第一話«背中合わせの双対»
リュネル・ラノ・バーラスは、走っていた。
普段から任務などで動き回ることは少なくないが、こんなにもただ『走る』事だけをしたのは、学園の授業以来な気がする。
「おい、早く捕まえろ! 奴だ!」
後方から、怒鳴り声が聞こえてくる。
まずいな。
リュネルはそれに構わず、全力疾走を続ける。
真っ黒で少し長めな髪が風に攫われ、滲み出る汗も同じく進行方向とは逆に落ちてゆく。
リュネルが走っているのは、路地裏の様な、簡素な造りの通路。恐らくその通りで、この建物の持ち主に使えている使用人や従者などが使用するものなのだろう。今はもう居ないが。
所々、壁や天井が崩れている部分や、使われていない木材、酒樽、何の用途に使うのかわからない金属板などが、あちこちに散乱していた。
足止め程度だが、走りながらそれらを強引に倒して、通路を塞いでおいた。
「あぁ?! なんだよこれ!」
どうやら効果的だったようだ。
後ろから苛立ちの篭もった男の声が響く。
振り返りもせず。
走る。走る。走る。息が上がり、口呼吸になる。
「はぁっ、はぁっ」
コートの裾が一々ふくらはぎを叩いてきて、鬱陶しい。こんなことならもっと動きやすい格好をしてくればよかった。
曲がり角が出てきたら直感で曲がり、行き止まりにぶつかろうものなら少し前に戻ってやり直した。
撹乱の意も込め、わざと直感で、感覚的に動くようにしていた。
不思議と、追いつかれることは無かった。
ただ、リュネルは闇雲に走っているわけではなかった。ある場所を目指している。
そういう風にしているうちに、体力はなかなかに尽き、長い廊下へと出る。
今まで走ってきた造りとは一変、豪奢な飾り付けの施された壁面や、黒光りしてただずむ武骨な武器を携えた甲冑。
顎に滴る汗を強引に拭う。
ここだ。
再び、足を動かし、腕を大きく振り、走る。
ベチャッ、ベチャッと足の裏に何かがまとわりついてくるが、そんなものはお構い無し。
ただそれも思い切りに足を踏み込んで走っているせいで、少し顔や体に飛散してくる。
直線を、ただひたすらに真っ直ぐ走る――と。
目の前の曲がり角から、重火器を持った大柄な男達が、出てき、こちらに銃口を構える。
リュネルは慌てて急停止。
「砲撃! 開始ぃ!」
先回りされていた。わざと追いつかないようにして、誘い込まれていたのか。
なかなか連携が取れているようだ。
しかしリュネルがこんなにも冷静にいられるのは。
ここまで想定通り。
口の端を不気味にゆがませる。
合図と共に重火器の引き金が引かれる―――。
寸前で。
ドゴーンっ! という爆音と共に、丁度リュネルの位置と、重火器を持った男達の位置の間辺りの天井が崩落した。
「なんだ?!」
一様に男達も思わず驚きの声を上げる中。
「もう少しだったわね、残念。」
鈴音を思わせる、美しい声が、耳に届く。
男達、リュネルも同じくして、声の方に視線を向ける。
黙々と立ち込める煙の中。
それが晴れかけた時。崩れた天井の瓦礫の上には、宝石のサファイアのような、綺麗な淡い青色の髪をひとつに束ねた少女が、こちらに背を向けて立っていた。
こんな場に相応しくない、ドレスのようなものを身にまとっていた。
「遅いよ」
リュネルはボソッと誰に聞こえるでもなく呟いた。
「〔顕現〕」
少女は正面の重火器を持った男達に向け手を挙げ、パチンっと指を鳴らす。
瞬間、少女の頭上には大量の水が生成される。
重力に逆らい、ふよふよと少女の頭上で浮いている。
「はぁ?!」
重火器を持った男達は、一斉に驚きの声をあげ、目を見開く。
勝ち目がないと悟ったのか、手をだらんとして、引き金から指を外してしまっていた。
「ほ、砲撃ぃいいい!!」
間の抜けた声がした。
方向はリュネルの後方から。
すぐさま振り返ると、前方、少女の正面の男達と装いの同じ、重火器を持った者達がいた。
しまった、いつの間にかこちらにも回られていたらしい。
銃口は目の前のリュネルでは無く、新しく現れた標的。目の前の少女へと向けられていた。
「スー!」
リュネルは少女、スー・ラノ・マルテアに、照準を合わされていることを伝えるべくして、名を呼ぶ。
同時に、少女、スーは高らかに魔導の詠唱を叫ぶ。
「〔セラ・顕現〕!!」
詠唱に呼応し、スーの頭上に浮いていた水の量が倍増し、リュネルとスーを囲むように移動する。
ぐるっと二人を囲む水は、盾のように二人を守っていた。
自ずと、リュネルとスーは背中合わせになる。
「行けるか?」
リュネルは後ろの少女に問いかける。
「そっちこそ」
声に楽しそうな響きが乗っていた。
「砲撃! 砲撃ぃぃぃ!! 早く打てぇぇ!!」
「お、おい、こちらも早く、早く!!」
指揮官なのかリーダーなのか、スーとリュネルのそれぞれ前方、武装した男達のまとめ役は、揃って腰を抜かしながら、命令を下す。
戦意をすっかり喪失していた部下達も慌てて重火器の引き金に指をかけ、砲撃の構えをとる。
「「〔セラ・」」
スーとリュネルは、背中合わせのまま、正面の敵に向かって右手をむけ、詠唱を唱える。
「打てええええええええええええ!!」
重火器の、引き金が引かれた。
しかし、詠唱は、終わらない。
リュネルの右腕のガントレットが、淡く光り輝く。
「零の波動〕」
少女の首のチョーカーが、青く明滅する。
「蒼の白滅〕」
刹那、〔蒼の白滅〕は。
スーとリュネルを囲っていた、スーの前方の水がうねりを上げ、激流となり、凄まじい勢いで男達を襲う。
当然、重火器から放たれた火球は、スーの魔導の威力を下げるほどの働きはできなかった。
圧倒的な質量に普通の人間が為す術などなく。
「あ、ああぁぁぁあああ」
爆音と共に獣の口のような水流が男達を丸呑みにした。
後には水浸しの床と、それに混じって赤黒いものが混じり、厳かな空間を穢していた。
断末魔ですら、間抜けな声だった。
スーの放った〔蒼の白滅〕は、前方の敵の四肢諸共、粉々に砕き、元が人間だったのが嘘のような残骸が残るに至った。
一方、少女の後方。リュネルの放った魔導は。
掠れる視界。
リュネルは、立っているのがやっとなくらい、体に倦怠感が襲う。
動悸が激しく、そのくせ貧血の時みたいにふらふらする。
薄く開けた瞼から覗く光景。
目の前にあったスーが顕現した水の盾。前方にいた、武装した敵。こちらに飛んできた火球。
全てが消えた。
強いて言えば、〔零の波動〕は、立っていた男達の上半身を撫でたので、足はそのままそこに残っているくらいか。
体を薙いだことで行き場を失った臓物と体液が地面に散らばっている。
と、いよいよ苦しさに耐えかね、ドサッと腰を下ろす。
そして、後ろの少女を振り向く。
助かった。
そう言う前に、リュネルの意識は刈り取られた。