第二王子アレッサンドロ
魔王の名前は口に出してはいけない。その妃も然り。
だから誰も魔王の名を教えてくれることはなかった。どうして自分が魔王の名前を知っているのか。
魔女はひとり、ベッドでうつ伏せになり枕に顔を押し付けた。頭がずきりと痛むと、何かを少しずつ思い出す。でもそれが何なのかがわからない。頭を押し付けないように今日はこうして寝よう。
あの後、折られるのかと思う程に強く抱きしめられ、魔女が散々暴れてやっと解放された。魔王は赤い目をキラキラさせて魔女を見ていたが、魔女はそれ以上何も思い出さなかった。それでも魔王は満足そうに膝を抱えて出窓に座り、掃除を続ける魔女を眺め続けていた。時折、出窓を降りては魔女の髪をいじったり腕に手をからめてみたり、足の裏を撫でて怒られたりしていた。
たんこぶの後遺症が残っているのだろうか。魔物の魔女を診てくれる医者はいるだろうか。魔王城に医者はいるが、彼に診てもらったら魔王に筒抜けになってしまう。
とりあえず冷やしたほうがいいのかな。でも台所は下の階だ。面倒だな。
魔女は枕元に置いていた水晶に手を伸ばした。硬いガラスはひんやりしている。体の向きを変えて、水晶に頭をつけてみた。氷程ではないけれど、何もしないよりいいかもしれない。魔女はそのまま眠りに落ちた。
そんな体勢で寝たせいか、おかしな夢を見た。
紫色の小さな花の咲いた花畑の上に魔女は浮かんでいる。花畑には楽し気に走り回る女の子がいる。10歳の舞花だ。花を踏んではいけない、と母に怒られている。両親とドライブに行った先での風景だ。
懐かしい。
魔女はそう思った瞬間、目が覚めた。寝相が悪いせいで水晶から頭が離れている。カーテンの向こうもまだ暗い。眠くて動けなかったので、魔女は目を閉じて二度寝した。
「第三王子は廃嫡となるそうだよ」
「はいちゃく」
「王子ではなくなって、僻地の島に幽閉されるんだって。そこで王子としてではなくて、一人間として教育し直すそうだよ」
「島って。厳しくない?」
「勝手に魔王にケンカ売った上に、評判の薬屋を魔界に移転させちゃったわけだからね」
ルカが引っ越し祝いを持って新店舗を訪れていた。海辺の町で作られたという紺色の薄いガラスのグラスをいくつか買ってきてくれた。前の店を兵士に荒らされ、床に割れたグラスや湯呑が散乱していたのを気にかけてくれていたようだ。
「まあ、若いんだから、やり直せるでしょ」
「魔女は優しいんだね」
魔女は真新しい艶々のカウンターに頬杖をついた。第三王子は生意気でムカつく奴だけど、周りの大人に唆されただけだ。別に極刑を望んでいるわけではない。
「おや、誰か来たようだよ」
ルカが玄関の方を振り向くと、扉が開いて、からん、とベルが鳴った。
「こんにちはー。魔女様、久しぶり」
顔を覗かせたのはアレックスだった。精悍な顔つきは変わっていないが、まるで貴族のような豪奢な服装を着ている。宿屋の使用人の姿しか見ていないので、違和感しかない。
「アレックス、まだこの国にいたのね」
「うん。どの国に行こうか悩んでいるうちにさあ、不測の事態が起きちゃって、実家に帰ることにしたんだ」
アレックスはルカが持って来てくれた丸椅子に腰かけながら言った。
「あらそう。大変ね。故郷の国は遠いの?」
「この国だよ」
「アレックスって、この国の貴族の出なの!?」
魔女が驚いてカウンターから身を乗り出す。アレックスは恥ずかしそうに頭をかきながら、えっとぉ、と斜め上を見て言葉を選ぶ。
「それで、帰ったらしばらく自由に出歩けなくなるからね、魔女様に謝っておこうと思って」
「何を?」
「弟が魔女様にものすごく迷惑をかけたって聞いて……本当にごめんね。逃げ出しちゃった僕が偉そうにこんなこと言えないんだけど、あいつも子供の頃から比較されてつらかったんだと思うんだぁ」
「弟って……まさか……。アレックス、あんた……」
黙って話を聞いていたルカもさすがに気付いていなかったようで、大きく目を見開いてアレックスの次の言葉を待っている。
「うん、僕、第二王子のアレッサンドロなんだ。兄と弟がいればいいかなって思って旅に出ちゃったんだけど……弟がああいうことになったから、さすがに戻ろうと思うんだ。戻って、第二王子として兄の補佐をするよ」
「……フランチェスカにも振られたしね」
魔女の言葉に、アレックス、もといアレッサンドロは魂を抜かれたようにがくんとうなだれた。
「そうか……豚獣人だと思っていたから……こんな近くにいたとは」
「ルカは第二王子を探していたの?」
「第二王子は以前から捜索願が出されていて……そうだ。忘れてた。先日、国境付近で第二王子を探して歩いていたら、魔女の知り合いという人に会ったんだった。手紙を預かっていた」
「知り合い?」
「そう言っていたよ」
魔女は手紙を受け取り、裏表を確認し、光に透かしてひと通り怪しんだ後、封を開けた。一枚の便せんにかかれた内容に言葉を失った。
「どうしたの、魔女様」
意識を取り戻したアレッサンドロが首を傾げる。
魔女は口に手をあててしばらく考えた後、顔を上げた。まだ慣れない配置に様々な引き出しを開け、魔女が持っている一番上質な紙を取り出した。カウンターに置きっぱなしにしていた羽ペンを取り、アレッサンドロに手渡す。
「あんた、私が豚から人間に戻してあげた恩、忘れてないわよね!?」
「えっ? も、もちろん、感謝しているし、僕にできることなら、そりゃ……」
「何でもするって言わないあたり、用心深く育てられた感があるよねー」
ルカがカラカラ笑っている横で、アレッサンドロがおびえつつ羽ペンを受け取る。魔女に言われた通りに作った書類は、予想外に達筆で育ちの良さを窺わせた。
せっかく来てくれた二人だったが追い返し、魔女は新居にしっかり鍵を閉めた。辺りをうろうろしている大鬼をひとりつかまえ、手に乗せてもらい魔王城に走ってもらった。乗り心地は悪いが、運動不足の魔女が走るよりよっぽど早い。
魔女は門番のケルベロスにあいさつもそこそこに魔王城に駆け込んだ。複雑な回廊を走り、階段を上る。
「魔女様! どちらへ!」
「魔王はどこ!? 急用なの!」
「魔王様ならお部屋に。ご案内いたしま……」
「分かるから大丈夫―!」
途中で出会った宰相に魔王の居場所を尋ねた。そのまま魔女は息を切らしながら長い長い廊下を走る。
あれ? 何で私、魔王の私室の場所わかるんだろう。
そう思った時には、魔王の部屋の扉をばーん、と開けていた。
「よく来たね、マイヤ。どうしたの、突然」
魔王は大きな窓のそばの一人掛けのソファに片膝を立てて座っていた。魔女が来るのがわかっていたかのように落ち着いた様子だった。
「魔王は魔物の居場所がわかるんでしょう? 探してほしい人がいるの! できれば国を出てしまう前に!」
「へえ。相手が誰かによるね」
魔王がむっとしたように口をとがらせる。こんな瞬間にも嫉妬する魔王に呆れつつも、急いでいる魔女は無視して続ける。
「ルネッタの所にいた侍女よ。実は半魔だったとか言う。ルネッタは首にしてやった、とか言っていたけど、実際は違ったのよ」
魔女はルカから渡された手紙を魔王に見せた。魔王が目を細めてそれを読む。
手紙はルネッタの元侍女からのものだった。魔物であることを隠していたとして首になった彼女は、実はあの侯爵家に隷属の契約をさせられていた。それに気づいたルネッタが、我がままを言った形で契約を解消させた。人間が魔物に契約を迫るのは違法である。侯爵家は口止め料を支払い侍女を追い払った。侍女は、やっと自由の身になれたそうだ。
「契約があったとは言え、ルネッタのことは心から可愛がっていたわ。ルネッタだって、それが分かっているから自分が悪者になって侍女を助けたのね」
「魔物を助けたことで、どうしてルネッタ? の結婚が早まるんだ」
魔王が手紙を見ながら首を傾げる。銀色の髪が肩からさらさらと落ちた。
「どんな理由があったのかは知らないけど、違法の契約をするような貴族だもの。ルネッタのことだって家の為の道具だとしか思ってないんだわ。元々体が弱くて気位の高い彼女を、今回さらに我がままを言い出したことで完全に持て余してしまったようね。悪評が流れる前に婚約者の家に押し付けることにしたみたいよ」
「ふうん。人間はややこしいな」
「この侍女に渡したいものがあるのよ。今どこにいるのかわかる?」
「手紙に残った魔力を辿れば何とかなるだろうが、マイヤはそこまでどうやって行くつもり?」
「え、それは……走って?」
口ごもる魔女の言葉に、魔王はにっこり笑って左手を上げた。するとバルコニーに続く大きな窓が開き、見上げるほど大きな鷹がのっそりと顔を出した。
「こやつに行かせよう。渡すものやらを持たせるといい」
「お、お願いします。見せればわかると思うから」
魔女が逃げ腰で鷹のくちばしに封筒を挟むと、鷹が了承したようにコクリとうなずき、翼を大きく広げたかと思うと瞬く間に高く飛び上がり消えて行った。
遅れてやってきた風圧に魔女の髪とワンピースが大きく揺れた。
ポカンと口を開けてその様子を見ていた魔女は、いきなり魔王に抱き上げられバルコニーに連れて行かれた。そこには可愛らしく華奢なテーブルセットがあり、椅子に腰かけた魔王の膝の上に当然のように座らされた。
「それで、何を持たせたんだ?」
「第二王子にね、あ、豚だったアレックスが、実は第二王子のアレッサンドロだったの」
「知っている。呪われた豚だろう」
「知ってたの!?」
「知らなかったのか?」
「普通気付かないわよ。それで、そのアレッサンドロに侯爵家への紹介状を書いてもらったの」
「話が全く見えないな」
「半魔侍女に、ルネッタが嫁ぐ侯爵家で働けるように紹介状を書いてもらったのよ。王子からの紹介状を断れる貴族なんていないはずだから。相手がどんな侯爵家かは知らないけど、味方が一人でもいればルネッタは心強いでしょう」
「ふうん。よくわからないが、それがマイヤの望みならば、叶うといいな」
魔王はあまり興味がないのか魔女を抱きしめ直して投げやりにそう言った。
侍女の手紙には、ルネッタの結婚をやめさせるか、せめて延期させてほしい、と書いてあった。でも、魔女にはそんな力はない。いくら魔女でも踏み込んでいいラインと言うものがある。ルネッタの幸せを望むのなら、そう思う本人が何とかするべきだ。魔女はその手伝いならできる。
冷たく人間味のない家で育ったルネッタ。彼女に温かい態度で接してくれるのは、今の所半魔であるあの侍女だけだ。きっとルネッタの力になるはずだ。
魔女はきっともうルネッタに会うことないだろう。ルネッタがきっとこの先成長し大人になり、老人になり、そして死んでも、魔女はこの姿のまま生き続けているだろう。だったら魔女は彼女の幸福を祈ろう。彼女が死ぬまで、死んだ後もずっとずっと、彼女が幸せであるように、思い続けて生きて行こう。