0000 悪夢と革命
気づけば、学校の渡り廊下にいた。ひと月ほど前に卒業したばかりの、懐かしき中学の渡り廊下。左右には中庭が広がっている。
不思議と疑問は浮かばなかった。引き寄せられるように、中庭へと踏み出す。
静かだった。
まるで、この世界には自分しか存在しないかのような静けさだった。
足音だけが、ただ広い空間に生まれては宙に溶けていく。
ふと足を止め、空を仰ぐ。
日本晴れ。散歩をするには絶好の日和だろう。
そうして、少しだけ気分が良くなって、再び足を踏み出す。
——ぐしゃ。
そんな感じの音に聴こえた。ぐちゃ、だったかもしれない。あるいは、ごきっとか。ただ一つ言えるのは、吐き気を覚えるほどの不快音だったということだけだ。
鳴ってはいけない音。
聴いてはいけない音。
——否、二度と聞きたくなかった音だ。
びしゃっと踏み出した足はおろか、ワイシャツやズボン、腕ににまで液体がかかった。
——赤。
それになにか、不純物が混じったような。
どす黒い赤。
その腕についた液体と、目の前の、今まさに上から落ちてきた物体を交互に見る。
——人。
どこからどう見ても人だった。
制服を着たこの中学の男子生徒がそこで死んでいた。
間違いなく、紛れもなく、ただ一片の疑いの余地もなく、死んでいた。
脳髄をぶち撒け、身体を変形させ、血に溺れて——死んでいた。
「——あ」
そんな掠れた声が出た。
「あ、あ……あぁぁぁ」
鼻腔を刺激する血の匂い。
グロテスクな死骸。
次の瞬間には吐いていた。
どうしようもなく、だらしなく、血溜まりに手をつき吐瀉物を撒き散らしていた。
ゴトリ。
と。
音がして顔を上げた。
目が合う。
死体と。
物言わぬ、半開きで瞳がずり落ちそうになった死体と視線が交わる。
そして、幻視が起きた。
物言わぬはずの死体の口が動く。
幻視だ、幻視に違いない。
すぐ目を逸らそうとした。
なのに依然として身体は固まったまま。
そして、再び死体が口を開いた。
——ツ、ギ……ハ、ユキ。
× × × ×
「——っ!」
飛び起きると、いつもと変わらぬ自宅が視界に映った。
死体もなければ、血の匂いもしない、簡素な部屋。ボロアパートの二階に位置する一室。
「あぁ……」
最悪な夢を見た。全く、同じ内容を何度も、何度も。
「勘弁してくれ……」
ベッドから降り、汗でベトベトになった服を脱ぎながら脱衣所へ向かう。毎朝シャワーを浴びなければならなくなる俺の身にもなって欲しい。ガス代だってタダじゃないのだ。
シャワーを浴びてすっきりしたところで、ベッドに腰を下ろしてふぅと息を吐く。
「どうすっか……」
時刻は八時。平日なら慌てて学校へ向かうところだが、今日は日曜だ。こんな早くに起きてもやることがない。ゲームをする気分でもないし。
とりあえず、朝飯でも……と冷蔵庫を開けると、中は調味料の類しか残っていなかった。……そういや、今日、買いに行くつもりだったんだよな。
「行くか」
どうせ今日行くなら今行こうが昼に行こうが変わらない。食べようと思ってたところで食べるものがないことに気づいたからか、余計に腹が空いた気もする。
財布を持って家を出ると、からりと晴れた空が視界に広がる。風が少しばかり強い。花粉症の人は大変そうだ。俺には関係ないが。
とんとんと錆びた鉄階段を降り、近所のスーパーへと歩みを進める。快晴に落ちていた気分も戻ってきた。
なにを買おうか。一回で持ちきれる量には限りがあるし、予め決めておきたい。一週間分は買いためておきたいが……と、そんなことを考えながら暢気に歩いていると、突如として周囲がまばゆい光に包まれた。
「っ……なん、だ?」
反射的に瞑目し、光が収まってきたのを見計らって恐る恐るまぶたを持ち上げる。
——夜になっていた。
「……は?」
間の抜けた声が住宅街に響く。
夜、という表現で合っているのだろうか。太陽は上に出ている。が、光が届いていない。この季節にしては肌寒い風にぶるりと身を震わせた。
——瞬間、数メートル上の空中に光が現れる。
目が追いつかず、しっかりとは捉えられないが、どうやら光はなにかを包み込んでいるらしい。数秒が経過し、ようやく目が慣れると、光の内部を正確に捉えられた。
「……人?」
光の中にいたのは、一人の女性だった。ただ、これは、人と呼べるのだろうか。
煌びやかに靡く銀色の髪。透き通るような白い肌。髪と同色の長いまつげは艶やかな雰囲気を醸し出し、ぱっちりとしたまぶたの奥には、今や日本人でも珍しい漆黒の瞳。赤く染まった唇に、鼻筋の通った端正な顔立ちのそれは、アンバランスでありながらも人と呼ぶには整い過ぎている。
薄紫の豪華絢爛な着物を身に纏い、自身のフォルムを惜しげも無く晒す彼女は、俺を一瞥して自身の姿を確かめると、ゆっくりと口を開いた。
「御機嫌よう、諸君」
諸君……? その言葉に疑問を抱きながら、しかし、異様な存在感を発する彼女から目が離せない。
そんな俺を見て舌で唇を舐めた彼女は妖艶な笑みを浮かべる。
「この声が聞こえている知恵ある全ての者よ。前神を討ち、全世界を我が手中に収めた妾は——改革を宣言する」
その日を境に、世界が変わった。