第64話 〈side:勇者〉そんな目を――するな!!
――風が冷てぇ。
勇者スカル・フェイスともあろう者が、連れのひとりもなく、手酌で酒をあおるとはな。
こんな場所で。
今は閉鎖されたでかい教会、その鐘楼のてっぺんに腰掛け、俺はスクードの街を見下ろしている。
取るに足らない凡人たちを上から眺めるのは、確かに気分はいい。
だが、この風はムカツク。
冷てぇ。その上、ぜんぜん血なまぐさくない。埃っぽくもなければ、ゾクゾクするような恐慌の気配もない。
クソ市民どもは、今日も相変わらず普通の生活を送っている。
かなり高い場所にある鐘楼に座っていても、ざわめきや生活音が聞こえてくる。
わかる。これがいわゆる、『平穏』ってヤツだ。
王都スクード、そしてルマトゥーラ王国は平穏そのものなのである。
平穏、って単語が頭に浮かんだ瞬間、口の中の酒が異様にマズくなった。空中に向けて吐き出す。滴が霧のようになって、すぐに空気に紛れてわからなくなった。
俺にはそれが、スカル・フェイスの『今』を世界が嘲笑っているように見えて、どうしようもなく苛々した。
「ちっ……表に出てきたのは失敗だったか……」
酒場に籠もっていたときは気がつかなかった。外は、街は、国は、世界は、こんなにも不愉快だったのか。
俺は聖剣を抜く。
勇者として立ち上がったときからの、俺のモノ。
幾多のモンスターを屠ってきたこいつの剣身には、今、紫色のスライムが薄く、べったりと付いている。
俺は聖剣を通して、スライムに魔力を付与した。
それから無造作にスライムの一部を剥ぎ取り、鐘楼から投げ捨てる。
どこぞの民家の屋根にべちゃりと広がったスライムは、ものの数秒としないうちに爆発的に膨張した。
人の形を取る。
頭のない騎士。リビングアーマーという奴だ。
だいたい大人の二倍くらいまで成長したソイツは、おもむろに屋根を突き破って中に侵入していく。
少しして、金切り声の悲鳴がした。
鐘楼のてっぺんまで、きちんと届く声。
俺は笑った。
ああ、これだ。これだよ。
この声。この風――雰囲気! 俺はこれを望んでいたんだ。
理不尽な、突然の暴力に右往左往する一般人。助けを求めて逃げ惑う、何の力もない弱者たち。
この風の中でこそ、勇者は活きる!
俺は荷物から漆黒のフード付きマントを取り出し、羽織る。フードは目深まで被った。
他人からの視認性低下、および魔力遮断を行う代物だ。俺の隠蔽魔法と組み合わせれば、たとえ神獣クラスの鼻があろうと察知されない。
こいつは教会の中で見つけ出したものだ。この場所は、以前エリスの奴が自分を崇めさせるために建てたもの。
エリスのことだ。お忍びか、それとも相手の弱みを握るためのスパイ活動に使ったに違いない。
勇者パーティが作ったものなら、そのリーダーたる俺にも使用権があるはずだ。
それにエリスは、しばらく姿を見せていない。どっかでくたばったか。刺されたか。ハッ。
アリアも、もういねぇ。
勇者パーティは、もう俺ひとりだ。
「……ッ!」
聖剣の刃が手を薄く裂くのも構わず、スライムをわしづかむ。
全身の力を込めて、放り投げた。
スライムの塊は放物線を描き、王都のどっかの区画に落ちた。姿は見えない。だが、大きくて不穏な気配が立ち上がったのがわかった。大人の二倍どころじゃないだろう。
その成果をともに笑う奴はいない。
ここには俺ひとりだ。俺……ひとり……?
「上等じゃねえか」
聖剣を掲げる。
ありったけの魔力を込めて、聖剣に付着する残りのスライムに『餌』を与える。
そして――振る。
振る。剣を振る。
そのたびにスライム――いや、騒乱の種が街に散っていく。
やがて。
少し息が上がった頃、聖剣はすっかり綺麗になっていた。
鞘に収める。
次第に高まっていく悲鳴を耳に心地よく聞きながら、俺はそのときを待った。
引き払った俺の館。
もうすぐ、そこから最強最悪のリビングアーマーが生まれるはずだ。
奴を育てた俺だからわかる。そいつは、俺が今いる鐘楼よりもデカくなる。
――ほら。来た。
遠目でもはっきりとわかる。巨大で禍々しく、堂々とした姿。紫色のスライムを肉体にするっていう鳥肌立つほどの醜さの上に、勇者の聖なる装備を模した鎧をまとう。
やべえ。やべえぞ。俺が今まで対峙してきたモンスターの中でも、段違いのやばさだ。
あいつを倒した奴は、間違いなく英雄になるだろう。勇者を超える勇者になるだろう。
聖剣を持つ手が喜びに震える。
「さあ、行こうぜ。俺の輝かしい未来へ」
鐘楼から飛び降りる。俺にとっては造作もないことだ。
走る。
途中、雑魚リビングアーマーに襲われて逃げ惑う凡人とすれ違ったが、無視した。
あいつらは俺を見ていない。
だから俺もあいつらを助けない。
走りながら口元に笑みが浮かぶのを止められない。
もう少しで現場に到着するというとき。
俺は足を止め、物陰に身を潜めた。
――巨大リビングアーマーに、戦いを挑んでいる奴らがいる。
物陰から様子をうかがった俺は、信じられない光景に目を剥いた。
「ラクター・パディントン……!?」
そう。俺が追放してやったあの無能が、あろうことか仲間を引き連れ、俺の獲物に襲いかかっているのだ。
奴の仲間の中にアリア・アートの姿もある。
裏切り者め。裏切り者どもめ!
そこをどけ。そいつは俺のものだ。
そう怒鳴ろうとした。――できなかった。
奴らの、特にラクター・パディントンの戦いぶりに、背筋が凍ったからだ。
見たことのない魔法。
見たことのない力。
感じたことのない圧力。
パーティの先頭に立ってダメージを与え続けるあいつの姿は、俺の記憶と予想を完全に覆していた。
リビングアーマーと力量は互角。いや、わずかに押している……?
街中で、周囲への被害を考慮して、それでもなおこの戦いぶりならば。
もしかしたら。決してあってはいけないこと、あり得ないはずのことだが。
もしかしたら、このまま、見事に、リビングアーマーを退けてしまうのでは――?
不意に、俺の全身から余計な力が抜けた。
この感覚、覚えがある。
ひとつの目標に極限集中したときに起こる、アレ。
聖剣の柄に手をかける。
静かに呼吸を繰り返す。
ほどよく熱を持つ身体。
ほどよく冷たくなる思考。
ほどよく昂ぶる敵対心。
――リビングアーマーが、その場に膝を突いた。
ガッツポーズしたラクターの背中が、視線の先にある。
遮るものは何もない。
駆けた。
地面すれすれの低姿勢で、這うように走る。足音を殺し、それでいて速く。力強く。
ラクターが、こちらを振り返ろうとした。
鍛え直した俺の身体は、奴の動きより速い。
一閃。避けられるはずが、ない!
「手応え、あり」
どうだ。ラクター・パディントン。どうだ、無能者!
――奴と目が合った。
俺は心の中で吠えた。
もっと驚いた顔をしろよ。悔しそうな顔をしろよ。もっと俺を喜ばせろよ。
一切怯んでいない、意志の固い表情を、そんな目を――するな!!