第92話 視えた星、半欠けた魂のテーゼ。(後半)
「そうだ、戻りなさい。我が学生よ。お前が朽ちるべき場所は、このような掃き溜めではない。……本当はそう思っていただろう?」
「……僕は」
「お前が真に望んでいた安息を授けよう。……その魂に相応しい、正しい価値を刻んでやるから」
これまで人生で受けたなかでも、最大級の肯定だった。
王国最高峰の権威。智の頂点から、正式に認められる立場になれる。
炎蛇眼のゾルジュによる……そんな猛毒めいた誘惑。
僕の渇望を、これほどまでに深く理解した人間が、他にいただろうか。
深夜の図書室、突き刺さる寒空、かじりついた残飯。
ずっと、血を吐く思いで手を伸ばそうとしていた。
あの日々への遅すぎる救済。
(そうだ、今までで一番だ。お前にはそれだけの価値がある、金でも名誉でもくれてやる。……この怪物はそう言ってくれている)
ヤバマーズという呪いを背負わされる前――。
ただの子供だった僕は、ひたすらに祈り続けた。
その答えが今、目の前にある。
願ってもない奇跡。
これに乗れば、領地のみんなだって幸せになれるんじゃないか?
けれど――たった一つ。
たった一つだけ、欠けている。
「嫌です」
「……ほう、今、なんと言ったかね?」
「い・や・だ……と、そう言ったんです」
その美しき檻には、僕の憧れた『光』がいない。
……リュスが、いないのだ。
そして、僕を慕ってくれている人たちも……誰もいない。
ラ・ボアジエ教授の都合に従えば、そんなものはなくなる。
光も、きっと失われてしまう。
だって、教授にとって……それはどうでもいいことだから。
僕の魂が半分だけ、ぽっかりと欠け落ちたままの未来。
――そこに、これまでの過去が重なった。
僕が、リュスを見捨てた未来。リュシエンヌを見捨ててしまった過去が。
「おかしいな。間違いなくお前が切に望んだ救いであり、渇きを癒やす幸福である。……そう踏んでいたのだがね」
「ええ、なにも間違っていませんよ。……僕を釣る撒き餌としては、これ以上ない最高の一品です」
「ならば、なぜ受け入れようとしないのかね」
「僕に、欲が生じたからです」
「……ほほう?」
ああ、そうか。
ようやく理解できた。
日が暮れようとする今、教授と対峙して、ようやく。
「今、わかりました……僕が無理やり、民衆の前に引きずり出された意味が。なぜ、僕に出されたのが――あの理不尽極まりない試験だったのかをっ!」
最悪な学術試験。
修士となるための最後の無理難題。
日が落ちて、闇に染まっていく王都の広場。
精も根も尽き果てて、喉を枯らしながら挑まされた大討論。
不利なテーゼをひたすら守り抜く戦い。
「そういう……ことだったんですか。ずいぶんと酷い試練を与えてくれましたね、ラ・ボアジエ教授。なんでこんなことをっ! そう思ってましたよ、ずっとずっとっ!」
けれど、アレは本当に……必要な『通過儀礼』だったんだ。
教授が僕に、俗世への未練を捨てさせるための……修士へと至るための。
「あれで、僕の気持ちにケリをつけろってことだったんだ……?」
どう足掻いても、裁かれる罪人であったとしても。
それが掛け替えのないものなら、無罪だと言い張って守り抜く。
まさしく、だってそれは――っ。
「世の中や自分自身ですら間違っている、そう疑いたくなる不利な主張。それを貫かなきゃならない時があったら、お前はどうする? なにが出来た? ……そういう問いかけだったんですね」
僕は、本当に口先だけの子供だったんだ。
弾劾の日、僕が公爵令嬢リュシエンヌに対してできなかったこと。
不利なテーゼを死守する弁論は――まさに、その過去の清算そのもの。
僕はその試練をやり遂げた。
……意味にも気付かず、やり遂げてしまったっ!
「なにが議論に手を抜くな、だ。偉そうにっ! 僕こそ……僕こそが、公爵令嬢リュシエンヌの危機に、手を抜いていただけだったんだっ!」
この場に、リュスがいるのに思わず口にしてしまった。
僕は、自分自身で証明していた。
その罪の重さを。
本当は、必死になれば救えたはずじゃないか?
努力した僕は最後まで立っていられたのに、なぜ諦めた?
そして、なにより……なぜ、試練の意味から目を逸らしていた?
「僕が、今までのうのうと気づかなかったこと! それこそが最大の罪だっ!」
「おやおや。今さら、あの日が堕ちた夕の果て、『星』が視えたかね?」
「……はい、今さら視えました」
「そうかね」
ラ・ボアジエ教授の眼が、愉悦にギラついた。
「随分と遅かったのだね、我が学生」
「ええ、遅かったです。僕は死ぬほど愚鈍だった」
「しかし、もはやお前にそこに立つ資格はないのではないか。その未練を抱え続ける資格が本当にあるのかね? お前にはなにも出来なかったどころか、まるで気付きすらしなかったのだよ」
突き付けられる。
目を逸らせる程度の未練だったろう、と。
捨てても構わない程度の大切さだっただろう、と。
「さあ、高みにおいで。“私はお前を捨てない”よ」
「でもっ! 僕は……それでも領主になって見つけたんですよ、やらなきゃならないことを。誰かに任せるんじゃなくて、自分でやらなきゃならないことなんだって!」
「かつて望んだ安寧は不要だと? 私に任せた方が、大多数の幸福に繋がるやもしれぬというのに?」
「他人任せの大多数? ……そんなの領主じゃないっ!」
今の僕は……ヤバマーズ男爵でいたいんだ。
そう名乗るのに、相応しい男でいたいと思うんだ。
「自分の足と考えで立とうとする奴だけが、領主を名乗っていいんですよ。誰かに尻尾を振って、口を開けて与えられるのを待つような――そんな腰抜けはなるべきじゃないっ!」
「ほほう、ずいぶんと囀る雛鳥だ」
「いいやっ、僕は雛鳥なんかじゃないぞっ! 僕は羽ばたく! どんな猛毒めいた誘惑だって、もう僕を仕留められやしない! なぜなら僕は――」
そう、なぜなら僕は。
僕はもう誰かに救われるのを待つだけの、無力な子供ではなく。
「――――毒喰らいのヤバマーズ男爵だからだっ!」
与えられなかったという渇きを癒すために、生きてるわけでもない。
大人たちに押し付けられた正義とか、誰かが作った『こうあるべき』という主張のために、生きているわけでもない!
代わりに……自分で、決めなきゃならないんだ。
たとえ身勝手だと罵られようとも。みんなに迷惑をかけようとも。
僕がどんな領主で、どんな男で在り続けたいかという主張を。
「僕だ! 僕こそが、僕を慕ってくれる人々に……居場所と明日をくれてやるっ! 毒を喰らってでも、命を賭して守り抜く。そんな男に、ならねばならないっ!」
すると、老いた怪物はひどく酷薄に嗤った。
「二年前。打ちひしがれたお前に芽吹き、形を成さんとする執着――私はアレを、却却に愛でていたのだがね」
「誰かに愛でられて喜ぶ立場じゃないんですよ、男爵ってのはね」
「そうか。……絵空事をとるか、なんたる傲慢」
「その傲慢さと向き合う、明日を信じる勇気が……きっと、僕には足りなかった」
「いいだろう、足掻くがいい。お前が辿る結末を、ここで愉しみに待っていよう」
教授はそれきり。
平然とお茶を啜ると、給仕のヘイホーへ追加の一杯を命じた。
ああ、教授にとっては本当に些事なのだ。
俗世の動乱も、僕の葛藤も……なにもかもが。
――パシンッ!
僕は両頬を、力の限り叩いた。
迷う必要などない。用意された安息など、こちらから願い下げだ。
僕が立ち向かうべきは、今なんだ。
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