22話 妃奈子と礼仁
二年前、礼仁が雪野に会う少し前のこと。
ある日、礼仁の体に不調が起きた。魔法を使おうとすると、全身に走る強烈な痛みと、体の感覚が徐々に薄れていく事態だった。
当時、厳太郎や妃奈子は研究員の調べで、礼仁が特殊な魔力特性を持っていることは分かっていた。そしてそれが、礼仁など子供たちが受けた人体実験の結果生じたことなのだということも。
魔力特性は、数少ない先覚者の中でもほんの稀にそれを持って生まれてくる者がいる。先覚者が使う力にさらに特別な力を付与し、それを持つ者は、世界中でも数十人もいない。
その特別な力を、人体実験によって礼仁はその身に宿してしまっているのだ。
礼仁のその症状は、しばらく休めば回復するものの、再び魔力を一定時間使うと同じ症状が出た。それと似たような症例は、過去にもあった。
それは魔力特性とは全く関係のない症例だが、症状は礼仁の状態と酷似していた。そして、その症状があった者が、幼い頃の妃奈子だ。
その原因は、まだ成長途中の体に、その身に余る強大な力を宿し、さらにそれを使うことによって体に膨大な負荷がかかるものだった。だから、魔力を使わなければ症状は出ないものの、魔力を使えば途端に体が刺激されて症状が出る。
よって、急遽礼仁の魔力に制限をかける物が作られた。妃奈子も幼い頃はそれを使い、体への負担を最小限に抑えていたのだ。
礼仁は魔力に制限がかけられることとなり、その管理も連盟がすることとなった。
そうして管理されるようになってからは、礼仁は力の使い方を変えた。たとえ、力が封じられていても、最小の力で最大の効力を発揮することに力を注いだ。同じ境遇にあったこともあるため、そのことには妃奈子は特に驚いていた。
「礼仁君は、よく頑張るんだね」
その時は、まだ琴音がいない時。礼仁の世話は妃奈子に任せられていた。
礼仁がいつものように現状では少ない魔力を、どのように使うか試行錯誤していた時に、妃奈子はそう言ったのだ。
それに対して、礼仁はとても真剣な顔で返した。
「全然頑張ってない。こんなのは、普通のことだよ」
その言葉に、妃奈子は苦笑いした。今彼女の目の前で礼仁がしていることを当たり前と呼ぶには、あまりにもおかしな光景だった。
それは別にはっきりと目に見えるものではない。近くにいる妃奈子には見えるだけで、おそらく十メートル以上離れている見張りの職員には、礼仁のしていることは全く見えていないだろう。
礼仁はただ自身の魔力を凝縮し、本来な微量な魔力では操れない量の水を操っている。はた目から見れば普通に水を操っているだけなのだが、使っている魔力量が少なすぎるのだ。
こんなやり方をするのは、妃奈子には覚えがない。妃奈子の時は、ひたすら自分を強くするだけで、魔力の使い方は大して工夫しようとは思わなかった。元々人以上にできていたのもあるが、封印されたのだから弱くなっている、という認識があったのだ。そのため、弱くなっているのは仕方ないと我慢して、封印される前の力を手にしようとは思わなかった。
しかし、礼仁はそれをしている。
とてもすごいことなのだが、それと同時にどうしようもなく強くなろうとしてしまうのだな、と妃奈子はその時思った。
「礼仁君は、どういうのが頑張るってことになると思うの?」
「それは…………」
礼仁はこの時よく考えた。妃奈子だけではなく、礼仁の事情を知っている者は、よく頑張っている、と礼仁に言う。
その意味を礼仁は考えようとはしなかったが、それでも何となく、自分は頑張ってはいないと思っていた。それはなぜか。
「……たぶん、諦めないこと、かな。きっと、諦めない人は頑張っている人なんだよ」
そう答えるのが、礼仁にはしっくりと来た。頑張っている姿、諦めない姿は礼仁には眩しいものに思えるのだ。
「だったら、礼仁君は頑張ってるね。諦めてないし」
「何でそんなことを?僕は逆で、諦めてるんだよ」
「そんなことないよ。そうやって、強くなることを諦めてないでしょ。制限されても、そこから頑張って強くなろうとするでしょ」
「こんなのは諦めていないとは言わない。だから、頑張ってるとも言わない」
「でも……」
さらに言おうとする妃奈子に、礼仁は畳みかけるようにさらに言う。
「こう言うのもなんだけど、僕は自分の力の限界を知らない。だから、僕には諦めるとか諦めないとかは関係ないんだよ。ただ、まだ先があるから行くだけ。ただ歩くことは、頑張っているとは言わない」
その言葉は、冷たいものだ。妃奈子と礼仁の間に、何か壁を作るような言葉だった。
妃奈子はそれが悲しかった。おそらく、礼仁はだんだん一人でいることに慣れていってしまうのだろう、とこの時思った。
この先、成長していけば多くの人と接する機会は増えていく。しかし、礼仁が心の底から信頼する相手とは、どこかに現れるのだろうか、と心配になる。
心を許すことのできる相手とは、生きていくうえでは非常に大切なのだということを、礼仁は忘れてしまっている。
しかし、妃奈子はそれを指摘することはできなかった。指摘すれば、否応なしに礼仁のトラウマに触れてしまうのだから。
☆
<神格詩人>との食事兼話し合いを終えた厳太郎と妃奈子は、連盟に戻り、それぞれの仕事部屋へと戻った。琴音はいつものように妃奈子について行き、仕事部屋でくつろいでいる。
妃奈子は椅子に腰かけて、くつろいでいる琴音のことを見ていた。
もしかしたら、その場所に礼仁がいたかもしれないと思うと、妃奈子はやはり琴音で良かったなと思った。
(きっと、礼仁君が私の付き人だったら、私は息が詰まっていたわね。それに、彼を傍で見るのは辛いしね)
妃奈子が礼仁の面倒を見ていたのは、将来的には礼仁が妃奈子の付き人になる可能性が高かったからだ。
しかし、その話が出た時に妃奈子は断った。面倒は見るものの、礼仁を近くに置くことを妃奈子は拒否したのだ。
それは、礼仁が苦しむ姿を間近で見るのに耐えられなかったからだ。礼仁はこれからも、自分の力で苦しんでいくことになるかもしれない。妃奈子は成長して体が丈夫になったことで、強大な力を問題なく使えるようになった。しかし、礼仁の場合は事情が少し違う。
魔力特性であることもそうだし、それが人工的に作られたものだということも事情だ。否応なくその姿を見続けることになってしまうのなら、それはできるだけ離れて見ていないと、妃奈子には耐えられなかった。
妃奈子は五年前のことをたまに夢に見る。
あの日、礼仁たちを助けた時、たった二人の子どもが血の海にいたことを。
それを見た瞬間、妃奈子の中には様々な感情が渦巻いて、混乱した。
助けたいと思ったが、どう助ければいいのか分からない。こんな壮絶な環境にいた子供に対して、一体なんて声をかければいいのか分からず、妃奈子はただ普通の一人の子供として扱う他なかった。
少し過保護だとしても、妃奈子は礼仁のことを弟のように思い、接してきた。
五年前の悪夢は、どうしても記憶の中に残ってしまう。それほどまでに強力なものだった。特に、礼仁はかけがえのないものを失った。その悲しみや絶望は、きっと想像以上なのだ。
それを抱えて生きているだけでも、凄いことなのだ。だからこそ、これ以上苦しまないようにしないといけない。
苦しまないようにするために、苦しんでもらう。
それは仕方のないことかもしれないが、分かっていて見逃すのは、妃奈子には心苦しい。おそらく、今会えば何かあったことくらいすぐに勘付かれてしまう。
(だからきっと、私は礼仁君を付き人にしなくてよかった。本当に良かった)
妃奈子はそう思いながらも、辛そうな表情のまま、礼仁がいたかもしれない琴音の場所を見ていた。
☆
厳太郎たちが去った後、<神格詩人>は口元に笑みを浮かべた。
「ここから、ね。準備にかなり手間取ったけど、それでもこれでいい。誰も彼もが私の思惑通りに動く、そんな劇が始まる。私の歌に合わせて、みんなが配役に従って、それぞれの役割を果たしていく。何とも、滑稽なことね」
<神格詩人>にとっては、あらゆる全てのものが自分のためだけのものだ。全てを扱うのは彼女で、全てを壊すのも消すのも彼女自身。それが彼女のやり方だ。
「さてさて、最初は波城桃花。死んでもらう必要はないけれど、あれは私への対抗策になりえるからね。早めに排除はしておかないと」
今の<神格詩人>には、波城桃花だけが弱点になりえる。だからこそ、消えてもらう。最悪の場合は死んでもらっても構わないが、後々利用することを考えると、彼女は生かしておく方がいい。
「そこら辺は、ちゃんとしてもらいたいところね」
誘拐犯役をする倉木と九条がやりすぎて、危うく殺してしまわないか心配に思うものの、それでも少しは覚悟している。
それに、最終的にはこの二人が負けることも分かっている。それなら十分な結果は得られると予想できる。
「さてと、これで序章の……いえ、序章の準備の駒は全て揃った。波城桃花、倉木、九条、そして<水聖>。全員、私の歌に沿って、踊ってもらいましょうか」
<神格詩人>は誰でもなく、最後は自分が勝つことを確信していた。