0004 抑圧と発露
飲食店を出て、空を見上げた。青空の彼方に分厚い雲が見えて、如月茜はちらと今しがた出てきたばかりの扉を見る。誰かが追いかけてくる気配はない。
(でも、探してくれるんだろうなぁ)
確信していた。絶対にあの二人は自分を追いかけてくると。いつもそうだ。ある程度までは皆、追いかけてくる。
そうして、最後には自分の目の前で——
かぶりを振って、何度も見た思い出したくない光景を頭から追い出した。下唇を噛み締めて、後ろ髪を引かれる思いで踏み出す。前に、遠くに、自分一人になるために。
駆けた。必死に駆けた。
セーフティゾーンを抜け、ひび割れた道路や剥き出しになった地面ををひたすらに走る。時折瓦礫に足を躓かせながら、それでも止まらずに足を動かし続ける。
そうして、スタミナが限界に近くなってきた頃。移動を徒歩へと切り替えた。もう、セーフティゾーンからはそれなりに離れた。真っ先に外を探すとは思えないし、このまま歩いていてもなんとか逃げ切れるだろう。
と、そんなことを考えて、茜は自嘲気に笑みを漏らす。
(……本当に逃げ切りたいなら、もっと)
もっと遠くまで、本気で逃げるはずなのだ。なのに自分は中途半端な逃亡で、休憩を兼ねると建前まで作ってのんびり歩くことを認可している。
汚いと思う、面倒くさい女だと思う。相手が危険になることを分かっていてこんな真似をするなんて、モラルが足りてない。
(逃げ、なきゃ……っ)
誰かと一緒にいたい。それは本音だけれど、誰かが傷つくのを見たくないのも、やっぱり本当の気持ちなのだ。もう二度と、自分のために大切な人を失うなんて経験はしたくない。
歩速は次第に速くなり、いつしかそれは駆け足へと変わる。
——ぽつり。
顔に雫が当たった。上を見れば空は雲に覆われている。ゴロゴロと唸り声をあげる空にびくりと肩を震わせて、どこかで雨宿りでも、と考えるがすぐさまそれを却下する。
立ち止まってはいけない。誰かを不幸にすることしか出来ない自分は、一箇所に留まってはいけない。一人でいる寂しさよりも、一人になる寂しさの方が、よっぽど辛いから。
(……一人に、なりたくない)
そう。そうだ。一人でいれば、一人になることはない。だから、これでいい。
降りしきる強い雨の中、決意を胸に茜は地を蹴る。行く宛など、どこにもないのに。
× × × ×
消え行く魔物を見て、ふぅと息を吐く。一人のときに遭遇するのは、いつもはぐれで一人ぼっちの魔物だ。レベルもそれなりに倒しやすいものである。
こうして認識すると、やっぱり一人でいるのが一番安全だと感じた。間違ってもモンスタートレインを生み出したりすることはないし。
けれど、ふとした瞬間に思い出してしまう。
『まあ、どうでもいいわ。とりあえず、チームを組もう。異論はないな?』
ふふっとつい笑みを漏らした。今まで生きてきて、なにかに誘われることはそれなりにあったけれど、あんな強引に誘われたのは初めてだ。
(どうして異論がないって断言したんだろ……)
断言、とは言えないのかもしれないけれど、なくて当たり前みたいな言い方ではあった。出会って精々一時間くらいしか経っていなかったはずなのに。
断られるとは思っていない、そもそも、断らせるつもりもなかったんじゃないかと感じる。強引な人だ。
(ああいう人が、クラスの中心になるんだろうな)
自分はそういうのとは縁がなかった。幼い頃から自分の体質にはなんとなく気づいていたし、極力誰とも関わらないで生きてきた。それでも、母校は閉校してしまったが。
すべて自分が悪いのに、いつだって他人は優しくしてくれた。不幸を招く自分を気味悪がることなく、悲劇のヒロインかのように同情し、悲しんでくれた。
それもすべて、体質なのだろう。オカルト的な話になるが、誰一人——亡くなった友人の家族も、周りで人が不幸になるのを見ていた学友さえも——自分を責めないなんて気色の悪い環境を説明出来るのがそれしかない。
みんなが気遣い、親しく、近くに寄り添ってくれる。親しい関係にある人すべて不幸に陥れる。二つ揃って一つなのだ。
集めて殺す。たちが悪いにもほどがある。
けれど、だからこそ諦めもつく。人と一緒にはいたいが、本来なら特別人に好かれるような人間じゃない。自分の意思に関係なく、誰もが無条件に優しくしてくれるなんてありえない。
それは偽物だ。自分が近くにいることで、体質によって変異した偽の優しさだ。実際、どれだけ親しくしていても、逃げ切れたことは何度かあった。近くにいるからそうなるのなら、遠く離れれば効果は切れる。
効果の切れた瞬間を目にしたことがあるわけではないので、本当のところは分からないが。
(作り物なら、突き放すのも、ちょっとは楽かな……)
本当に自分のことを想ってのことなら気は引けるけれど、そうじゃないなら気負うことはない。相手のためにもなる。不幸にしか出来ない自分が、相手のために何かが出来る。たとえ元凶が自分でも、そのことが少し嬉しいのだ。
口元を緩ませると、同時に気も緩んでしまったのか、お腹から情けない音が響いた。誰もいないことは知っているけれど、つい周囲を確認してしまう。
「お腹空いた……」
一旦セーフティゾーンまで戻ろう。もちろん、月見里雪たちと話したものとは違う場所だ。セーフティゾーンは各地に無数に存在している。
そろそろまた移動するべきだろうか。あの日からすでに三日が経っているし、二人も諦めているとは思っているのだが、女子中学生が一人でいるのはどうも悪目立ちしてよくない。
うんうんと悩んでいると、またしても腹の虫が盛大に鳴く。
「……とりあえず、ご飯」
腹が減ってはなんとやら。至急、空腹を満たさなければ。考えるのはその後にしよう。小走りでセーフティゾーンへと向かった。
——ああ、寂しい。そんな気持ちを誤魔化すように。
× × × ×
茜には、この世界になってよかったと感じることがいくつかある。
一つ目は、自立した生活が出来ること。
自分でお金を稼ぎ、自分で宿を取り、自分で食事を買える。誰の保護下にもない、一人で完結した生活が出来る。これは元の世界でそうなって欲しいと望みながらも、茜の歳では絶対に叶うことのないものだった。
最初はやっぱり、化物と戦うのは怖かった。対峙したときは腰が引けたし、正直生きていけるか不安だった。けれど、それも無理にでも戦ううちに慣れてきた。デメリットがあったとすればそれくらいなので、現状不満は特にないと言っていい。
二つ目はこの世界を変えた存在の発言にある。神さまを倒せればなんでも叶えてくれると言っていた。それが、茜の原動力になっている。
(この体質も、治るかな……)
あのなんでもやってしまえそうな存在なら、自分を普通の人間にすることも出来そうだった。まあ、倒すことは現実的ではないと感じるが。あわよくば、と思わずにはいられない。
だいたいこの世界、あの神の言葉を信じるならそんなに厳しいものではない。重度の臆病でなければ、それほど生きていくのに苦労することはないだろう。
三つ目は、一つ目で話したことと関連している。
目の前にコトリ、と静かな音を立てて食器が置かれた。そこにはジュウジュウと音を立てるステーキが盛り付けられている。茜の目を惹くのはステーキに乗った白い半球体。ドロドロと溶けるその様はまるでアイスのようで——否、アイスである。
じゅるりと垂れそうになった涎を啜る。アイスの乗ったステーキ。その異様さに、心なしかウェイトレスの頬は引き攣っている。
自由な食事。それが、茜がこの世界になってよかったと感じる、三つ目の事柄だ。
この女、甘党と呼ぶには足りない。重度の甘味愛好家。いや、甘いものしか食べられないと言った方が正しい。幼少期からこうだったわけではないのだが、その舌が狂ったのは環境故か。
続けて置かれた蜂蜜のかかったライス。普通の人間が見れば、なんて酷な罰ゲームだ、と思わざるをえない。オブラートに包んでも地獄のような食卓と表現するしかないが、茜はそれを満足気に平らげる。
そして、満を辞して登場するラスボス。はっきり言って表現するのも憚られるので割愛。
むしゃむしゃもぐもぐと悪食を惜しげもなく披露していると、唐突に聞き慣れた声が耳に届いた。
「——それにしても、まじで見つからねぇな」
反射的にフードを目深に被る。ちらと声のした方向へ目を向けると、そこには数日前に突き放した男の姿。隣にはその場にいた黒髪の女性。
(どうして……)
まさか、ここまで追ってきたのか? 本当にまさか、という心持ちだ。そんなわけがない。そういう人間は知らない。
二人組が隣のテーブルに座ったのを見て、帰ろうと立ち上がりかける。が、デザートをまだ食べきっていない。迷った末に座り直す。
(フード被ってるし……装備も変わったし。バレない、よね)
さっさと食べてさっさと帰ろう。そうと決まればと、茜はペースを上げて皿を綺麗にしていく。しかし、気づかれないわけがなかった。
フードがどうとか、装備がどうとか、それ以前の話だ。こんなものを平然と食べるような人間を、二人は茜しか知らないのだから。
「……茜?」
凛と澄んだ声で呼ばれ、一瞬手を止めてしまう。即座に立ち上がって出入り口へと向かう一歩を踏み出した。
(なんで。なんで。なんで。なんでっ!!)
どうしてバレたのか分からない。どうしてここにいるのかも分からない。一刻も早く逃げなければ。しかし、二歩目にして腕を掴まれてしまう。
「な……なん、で、ここに……?」
振り向かずに問う。
「お前それ、分かってて訊いてねぇ?」
呆れたように息を吐いて、月見里雪は言葉を続ける。
「こっち向けよ、茜。遠路遥々《えんろはるばる》お前を仲間にしに来たってのに冷てぇやつだな。あーあ、涙が止まらねーよ」
言われて振り向きながら、一体自分はどんな顔をしているのだろう。堪えた喜びは彼の表情を見て容易く溢れ出した。
(やめて——)
そんな顔で、見ないでくれ。二度と見たくないと思ったのに、二度と見れないと思ったのに。どうして、そんな簡単に。
(まるで、子供のときから一緒だったみたいに——)
間違いなく、つい先日出会ったばかりなはずなのに。その笑顔が、確かにあのとき自分を庇って轢かれた彼女と重なる。
初めての友達にして、最後の友達。そう思っていた。ずっと、彼女を超えることは、いや、彼女と並ぶことすらなかったのに。心が叫ぶ。どれもこれも、偽物だったのに!
(逃げないと……またっ!)
直感だった。きっといつか彼を殺してしまう。それが嫌だから、どうしようもなく嫌だから、茜はすべての欲求を完膚なきまでに殴り殺して、勢いよく掴まれた手を払った。
上を向いて落ちそうになった雫を溜め込む。すんっと鼻をすすって、乱暴に腕で顔を拭う。拳を握りしめて彼を精一杯睨みつける。
そうして、三つもの手順を踏んで、それでも尚、とても出来ている気がしなかった。
怒って、突き放さなきゃいけない。分かってる。そんなことは、十全に、分かっている。それでも、どうしても、怒れない。怒りが発露しない。
どうしようもない。
(——無理だ)
だって、怒りなんてどこにもない。
こんなんでどうやって怒ればいい。そもそも、怒るとはどうすればいいんだったか。そんなことすら思い出せない。
どうしようもない嫌悪感も、欲求を封じ込めるほどの衝動も、順序立てて組み立てた怒りも。
心を震わせる喜びがすべてを一蹴する。
「たのんでっ……ないっ……!」
絞り出した声は掠れていた。なんて情けない声だろうと思う。
(なにも言わないで……黙って、黙って、黙って、黙って嫌いになって——)
「かかわら、ないでっ……言った、のに」
みっともなく途切れ途切れになる声。けれど、止めるわけにはいかないのだ。言いたくないのに、言わなければいけない。
「どうしてっ……!」
(分かって。本当に、嫌だから。もう、嫌……)
「——嫌い」
わがままな子供を見守るような視線から目を逸らして、激しく言い募る。どうか嫌いになって欲しい。お願いだから嫌いになって欲しい。絶対に——
「——だいっきらい! 雪、さんも……見月さんもっ!」
(——嫌いに)
「に、二度とっ、顔も……見たくない……!」
(——ならないで)
だめだ。もう、無理だ。抗えない。最初から、言葉が真実味を帯びていない。これでは本当に幼子の癇癪だ。なんの説得力もない。
これ以上、なにを言えばいいのだろう。つい黙り込んでしまった。
「だそうよ、雪。振られちゃったみたいね、どうするの? 慰めてあげてもいいわよ」
くすくすと笑いながら、見月が雪に訊ねる。三文芝居にしか見えない。
「それは魅力的な提案だが……生憎、たかだか二回振られたくらいで諦めるほど物分かりのいいタイプじゃない」
「そう。残念だったわね、茜。 私も嫌いと言われたまますごすご帰るほど控え目な性格はしてないの」
(——黙って、黙って、黙って……黙れ、黙れ、黙れ! もう、なにも言わないで)
限界だから。耐えられないから。逃げられないから。
「だからっ……頼んでな——」
「なにを勘違いしてるのか知らねぇけど、別にお前に頼まれたから来たわけじゃねぇよ。自惚れんな。そういうことは、もうちょっといろいろ成長してから言えよ。お前のためになにかをしてやるほど、俺はお前のことなんて知りはしない」
わけが分からない。こんなところまで来ておいて、なにを言い出すんだこの男は。
「だ、だったらっ、どうして……っ!」
「はあ……俺がお前を仲間に誘う理由なんてシンプルだろうが」
「シンプル……?」
「ただ単に、俺がお前を仲間にしたい。それだけだ。俺は自分のやりたいことを優先する人間だ。そこの令嬢にエゴイストと評されたくらいにはな」
「……まだ根に持ってるの?」
じとっとした瞳で睨め付けられて、少しだけ狼狽しながらも彼はまっすぐに茜を見つめてくる。その視線からまた逃れようとして、しかし、どうしてか動かない。
「……雪さんがわたしを仲間にするメリットなんて、ないじゃないですか。し——死ぬかもしれないんですよっ!? そんなデメリットを帳消しに出来るようなものなんて、わたしには……っ」
「……よく分からねぇな。そもそも誰かと親しくなるのにどうしてわざわざメリットデメリットを考慮する必要がある? どいつもこいつも、似たようなことばっか言いやがって」
見月が気まずそうに顔を背ける。二人の間になにがあったのかは分からないけれど、彼女も似たようなことを言われたのだろうか。
「だって、わたしのは……考慮しなきゃ……」
人が死ぬのだ。親しい人が、大切な人が、死んでしまう。だから、考慮しなきゃいけない。拒否しなきゃいけない。
「はっ……ああ、いいよ。ノってやる。お前の持つデメリットとやらで俺を殺せるってんなら殺してみろよ。俺は絶対にお前になんて殺されてやらねぇ。だから、お前にはそれを見届ける義務がある。……ああ、別にお前の話を嘘だと思ってるわけじゃねぇからな?」
「なっ……なにを」
またわけの分からないことを言い出した。本当に自分のことしか考えてないんじゃないのか。
「分からねぇか? ——殺されてもいいと、そう言っている」
ぶふっと、飲み物を吹き出したような音が聴こえた。その人物の名誉のためにもそちらに顔は向けず、目の前の男を見続ける。
(……あぁ)
敵わない。
殺されてもいいと思ってるから言っているのではない。もちろん殺せるなら殺してみろとは思っているのだろうが、これは絶対に殺されるつもりがない人の目だ。自分の話を真実だと確信しながら、それでも尚、そう言い張るのだ。
「まだ……理由を、わたしを仲間にしたい理由をしっかり、聞いてません……」
よく分からないのだ。どうしてたかが数時間顔を合わせただけの相手にここまで執着するのか。理解出来ない。
「さっき言った通りなんだがな……まあ、敢えて言うとしたら、お前が言ったからだ」
その言葉に首を傾げてしまう。自分がなにを言ったのだろう。特別、なにか感情を揺するようなことを口にした記憶はない。
「……なにを」
いつの間にか涙が引いていたことに気づいた。なんというか、着いていけない。置いてきぼりにされたような、そういう感覚。
「誰かと一緒にいたいって言ってたろ」
「は?」
茜の戸惑いを無視して、雪は言葉を続ける。
「関わって欲しい、親しくして欲しい、助けて欲しい。……それで、今、嫌いにならないで欲しいと言った」
「そんなことっ」
「言ったよ。確かに、お前はそう言った。お前がどんな言葉を放ったつもりでいるのかは知らねぇけど、俺にはそうとしか聞こえなかった。間違ってたか? 俺の耳が、俺の目が、腐ってたのか?」
言葉に詰まる。その通りだと認めてしまっていた。
すべて見透かされていた。どんな否定の言葉を紡いでも、その裏の感情を読み取られていた。
「どうしても嫌だというなら、俺が間違っていてあれがお前の本音だと言うなら首を振れ。三度断られたなら、お前を追うことはもう止めよう。仕方ねぇ、諦めてやる。でも、そうじゃないなら頷け。一緒にいたいなら、俺が一緒にいてやる。出来れば頷いてもらえると助かるよ。俺はお前と一緒にいたい」
ずるい人ね、ともう一人がつぶやいた。それに苦笑して、彼は優しい声音で、
「改めて、誘おう。如月茜——俺の仲間にならないか?」
首を振ればいい。それだけで済む。お前の勘違いだと払ってしまえば、片がつく。
出来ない。それが出来ない。置いてけぼりにされた気がしたのに、急に寄り添うような言葉を向けられてじわりと視界が滲む。なんで、どうして。
(どうして最後にっ)
最後の最後で判断を委ねられた。そのまま引きずっていってくれれば、エゴを貫いてくれれば、どうしようもなかったのだと自分を誤魔化していられたのに。
意地悪な男だ。心底そう思う。こんな人とうまくやっていけるのだろうか。不安になる。
いくつもいくつも、絶え間なく首を振るための理由を浮かべた。一つ残らず、頷きたい気持ちに潰された。
「……一緒にいて、いいんですか」
「ああ」
「きっと……いっぱい迷惑をかけます」
「そんなもんだ。俺もかける自信がある」
「……すごく、危ない目に、遭わせるかもしれませんっ」
「乗り越えよう、みんなで。そういう胸熱展開は大好物だぜ」
ああ、なんでこんな。さっきまでの怒涛の俺様っぷりはどうしたんだと問いたい。もっと強引に引っ張ってくれと叫びたい。けれど、彼はそれをしない。自分が求めていることを、彼はしない。
本当に、言っていいのだろうか。自分みたいなどうしようもない人間が、それを望んでいいのだろうか。はあっと熱い吐息が漏れ、唇が戦慄く。
不意に、ぽすっと頭に手がのせられた。それは小さな子とじゃれるようにくしゃりと荒っぽさがあって、けれど、大切にされていると分かるような撫で方で。
「——言葉にする必要はない。頷くか首を振るかだと言っただろ」
「……っ」
こくり、頷いて、とうとう雫が頬を伝う。とめどなく、前が見えなくなるほどに溢れ出す。
しかし、ここで黙るわけにはいかないのだと思った。それは拒否するためじゃなくて、多分、彼の優しさに当てられて、それに縋るだけじゃダメだと気づいたから。
当たり前のように幸せを手にする自分を、決して許してはいけない。だから、
「——わたしをっ! 仲間にしてください……っ」
何年ぶりだろう。もう思い出すのも億劫になるほどの期間口にしていなかった本音を、久しぶりに声に出した。
「喜んで」
答えた彼は席を立つと、手を取って歩き出す。
「見月」
「ええ」
さすが話が早い、などと言って笑う彼に戸惑いながら着いて行く。
「あの……どこに」
「ちっとばかし騒ぎすぎたからな、そろそろ出ねぇと」
ばっと周囲を見渡すと、数は少ないながらもいくつもの視線が自分に向いていることが分かって顔が熱くなる。
「あっ、でもわたし、伝票をっ」
「見月が持ってる」
「え、いやでも、その、そのくらいは自分で」
慌てて見月に視線を向けるも、どうも渡してくれる気はないらしい。なんだかにやにやとしている。この二人似てるなと場違いな感想を抱いた。
「いいから奢らせろ。歳下の女の子に奢られたままじゃ格好つかねぇだろうが」
本当はそれだけが目当てだったんじゃないのかと疑うくらいいい笑顔で言われて、またしてもああ、と思う。
(敵わないなぁ……)
人の運命を振り回す側だったのに、これからはこの二人に振り回されそうな気がして、つい笑ってしまった。
茜には、この世界になってよかったと感じることがいくつかある。
一つ目は、自立した生活が出来ること。
二つ目は、体質を治す可能性が出来たこと。
三つ目は、自由な食事を摂れること。
そして、最後は——この二人に出会ったことだ。