丘の上の結婚式
「女刑事物語」(17-2) Ⅽ.アイザック
四月のある晴れた日、都心を離れた丘の上のホテルで凜と明の結婚式が行われた。ホテルの広い庭は芝生に覆われ、白い丸テーブルと椅子がいくつか置かれている。北の端に数本の木立があり、式用の小さな教会が建っていた。その近くにある長椅子の前で凜と明が招待客を出迎えた。凜はすでに純白のウェディング・ドレスを身にまとっている。
客はほとんどが明の会社関係で、凜には全く馴染みのない人々だ。祝福の言葉を受け、挨拶を交わす。夫人たちの多くが花束を抱え、夫が明と話す間に凜へ手渡しながら興味深げに美しい花嫁を眺めるのだった。凜は明の望みを容れて警察を退職していた。そのせいか鋭さが消えて穏やかな表情になったようだ。
客が途切れると凜が長椅子に腰を下ろして息をついた。
「疲れてないかい。中で休もうか。」と明が声をかけた。
「平気。」
凜が立ち上がった。一人の若者が近づいていた。明の会社では樋口を除いて唯一見覚えのある顔だった。そのため凜は控えめな微笑を投げたのだが相手は気づかない。
「会長、まことにおめでとうございます。この度は…。」
明に祝いの言葉を述べたのだが途中で言葉を失ってしまった。俯いて口をモゴモゴと動かした。
若者はすぐに気を取り直して凜を向いた。
「初めまして、杉山と申します。宅地を造成する会社の代表取締役社長を務めています。」と胸を張った。
凜が微笑んだ。
「杉山さん、私を忘れたの?」
杉山はポカンと花嫁を見たが、次の瞬間に大きく口を開けて叫んだ。思い出したのだ。豪雨に見舞われた造成地の現場で砂と泥にまみれて頂上に立っていた半裸の女性を。
「アアアッ。」杉山はもう一度叫んで口に片手の指すべてを押し込んだ。
明が肩を震わせて忍び笑った。
楽し気な雰囲気だと見てとったのか美風が遠慮がちに、だが確固とした足取りでやって来た。彼女は小さいがまるでもう一人の花嫁のようだった。真っ白なワンピースは上品なレースがふんだんにあしらわれ、裾は豊かに波打っていた。実のところ美風は香織の傍でおとなしくしていることに飽きていた。凜のすぐ傍にやって来た。
美風は明を横目で見やったが、思い出したように両手を足に揃えてペコリとお辞儀をしてみせた。もともと美風は明をかなり気に入っていたうえに、何度か「お泊まり」をしてすっかり打ち解けていたのだが、この日は近寄りがたいムードに勝手が違うと感じたのかどこかぎこちない。凜はまだ「お父さん」と呼ばせていない。それは式の後と決めていた。明もそれについて口出しする気はなかった。その結果、美風に結婚式の意味が十分に理解されていないきらいがあった。
唐突に凜が声を上げた。美風の存在を忘れたかのようだった。
「ああ、なんてきれいなの。明さん。」
凜の視線の先にスラリとした若い女性が姿を見せていた。ユリだ。ピンクのワンピースが庭の芝に映えて、まるでマネの絵画を思わせた。
「寒くはないか…?」明がドレスだけの服装を案じて呟いた。
ユリは真っ直ぐ父親のもとへ歩み寄った。
「パパ、おめでとう。」
二人は抱き合った。
「ありがとうユリ。」明が優しく応えた。
ユリは凜の手を取った。顔を間近に寄せてほほ笑んだ。
「私にはこうなることが分っていたわ。」
「来てくれてありがとう。」と凜。
「おめでとう…、なんと呼べばいいのかしら。」
「凜でいいわ。」
「おめでとうございます、凜さん。」
ユリは凜に抱きつくと、遠慮がちに囁いた。「私たち、家族になったのね。」
「そうよ、ユリは私の大事な家族。」と凜が答えた。
眼を潤ませたユリと上目遣いの美風の視線が合った。美風は自分がまったく除け者にされていると感じていた。
ユリが腰を屈めて声をかけた。
「美風ちゃん。私を覚えている?」
言い終わる前に美風が糺した。「誰?」
噴き出すのを堪えてユリが告げた。
「私の名前はユリ、あなたのお姉さんよ。」
あまりに意外な言葉に美風は声も出ない。
「今、証拠を見せてあげるわ。」
ユリがゆっくりと顔を近づけて美風の頬に唇を当てた。美風は一瞬驚いたようだったがすぐに大きな眼を輝かせた。
「さあ、今度は美風の番よ。ユリにキスして。」
美風は真っ赤になりながら子供っぽい乱暴な仕草でユリの首に手を廻し、ユリの唇に自分の小さな口を押し当てようとした。堪らずユリが笑い声をあげた。
「美風、ここよ。」そう言って自身の頬を指差した。
小さな唇のキスを受けてユリは軽く目を閉じた。「ありがとう美風。」と優しい声で伝えた。
ユリと美風は連れ立って教会の探検に向かった。ユリが宣言したとおり二人の後ろ姿は仲の良い姉妹だ。
不意に凜が動きを止めて前方を凝視した。若いカップルがどこか慎重な足取りでやって来る。武田とみどりだ。武田は銃創の治療過程で腹膜炎を併発し恢復が遅れていたのだ。凜はフラフラと進み出て待ち構えた。
「健太ッ。」
凜の呼びかけに応えた武田の笑顔は頼りなげなものだった。凜は不安を感じた。
「退院したの?」と訊いた。
「昨日、娑婆に出てきたばかりさ。」
凜が抱き着いた。武田は両手を広げ、少し迷ってから遠慮がちに凜の肩に手を添えた。庭のあちこちに集った客の中には花嫁の思いがけない行動を目にして驚きと興味を示す者もいたようだ。
凜がパッと武田から離れた。腰に両手を当てて言った。
「回って。」
「えっ?」
「回ってごらん。」
凜が右手を頭の高さに上げ指で輪を書いた。武田は言われたとおり用心深い仕草で体を一回転させた。
「こうか?」
とくに後遺症を感じさせるものも無く、安心した凜がみどりに告げた。
「みどりちゃん、こいつを逮捕して。非番の時は家から出してはダメよ。」
「了解しました。」みどりが笑顔で答えた。
凜が二人の手を取った。「次はあなたたちの番ね。」
「オッとそのまえに、ご結婚おめでとうございます。」武田が姿勢を正して言った。
「あら、ありがとう。」
凜が輝く笑みを浮かべた。
正午前に教会で式が行われた。正確にはホテルの施設だが、祭壇とステンドグラス風の高い窓など、それらしく造り込まれている。赤い絨毯が敷かれた通路の左右に長椅子が並び、客たちが腰を下ろしていた。業界では普通、左側が新婦の親戚や知人、新郎は右側となっているようだが、凜と明はともに係累が極端に少ない。そのうえ警察官は勤務に縛られている。出席者はほとんど明の会社関係に限られた。そのため自由に席に着いて貰うよう参列者に告げられていた。
式場は教会を模したものだが、式に立ち会うのは本物の牧師だ。これについては凜と明へホテル側から事前に説明があった。彼はプロテスタントの牧師であり都内に永く在住するアメリカ人だ。ブライダルの責任者と親交があった。その関係で、教えについて話す時間が与えられるなら結婚式を手伝いたいと申し出があったという。ホテル側は話し合い、施設にキリスト像を飾らない、神父と呼ばないなどの牧師の要望を認めたうえで協力を貰っている。
牧師は褐色の短い髪型で額の両側がかなり禿げあがっていた。鬢の辺りに白髪も見え、その印象は年配者を思わせたが、白い肌は艶が良い。年の頃が分かりにくい人物だった。
彼は青い眼で人々を見回し、威厳をもって告げた。
「これより、人生で最も重大で神聖な誓いが行われます。」流暢な日本語だった。「花嫁はこちらへ!」
牧師の言葉に皆が一斉に入り口を振り向いた。大きな扉が左右に開かれ、白いウェディングドレスを身にまとった凜が姿を現した。寄り添ってエスコートしているのはユリだ。反対側で美風がドレスの裾を掴んでいる。花嫁の入場としてはかなり変わっている。一瞬の静寂の後、会場内がざわめき、囁きがあちこちで起きた。
実は当初、板垣に父親役を頼んでバージンロードを歩く予定だったのだが、直近になって板垣に本庁での会議が入ってしまった。それならと、凜がユリや美風と一緒に入場することにしたのだ。この提案に明は初め気が進まないようだった。
「招待した人々に私たちの事情を逐一知ってもらう必要はないと思うが…。」というのだ。
しかし凜は引き下がらなかった。
「署長がこられなくなって却って良かったわ。初めからこうするべきだったのよ。それとも明さんはユリと美風が私たちに遠慮し、気兼ねするのが当然と思うのかしら。」
明はもう何も言わなかった。
小さなさざめきが残る場内の赤い絨毯を三人は進んだ。ユリは堂々と頭を上げ、美風は凜の横で真っ直ぐ牧師を見ている。明がにこやかに花嫁と娘たちを待ち構えた。
この後、誓いの言葉を述べる大事な場面で、凜は失敗してしまう。集中力がおろそかになっていた。明が凜を妻とし終生変わらず愛し続けると誓った。牧師は凜に顔を向けた。青い眼が凜を優しく見つめた。
「私も終生変わらず愛し続けます…。」と凜が誓った。
だが牧師は納得しない様子で沈黙している。凜は焦った。練習した言葉が出てこない。
「どんな時も愛し続けます。」と付け加えた。
牧師は僅かに顔を傾けた。白い頬に赤みがさしている。非難のまなざしではないか。
「命にかけて…。」と凜が言い添えた。
牧師は憤りを忍耐と慈悲深さで鎮めている雰囲気を醸し出して青い瞳で凜を見つめた。凜は明を「夫とする」それから「妻として愛する」と誓わなければならなかったのだが、その言葉が欠けていた。そのくだりは牧師が述べていると思い込んでいたのだ。
凜が困惑するさまを見て明が小声で口を挟んだ。
「牧師さん、どうぞ先へ進めてください。」
明はキリスト教徒ではない。いわばホテル側の準備したセレモニーに付き合っているだけで、その形式にこだわりはなかった。
牧師は微かに溜息をついて、「それでは指輪を交換し、生涯の伴侶にキスを…。」と二人にうながした。
明は凜の耳元で「君の誓いは良かった。何も気にする必要はないよ。」と囁いた。
牧師がゆっくりと参列者に両手を広げ、肩より高く上げた。
「ここに、二人の結婚を宣言し、証人となります。この後誰といえども異議を述べることは許されません。」
凜の些細な失敗以外は何事もなく披露の宴までこの日の予定は滞りなく終わった。
凜の結婚生活は当初、平穏そのものだった。香織は当分一人で暮らすという。美風はそれまでの予定を変えて私立の小学校へ入学した。登下校に運転手をつけると知って凜は驚いたが、明は至極当然なことだと考えていた。車で登校する美風を見送ると、娘がお嬢様らしく見えてくる。凜はくすぐったい気持ちで微笑むのだった。
新しい環境に慣れるにしたがって凜は暇を持て余した。ウメをはじめ家政婦たちがそのまま残っている。凜はすることがないのだ。なにしろ刑事生活がすべてだった。趣味もなく、気づけば家事をすべて香織に任せていた報いか、料理ができない。ならばと掃除を始めると家政婦にやんわりと断られるばかりだ。庭に足を運べば午前中だけ勤める庭師の老人といちいち思いがけない場所で突然出くわしてびっくりするのだ。
凜は買い物に出かけることを思い立った。それほど遠くない商店街にスーパーマーケットがあるのを知っていた。香織が良く利用する店で、食品が豊富に揃っているらしい。まずウメに相談した。夕食の調理を任された家政婦が翌日必要な分の買い物リストをウメに託していた。
「蘭ちゃんを連れていきたいのだけど…。」
凜の言葉にウメは考え込んだ。凜は対人恐怖症の傾向がある蘭を人のいる場所に慣らせば緊張する度合いも減るのではないかと考えたのだ。
「お買い物は敏子さんの役割と決まっています。蘭ちゃんはお買い物に向きませんよ。」ウメが断言した。
「そうでしょうね。でも人を避けてばかりじゃどうかしら。私は蘭ちゃんに人の観察をしてもらいたいの。そうすれば何か良い結果があるかもしれないわ。スーパーでは蘭ちゃんはただ私の傍にいればいいのよ。」
「そうかも…しれません。ウメには分りません。」
「ダメかしら…。」
凜が自信なさそうに呟くとウメが急いで口を開いた。
「勿論奥様がお決めになれば、それでいいと思います。ただ、旦那様がどうおっしゃいますか…。」
「スーパーの人混み、試してみるわ。」
ウメの心配に頓着なく凜が口にした。
この計画を凜から告げられて高校生のような若さの蘭の白い頬がこわ張った。視線が足もとから動かない。両手を揉んで沈黙した。
「蘭ちゃんは私の傍でスーパーの店内を見物していればいいのよ。ねっ、行きましょう。きっと気分転換になるわ。」
凜の説得に蘭が微かに頷いた。
駅の近くの商店街はかなりの賑わいだ。目的のスーパーも人が溢れている。道路に面したテントの軒下に野菜類、果物が堆く積まれていて、男の店員の呼び声が威勢よくあたりに響く。赤い文字で価格が書かれた札がてんでに並んでいるがその値段が高いのか安いのか凜にはイマイチ分らない。
店内は奥行きがあって思ったより広かった。青果物に限らず魚、肉などの生鮮食品、冷凍食品、インスタントラーメンまで品揃えが豊富だ。同行した家政婦の敏子が手際よく買い物を進める。蘭は店内に足を踏み入れてから凜の腕を力いっぱい掴んでいた。周りを見渡す余裕はなさそうだ。その様子に凜は申し訳ない気になった。人との距離が近いことが予想以上に負担になっているのかもしれなかった。だが後悔してもはじまらない。
「蘭ちゃん見てごらん。」凜が明るい声を上げた。
「これお豆腐だって。紙パックに入っているわ。私、初めてよ。ビックリだね。」
蘭はゆっくり顔を上げて陳列棚を見た。依然ピタリと凜にくっついている。凜が再び立ち止まり、棚を指して言った。
「これはカニカマよ。これ傑作だと思うわ。ねえ、蟹の身にそっくりだと思わない。」
蘭が小さく笑った。
ホッと胸を撫でた凜が「敏子さんを手伝おうか。」と口にすると大きく頷いた。蘭は相手が人間でなければなんでもできるのだ。
突然、蘭の唇が「あっ。」と小さく漏らした。同時に蘭の背後でパリパリと乾いた物音がして何か床に落ちたようだ。
「ああッ。」男の大きな声がした。
凜が目をやると作業服の男が卵のパックを手にしていて、床に割れた卵の殻が見えた。男は蘭にくってかかった。
「なにやってんだ!」
蘭が顔を背けて体を硬直させた。固く目を閉じて凜にしがみついた。二人がぶつかったようだが、蘭の動きを察知できる体勢だった凜は男の行動が事態を招いたと直感した。男との間に立ちはだかると落ち着いた声を投げた。
「どうしました。」
「どうもこうもあるか。」男が怒りを顕わにした。
「店員さんを呼びましょう。」と凜が言った。卵の落ちた床を清掃しなければ滑る恐れがあった。
男は凜の言葉を無視した。背後で身を竦ませている蘭を睨んで、さも忌々しげに叫んだ。
「なんとか言ったらどうだ。一言の詫びもねえのかッ。」
「まことにすみません。」と凜が静かに頭を下げた。
「あんたじゃ無ェ。そこの…女だ。」男は蘭へ顎をしゃくった。
凜が顔を上げて言った。
「混みあっていますから、ぶつかったとしてもお互い様でしょう。冷静になってください。」
「なんだと、俺のせいだというのか。ふざけるなッ。」男の怒りが凜に向けられた。蘭はいよいよ凜にしがみついている。体が震えているのが分った。
凜が男をたしなめた。というより怒鳴った。
「おい、しつこいぞ。いい加減にしろッ。」
「な、な、なんだと?」男は思いがけない言葉を浴びせられて顔を紅潮させた。
「この女ッ。」怒りの形相で凜に掴みかかろうとして、さすがに躊躇した。
そのとき遠くから「ケンッ!」と鋭い声が飛んだ。
目を向けると作業服の人物がゆっくり近づいて来る。凜の前に立つケンと呼ばれた男と同じ会社の者だと思われた。
「ケン、みっともないぞ。静かにしろ。」
その男が落ち着いた声で告げると、ケンは電流に撃たれたように姿勢を正して「しゃ、社長…。すみません。」と呻いた。
凜が急いでその男たちにくるりと背を向けたが遅かったようだ。社長らしい男は廻り込んで凜の横顔を確かめると、目をまるくして声を弾ませた。
「お凜、お凜じゃないか?」
凜が諦めたように振り向いて軽く笑みを浮かべた。
「やはりそうだ。俺だよ、近藤だ。忘れてないよな。」
「お元気?」
凜の説得に応じて詐欺事件の被害届を出した建設会社の経営者だった。
「ああ、お蔭でな。それにしても思いがけない処で会うもんだ。こっちはこれから宴会の買い出しだ。」近藤の顔が赤らんでいた。
「なにしろ余計な経費はかけられないからな…。」と続けた。
「頑張ってね。」
近藤は凜の言葉に頷いてからケンを引き寄せた。
「迷惑をかけたなら謝る。こいつはイイヤツなんだが、そそっかしいのが玉に瑕だ。」
ケンは小さく何度も頭を下げた。
「いいのよ、お互い様なんだから…。」と凜が応じた。
「じゃあな、いつでも電話しろよ。」と軽く手を上げた近藤だったが、あらためて凜を見つめて言った。
「数か月のうちに、お前さん少し感じが変わったな…。なんというか優しい顔になった。」
買い物を終えて帰宅すると、後を追うように明が姿をみせて凜を驚かせた。
「随分とお帰りが早いのね。なにかあったの?」
明はその問いに答えず凜の前に仁王立ちになった。
「聞いたぞ、凜。スーパーでトラブルになったそうだね。」
「なぜ知ってるの?」凜には不思議だった。
「たまたま電話を入れたらウメさんが知らせてくれた。」
「そうだったの。でも蘭ちゃんには謝ったわ。たしかに私が軽率だったけど、あの子はけっして病的じゃないわ。」
「そんな事じゃない。君はもう当分外出はするな。」
明の思いがけない言葉に凜は唖然とした。
「だいたい君がスーパーに行く必要はない。そのために家政婦さんがいる。」と明が決めつけた。
凜は茫然と言葉を失った。明の態度が信じられなかった。何も考えられずに凜は明の前を逃げ出した。
「待て。」
応接室を抜けようとしたところで追いついた明が凜の腕を掴んだ。
「凜、君は鮎川家の人間になった。そこをよく考えてくれ。もっと用心深くあるべきだ。」
凜は顔を逸らせて何も言わない。夫は私を閉じ込めておくつもりなのかと疑った。怒りよりも衝撃を受けていた。
明は凜の思い詰めた様子に気づいて急いで言葉を継いだ。
「君が心配なんだ。君を大事に思っているからだ。私の言うことを理解してくれるよね。」
部屋の壁際に飾られた、男女が抱き合って立つかのような木造りの像が凜の目に入った。
「あなたは…。」と凜が口を開いた。
「あなたは私を大事だと言ってくれる。そういえば明さんはこの変な仏像も大切にしていると言ってたわね。少し埃をかぶってるけど…。」
凜は明を見ずに続けた。
「明さんにとって大事なこの仏像と私と、どこか違うところがあるなら教えて欲しいわ。」
凜は明の手を振り払って急ぎ足で部屋を出た。
「凜!」明が叫んだ。
自室に駆け込んだ凜はソファーに身を投げた。…夫は私に命令して従わせようとしている。一方的で威圧的な明の一面を初めて知らされたようで凜は悲しかった。
…これが明さんとの結婚生活なの?
凜は唇を噛んだが、すぐに頭を上げ、ソファーに浅く掛けて姿勢を正し、明を待った。
入口に姿をみせた明は立ち止まり、開いているドアを遠慮がちにノックして声をかけた。
「凜、入ってもいいかな。少し言葉が足らなかったようだ。」
凜が意外なほど明るく応じた。「明さん、どうぞこちらへ来てください。」
凜は明を見上げ、微笑を浮かべて口を開いた。
「一つ提案があるの。私たちの結婚生活をより良いものにするためのルールよ。私は今後、必要と感じたら出かけるときにあなたの意見を聞くわ。そしてそれを尊重する。でも最後に決めるのは私。…どうかしら。」
明が並んで腰を下ろして言った。
「勿論だ。君が決めていいことだ。…さっきはすまなかった。君が心配のあまり冷静さを欠いてしまった。」
明が凜の腰に手を廻した。頬にキスしようとすると凜がそれを唇で受けた。
二人は暫くそのまま動かずにいた。やがて凜が溜息を小さく吐くと擦れた声で言った。
「お仕事の途中だったんでしょ。ごめんなさい私のために。きっと今日はお帰りが遅くなるわね…。」
明は少し間を置いてから「そんな事はないよ。早く帰るつもりだ。」と答えた。
「あら、そう。」
凜はさして興味がなさそうに口にしたが、顔がみるみる赤くなった。わかりやすいぞ、凜!
その夜ウメはいつもより早く床に就きたいと考えた。新しい夫婦の諍いにウメなりに気を揉んだのだ。ウメは家中の戸締りを確かめて明かりを消してまわった。階段の傍を通ると、ふと誰かが呼ぶような遠い声を聞いた。ウメが耳を澄ますと、それは二階から伝わってくるようだ。静かに階段を上ると、夫妻の寝室のドアが僅かに開いている。間近に立つと、性の営みか新妻があげる悦びの声が漏れ聞こえた。ウメは心臓をドキドキさせながらもドアをそっと押して閉めきった。もうなにも聞こえてはこない。ウメは首を二度ほど振って階下に降りた。ダイニングに立ち寄ると戸棚から褐色のガラス瓶を取り出した。ウメが寝酒にブランデーを呑むと知って明が常に用意しているものだ。ウメはコップにほんの僅か注いだが、少し迷ってさらに同量を継ぎ足した。
…この分ではブランデーの減るのが早くなりそう。
ウメはそう呟くと、両手でコップを抱えて自室に戻った。
(つづく)