8章「新たなる旅路」
――ロゼさん!
自分の名を呼ぶ声に、再び意識が帰る。
草原を走り駆ける音。ロゼの頭上に影が差した。
「血を止めないと!」
わたしの元へと駆けつけた人。それは、アステだった。
「あっ、あっ…………」
彼に答えようとるが、声がでない。
「喋らないでください。いますぐ傷口を塞ぎます!」
アステは、自分の両手を開いて、口ずさむように詠唱を始めた。
「我が手に、癒やしの力を。我が手に救いの導きを」
両手に緑色のオーラをまとわせ、そのままロゼの腹部へと寄せる。
「うっ!」
体がねじ切れそうな痛みが襲う。ロゼは体を跳ねさせた。
「すみません。我慢してください!」
アステは必死だった。
なんとしても、助けたい。しかし、傷口を塞いでいくごとに、アステの顔は険しくなった。
大量の血が流れてしまっている。
どれだけの血が流れたのか。ロゼの顔は青白くなっている。このままでは、失血死で助からない。
『あの時と同じだ……』
アステの手が強張るように震えた。胸は締め付けられるように、息が荒くなる。
いいや、違う。アステは雑念を振り払うように、両手を強く握りしめた。
「魔力で血を増幅変換させれば、まだ――」
いまの自分には新たな力がある。しかし、その治療は直接血に触れなければならない。
血に触れた分だけ、命は削られる。ふと、ロゼの言葉が頭をよぎった。
『怖くないのか? 死が早まるんだぞ? もしかしたら、年をこせずに人生が終わってしまうかもしれない。それでも、お前は怖くないのか?』
「怖い……けど」
『自分の死以上に、大切な人の死を見る方が怖いよ』
アステは、笑顔で頷いた。
選択は決まった。
「この世の宝が残せるなら本望です」
アステは、自らの両手をロゼの患部へと触れさせた。
腹部の刺し傷を塞ぎながら、ロゼの血を増血させる。同時に二つの治癒魔法を発動させた。
ロゼの意識は痛みと共に覚醒を始める。
目を開く。視覚は朦朧とし、ぼんやりとした世界が見える。しかし、体の触覚はまだ機能している。腹部に触られた感覚があった。
目の調節が整い、緑色の光が見えた。
アステが自分の腹部に手を触れていた。
彼の手は赤い血で染まっている。
『どうして……』
ロゼは狼狽した。早く手を離させなければアステの命が危ない。
ロゼは懸命に声をかける。しかし、嗚咽に近い声しかでない。
『離して……離しなさい。わたしを助けないで』
ロゼは、口を動かし続けた。どうか、気づいて……。
アステは、笑顔を見せた。
「大丈夫。言いたいことは分かってますよ、ロゼさん」
アステは顔には大量の汗が流れている。呼吸も荒く、体力は大幅に消耗していた。それでも、彼は疲れた顔をせずロゼへと笑顔を送り続ける。
「これは俺の信念です。美人を死なせるのは、罪です! ここでロゼさんの死を見届けるなんて、まっぴらゴメンです!」
『お願い、やめなさい。自分の命を大切にしなさい!』
代償は大きい。自らの寿命を削るだけだ。わたしを助けた所で得にもならない。
それでも、なぜわたしを助けようとするのか。
教えてほしい。聞かせてほしい。どうして、わたしを助けるの?
知りたい。わたしは、彼を知りたい。アステという人間を知りたい……。
「ば、か……」
「自分でもわかってますよ。だから、このまま自分の意志を貫きさせてもらいます。なんたって後先考えないのが、俺ですもん」
アステはニッと笑う。手を真っ赤に染めながら……。
恐怖を感じさせない彼の笑顔に、ロゼの瞳を潤ませた。
頬に涙が流れた。
日の眩しさにあてられた。ロゼの瞳に青い空が映る。
『……朝?』
清々しい快晴だった。わたしは、体を起こして大きく胸を張った。
大きく息を吸い込む。森から流れる深く濃い空気は、とても清涼だった。
『ここは、死者の世界なのかしら?』
青草の匂い。草原の風景が心地よく感じた。
ロゼは腹部を撫でる。痛みは感じない。
念のために、上着をあげ腹部を確認するも、傷は消えていた。
『わたしは生きているのだろうか』
生と死の判断ができずにいると、やわらかな風が黒髪をなびかせた。
片手で髪を抑え、顔をそらすとすぐ隣で人影が見えた。
そこにはグースカと寝息をたてる、アステの姿があった。
「……どうやら、わたしは生きているみたいね」
寝言を漏らし幸せそうに眠る彼を見て、ロゼは頬を緩ませるも、すぐに悲しげな目を送った。
風が木々を揺らし、枝先について木の葉がユラユラと揺れ落ちる。
葉っぱがアステの顔へと引っつき、鼻をくすぐる。
『はっ、くしゅん!』と大きな声があがった。
「ん……んあっ?」
アステは、瞼を半幅はあげ、鼻先についた木の葉を見る。顔をブルブルと左右に振り木の葉を落とした。
「おはよう」
「あっ、おはようございますロゼさん。今日もいい天気ですね……てっ、ロゼさん!」
アステは驚喜した声で起き上がり、ロゼに抱きついてきた。
「あっ、ちょっと——」
アステに押し倒され、ロゼは「きゃっ!」と悲鳴をあげた。
アステは、歓喜しながらじゃれついてくる。
ロゼはアステを引き離そうと、手で彼の顎下を押しあげた。
「はっ、離れなさい!」
ロゼの声に、「はっ!」とアステは我に返った。
脱兎のごとく、そのばを離れると、
「とんだ狼藉をしてしまい、申し訳ありません! 嬉しくて、あの、興奮しちゃいました」
「いきなり抱き着いてびっくりしたわ……もう、まったく」
「すみません……でも、元気そうでなによりです。血の増量と傷口の治療はなんとか間に合いましたけど、意識が戻るかはロゼさんの体力次第だったので……目が覚めるのか不安で不安で眠れなかったんですよ」
「その割には、さっきまで寝てたでしょ?」
「あれは、その、気の緩みで……」
アステは目を泳がせていた。言い訳でも模索しているのだろう。そんな困った様子のアステに、ロゼは思わず微笑した。
「言い訳はいらないわ」
「でもでも、夜明けまではちゃんと看護してましたからね! それは本当ですよ!」
駄々をこねる子供のようにアステは両腕を上下に振る。
ロゼは、『はい、はい』と宥め返し、アステの肩をポンポンと叩いた。
「あなたには、多大な迷惑を掛けてしまったわ……ごめんなさい」
命で償えなければ足りぬほどの罪をわたしは犯した。謝って済む問題ではないと理解している。
「わたしは、あなたにどう償えばいいかわからない。だから、お願い。あなたの口から命じて欲しいの」
もしここで、彼に死を命じられたのなら迷うことなく命を差し出すつもりだ。どんな事を命令されても請け負う覚悟だった。
アステは唇を噛み「んー」と考えるように首を傾げる。
ロゼは、高鳴る鼓動を聞きながら答えを待った。
アステは顔を戻し、ロゼと向き合った。
「前にも言いましたけど。そんな、悲しい顔をしないでください」
アステはニカリと歯を見せつけた。
「俺は、謝罪より、感謝の言葉が欲しいですね。あとは、ロゼさんの笑顔。それさえ頂ければ、治療代もお咎めもチャラてことで構わないですよ」
安易すぎる命だった。しかし、ロゼは妙に納得していた。彼はそういう人なのだと知り得たからだ。
彼はわたしの心を苦しみから解き放してくれた。
声にだして言える。心をのせて言える。
「ありがとう」と。
「これから、どうしますか?」
「そうね……アスティア国に戻るのは一旦待ってもらえるかしら?」
「えーと俺は構いません。でも、早めに戻らなくていいんですか?」
「まずは、血の呪いを解く方法を調べる必要があるわ。あなたを家に帰すのは、その後よ」
このまま、アスティア国に戻ってしまうと、アスティアは城に幽閉される可能性が高い。くわえて、ロゼは罪人である。牢に閉じ込められることも考えられる。
「いましか、自由に動ける時はない。わたしは、あなたに罪を犯している。だからせめて、呪いを解く方法だけでも見つけたいのよ」
「ロゼさん、そこまで考えて……ありがとうごさいます。こんなに、俺の身を心配してくれたのはロゼさんが初めてですよ。でも、無理はしないでください。俺はロゼさんに生きていて欲しいです。こうして一緒に話し合える時間を長く過ごしたいんですよ」
「そう……わたしも。長くいられるように善処するわ。まずは、あなたも知ってる人に会いに行きましょう」
「俺もしってる人?」
「会えばわかるわ。出発の準備をするから用意して」
「わかりました。あっ、そういえば、あいつの姿が見えないですね」
「あいつ?」
「シミリアですよ。治療している間、ロゼさんの側にいたはずなんですけど。どこに行ったのやら」
「あの子なら、そのうち出てくるわよ」
「俺、探してきますか?」
「大丈夫よ。すぐ近くにいるから」
アステは何処にいるのかと周りを見渡す。
ロゼはフッと笑う。彼は気づいていないようだ。
灯台下暗し。アステのフード帽の中で黒い影がモゾモゾとうごめている。
ロゼは地図を開き、目標の地を確認した。
「ここね……」
ロゼは天を仰いだ。
この先の旅はどうなるだろう。晴れ雨か、それとも嵐なのか。
『不安なの?』
ええ、不安よ。とても心配。嫌になるくらいにね。
でも、大丈夫。わたしを認めてくれる人がいるから……。
わたしの心は躍動している。わたしは生を感じていた。
遠い昔の話だ。人の住む世に黒き者が現れた。黒き者は人に知恵を授け文明を発展させた。人は、彼らを神と崇めたていた。
数年、黒き者と人との共存は長らく続いた。しかし、突如として暗雲が立ち込める。
天空から白き者たちが降臨した。白き者たちは、戦前布告と黒き者たちに攻撃を始める。黒き者たちは、人と共同戦線を組み対抗した。
しかし、白き者たちの圧倒的力量に黒き者たちは追い込まれていく。わずか一週間として、黒き者たちは壊滅した。
白き者たちは、この世の新たな君臨者となった。白き者たちは人に降伏を促し彼らを神と崇め、絶対的忠誠を誓わせた。人に、抗う力はなかった。人は、神と崇めていた黒き者たちの排除を始めた。
白き者たちは、この世界の神となる。古き世界が終わったのだ。
魔法、魔の獣、精霊、悪霊が存在する世界。非現実が混じりあう世界に、人は慣れ生きている。
黒き者よ、この敗北が我らの終わりではない。人は可能性を見いだしたのだ。
人は、我らを救う光だ。
いま一度、正しき秩序をもたらすために機会を待とう。
数年と、十年と、百年と、千年と、その血が目覚めるまで。
見届けよう、彼女の血が渡るのを……。