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アレックス(豚)

 この水晶は、この異世界に落ちてきた魔女の唯一の持ち物だった。舞花だった時にはこんな水晶はけして持っていなかったのだが、背負っていたリュックや手帳や着ていたお気に入りのTシャツもなかった代わりに、この水晶が一緒に池に落ちていたのだ。日本に戻るきっかけになるかもしれない、と肌身離さず持っているが、この20年、何かが起きたことはいっさいない。


 両手を水晶にあてて、うむむ、とうなっていると、庭の畑に面した縁側から魔王がのっそりと上がり込んできた。


「占い始めたの? 何か見える?」

「なんっにも見えないわ」

「だろうね。マイヤには全く魔力を感じない」


 魔王はくすりと笑い、後ろからそっと魔女の肩を抱きしめつむじにキスをした。魔女はじとりと据わった目で彼を睨む。

 魔王はいったいどんな気持ちでこんなことをしているのだろう。こんなことをしておいて、自分の妻によく似た容姿の女を寂しさ紛れにちょっかいかけているだけですけど? なんて言われたらきっと魔女は粉々に砕けて跡形もなくなるだろう。


 けっして、自分のこの淡い気持ちなんて告げられない。


 ぶぶんと頭を振って気持ちを切り替え、魔王の腕を払って立ち上がった。


「遠い国から帰ってきたばかりなんでしょう? お疲れ様。何かおいしいもの作ってあげようか」

「いや、それでいい」


 魔王は腕を伸ばしてテーブルの上に置きっぱなしになっていた高級クッキーをぽいと口に放り込んだ。あ、と思ううちに、ぽいぽいぽい、と残りのクッキーを口に入れてしまった。


「ああー全部食べちゃった」

「これで片付いただろう」


 魔王は悪い笑顔でにやついている。きっと、アレックス(豚)のために残しておいたのなんてお見通しだったのだろう。相変わらずの焼きもち焼きに、呆れつつも思わず笑ってしまう。


「お茶もどうぞ。ねえ、向こうの国はどうだった?」

「国内で反乱が起きていたみたいだけど、魔物は関わっていないようだったので放っておいて帰ってきた」


 魔王はぬるいお茶を一気に飲んで言った。


「人間というのは、争いが好きだな。短い寿命をさらに短くするとは、酔狂にもほどがあるだろう」

「平和な国に住んでいて良かったわ」

「そうでもないぞ? 第三王子が戦争の準備を始めているという話だ」

「え? あの子が?」


 この国の第三王子は現在16歳。まれに薬屋をひやかしにやってくるが、尊大で生意気な子供だ。あの気が強いわりには弱っちい見た目の、あの子が。


「生まれた時はあんなに可愛かったのに」

「人間の子のことなどよく覚えているな」

「特に可愛かったからねえ」


 まるでお祖母ちゃんのような言い草ではあるが、生きる年月が違うのだ。仕方がない。


「一体どこの国と戦争を起こそうとしているの?」

「我々とに決まってる」

「魔族と!? なんて無謀なことを。そんなこと、国王様が許すはずないと思うけど」

「そりゃそうだ。自分で兵を集めて勝手にやるようだ」

「はあ、相変わらず稀に見るバカ王子」


 魔女が脱力してうなだれると、魔王は彼女の腕をひっぱって抱き上げ椅子に座った。魔女は魔王の膝の上で横抱きにされている形だが、逃げずにそのまま彼の胸に頭を預ける。

 町はずれの山のふもとにあるこの小屋の周りはとても静かだ。裏の薬草畑にはたまに動物が現れるけれど、魔王が結界を張ってくれたおかげでとても手入れが楽ちんだ。

 耳をすませば、空気を入れるために少しだけ開けた窓から木々の葉が擦れる音が聞こえる。きっと温かい日差しを浴びて青々と茂っていることだろう。葉の隙間からこぼれてくるちかちかとした眩しい太陽の光を思い出して、魔女は目を細めた。


「何を笑っている」

「ふふ、魔王が今日も玄関を使わないで縁側から入ってきたから」

「だって、あの玄関の脇に立っている木には棘が生えているから」

「ちゃんと魔除けとして役に立っているわね」


 魔王が魔女を抱え直すと、椅子がぎしりと音を立てた。


「新しい椅子を用意してやろうか」

「いらないわ。欲しい物なんて、何にもないわ」

「そうか」


 魔王は大切な物を扱うように魔女を抱きしめると彼女の額に頬をあてた。今度は魔女の胸がぎしりと痛んだ。






「ブヒヒ、ねえ、裏の畑にはおいしいもの育てていないの?」

「この食いしん坊め! あれは薬草畑よ。あとは私が食べる分の平凡な野菜だけよ」

「そっかあ、そろそろ変わったおいしいものを食べたいなあ、ブヒッ」


 最近のアレックスはいっそうむくみがひどくなってきて、豚化が進んでいる。頬や腕やお腹、足を触ってみたが、これは代謝が悪いでは済まされないほどのむくみようだ。


「ねえ、アレックス。お医者さんには診てもらっているんでしょう」

「うん、原因不明なんだ。ただダイエットしろって言われるだけだよ」

「でもこれは異常だわ。もうむくみっていうレベルじゃないわよ」


 アレックスの腕をぷよぷよと揉むと、指が深く沈み込み、肌から水分がにじみ出てくるようにその指先がほんのりと湿り気を帯びる。これではまるでスポンジだ。


「そうかなあ。いつもと同じような暮らしをしているんだけどなあ」

「薬の量をこれ以上増やすわけにはいかないけれど……なるべく運動して塩分は控えめにして」

「魔女様が言うなら仕方ないね、ブヒブヒ」


 アレックスはそう鼻を鳴らしながら、薬を抱えて帰っていった。





 小綺麗なワンピースを着た黒髪の女の子が薬屋に駆け込んで来たのは、その3日後だった。


「魔女様ですか!?」

「はい、そうですよ」


 畑いじりの最中に足をひねった婆さんに湿布を貼ってやっていた魔女が顔を上げた。婆さんを連れてきた息子が、お急ぎならそちらをどうぞ、と手早く会計を済ませて婆さんを連れて帰ってくれた。


「どうしました。生理痛ってわけでもなさそうだけど」

「違います。あの、アレックスが通っている魔女様ってあなたですか?」

「豚によく似たアレックスなら、知っているわ」

「私は宿屋の娘のフランチェスカです。アレックスが大変なんです! 来てもらえませんか!?」

「大変て!?」


 アレックスは先日、彼史上一のむくみを見せていた。とうとう体調を壊したのだろうか。


「仕事中に突然倒れて、体中から水が出て……熱も高くて……お医者さんもお手上げなんです」

「お医者さんもお手上げなら、私もどうしたらいいのか……私はただの薬屋だし」

「だって、魔女なんでしょう? 何とかして!」

「いや、私は本当の魔女ではなくて……」


 フランチェスカは目にいっぱいの涙を浮かべて魔女の腕にすがりつく。口説いている最中、とは言っていたけれど、どうやらアレックスは彼女の心を射止めるのに成功しているようだ。


「行くだけ行くわ、待ってて」


 押入れからずた袋を引っ張り出し、思い当たる薬や薬草を手あたり次第突っ込んだ。急いで玄関を出ると、すぐ先でフランチェスカがうずくまって泣いている。高い所で髪を結わえているので、細い項が丸見えだった。

 恋人のことをこんなに心配している彼女の為にも、何とかしてあげたい。

 魔女は彼女の肩を優しく叩いて、立ち上がらせる。のんびりしている暇はないのだ。走るフランチェスカの後を必死について行くが、普段薬屋から出ることのない魔女は既に息を切らしている。


「魔女様、早く! こちらです」

「うええ……私の方が先にくたばっちゃいそう」


 フランチェスカに手を引っ張られ、足をもつれさせて宿屋の階段を駆け上がる。扉を開けたままの部屋に押し込まれると、魔女は息を呑んだ。

 部屋の湿度が異様に高い。壁までもじっとりと湿っている。窓を開けているのに換気が間に合わないほどの湿気。

 湿気の元はベッドでうなされているアレックスだった。寝かされているベッドは既にべっちょりと濡れている。彼自身が頭から水をかぶったようにずぶ濡れだ。


「アレックス、あんた一体どうしちゃったの」


 うんうんうなされているアレックスは魔女が来ているのにも気づいていないようだ。たまにかすれた声でフランチェスカの名前を呼んでは彼女を泣かせている。


 確かにこれは医者も手をつけられない。体中から水があふれ出てくるなんてことありえない。ある程度の水分が出てしまったらあとは脱水するものだが、一向にその様子はない。ベッドからは床に水がしたたり落ちている。


 こんなこと、ありえない。


 魔女は頭を抱えた。そもそも魔女は医者でもなんでもない、ただの薬屋だ。それでも何とか彼を助けたい。何でもいい、手掛かりになることを思い出せ。魔王だったら魔法で何とかできるのではないか。でも彼がアレックスに手を貸すとは思えない。だって彼はアレックスに焼きもちを焼いて……。


―――あの呪われた豚がいいのか。


 魔女は顔を上げてアレックスを見た。確かに魔王はアレックスのことを、呪われた豚、と言っていた。あの時はただの悪口だと思っていたが、単純に事実を述べていただけだとしたら。


「呪い……?」


 魔女がそうつぶやくと、フランチェスカが眉をひそめた。


「ちょっとアレックス! あんた何か食べたんでしょう! 呪われるような生き物を!!」


 アレックスの肩を掴んで揺すると、ちゃぷちゃぷと水音がしてベッドからさらに水が滴ってきた。それでも彼はまだ意識が戻らない。

 魔女は袋をごそごそと漁った。呪いに効く薬なんてあるだろうか。魔除け? 魔除けの薬草でいいだろうか。

 どす黒い色をした薬草を取り出し、アレックスの体の上で直接絞る。本当は丁寧に砕いて擦って濾して抽出するものだが、今はそんなことしている場合ではない。力いっぱい両手で絞って、アレックスの顔から体じゅうに真っ赤な汁を落として塗りたくった。


「フランチェスカ、玉ねぎとか葱を刻んで持って来て! たくさん!」

「ね、ねぎ!? わかりました!」


 フランチェスカが厨房から持ってきた大量の玉ねぎとネギを口の中に詰め込んでやると、アレックスはやっと目を開いた。しかし、その瞳はどんよりと濁っていて何も見えていないようだった。しばらくぼんやりと宙を見つめていたかと思うと、突然起き上がって口の中いっぱいの玉ねぎを吐き出した。そして、そのままオロロロロ……と大量の水を吐き出し、最後にごぼっと水の塊を吐いた。


 床は水浸しで廊下にまで水があふれ出ていた。そんな大きな水たまりの中で、アレックスが吐いた水の塊がびちびちと跳ねている。おそるおそる近づいてみて見ると、それはまさしく水でできた魚だった。


「あんた……魔魚を食べたのね」


 魔女が睨むと、大量に吐いてすっきりしたアレックスが顔を上げた。魔女とフランチェスカがびっくりして声にもならない悲鳴を上げた。ベッドの上には以前の豚からは程遠い、整っていて精悍な顔つきの青年が横たわっていた。たぷんたぷんだった腹肉もどこへ行ったのかすっきりとしている。


「そうか……あの魚か……」


 アレックスはぐったりとベッドにうつぶせた。



初対面の女の子に「生理痛?」と聞いてしまう魔女のデリカシーのなさよ

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