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塩と粘土~スー女の執念~怪談コンテスト2026応募作

作者: 明石竜
掲載日:2026/07/11

 ……これは、ある中堅力士が体験した、決して表には出せない、

 夏の終わりの怪談でございます。

 その力士の四股名を、ここでは「黒岩」とでもしておきましょう。

 黒岩は、身長一八五センチ、体重一六〇キロ。

 幕内中位を行き来する、泥臭い押し相撲が持ち味の男でした。

 恵まれた体躯に、精悍な顔立ち。

 スー女と呼ばれます、女性の相撲ファンからも、それなりに人気のある力士でございました。

 しかし、その人気が、彼を底なしの恐怖へ引きずり込むことになるとは、

このとき誰も知る由がなかったのです。


 始まりは、三年前の五月場所。黒岩の元に、一通の手紙が届きました。

 紫色の、どこか古めかしい和紙の封筒。

 そこには、ねっとりとした、異様に均一な筆跡で、こんなことが書かれていました。

『黒岩関。私は、あなたのすべてを見ています。あなたの骨、あなたの肉、

あなたの流す汗、そのすべてが愛おしい。あなたは神仏の化身です。どうぞ、

私だけの神様になってください。 ――みさお

 最初は、よくある熱狂的なファンの手紙だと、黒岩も気にとめませんでした。

 しかし、その日から、操と名乗る女の影は、黒岩の日常をじわじわと侵食し始めたのです。 

 本場所の出待ち。地方巡業の会場。果ては、部屋の近くのコンビニまで。

 どこへ行っても、その女はそこにいました。

 年齢は、三十代半ばほどだったでしょうか。


 いつも煤けたような、地味な色の着物を着て、髪をきっちりと後ろで結い上げている。

 肌は異様なほど白く、生気がありません。何より恐ろしいのは、その「目」でした。

 見開かれた両眼の瞳は小さく、黒目のまわりに、ぐるりと白目が見えている。

 女は、群衆の中から一歩も動かず、ただじっと、黒岩だけを凝視しているのです。

 カメラを向けるわけでも、声をかけるわけでもない。ただ、黒岩が動くたびに、

その首だけが、操り人形のようにカチカチと動いて追ってくる。

 ある夏の巡業の夜、黒岩は宿舎の裏手で涼んでいました。

 ふと気配を感じて見上げると、隣のビルの非常階段の隙間から、あの操の

顔が覗いていました。

 暗闇の中、彼女の剥き出しの白い歯だけが、街灯に照らされて不気味に

浮かび上がっている。

 黒岩は背筋が凍りつき、部屋へ逃げ帰りました。

 やがて、手紙の内容は常軌を逸していきました。

『今日、あなたは右の膝を少し庇っていましたね。私の肉を削いで、

黒岩関の膝に埋め込んで差し上げたい』

『黒岩関の吸った空気を集めて、毎日吸い込んでいます』

 それだけではありません。黒岩の身の回りのものが、少しずつ、確実に

消え始めたのです。

 場所中に使った、汗の染み込んだタオル。浴衣の替え。

 そして……彼の、髪の毛です。

 力士の命とも言える、あの髷。

 ぶつかり稽古のあと、土俵の砂に落ちた髪。

 床山が、ほんの少しだけ切り落とした裾の毛。

 本来なら、すぐに集められ、捨てられるはずのもの。

 その、黒岩の身体の一部が……。

 なぜか、一筋残らず、消え失せているのです。


 黒岩にとって、髷はただの髪ではありませんでした。

 土俵に上がる者としての姿であり、ここまで這い上がってきた年月そのものでした。

 それを、知らないうちに拾われている。

 捨てたものならまだいい。だが、失くした覚えのないものまで消えていく。

 黒岩は、自分の身体の輪郭が、少しずつ知らない女の手に渡っていくような気がしました。

 ある日の夕方、部屋の若い衆が、妙なものを見たそうです。

 誰もいなくなった、薄暗い稽古場。

 格子窓の隙間から、細い腕が伸びていました。

 操でした。

 女は、土俵の砂を指先でじっと弄んでいたそうです。

 やがて、砂にまみれた黒岩の抜け毛を、一本、また一本と拾い集める。

 そして、それを愛おしそうに口元へ運び、そっと舐めとっていたというのです。

 その話を聞いた黒岩は、すぐに付け人たちへ確認しました。

 しかし返ってきたのは、「知りません」「片付けたはずですが」という答えだけでした。

 さらには、黒岩が愛用していた、一本の古い櫛がなくなっていました。

 それは、彼が十両に上がった際、亡くなった祖父から贈られた、大切な、

 彼自身の名前が刻まれた、つげの櫛でした。

 その櫛だけは、誰にも触らせたくありませんでした。

 負けが込んだ日も、怪我で休場を考えた日も、黒岩はその櫛を手に取ってから眠っていました。

 祖父はもういません。

 けれど、その櫛を握ると、祖父の声だけは、まだ胸の奥に残っているような気がしたのです。

 土俵から逃げるな。

 そう言われているような気がしました。

 それが消えたとき、黒岩は初めて、怒りよりも先に恐怖を覚えました。

 操は、物を盗んでいるのではない。

 自分の中の、支えになるものだけを選んで持っていっている。

 そう気づいてしまったのです。


 それから、二年が過ぎました。

 操の影は、消えるどころか、少しずつ濃くなっていきました。

 黒岩は、目に見えない執念に首を絞められるような恐怖を感じ、次第に

体調を崩していきました。

 夜は一睡もできず、昼間の稽古でも力が入らない。勝ち越しが続いていた成績も、

そこから急降下し、十両陥落の危機にまで追い詰められました。

 そして、あの、記録的な猛暑となった去年の八月。ある蒸し暑い夜のことです。黒岩の所属する部屋は、東京の下町、隅田川のほど近くにありました。

 その夜は、熱帯夜。昼間の厳しい稽古の疲れもあり、黒岩は自分の個室で、深く重い眠りに落ちていました。

 エアコンの冷気が、汗ばんだ肌を冷やしていく。

 深夜、二時を回った頃でしょうか。

 ――ペタ……。――ペタ……。

 妙な音が、耳の奥に届きました。

 何か、濡れた重いものが、床を這うような音。

 黒岩は、意識の泥の中から、ゆっくりと目を覚ましました。

 しかし、体が動きません。金縛りです。一六〇キロの肉体が、まるで鉛の

塊に変わったかのように、指一本動かすことができない。

 呼吸をするのも苦しいほどの、凄まじい圧迫感。

 黒岩は、土俵際を思い出しました。

 あと半歩で負ける。その瞬間なら、何度も味わってきました。

 だが、今は違う。

 押されているわけではない。掴まれているわけでもない。

 ただ、寝ているだけなのに、動けない。

 自分の身体が、自分のものではなくなっている。

 そのことが、何より恐ろしかったのです。


 ――ペタ……。――ペタ……。

 音が、確実に近づいてくる。個室の引き戸は、きっちりと閉まっているはずでした。

しかし、暗闇に慣れてきた目で部屋の隅を見ると、引き戸が、指一本分だけ、

音もなく開いている。

 その隙間から、何かが部屋の中へ入ってきたのです。

 それは、人の形をしていました。けれど、人ではありません。

 暗闇の中、どす黒い粘土のようなものが、ぬらりと光っている。表面には、細いものが無数に張りついていました。

 髪でした。

 黒岩の喉が、ひゅっと鳴りました。

 その頭に当たる部分には、見覚えのある櫛が、斜めに突き刺さっていました。

 祖父から贈られた、あのつげの櫛でした。

 それは、関節のない腕を引きずるようにして、ベッドの脇まで来ました。

 饐えた泥の臭いに混じって、あの女の化粧水の匂いがしました。

 顔には、目も鼻もありません。

 ただ、口のあるはずの場所だけが、黒く裂けていました。

 その奥から、声がしました。

 それは、間違いなく、あの操の声でした。

『やっと、お傍に参りました』

 その声は、部屋の空気を震わせるほど重く、湿っていました。

『黒岩関は、最近お元気がありませんね』

 人形は、黒岩の顔の真上まで覆いかぶさってきました。

 泥と髪の毛の塊から、ぽたぽたと、冷たい粘液が黒岩の頬に落ちてくる。

『黒岩関。余計なものが、まだ残っていますね。迷うところ。怯えるところ。負けを考えるところ。そういうものは、いりません』

 人形の手が、黒岩の胸元に触れました。氷のように冷たい。その指先が、

黒岩の皮膚に、じわりと沈み込んでいく。

『私が、取って差し上げます。その代わりに、もっと強いものを入れてあげます。粘土は、形を変えられますから』

 人形の口が、ゆっくり開きました。

 中は何も見えません。

 ただ、冷たい息のようなものが、黒岩の顎に触れました。

 そして、耳元で、あの女の声がしました。

『もう少しです』

(死ぬ。このままでは、魂まで吸い尽くされてしまう)

 黒岩は、必死に全身の細胞を奮い立たせました。

 土俵際の一歩。命がけのうっちゃり。彼は、動かない右腕に、全精神を集中させました。

(神様……。俺は、力士だ……! 邪なものに、負けてたまるか……!)

 カッと、黒岩の目が見開かれました。その瞬間、彼の脳裏に、土俵の

光景が浮かびました。

 力士を守り、悪霊を祓う、清めの塩。

 黒岩は、枕元に置いてあった、小さな素焼きの小皿を思い出しました。

 それは、先代の親方から受け継いだ、神棚から下げたばかりの「盛り塩」でした。

 体調を崩して以来、魔除けとして、毎晩枕元に置いていたのです。

 動け。動いてくれ。

 黒岩は、声にならない声で、自分の身体に命じました。

 その刹那、指先に感覚が戻った。彼は、渾身の力で右腕を振り抜き、

枕元の小皿を掴むと、その塩を、目の前の人形の顔面に向けて、思い切り投げつけました。

「うおおおおおおおおっ!!」

 ザッ、と白い塩が闇を裂き、人形に浴びせかけられました。

 塩が触れたところから、白い煙が上がりました。

 髪の毛が、一本、また一本と、粘土の表面から抜け落ちていきます。

『……熱い』

 人形が、畳の上で身をよじりました。

『どうしてですか。私は、こんなに、あなたのために』

 白い煙の中で、声だけが細く残っていました。

『離れません。黒岩関。離れませんから』

 やがて、人形は完全に形を失い、部屋の床一面に、赤黒い、悪臭を放つ

泥水となって広がりました。

 その中心に、あの祖父の櫛が、ぽつんと転がっていました。

 黒岩の金縛りは、完全に解けていました。彼は、激しく荒い息を繰り返しながら、

ただ呆然と、その泥水を見つめることしかできませんでした。


 翌朝。黒岩の部屋の惨状を見て、部屋の若い衆や親方は腰を抜かしました。

 畳一面に広がった、異臭を放つ泥と、大量の髪の毛。黒岩は、すべてを

親方に打ち明けました。

 親方は顔を青くし、すぐに懇意にしている神社から神主を呼び、

部屋を徹底的にお祓いさせました。

 泥水は綺麗に清められ、あの櫛も、神社で供養としてお焚き上げ

されることになりました。

 これで、すべてが終わった。

 黒岩は、心の底から安堵しました。

 実際、その日を境に、あの操という女は、本場所の客席からも、

出待ちの列からも、完全に姿を消しました。手紙も二度と届かなくなりました。

 黒岩の体調はみるみる回復し、九月場所では、見事な押し相撲を取り戻して

勝ち越しを決めました。

 恐怖の悪夢は去り、日常が戻ってきたのです。

 しかし……。話は、ここでは終わらないのです。

 場所が終わった、九月の終わりのこと。黒岩は、怪我の経過観察のために、

都内の大きな総合病院を訪れていました。

 診察を終え、静かな廊下を歩いていると、ふと、リハビリ室の奥から、

聞き覚えのある声が聞こえてきたのです。

 低く、どこか湿った、あの女の声。

 黒岩は、心臓が跳ね上がるのを感じました。

 恐る恐る、リハビリ室の半開きのドアから、中を覗き込みました。

 そこに、操はいました。

 車椅子に座り、膝には毛布をかけられている。病院着の袖口から出た手は、妙に細く、乾いた粘土のような色をしていました。

 そして、髪がありませんでした。

 あの夜まで、きっちり結い上げていた黒い髪は、一本も残っていません。

 操は、机の上の粘土を捏ねていました。

 看護師が何度も声をかけています。

 けれど、操は返事をしません。

 ただ、壁の一点を見つめたまま、粘土を押す。

 丸める。

 また、押しつぶす。

 やがて、粘土のかたまりが、少しずつ形を持ち始めました。


 太い首。

 丸い肩。

 大きな腹。

 黒岩は、息を止めました。

 それは、力士の形でした。

『次は、大丈夫です』

 操は、誰に言うでもなく呟いていました。

『今度は、溶けません』

 粘土の肩を、指先でそっと撫でる。

『もっと、あなたに近づけますから』

 それから、操は小さく笑いました。

『待っていてくださいね、黒岩関』

 黒岩は、ようやく分かりました。

 九月場所で勝ち越したことも、体調が戻ったことも、あの女が姿を消したことも。

 何ひとつ、終わった証拠ではなかったのです。

 ただ、次の形を作る時間を、与えてしまっただけでした。

 黒岩は、それ以上見ていられませんでした。声も出せないまま、病院の廊下を

あとずさりし、そのまま逃げるように外へ出ました。


 それ以来、黒岩は、どんなに暑い夏の夜でも、部屋の戸締まりを怠りません。

 そして、枕元には、決して欠かすことなく、山のような盛り塩を置き続けて

いるそうです。

 なぜなら、彼の耳には、今も時折、聞こえるのです。

 深夜、静まり返った部屋の引き戸の向こうから。

 ――ペタ……。――ペタ……。と。

 あの夜と同じ音が、今もまだ、戸の向こうから……。


 ……おや、お話ししているうちに、随分と夜風が冷たくなってまいりましたね。

 今夜は、お休みの前に、お部屋の戸締まりを、

 今一度、お確かめになった方がよろしいかもしれません。

 それでは、今夜の話は、これにて……。

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