髭と幼女
悠次郎のお姫様は少しばかり気難しい。今朝も目玉焼きの黄身の半熟具合が気に入らないと言ってヘソを曲げた。彼女の機嫌は昼を過ぎても直らず、日が下り始めた頃になって悠次郎は彼女を散歩に誘った。
古びたアパートにお似合いの生活感あふれる小さな庭を窓際に座って眺めていた彼女は、情けなく笑う悠次郎を見て仕方なさそうに立ち上がる。悠次郎は安堵して小さく息を吐き出すと、彼女のためにすぐさま帽子と靴を用意した。
雪のような、と例えるのは少しばかり大袈裟かもしれないが、彼女の肌は肌理が細かく、シミ一つない。触れば柔らかく滑らかで、上等なシルクよりもずっと触り心地が良いと悠次郎は思う。まるで白雪姫だ。
小さな手のひらを壊れもののように握って、隣を歩く彼女を見下ろした。歩幅が狭い彼女に合わせてゆっくり歩くのにも慣れた。以前はうっかり悠次郎だけが先を行ってしまい、彼女を探して人混みを走り回るのも日常茶飯事だった。だから出かけるときには必ず手を繋ぐようになった。そうすれば余程のことがないかぎりはぐれることはない。
最初はあまり気乗りしない様子だった彼女も、今ではさらりと手を差し出してくれるようになった。その行為が二人の間で当然となっている事実に、悠次郎はいつもこっそりと含み笑いを洩らす。彼女と手を繋いで歩くひと時が悠次郎はとても好きだった。
二人は住宅街の大して広くない路地を歩いて、ベッドタウンであるこの街で唯一賑わいのある駅前通りを目指した。夕方にはまだ少し早いからか、すれ違う人の数も疎らだ。スーパーの特売が始まる前になると突然増え始めるママチャリに乗った主婦たちの姿も見えない。ちょうど今の時間は昼下がりの休息時間なのかもしれない。
「ゆうちゃん、どこ行くの?」
「んー? うめの機嫌が悪いからケーキを食べに?」
「うめ、ケーキよりアイスがいい」
悠次郎の横を黙って歩いていた少女、うめはただ歩いていることに飽きた様子で口を開いた。少女の我侭にも悠次郎は狼狽えることなく、むしろ呑気に「アイスって言えばメロンソーダだよなぁ」などと髭が伸びた口元を緩めた。持ち上がった悠次郎の口角とは逆に、少女の口はへの字に曲がる。
「うめはどこ行きたい?」
「どこでもいいよ。それよりうめ疲れた。もう歩きたくない」
そう言うなり足を止めてしまった少女に、一歩先へ進みかけていた悠次郎は慌てて立ち止まった。繋いだ腕が二人の間でぶらりと所在なく揺れる。悠次郎は振り返ってその場にしゃがみ込むと、下から少女の顔を覗き込んだ。
少女は悠次郎と目が合う前に顔を横に逸らす。そこにあるのはどこかの民家を囲む薄汚れたコンクリートの壁だけで、どうせ目を逸らすなら空でも見上げればいいのにと悠次郎は少女の横顔を見上げながら思った。
帽子の影になった頬は淡いバラ色に染まり、緩やかに癖づいた髪が駆け抜けていった風にふわりと揺れる。悠次郎の白いだけで目の下に年がら年中うっすらとクマがこびりついた肌や、ぼさぼさで寝癖だらけの髪とは大違いだ。うめには悠次郎と似たところなんてどこにもない。外見はもちろんのこと、好きな食べ物も寝るときの癖も、笑い方も泣き方も拗ね方も。
じっと見つめてくる視線に耐えられなくなったらしい少女が、丸く大きな瞳を吊り上げて睨みつけてきた。睫毛が長いなあとやはり間の抜けたことを考えていた悠次郎は次の瞬間、脛に走った痛みにぐらりと体勢を崩す。
「いっ…!」
「ゆうちゃん、お出かけするときくらいひげそろうよ」
「いやいや、うめさん? これはわざと生やしてるんであってね、別に面倒だから剃らないわけじゃないんだよ!?」
なんとか転倒は免れたものの、涙目で脛を抱えて反論する悠次郎の姿はひどく哀れなものだった。少女は先ほどの発言をどこへやったのか、何でもない顔をして悠次郎の横を歩いて通り抜けていく。
「チョコのケーキが食べたい」
てくてくと一人で歩いていく少女の後ろ姿を見てようやく、脛を抱えた際に少女の手を放してしまっていたことに気付いた悠次郎は、素早く立ち上がると大股で少女に歩み寄った。悠次郎が普通に歩けばコンパスの差は歴然で、二人の間にあった二メートル弱の距離は瞬く間に埋まってしまう。
「うめ、手」
横に並んで右手を差し出しても、少女は素知らぬ様子で歩き続ける。歩きながらでは下から顔を覗き込むこともできず、悠次郎は少女の顔を半分ほど隠している帽子のツバを憎々しく思った。しかし、すぐに少女がその帽子をよく気に入っているのを思い出して首を横に振る。
去年の春に二人で選んだ帽子だった。周囲を囲む形のツバの右側には、黄色い花と桃色の花が乗っている。一年中咲いたままのその花たちは、春から秋まで少女の頭を彩った。帽子の丸いフォルムの向こう側から覗くそれは、ずいぶんと色褪せてしまっている。造りものの花も枯れてしまうのなら、自分と彼女の関係もいつしか砂の城のように崩れてしまうのだろうか。
漠然と広がった不安は息つく間もなく悠次郎の全身を覆い尽くした。
「うめ、」
悠次郎の喉を通り抜けていった声は不格好に掠れていた。ざり、と靴の裏で擦れた小石が嫌な音を立てる。心臓が内側からせわしく胸を叩く。気付けば地に根が張ったように悠次郎の足は動かなくなっていた。その場に結い止められた悠次郎を置いて、少女はひとり、前へ前へと歩いていってしまう。
うめ。悠次郎はからからに渇いた喉を必死に震わせて少女の名を呼んだ。輪郭の覚束ない、人混みの中で親を見失った子どものような声だった。
悠次郎に背を向けていた少女は、その声にぴたりと足を止めた。びくり、や、ぎくり、と言ったほうが近いかもしれない。少女は足を止めるや否やすぐさま振り返り、顔を青くして悠次郎へと駆け寄ってきた。
「ゆうちゃん!」
少女の柔らかな両手のひらが悠次郎の右手をつかむ。握りしめてくる小さな手から伝わる温もりに、悠次郎は緊張の糸が切れたようにその場へへたり込んだ。
「……俺、うめに嫌われたら生きてけないよ」
「ごめんね、うめはどこにも行かないから。ごめんなさい、」
パパ、と。謝罪に続く形で少女の唇からこぼれ落ちた呼び名に、悠次郎は情けなく眦を下げた。
「な、うめ。ケーキ食べいこっか」
「うん、いいよ」
立ち上がった悠次郎に、少女は自ら左手を差し出してきた。自分のものよりも一回りも二回りも小さな手のひらを握り込んだ途端に湧いてきた何かを、悠次郎は少女に気付かれないようにそうっとやり過ごす。まだ少し青い顔で悠次郎を見上げてくる少女にこれ以上心配をかけるわけにはいかない。
悠次郎はいっそわざとらしいくらいの笑みを少女へ向けた。黒目がちな瞳に映る影はできるだけ見ないようにしながら、蕩けるような声を舌に乗せる。
「あいしてるよ、うめ」
ふわりと二人の間を通り抜けていった風に攫われて、悠次郎の言葉は少女以外には聞かれることなく消えていく。間もなくやってくる路地の終わりを教えるように、少しばかり離れた場所で響くクラクションの音が聞こえた。
少女は悠次郎から音のした方向へ視線を移し、代わりに繋いだ左手に力を込めてきた。少女の手を潰さないよう注意を払いながら、悠次郎もそっと右手に力を込める。ただそれだけで、泣きたくなるほど幸せだった。