飛びかかる。

「五行操術・炎ノ型、炎々長蛇」

律の呪法をコピーする。今度は、呪力の塊ではなく炎蛇が掌から顕現する。

律ほどの精度も、耐久時間も、速さも、ない。

それでも、呪霊を拘束するには十分だった。

炎蛇が呪霊を縛っている間に、私は槍を構える。

炎の槍だ。律の呪法の複写、及びそれの発展だ。

でも私は、跳躍する直前にそれを土の槍へと変化させた。

初め、この呪霊には水かきがついていたから。

炎よりも土の方が、効きがいいに違いない。

だってほら。

これを見た瞬間に、呪霊の顔が歪んだじゃないか。……顔と言えるかは、正直すごく微妙だけど。

「失せろ!」

的確に呪霊の眉間を刺す。

悲鳴のようなものを上げながら、呪霊は粉々に散っていった。

炎蛇を自分の手の内に戻し、律の方を振り返る。

律は驚愕に彩られた瞳で、こちらを見ていた。

「お前、まさか」

その続きは、聞こえなかった、

ただ結界が解けていくのを、空間が消えていくのを、落ちていく意識の中で捉えた。



「薄皮饅頭は買ったでしょ、エキソンパイもゲットしたし、あとはじゃんがらとままどおるかなぁ……」

腕時計と睨めっこしながら、この後の予定を立てる。

現在時刻、一六時一四分。仕事はもう終わったから、後はお土産を買って帰るだけだ。

光梨は一八時くらいに帰ってくるって言ってたし、まだまだゆっくりしてても大丈夫だろう。あ、でも早めに帰って夕飯の支度をしとくのも、ありかも。いつも任せてばっかじゃ悪いし、疲れてるだろうから、今日は俺がやるべきだよね。うんうん。

そういう風に結論付けて、足を一歩踏み出した時だった。

「うぉっ」

後ろから誰かに押されたかのように、前のめりになる。

すぐにバランスを整えて背後を確認するが、そこには誰もいない。誰も俺を気にしていない。

赤とんぼが一匹、俺の周りを旋回する。

人差し指を出してやると、すぐに俺の指先に止まり、赤い液体となって消えた。

まるで、人間の血のような。

しかし、その液体の痕跡は、瞬きをする間に消えてしまった。蒸発でもしたかのようだった。

胸に冷たいものが流れる。

これは凶兆だ。同じ光景を、あの時も視た。

思い出したくない、あの日の夜にも。

誰か大切な人の命が、危険に晒されている時に視える、禍々しい予知。

衝撃波。凶兆。方角は両方、南だった。

まさか。

「光梨……?」

ネックレスを取らざるを得ない状況に、陥ってしまったのか…………?


瞬きのあと、そこに颯の姿はなかった。


 9


なんなんだ今の音は。

脊髄反射で結界を張ったものの、すこし頭がぐらぐらする。

実緒は無事なのか。もし近くにいるなら、律と七星も。

「竜樹!」

高い位置で結わえられた髪を揺らして、実緒がこちらに駆けてくる。

よかった、無事で。安心した。……絶対に言ってやらないけど。

「さっきのは、呪力によるものだ! 二人の元へ向かおう!」

詳しい説明も、返事を聞くこともなしに、実緒が走り出す。

後を追うように、自分もそこそこのスピードで追いかける。そして、並立したところで、実緒が説明し始めた。

「あの衝撃波に、純度の高い七星の呪力が混じってた。ほんの少しだけど、律のも」

「純度の高いってどういうこと? 実緒の眼なら、どんな呪力も見通せるんじゃ」

「あいつの首元から、本人のものじゃない呪力が漂っていた。七星を守るように張り巡らされた呪力だ」

例えるなら、籠目のように。そう言う実緒の声は、脳を介さず通り抜けた。

籠目は、魔除けの意味を持つ。そしてあれは、強靭な結界術だ。

それが対個人に張られる目的は、ただ一つ。

「呪力の制限……」

となると、七星の本当の呪力は相当な量であるということだ。

そして、そんな七星相手に、気付かれないような結界を張った人間は、もっと強い術者だ。これだけの呪力量を持つ術師と、出会ったことがないくらいには。

これらの思考から導き出される結論は、まさか。

「『裂苛』が起きた可能性がある。律も危険だ」

きっと今、実緒の瞳に映っているのは、空高く立ち昇る炎のような呪力なのだ。



裂苛。

肉体と呪力の均衡が崩れた時に発生する、呪力の爆発現象。

呪力量が飛躍的に上昇する代わりに、爆発に巻き込まれれば自滅さえ有りうる。

しかし、裂苛の発生は潜在呪力量が多い証拠でもあり、これを堪え切れれば、呪術師としての成長も見込めるという利点もある。

〝目には目を、歯には歯を、呪力には呪力を〟という教訓に代表されるように、裂苛は

発生した呪力よりも強い呪力を用いなくては、原則抑えることが出来ない。


俺ではこいつを、抑えきれない——。

「お前、まさか」

神坂光梨なのか、と訊こうとした。

しかし言葉にする前に、七星の四肢が頽れる。

なんとか滑り込んで、怪我をしないように身体を支えるが、目覚める様子はない。

無理もないだろう。あれだけの動きをして、伝承術まで使ったのだから。

揺らさないように背負って、連れて帰ろう。詳しいことは、あとで本人に尋ねればいい。

そう思った時だった。

鼓膜を破るような爆音が轟いたのだ。

反射的に瞑った目を開くと、先ほどまで腕の中にいた彼女がいない。

状況が飲み込めないまま、七星の呪力を探り、どこにいるのか目星を付ける。

そして、そこを見遣ると、眠っているような穏やかな表情の彼女から、呪力が立ち昇っているのを認めた。

その呪力は立ち昇ることをやめたのか、今度は同心円状に広がり始める。

自分の元に届く前に急いで結界を張るが、それをも越えて、呪力は広がり続けている。

これは、裂苛だ。

この燃え盛る炎のような呪力を、抑え込めるまで終わらない。

結界はそのままに、呪力の波が届いていないところまで足早に向かう。

「封禁!」

不可侵の結界を張り、呪力や人の出入りを禁じる。

さらにその内側には、彼女自身の身体が呪力に焼き尽くされないように、薄い結界を張る。自分の実力では、この程度の強度が限界だ。応戦する余裕がない。

結界術も得意ではないから、いつまで保つか分からない。せめて、竜樹さんがいてくれれば。

「律!」

背後から二人分の声が重なって聞こえた。

「竜樹さん! 実緒さん!」

自分を取り囲むように張っていた結界を、一旦解除する。

少しだけ足元がふらつくけど、今は気にしている場合じゃない。

「大丈夫か、律。ここは私たちでどうにかする。竜樹、お前は結界を……」

「分かってる。この感じなら、きっとあれとあれと……うん、いけそう」

竜樹が胸元から呪符を取り出して、自分の両腕に貼り付ける。

「応戦は実緒と律に任せる。無茶はするな。律は翔さんに連絡」

「……ダメだ」

想像以上に聞き取りにくい、掠れた声で言う。

二人は臨戦態勢を取りつつ、驚きと焦りと怒りを混ぜた声で問い返した。

「理由は」

地に薙刀を突き刺したまま低い声を放つ実緒さんは、まるで不動明王のようだった。

眉間に深い皺が刻まれていて、ちょっと恐ろしい。

「言えない。不確定だから」

もし自分の予想通りに、彼女が神坂の末裔だとすると、父に連絡したほうが危険だ。

とはいえ、これは俺の直観に過ぎない。髪の色も、長さも、対象者の外見的特徴に当てはまっていないのだから。

「これを抑えきれるって言うのか。呪力は時間とともに増加してるんだぞ!」

「そんなこと分かってる!」

「分かってんならしっかり連絡しろよ!」

「まぁまぁまぁ」

見兼ねた竜樹さんが、宥めに入る。そんな竜樹さんのことを、実緒さんは厳しい目で睨みつけた。

「時間とともに増加してるなら、今すぐにでも消火活動しないと」

連絡はガチでヤバそうになったらでもよくない? 何事も挑戦だよ。

こんな状況にも関わらず、普段通りの飄々とした様子に少しの呆れと、少しの安堵を覚える。

「チッ…………誰か一人でもダウンしたら、即刻応援要請を出す」

この強さだと、最低でも準一級は欲しいな。

そう付け加えたあと、薙刀をくるくる回して構えた。

「廓展延。時花ノ唄・其玖、其参、其弐」

竜樹の柏手が鳴り響き、結界が三つ形成される。

「全呪力を解放することはできるか、律」

「問題なし………!」

二人分の呪力が、音を立てて解放された。

「クソが」

思わずそんな言葉が、口をついてでる。

なんなんだ、この、底の見えない呪力量は。

これだけ放出されているというのに、燃え尽きる気配が一向にない。

それどころか、噴水のように溢れてきている。

竜樹の張った結界によって、数千程度に纏められた呪力の塊を、虱潰しに破壊していく。

日が暮れる、いやもう暮れてるんだけど、終わる頃には朝になっていそうだ。

潰しても潰しても、またすぐに新しい呪力の塊が湧いてくる。キリがない。

律の方を見てみると、肩で呼吸をしながらも、呪力を呪力で打ち消して応戦している。

「痛っ」

少し目線を逸らした隙に、身体のあちこちに擦り傷が付く。

まずい。竜樹の結界が弱まってきている。

「竜樹! まだいけるか⁈」

薙刀と〝ナオ〟の両方で応戦しながら、後方に控えている竜樹に向かって叫ぶ。

「うん……だいじょ、ぶ」

たぶん絶対、大丈夫じゃない。

私が信用していないものの一つに、竜樹の『大丈夫』がある。

あいつの言う『大丈夫』の意味は、『俺に構うな』だ。

そんなこと、誰が信じると思ってんだ、ホント。まぁ、竜樹の事情を考えると致し方ないのかもしれないけど。

せめて、私の前でだけは、『つらい』とか言ってくれればいいのに。

もっと、心に素直に、生きればいいのに。

私の思考は、そこで中断された。

何かが倒れる音とともに、呪力が一つ、消えた。

この呪力は、きっと。

「律!」

襲い掛かってくる呪力を切りつけ、律のいる方へ足を向ける。

律はきっと生身だ。放っておいたら、この強力な呪力に充てられて、最悪の場合、死ぬ。

今すぐ結界を、

「〝動くな〟!」

竜樹の声が、私の足に根を生やす。言葉の通り、動けない。

「この中で戦えるのは、お前だけなんだよ!」

今まで抑制されていた竜樹の呪力が、全て解放される。

口の端から、赤いものが滴るのに、彼は気付いているのだろうか。

「俺にできるのは、後方援護だけだ。これくらいしか、力になれない」

そこらじゅうが呪力の塊によって埋め尽くされている前線へ、竜樹が歩いてくる。

「だからせめて、それくらいはさせてほしい」

技を使い、律を自分のもとに引き寄せ、結界の内に招き入れる。

そして今度は、私の方へ歩いてくると、背中をとん、と優しく叩いた。

「応援を、呼ぶ。それまで耐えてくれ」

いつの間にか、足が自由を取り戻していた。

本当に、気に食わない。カッコつけやがって。

「……分かったよ。善処する」

出てきていいよ。

自分の中に巣食う、もう一つの魂に語りかける。

自分が自分じゃなくなるような、そんな感覚。

まだ慣れない、〝ナオ〟という人格。

「一分だ。一分経って、〝私〟が戻ってこなかったら。そのときは」

「何の話を、してるのかな」

頭上から、知らない男の声が降ってきた。黒い服に、たくさんのレジ袋というアンバランスさが何とも言えない。サングラスで目元を隠しているため、その表情は伺うことが出来ず、底知れない恐怖を抱く。

「誰だ、お前」

声が震えないようになんとか取り繕って、問いかける。

竜樹が、最も得意としている呪法である《廓展延 時花ノ唄》によって、巧妙に隠され、閉じられていた空間を突き破ってきた。

何者?

喉までせりあがっきていた〝ナオ〟を飲み下し、目を凝らして呪力を確認する。

律に近いが、それよりも、ずっとずっと強い呪力。

恐らく、『裂苛』の経験者。

「もしかして君たち、俺のこと知らないの?」

ウソでしょ待って、ショックすぎるんだけど。まーでもそうだよね、俺が追放されたの十年くらいまえのことでしょ。そのころの君たちなんて、まだ仮面ライダー観たりPS二で遊んだりする年頃だもん、知らなくて当然だよね。うんうん。

一気にまくし立て、頷いたりしているあたり、学校での竜樹を三〇倍くらい胡散臭くした性格であることがわかった。ところで、なんなんだこの男は。

「まぁ俺が誰かなんて、なんだっていいでしょ。知らない方がいいこともあるんだよ」

「お帰り下さい。今は、貴方の相手をしている余裕はありません」

慇懃な態度で、竜樹が言う。

しかし男は、ボロボロな竜樹の言葉には耳も貸さず、宙からまっすぐ降りてきた。

「きみたち、自分の力を使いこなせていないよね」

すたすたと歩いてきて、私の横に並ぶと、自分の反対側にいる竜樹へ水を向ける。

「そっちのきみは、自分の呪法を自覚していない。律は、とにかく呪力のロスが多い。

隣のきみは、飼ってる霊の手綱を握り切れていない」

自分に向けて言われた指摘が、あまりにも的を得ていて何も言い返せない。

本当に何者なんだ、こいつ。なんで律の名前だけ、知ったんだ?

「そして七星は、未熟すぎる」

小さく舌打ちをすると、男はズボンのポケットから手甲を取り出して、両手に嵌めた。

「この結界、解いてくれるかな。すっごくやりにくい」

ツンツンと塊をつついて言う。竜樹は、男の言葉通りに結界を解いた。

途端に、熱風が吹き荒れる。なんとか後方に飛び退って、竜樹の結界に入る。

「邪魔、しないでよ」

男はこちらを振り返りもせずにそれだけを言うと、光のように眩しく、炎のように熱い呪力に左手をかざした。

すると、七星の身体があるところまで一直線に、道が拓かれる。

「なっ」

思わず、そんな声が漏れた。あれだけ苦戦を強いられていたのに、なぜ。

まるで、呪力自体がこの男に操られているかのように、動いている。

そして男は、道を真っすぐに進み、七星を取り囲む結界に触れた。

跡形もなく霧散していく結界に、名残惜しさを感じる暇さえない。

「起きて」

ポケットに手を突っ込んだまま、男は七星に声をかける。

しかし反応はなく、起きる気配は微塵もない。

「起きて」

もう一度、声をかける。

今度はしゃがみ込んで、顔を覗き込みながら。

しかし、まだ目覚めない。身じろぎをしただけだ。

「起きろよ、……」

こちらに聞こえないように、七星の耳元に口を近づけて言った。




  ♢


声が、聞こえる。

誰かが、何かを言っている。

海底にいるかのように、身体が重い。


声が、聞こえる。

誰かが、私を呼んでいる。

深海にいるかのように、耳が塞がる。


声が、聞こえる。

この声は、誰のもの?


光梨。


私をそう呼ぶのは、誰……————。


 ♢

「ん、ん〜…………」

身体を起こして、ぺちぺちと、頬を優しく叩く。すると七星は、がばっと起き上がって叫んだ。

「叩くな! てかなんでいるんだよお前!」

勢いのままに立ちあがろうとして、足がもつれる。

倒れそうになったところを、男に支えてもらい、なんとか堪える。

七星がすごく不快そうな顔をしているのは、なぜだろう。

「かわいいかわいい妹のために、お兄ちゃんが仕事終わらせてきてあげたのに……。そんな言い方なくない?」

「思ってもないこと言うな」

でも、助けてもらったのは事実なので、さっきほどの威勢の良さはない。

「ということで、俺たちは帰るから。後始末よろしく。あ、ついでに律も送り届けてくるから貸して」

七星の首根っこを掴みながら、手招きをする。

不承不承、竜樹が律を引き渡す。

「ちなみにこの任務は、誰から命じられた」

声に少しの怒気を滲ませて、男は問う。

体力が尽きかけている竜樹に代わり、私が答えた。

「普通に連盟本部から。四級相当の呪力を感じたから向かってきたら、なぜか特級がいた」

目線を逸らさずに、男を睨みながら言う。

本当に、律を預けても良かったのだろうか。

「あいつか、いやでも……まぁいい。分かった。俺から伝えておく」

言うや否や、来る時に結界に開けた穴を通って、現実世界へ戻っていった。

「……竜樹?」

嵐のような人だったなと、彼の軌跡を見つめる。重力を操る呪法だろうか。どうやって飛んでいるんだろう。

「………………だ」

「なんて?」

真っ白な顔をして、指を指す。穴を指す指は、小刻みに震えている。

普段と違う様子に、竜樹の方を掻き抱く。熱があるのかもしれない。

「五行颯だ」

先程まで呪力を酷使していたせいか、竜樹が膝から崩れ落ちる。

それと同時に、用無しとなったこの空間がはらはらと散っていく。

「五行颯って……」

そんなこと、ありえないだろ。だってあいつは、故人だぞ。

そう一蹴しようとして、思いとどまる。

だって、彼が五行颯だとすると、今まで不可解だったことが全て解決されるのだから。

特徴的な白髪も、真っ黒いサングラスも、律だけ連れて帰ったことも。

考えれば考えるほど、あの男が本当に五行颯な気がしてならない。

「とりあえず、帰ろう。今日はゆっくり休んで、明日に備えよう。学校があるんだから。ご飯はそこら辺で買っていけばいいから」

薙刀を収納していた袋は、どっかにいってしまったようだ。

普段あまり使わない言霊を使った竜樹は、反動で咳と共に血を吐き出している。

ポケットからハンカチを取り出して、差し出すと、しばらく躊躇ったあとで、竜樹はそれを受け取った。別に気にしなくていいのに。

「坂田さんを探そう」

スマホで電話をかけると、開口一番怒鳴り声がしたが、それもまた安心材料になった。

激しい戦闘によるものか、スマホのフィルムは割れてしまっていた。

鴉が一羽、天高く飛び上がった。


 10


五行邸ってどこにあったっけなぁ………。渋谷だっけ? 方角わかんないよどうしよう。

うーんうーんと唸りながら、二人の様子を見る。

光梨は特になんともなさそうだし、ただ眠ってるだけだ。

問題は律の方だろう。至る所から血が出ている。

特級クラスの呪霊と戦って、そのあと光梨の相手もしたわけだから仕方ないっちゃ仕方ないけど。この感じだと、炎々長蛇を二回連続で使ってるよね、バカなのかな。

「あ、あった」

生家の近くに着地して、律を抱きかかえる。

「ひーかーりー、おーきーて」

「なに?」

不愉快極まれり、という表情でこちらを見返してくる。なんで俺への態度は絶対零度なのよ。

「律を送り届けてくるから、そこら辺で待っててくれない? あそこのコンビニとか。ついでに夕飯買っておいてよ。はい、これお金」

光梨の右手に、無理矢理お札を握らす。

あとで迎えにいくよ〜、と手を振りながら、俺は屋敷へ足を向けた。

五行翔は、縁側にいた。

庭にある小さな池を、じっと見つめていた。

懐かしい光景を、鮮明に思い出す。

あの頃は、幸せだった。

そう思うのは、私の歳ゆえだろうか。

「なぁ、どう思う」

誰もいない中空に問う。

しかし、それに応じる声があった。

「なにが」

一人の男が、庭先をふわふわと浮いている。

彼は、ゆるやかな風を纏っていた。

「私も歳かな、と思って」

自分が死刑を命じた男を前にしても、翔は座ったままだ。

ただ今は、再会できたことが嬉しい。

「そりゃそうだろ。もう還暦も近いんだから」

「ひどいな。まだ五〇代だ」

着物の袖を翻して、立ち上がる。

そして、男の方へ向き直った。

「律を、返してくれるかな」

たくさんの傷を負った我が子へ、組んでいた腕を解き、手を伸ばす。

これだから呪術師は————。

「こうなった原因を、お前は知っているのか」

自分によく似た顔に、隠しきれない怒りが滲む。

行き場を無くした手を、再び組み直し、普段と変わらない口調で答えた。

「知らないよ」

残滓からなんとなく察したが、嘘はついていない。

その証拠に、男は視線の中から疑いを消した。

「――そうか」

「四級討伐だと聞いていたんだけどね。ところで、あの子はいま、どこにいるんだい?」

それとなく尋ねる。

「さぁな。ていうかまず、我が子の躾をしっかりやれ。ある程度は治したけど、少し熱がある。ちゃんと休ませろ」

存外にも優しい手つきで、律の身体を縁側に横たわらせた。

「いつまで経っても、手のかかる弟だな……」

男は律の額を軽く弾くと、高度を上げて飛び立った。

瞬きひとつの間に、影も見えなくなってしまった。

「いつまで経っても手がかかるのは、お前の方だよ」

颯。

お前はいま、何のために術師をやっているんだ―———。


「んん」

律の呻き声が聞こえる。まさか、さっきのデコピンのせいか。

「律、しっかり」

とりあえず水を取ってこないと。あああどうしよう、台所まで距離がある。

「おとうさん…………にいちゃ、ん…」

その言葉を聞いて、無意識に目を丸くする。

お父さんと呼ばれたのは、いつぶりだろう。

自分のせいでこの子を、大人にさせてしまった。

その責任は、後悔は。消えることなく、今も自分の奥底で眠っている。

まるで、思い出してもらうのを待っているかのように。

「ごめんな」

口から溢れてしまった懺悔は、自分だけが知っている絶望の具現だった。

夕焼けと夜は、混じって黒く染まっていった。


「とりあえずお土産です」

「ありがとうございます」

「それで? なんでブレスレットを取ったんですか」

「颯と約束したんでしょ? 取ったのには、理由があるはずだよね」

あれから二日後の朝、私は目を覚ました。

眠っている間は、暖かく深い海にでもいたかのように、穏やかだった。

しかし状況は、あまりよろしくなかったらしく、私は二人にこってりと絞られていた。

まぁそりゃ、起きたときは喜んでくれましたし? 目を覚ましてくれて良かったって、妹さながらに抱きしめられましたけど? でもこの般若のような笑顔は、割に合わないでしょ。もっとこうさ、なんかないわけ。正座までさせちゃってさ。文明の波に乗ろうよ、もっと。

「えーっとですね」

「はい」

冷や汗がタラリ、と背中を伝う。だから怖いって。

「四級だと思って現場に行ったら、特級がいたんですよ」

「それは知ってる」

颯が冷たい口調で言う。

「それで、律じゃ太刀打ちできなかったから取ったの」

「付けたままでも応戦できただろ!」

「私だってね! 初めはそうしてましたよ、ええそうですとも。

でも! それだと! 庇いながら戦うのは無理だったの! それに私の呪法、使い方あんまりわかんないし」

「もう二人いただろ! その二人は何してたんだ!」

「どっか行っちゃってたの! わかる⁈ 取らざるを得なかったわけ!」

そこまで言い切って、息を吐き出す。なんか、疲れたんですけど。

「ねぇ、颯。どういうこと。ちょっとそこに、正座しなさい」

腰痛が〜とか言って、ソファに座っていた颯を、嵐馬さんが正座させる。

ブツブツと文句を言いながらも、私の隣に正座をして、嵐馬さんを見上げる。

「嵐馬、クマ酷いよ」

火に油を注ぐって言葉、知ってるのかなぁぁぁあ‼︎ 言っちゃダメでしょ、それは‼︎

「誰のせいだと思ってるのかな、颯」

もしこれが漫画だったら、ここにはゴゴゴゴという擬態語が入ったことだろう。

嵐馬さんは、組んでいた脚を解き前のめりになって続けた。

「そもそも颯。光梨ちゃんが、呪力のコントロールが未熟なことを知った上で送り出したってことなの? 保護者として、責任感が欠けてるんじゃないか」

「そうだそうだ」

「君にも責任はあるけどね」

ここぞとばかりに野次を飛ばしたのに、嵐馬さんに一蹴された。

おい颯、お前は嬉しそうにするな。

「だってほら、実戦を繰り返すうちに身につくかなーって。光梨も外に出たがってたし」

「え、私? いやまぁ出たかったけども」

大人げない。ここは『俺が悪うござまいました。どうか、光梨のことは見逃してください、嵐馬さま』とかじゃないわけ? そこに愛はないんか。

「二人とも往生際が悪いよ。とにかく颯は、もう一回しっかりと稽古をつけること。しばらくリハビリで外に出られないから、その間にちゃんと身につけさせてよ」

「はい。すみません」

颯が珍しく、しんみりしてる。私は内心、大爆笑してるけども、それを顔に出さないようにどうにか堪える。

「光梨ちゃんは、しっかり自分の身の上を仲間に説明しなさい。一緒にいると、他の子たちも共犯を疑われかねない。たぶんもう、律は君の正体に気づいている。ちゃんと謝って、それでも一緒に戦っていいか尋ねるんだ」

「はい。すみません」

颯がニヤニヤしてる気がするけど、気づかなかったふりをして謝る。あとで覚えとけよ。

「はい! この話はおしまい! ご飯食べよう。お腹空いたでしょ?」

辛気臭い空気を一掃するように、嵐馬さんが手を叩く。

そして、ご飯を炊きくためにキッチンへ向かった。

「ねぇ、さっき笑ったよね」

「いやだって、おかしくってー。素直に謝ってるーみたいな」

「おのれ颯、この」

拳を振り上げたところで、スマホの着信音が響いた。

「あ、私のだ」

机の上で光っているスマホを手に取り、メッセージを確認する。

「ナイスタイミング」

「覗くな変態」

「サイテー。お兄ちゃんのために節約してくれてるんじゃなかったの」

「誰がお兄ちゃんだ、てゆーか何でそれ知ってんの」

こっっっわ。気持ち悪いんだけど。

さりげなく足を後ろに引いて、距離を取る。

「……九月二〇日、出かける」

律たちに、呼ばれた。

言外にその意味を匂わせて告げる。颯は、一度だけ深く頷くと、リビングへ大股で歩いていった。

時間が経つのは早く、気がつけば二〇日になっていた。

これがみんなと会う、最後になるのかもしれないと考えると、少しだけ寂しいような、大して何も感じないような、そんな気持ちになる。

奇しくも、今回の待ち合わせも、初めて出会ったときと同じだった。

「実緒さん」

心なしか、周囲の人が避けているように見える。

まぁ、スタイルはモデルみたいだし、雰囲気は殺伐としてるしで、すごく怖いのはわかるけど! でも! この人は‼︎ ツンデレ属性で可愛いのよっ!

実緒さん限界ヲタクが、内心で強烈に発狂する。落ち着け、私。気づかれたら死。

「向かうぞ」

ポニーテールの毛先を翻して、駅から近くのカラオケへと歩き出した。


もはや無の境地に達するのではないかというほど、お互い口を開かなかった。

正直こちらとしては、話す方が気まずいからありがたいんだけど。

「入ってもいいか」

実緒さんは、二回のノックをしたのちに、中へ声をかけた。

どんな表情をして、顔を合わせればいいんだろう。きっとみんなは、私の正体に気づいている。もう『今井七星』ではいられない。

「いらっしゃい」

竜樹さんが、内側から扉を開けて手招きする。

「来てたんだ」

背後のその少し上から、声が降ってきた。

飲み物を取りに行っていた律が、ちょうど戻ってきたらしい。

「ちょうどいま、着いたとこだ。……コーヒーにミルクが入っていない」

「今日はミルクの気分だったんですか⁈ 分かりにくいですね、ほんと!」

いいですよ、これは俺が飲むので。

不貞腐れながら一口啜ったところで、律は激しく咳き込んだ。

「にっっが。誰がこんなもの飲むんですか、すみません水とってきます」

つい先ほど中に入ったばかりにも関わらず、大急ぎで扉を開ける。

「子どもか」

「間違いない」

大きく頷く竜樹さんに、笑いが溢れる。

「とりあえず座りなよ」

勧められるがままに、カラオケルームのソファに腰掛ける。

カラオケで遊んだのなんて、どれだけ昔のことだろう。

何も知らずに生きていた自分が、少し羨ましくも、悔しくもある。

「お待たせしました」

水とガムシロを取ってきた律が、軽く頭を下げて声をかける。

似てない兄弟だなと思っていたが、甘党な素質は受け継がれているらしい。

「とりあえず。この前の任務の報告書、書いておいたので。確認お願いします」

体調も悪かっただろうに、やらせてしまって申し訳ない。

ていうかこういうことをするってのを、事前に教えてくれよ颯。お前ほんと仕事しないよな。そのくせ金だけはあるよな。

「ありがとう。ごめんね、やらせちゃって」

一番迷惑をかけたのは、たぶん絶対私なのに、申し訳なさすぎる。

「あんま気にしなくていいと思うよ。律はそういうの、好きだから」

「そうそう。学校のノートとかも女子顔負けレベルだぞ」

「ノートの綺麗さに、女子も男子も関係ありません」

水をガブ飲みしたコップに、片手いっぱい分のガムシロを投入する。見ただけで胃もたれしてきそう。

「とっとと確認してください。はい、ここにサイン」

準備万端な律が、いつの間にか手に持っていたペンを差し出してくる。

「ありがとう」

最後に記入したのは、私らしかった。他の二人分の名前は、律の丁寧な字でかかれている。

よく見ると、記入欄には何回も書き直した跡があった。

私はしばらく迷ったあと、勢いに任せて名前を書き、律に差し出した。

「本当にその名前でいいのか」

律が、驚きを隠しもせず言う。

それもそのはず。だって私は、『神坂光梨』とサインしたのだから。

「うん。だって」

三人の目を、しっかり見つめて言う。

「背中を預け合う仲間なんでしょ?」

律が名前を書けなかったのは、どっちを選ぶべきか分からなかったからだ。

神坂光梨の存在を知ってしまった以上、立場的に無視することはできなかった。

だから彼は、私に委ねた。

だから私は、彼に応えた。

「隠していて、ごめんなさい」

私の身に起きた〝あれ〟を鎮めたのは、颯だった。

私の正体がバレるくらいの裂苛だ。颯だって、それなりどころでは済まされない呪力を使ったらしかった。その証拠に彼は、嵐馬さんにしっかり怒られていた。

「……五行颯。現代最強と謳われる呪術師」

遠い目をして話す竜樹さんと同じような瞳で、実緒さんが話し始めた。

「初めて会った時にはすでに、気づいていた。お前のネックレスから、違う人間の呪力が出ていると」

実緒さんが、自分のブレスレットに手を当てる。

「でも、七星はそれに気づいていなかった。あとから分かったよ。呪力は結界を張るためのものだったって」

自嘲気味に言い放った彼女は、ミルク入りのコーヒーを一口飲んだ。

「あの日、男から視えたのと、全く同じものだった。そして、その男こそが、五行颯だったんだ」

そして、律の方へ顔を向ける。端正な横顔に、照明の影が映りこむ。

「あなたは、どうしたいんですか」

律が、私に向かって問いかけた。

颯と律は、よく見るとそっくりだ。

甘いものが好きなところも、時たま辛辣なところも。

見た目は真逆だけど、どことなく雰囲気は似ている気がする。

光の反射で、律の瞳が碧く光った気がした。

私は知っている。この瞳を持つ人を。

「私は……」

ここにいると、迷惑がかかる。みんなも何かの罪に問われることは、免れない。

「私は」

ここにいない方がいいのに、言葉が出てこない。

だってそれは、あまりにもここが幸せだから。

あまりにも幸せだから、手放すことを惜しく思ってしまう。

「あなたは、どうしたいんですか」

再び、律が問う。

急かすわけではなく、気持ちを静めさせるために。

「私は……、」

息に音が乗ることはなく、感情は昇華され、消えていく。

悪夢も幸せも、いつかは消えると知っている。

『あなたは、どうしたいんですか』

私は、神坂光梨は。

「みんなと、一緒にいたいよ……」

隣の部屋からの音漏れが、無情にも流れ続けている。

ただの我儘を言ってしまったと、思った。迷惑になる、とも。

「そっか」

竜樹さんが椅子を立ち、私の前で立ち止まる。

「じゃあ、一緒にいよう」

隣で実緒さんが、小さく笑った。

「そうだな。一回でも一緒に戦ったんだから」

なぁ、律。

微笑をたたえた顔で、実緒は言った。律はガムシロを飲み干してから、告げる。

「怒られるのは、俺ですね」

と、そこで私のスマホが鳴った。

あのバカ。いい雰囲気を壊してまで、話すことなんかないだろ。

そう思ったが、あれは何回でも掛け直してくる奴だと思い出す。自分は出ないくせに。

「ごめん、颯から」

席をはずそうとして、実緒に引き止められる。

「ビデオ通話だろ、それ。一応、お礼くらいしておかないと」

律儀な実緒さんの命を受け、私はその場で出ることにした。

軽く鼻をすすって気持ちを抑える。気を抜いたら、視界が滲みそうだから。

『やっほ~、諸君! 元気にしてるかい?』

「うるさい。早く終わらせて」

音量を小さくして、スマホ自体も遠ざける。

『ねーひどくない? てか光梨の顔しか見えないんだけど』

「すいませんでした! 映せばいいんでしょ!」

もっと内側に入るよう、みんなに手招きする。

竜樹さんと実緒さんが、靴を脱いでソファの上に立つ。よし、これなら入る。

『おー、見える見える。律もっと光梨の方に寄りなよ。ほら、立ってる二人みたいに仲良くして』

「仲良くない!」

『え~ウケる。声ハモってんじゃん』

「なんでもいいから! 要件を言え、このアラサー‼」

バンと机を叩き、そこら辺にあったコップを手に取る。次、余計なこと言ったら水ぶっかけてやる。

『アラッ…この期に及んでそんなこと言うなんて……。あのとき光梨を助けたのは誰だと思って』

「あーもういい。切るよ、じゃあね」

『待ってってば、言うことあるから待って』

隣にいる律が、呆れたように息をつく。ごめんなさい、全部この男が悪いんです。

『まず。この間は、うちの光梨がお世話になりました』

画面の向こうで、颯が頭を下げる。ふさふさの髪の毛が、画面を覆いつくす。

「いえいえ。こちらこそ、助けて下さりありがとうございます」

竜樹さんが大人の対応をする。この人は、まともな人間になりそうだ。

『俺に手伝えることがあったら言ってね。呪術も体術もいけるよ』

グッ、みたいに親指を立てるな。

「それはありがたい。都合がいい日とかは」

実緒さんも食いつかないで、お願いだから。すごい人なのは分からなくもないけど、会ったら絶対に幻滅すると思う。やめた方がいい。

『俺は大抵、暇なんだよね。あの人に訊きたいこともあるし、今度、律の家にでも行こうー!』

「他人の家を勝手に使わないでください」

切れ味のいいツッコミが入る。律が、いつもの調子を取り戻してきたらしかった。

『元々は俺の家でもあったんだけど。まぁいいや。本題に入ろう』

遅いよ!と内心で叫び声をあげるが、正直もう面倒なので諦める。

『光梨はしばらく休養する。もちろん、君たちと一緒に任務をこなすこともない』

「え?」

誰よりも早く、私が声を上げる。初めて聞いたことだから、驚きが隠し切れない。

「説明してください」

問いかけたのは、竜樹さんだった。それを引き継いで、実緒さんが続ける。

「もう、裂苛の影響はほとんど残っていない。なんのために休養させるつもりだ」

本当にその通りだ。私も意味が分からない。

『さっき友人と話し合って決めたんだけどね。裂苛の前後では、呪力量も見鬼も飛躍的に向上するけど、その分、使いこなせない術師は多い。実戦に放り出すには、不安すぎる。もちろん、今年中には返す予定だよ』

そう言われて、ふと自分の手を見つめる。たしかに呪力を巡らせやすくなった。

そして、それだけじゃない。意識して目を凝らせば、みんなの呪力を形として視認することも出来る。まだ、うっすらとだけれど。

「確かに一理ありますね。どうします?」

律が上目遣いに問う。竜樹さんと実緒さんが、数回言葉を交わしてから向き直った。

「分かりました。でも一つ、条件があります」

竜樹さんが、前へ身を乗り出して続ける。

「絶対に十二月までには、合流させてください」

『約束するよ』

画面越しに交わされた約束は、言霊で結ばれた契りとなった。





カラオケを出て家へ向かう光梨を見つめる、影があった。

人ではない、人には見えない、異形のもの。

「なかなかだね」

人語を解す鴉は、夕暮れの色を血と錯覚させる。

「君たちに、ハンデをやろう」

このゲームを盛り上げるために。

「君たちに、ハンデをやろう」

このゲームで踊らせるために。

「君たちに、ハンデをやろう」

このゲームに参加したくなるように。


君たちに、ハンデをやろう——————。


繰り返された言葉は、誰の耳にも届かなかった。

ただ呪いのように、彼の地へ楔を打つだけだった。

           

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