第一犯 犯罪教師です (2)
この小説はフィクションです。
物語上、犯罪を教唆するような言い回しなどもあるかもしれませんが、犯罪は人の人生を狂わせます。決して真似などはしないようお願いします。
君は何者かと訊き、『犯罪教師』と名乗られた。
果たして人は、そんな状況に立たされたら、一体、どんな状況に陥るだろう。
答えはこのバスの車内でわかるだろう。
無言。そして、反芻。理解できないことに対する、動揺と、混乱。
車内はそんな空気で支配されていた。
「あーとりあえず、一通り説明した方がいいですね」
仁も、さすがにあの一言だけでは理解できないだろうと判断し、補足説明を始めることにした。
バスは問題無く走っている。窓の外を見ると、車は一台も通っておらず、人も歩いていない。
どうやら運転手は自身と乗客の安全を優先し、機転を利かせ、大通りなどを避け、東京にしては、比較的人通りの少ない車道を選んで通っているらしい。
仁はちらりと運転席を見やる。仁が銃口を強制的に運転席に向けさせているからか、脂汗がだらだらと垂れていた。ステアリングを両手で掴み、今は抵抗の意思はないことを示している。
「ひとまず銃口はこのまま、彼に向けておいてください。捕まりたくないのであれば、ですが」
拳銃男は、ひとまず素直に従うことにした。少なくとも現状、彼は自身を取り押さえる気は、無いらしい。もしその気なら、拳銃を奪った時点で、それは達成された筈。しかし、安全装置を外し、それをバスジャック犯本人に返却するなど、そもそも常識からして考えられない行動だ。
ならば、味方か? それも違う気がする。何のメリットも無い。協力して得た強奪金の一部が目的だとしても、割に合わなさ過ぎる。
拳銃男が、少年の思考を理解しようとしながらも、彼は自分の意思で、拳銃を運転手に向けた。
「助かります。僕一人でずっと、彼の行動を確認しながら説明するなんて、面倒な真似はしたくないですから」
「こい、つを見張ってたっ、とこっろで、他の、乗客っが、外部に、連絡したっんじゃ、意味がねえだろ!」
拳銃男の動揺は未だ続いているらしい。仁は溜息を吐いて言った。
「この東京だけで、いったい何台のバスが走ってると思います?」
「は?」
「約1500台が、東京のそこら中を走っています。その中の、たった一台の、ジャックされたバスを探す手段が多いとでも?」
拳銃男ははっと息を呑む。緊張でガチガチに硬くなっている、老若男女の乗客達も、同じようなリアクションを取った。
「もしかしたら、バス自体にGPS機能が備わっているかもしれませんね。でも、それがどうかしました? 場所はわかっても、この空間の状況までは掴めない。走行ルートで不審に思われても、時間は稼げる。運転手を脅して偽の情報を流せればね」
乗客達の顔に、仁は絶望を塗りたくる。
「仮に乗客が秘密裏に、警察やらに連絡したとして、どうなるんです? このバスの車両ナンバーを覚えているんですか? 現在走行中のこの場所を、澱みなく答えられるんですか? たとえ答えられたとして、警察がすぐに駆けつけられる距離に、このバスは存在するんですか? 常に移動しているのに? その場所を特定できたから、どうなるっていうんです?」
仁は言葉を畳み掛けた。そして、とどめの釘を刺す。
「どのみち、バスジャックを宣言した時点で犯罪者。それなら、選択肢は驚くほど増える」
「…………」
皆、考えることは一緒だった。
「圧倒的な暴力は、一つの手段」
仁は細い通路を歩く。
「一つの手段は、多くの選択の手助けになる」
灰色の床は、こつんこつんと小気味良い音を立てる。
「つまり、あなたがたの命は」
揺れるバスに気にも留めず、両腕を小さく広げる。
「彼に左右されるということになります」
くるりと一回転。彼の顔は、先程の無表情から色付いていた。
それは、微笑み。
ゲームに興じたような、談笑に花を咲かせたような、
今を、愉しんでいるかのような。
「もちろん、これはハッタリかもしれません。信じてないなら、隠れて通報すればいいです。ただ、その身に危険が迫るかもしれない。もちろんそれも、彼次第ですが」
仁は微笑んだまま言った。
無論、彼の話のほとんどがハッタリに過ぎなかった。
もしも、一度でも連絡を取られてしまえば、走っている場所と、GPS機能を照らし合わせれば、すぐにバスは特定されてしまう。
しかし、そこは言った者勝ちだ。先に釘を打ち付けとけば、無闇に動こうとは思わない。乗客にバスジャックの知識など、あるはずがない。だからこそ、ちょっとした嘘を吐いても、気付かれる可能性は低い。むしろ、異常な状況では、誰もが嘘と判断する嘘も、紛い物の真実へと認識を変えてしまう。
「さて、とりあえず、わからないことだらけでしょうし、そろそろ説明しましょうか。犯罪教師とは何なのか」
仁は簡単に説明し始める。
「犯罪教師っていうのは、その名の通り、犯罪を教える教師のことで、計画に不備がある犯罪を、より確実性のある犯行に変えさせ、犯罪者としての実力を上げることを目的とした人のことです。今回はたまたま、バスジャックに遭遇し、面倒なので傍観していようかと考えていたのですが、あなたのあまりの不手際に、目も当てられなかったので」
彼の拳銃を掴んだ、小刻みに震えていた腕が、さらに大きく震えだした。あまりの言われように、憤慨しているようだ。しかし、仁は彼の様子を、にべにもなく無視した。
「面白かったですよ。急に立ち上がったかと思ったら、拳銃を取り出すんですもの。取り出すだけ! しかも意識は乗客にばかり向けていた。あれじゃあどうしようもないですよ。気付かぬ内に通報されて、即終了です。ゲームオーバーです。バッドエンドです」
乗客達「…………」
「いざ拳銃を向けたら、安全装置すら外していない。どこのギャグ漫画ですか。ベタベタ過ぎて、使うのも躊躇われるほど古典的な展開。銃口もぶれぶれ。エアガンじゃないんだから、初心者は両手持ちで安定させなきゃ」
運転手「…………」
「とまあ、そんなこんなを見ていくうちにイラッとして。そこで、及ばずながらも、僕が助力を申し出ようかと」
拳銃男「…………」
車内にいる人間全員が沈黙した。あまりにも突拍子もない話、そして、拳銃男の犯罪の駄目出しを畳み掛けられ、ついていけなくなったのだろう。
そんな彼らの状況など、無視して仁は、話を進める。
「さてと、そろそろあなたの要求を訊きたいのですが」
「要……求?」
「何が目的でバスジャックを起こしたんです? 青」
「青?」
「あなたは疑問しか口にできないんですか」
仁は呆れたように言った。
「あだ名ですよ、あだ名。本名名乗れないでしょうし、名前が無いと面倒ですし」
どうやら仁は、彼の着ている青いTシャツから、『青』というあだ名を、暫定的につけたようだった。
「ほら、早く。意識は運転手に向けたまま。こっちは乗客に意識を向けますから」
「へ! えっと、その」
「時間が経てば経つほど、不利な状況ですよ」
拳銃男、もとい、青は迷っていた。
彼なら、何とかしてくれるかもしれない。もしかしたら、無謀なこの犯罪も、成功するかもしれない。それと同時に、信用しても良いのか、判断がつかない。何のメリットも無い犯罪を手伝ったところで、彼に何の得があるのだろう。
青には選択肢がある。そして、時間はない。ならば、
「……金だ。とにかく、金が欲しい!」
たとえ彼の思惑が何であれ、有利に状況が働くのであれば、利用しない手はない。
素人の知識を、仁が補ってくれるのであれば、それは心強い味方として機能する。後に口封じで殺すという手だって、信頼している状態なら、講じることもできる筈。
無いなりに絞った知恵で、青は彼に協力を仰ぐことこそ、最善と判断した。
仁はにやりと笑う。青の行動はすべて読んでいたかのような雰囲気に、青だけでない車内全員が呑まれそうになる。仁は運転手を監視しながら、
「金銭目当てであれば、相場で考えると、範囲を広くすれば百万から二千万。かなり多く見積もって三千万から五千万と、これ位でしょう。本当にお金を手に入れるのであれば、短時間ではこれが限界です」
青は腕を組んで考える。銃を持ってはいるものの、すぐに撃てる状態ではないので、仁はそのまま運転手の監視を続行していた。
ポーカーフェイスで運転を続けている。どうやら何か対策を思いつき、それに気付かれないようにしているようだ。仁はさらに釘を刺しておく。
「もしあなたが他の不審な行動……例えば交番の前を何度も通るとか、同じ場所をぐるぐる回るとか、そんな行動をしているとわかった場合、すぐさま射殺させていただきます」
「は、はい……」
声は震え、頬から汗が流れ落ちる。どうやら予想は完全に一致していたようだ。仁が口を歪ませていると、青は素っ頓狂な声で叫んだ。
「にに二千万だ! 二千万で手を打とう!」
「まあ、出来なくない範囲ではありますね」
「そうと決まったら連絡を」
そう言って青はジーンズのポケットを弄る。仁は額を押さえてまた溜息を吐くと、青の頭を思いっきり平手で叩いた。
「痛ぇ! なにすんだコラ!」
青はぶるぶる震えた両腕で、仁へと向けて拳銃を構える。ひっと誰かが小さな悲鳴を上げたのが聞こえた。銃口を向けられた当の本人は、涼しい顔で青を見下していた。
「まさか自分の携帯でどこかに脅迫するんじゃないでしょうね?」
「そうだ! わ、悪いか!」
「基地局に居場所のデータが残ったらどうする気ですか? 今走っているバスと、その情報を照らし合わせて、ジャックされたバスが判明してしまったらどうする気です?」
「あ……それは、」
「まさか何も考えていなかったわけではないでしょうね?」
青は黙った。図星だったらしい。
「うーん。まあばれる前提に考えないと、連絡するだけで難しいでしょうからね」
「どこにも、連絡できなきゃ、何の要求も、できねぇぞ」
恐る恐るといった様子で、青が言った。仁はそうですねと言い、
「じゃあ、ばらしましょうか」
と真顔で言った。
*
東京都交通局に、一本の電話が掛かってきた。
事務局員は、何の疑いもなく、受話器を取った。
向こうの様子など、わからぬまま、いつもの日常のように言った。
「こちら、東京都交通局です。どのようなご用件でしょうか」
スピーカーからは何も聞こえない。どうしたのだろう。もう一度声を掛けてみる。
「こちら、東京都交通きょ」
『パァン』
大きな風船が割れたような音がした。突然の音に、局員はびくりと肩を震わせる。
「どうかなさいましたか!?」
『バスジャックだ。人質が殺されたくなかったら、二千万用意しろ。今から二時間後に、また連絡する。それまでに準備できなければ、十分ごとに、人質を一人殺す。いいな。念の為釘を刺しておくが、警察に通報するな。もしパトカーに追われたり、警官を見かけることが多くなったら、即座に誰かを殺すからな』
ブツッと嫌な音がした。切れた。通話が切れてしまった。
なんだこれは。
あの電話は何だ。
バスジャック?
バスジャック!
「そんな……馬鹿なことが!」
ガタンと音を立てて、デスクから立ち上がる。叫び声と共に鳴った、その大きな不協和音は、周りに不安を撒き散らす。
「どうかしたのか?」
彼の上司であろう男が訊く。局員は声を震わせた。
「バス、ジャックが……バスジャックが発生しました!」
*
「こんなもんでどうだ!」
青は、乗客から奪った携帯の電源を切りながら言った。
上出来ですよと、仁は笑った。
一番の問題は、警察が介入するか否かだ。だが、それ以外の問題は、ある程度対処しやすい。
まず、逆探知の危険性だが、これは基地局に警察が協力を要請しない限り、開示はされない。東京都交通局自体が開示を求めても、拒否される可能性は高い。
そしてバスのGPS(ついているかは定かではないが)については、元々のバスのルートを通れば、不審に思われない。停車ももちろん、いくらかは通常どおり行わせる。そうでなければ、不審に思われてしまうからだ。ただし、終点へは行かないよう命令した。終点へ着いてしまえば、乗客が全員降りなければおかしい。そこで疑惑が湧いてしまえば、本末転倒だろう。
途中で止まるバス停で、乗り込んできた乗客には、バスジャックのことは伏せてもらうことにしてある。そのまま何も知らずに、どこかのバス停で降りればそれで良いが、万が一ばれた場合は、そのまま人質になってもらう。人質は多ければ良いわけではないが、警察などに発覚した場合、人質が多ければ、手も出しにくくなるだろう。
さて、先程の青の行った脅迫だが、要点は二つ。
『通話時間は短く』そして、『時間設定は二時間ほど』だ。
相手に与える情報は少ない方がいい。そこから対策を立てられては、仕方がない。要らぬことを喋ってしまい、そこからバスを特定する情報が漏れる可能性は、ゼロではない。要点だけを話し、そして、返事を聞かずに切る。これだけでも相手は動揺するだろう。
ついでの付加効果として、こちらからしか連絡できない状況を作るため、仁は携帯を非通知設定にし、携帯の電源を落とさせていた。非通知の電話番号を調べる方法も、警察の協力がなければ難しい。こういった事態に備え、東京都交通局が、非通知を調べる方法を持っているかもしれないことを考慮し、乗客の携帯で連絡を行い、電源を切った。万が一調べられ、携帯の所有者を特定されても、それは青ではない。そして、一番重要な点は、相手からの連絡を受け取らないことなのだ。
そして、金を用意する為の猶予。長すぎれば当然、何らかの対策を練られるし、短すぎれば金の用意の時間が確実に無く、乗客を必ず殺さなければならない。
万が一殺さなかったとすれば、相手には殺す気が無いと判断され、安心を取り戻した相手が、警察を呼ぶ可能性もあり(まあ気付かれなければ良いのですぐに呼ばれる可能性は僅かだろうが)、殺したとすれば返り血がバスの窓に付き、さらにほかの乗客が悲鳴を上げ、明らかに不審な状況を外側の第三者に知られることになる(ちなみに先程の銃声の時は、車の少ない道を走行中に撃ったもので、比較的第三者にはバレにくい状況だった)。
短い通話時間と、ちょうどいい制限時間。相手を揺さぶるには、単純であると同時に、効果的なのだ。
「これで上手くいくだろ!」
そう言いながら、一目の無い場所で、脅迫に使った他人の携帯を、窓から投げ捨てる青。
「二時間、上手く耐えることができれば、ね」
仁は運転手と乗客に協力を仰いだ。無論、協力とは名ばかりの脅迫である。
不審な行動を取り、第三者にバスジャックの情報を与えないこと。携帯などの電子機器を弄らないこと。この二つを約束させた。
それ以降は静かだった。
約一時間経過。緊張の間は続く。
青だと危なっかしいと判断した仁は、青が座っていた左最前列の席に座り、運転手を監視。青はバスのちょうど真ん中あたりのシルバーシートに 腰かけ、その席が横向きに設置されていることを利用し、周りの乗客を監視している。
青は拳銃を持っている。それをどんな位置の人間にも、即座に使える位置にいれば、乗客を牽制できる。最も警戒しなければならないのは運転手だが、緊急通報システムなどを看破した仁には、どれほど自然な行動で手を打とうとしても、それを見抜かれるのではないかというイメージを、運転手に刻みつけた為、仁が監視するというだけでプレッシャーを与えることができる。
そういった理屈から、青には監視する要点を伝え、役割を分担していた。
パトカーも警官も一度も現れてない。幸いにも、新たに乗り込んでくる乗客もいなかった。しかし、この状況が何時まで続くか。
「なあ、教師さん」
どうやら完全に信頼してくれたらしく、仁を犯罪教師だと認めてくれたようだ。
仁は監視しながら呑気な声で返事をする。
「はーい何ですかー?」
「他にやることは無いのか? もっと効果を上げる方法とか……」
欲張りだなと、仁は思った。だが方法は知らない訳でもない。
「無いことはないです」
「おお! どんな?」
仁は青の方へと向く。ふぅと息を吐くサラリーマンがいたので、軽く顔を見るとすぐに頭を伏せてしまった。
だがそんな事はどうでもいい。
仁は監視を中止すると、細めの通路をローファーでかんかん足音を鳴らしながら青の元へ向かう。
青は楽しげな顔で先程の言葉の続きを待っている。仁はにこっと微笑んだ後、ゆっくりと言った。
「殺すんですよ」
辺りに静寂という時間が現れる。
バスは動いている筈だが、エンジン音も外の車の音も聞こえなくなってしまったように皆動かない。
バスが赤信号で止まる。
仁は窓の外を見てみる。
他の車は男性が一人欠伸したり、家族で談笑したりする姿が見えた。
こちらは重苦しい空気が場を膠着させていて、生きるか死ぬかの瀬戸際でもある。
そんな全く違う雰囲気を持つ者同士が、今まさに同じ時間にいるのかも、少し疑わしかった。
そんな非日常な状況が、今の仁にとっては最高に楽しく感じる。
ああ、なんて素晴らしいんだ。
青はただ唖然と仁を見つめている。そして今にも消えそうな声で訊く。
「……殺すって……」
「そのままの意味ですよ。この中の乗客、誰でも良いので一人殺すんです。そうすれば犯人は本気だと相手は信じて、これ以上犠牲を出さない為にすぐにでも用意しますよ。無論、情は入りません。さっきも言った通り、誰でも構いません。あのお婆さんでも良いし、あのサラリーマンでも良いし、あの赤ん坊でも良いし……」
指を差された人はびくっと身体を震わせる。
差されなかった人もかたかた小刻みに震えている。
皆、死に恐怖していた。大体予想していた事だ。
では、これに対する反応はどうだろう?
仁は右手をみぞおちに当てて、不敵な笑みを浮かべて言う。
「僕でも構いません」
青は目をこれでもかというほど開く。もちろん乗客も驚く。まさか仁が自分自身を殺しても構わないと言うとは、微塵も思わなかった、いや、思えなかったのだ。
「これだけ協力したんです。まさかタダ働きで済むと予想してます? もしかしたら僕があなたを裏切ってお金を一人占めするかもしれない。万が一あなたを裏切らず共に逃げたところで、あなたがたとえ捕まらなかったとしても、僕が捕まればあなたの事を告白するかもしれない。そんな懸念材料を残すのもどうかと思いますけど」
仁がしばらくそのまま無表情で青を見ていると、彼は両手で掴んだ拳銃をぶるぶる震わせながら仁に向ける。辺りから悲鳴が上がる。運転手はさすがに何もしない訳にもいかないと思ったのか、右手をゆっくりと動かしているのを見て、仁は注意する。運転手は苦渋に満ちた顔でしばらくその手を硬直させ、やがてハンドルに戻す。
これで邪魔者はいない。後は彼の成長を見るだけだ。
青は未だ拳銃を震わしている。それどころか引き金に指すら掛けてない。
「どうしたのさ? 必死なんでしょう? だったら引かなきゃ。犯罪を行うには、それ相応のリスクを覚悟しなきゃならない。覚悟は出来てるんでしょう?」
青は歯を食いしばる。ようやく引き金に指を掛けた。
仁は思った。後は引くだけだ。引くだけで銃口から発射される銃弾は、彼の向けている方向と距離から言って、心臓部までめり込み貫通するだろう。
しばらくの間どくどくと鼓動を繰り返すだろうが、次第にゆっくりとなって、最後に止まるだろう。大量の血で床を汚しながら。自分が死んだ後が脳裏に浮かぶ。泣き叫ぶ乗客達。焦る運転手。人を殺した事に狂気の声を上げる青。
ああ、なんて素晴らしいんだ。
最高だ。
ぞくぞくする。
僕が死ぬ事によってそんなお祭り騒ぎが起こるとは。
嗚呼愉快だ。
さあ撃てよ、青。それで全てが終わるんだ。僕の悪夢が(・・・・・)。
…………。
未来とは誰にもわからないものだ。もちろん、仁にも。
青は拳銃を下げてしまった。仁は訊いた。
「どうしたんです? 早く撃たないと……」
「できない……俺には……そんな覚悟は無い……」
「は?」
「最初から、無理だったんだ。俺は……。殺せる、人間、になんて……なれな、かったんだ……!」
青は膝をついてしまった。うなだれて顔が見えないが、ひっひっとしゃっくりのような声を上げていることから、恐らく泣いているのだろう。
仁は呆れて溜め息を吐きながら膝を折ってしゃがむ。そして仁はこう告げた。
「残念ながら、あなたは犯罪者には向いてないようです」
青は顔を上げる。予想通り泣いていた。
仁は青を見下ろしていた。やはり僕の求める犯罪者ではなかったか。まあ拳銃を向けて手を震わしているのだから、予想できたというよりは、こうなることはわかり切っていたのだが。
仁は少し申し訳なく思った。
いくら自分の目的の為とはいえ、とてつもなく酷い言い草で自分勝手な理論だが、ヘタレで情けない姿を見せる青が、かわいそうになってしまったのだ。
とりあえず仁は彼に謝る事にした。
「すいません。僕の自分勝手な行動に付き合わせてしまって」
「…………」
「まあ誰も傷付けていませんし、殺人などは未遂で済んでいるのですが、犯罪は犯罪です。警察を呼ぼうと思いますが……さすがにそれ位のリスクは覚悟してましたよね?」
青は泣きながら頷く。抵抗する気はどうやらないようだ。
仁は拳銃を彼の手から優しく取り上げ、弾が撃てないように弾倉を抜いた所で、銃自体にも一発弾が入っている筈だと気付き、面倒だったが銃身を外して分解し、完全に撃てないようにした。
皆彼の分解に眼を丸くしていたようだが、仁は気にせず立ち上がって、乗客達に言った。
「犯人はこれから自首しようと考えています。御迷惑をお掛けして申し訳なく思っている所存です。これから警察に連絡し、このバスに来てもらう予定です。その際事情徴収などをされると思いますが、何卒ご理解して頂きますよう、よろしくお願いします」
仁は一礼した。彼は皆が自分に対する批判でも言うだろうと思っていたが、どうやらいきなり丁寧に説明した事に対して戸惑いがあるようで、誰も何も言わなかった。
仁は、脂汗を何度も拭う運転手に向き直って訊く。
「東京都交通局に連絡したいんですが、無線を合わせて頂けませんか?」
運転手は無言で左手を器用に使い、周波数を合わせて無線を取る。
相手側の声が聞こえる。
『こちら東京交通局です。何かありましたか?』
運転手は何も喋らず、僕に無線を手渡した。僕は運転手の代わりに答える。
「こちら、先程バスジャックをされていたバスです。犯人の代理人として今話しています。今から犯人は自首しますので、警察を呼んで頂けますか? 乗客の皆さんは全員無事です。後の事は運転手さんからお聞き下さい」
僕はそう言って運転手に無線を返し、そのまま今まで座っていた席に戻る。
それと同時に乗客は大騒ぎを始めた。
生きている事の喜びを、助かったことの実感を噛み締め合っているのだろう。
こういう事は日常では味わえない。
じっくりと味わえよ。
仁は心でそう呟いた。