第59話 湿度100%。修羅場の温度急上昇!?
「…………アスタ様?」
ひどく澱んだ声だった。
村の女たちを鮮やかに取り仕切った、あの凛とした響きはどこへやら。
今まさに、陽の届かぬ井戸から這い出して、鼓膜にべったり粘りついたのかと思うほどの湿度。
おそるおそる、ジルの肩から手を離し。
ギギギ、と振り返る。
「世界一愛しい? お前のことを考えていた? あげくに……会いたかった?」
「あ、いや。リュス。……なんか顔が怖いぞ?」
リュスの瞳は暗渠を通り越し、暗黒と化していた。
この世の終わりでも見たかのよう。怨念じみてさえいる。
手にした帳簿が、ミシミシと悲鳴を上げて撓んでいる。
「……アスタ様が、それほどまでに“お好きな御方”、なのですか」
「待て! よくわからんが、とりあえず待てっ! その端折り方は、誤解を招くからっ!」
理由が不明だが、間違いなく怒ってる。
だが、ジルはなにも気にせず、喜んで自己紹介をぶちかました。
「えへへ、そうっすよ。アスタ先輩の、最愛の後輩こと、ジル・ドゥル・マクスウェルっす!」
「……ドゥル?」
ぴたり、とリュスの殺気が止まった。
訝しげに、独特な音節を反芻する。
「まさか、かのドワーフ外科医子爵――ドラン・ドゥル・マクスウェル卿のご親族ですか?」
「正解っす! 最高の技術者にして、最高のパパっすよ!」
「しかし、ジルなどという名には、聞き覚えが……」
リュスは、困惑した。
無理もない。彼女が王都から放逐されたのは、二年前のこと。
当時はまだ、この名が社交界にのぼることはなかったはずだ。
僕は、そっと耳打ちする。
「リュス。こいつはちょっと特殊だ。君が去った後に、ドラン卿の養子になったんだよ。元は、数いる若弟子の一人だったらしい。ドワーフには、半世紀爵位が適用されるから――」
「……ああ、そういうことでしたか。つまり、血筋によらない貴族」
リュスは値踏みするように、上から下までジルを観察。
機能性優先の男女共用研究衣。
脂汚れも厭わない簡素な装いだ。その上、腰には使い込まれた工具ベルト、指先のタコ。
見るからに、貴族としての洒落っ気など微塵もない。
「へへ。うちは人間っすけど、親方の後を継ぎ、マクスウェル家を背負って立つ予定っす。まあ、今は修行の身っすけどね!」
「おい、ジル。一応、公では義父を“親方”と呼ぶなよ」
「んー。でも、うちにとってはすべてを教えてくれた師匠っすから。恩返しのために、一日でも早く一人前になって安心させるっす!」
「……その、志はいいと思うけどな。期限があるし」
半世紀爵位法。
当主がドワーフのような長命種である場合、人間社会のサイクルに合わせて、およそ五十年前後で次代に席を譲らねばならない。
そんな情け容赦のない法律だ。
ドラン・ドゥル・マクスウェルは、卓越した工学技術と外科医の腕前を融合させ、戦場での生存率を劇的に上げた。
それも、焔王国の貴族に食い込むほどに、だ。
歴史的に見ても、類するものがいない新興ドワーフ貴族。
それこそが、マクスウェル子爵家であり……ジルはそこに組み込まれた、人間の養子だったのだ。
「で、先輩。この超絶美人な男装お姉さんは誰っすか? あ。もしかして、先輩の愛人?」
「そのネタはもう、お腹いっぱいなんだよ……っ!」
「えっ、もういいってどういうことっす??? あ、つまり……一通り堪能した後ってことっすか!?」
「ちげーよ、バーカッ!!?」
愛人。
未だにその単語ひとつで心拍数が跳ね上がる、初心な僕である。
「……アスタ様とは、随分と仲がよろしいのですね。――羨ましいほどに」
「アスタ先輩がいなきゃ、平民上がりのうちは大学でやっていけなかったっすから! これでもすげー尊敬してるんす!」
「大学での、生活……」
「だからこうして、最新工具一式担いで、超特急で駆けつけたわけっすよ!」
ジルは自慢げに、大きな背負い袋を叩いた。
しかし、その視線の先では、オノレが優雅に手を振る。
「でも、オノレ先輩は……え、さすがに到着早すぎないっすか? 魔術で飛んできたんすか?」
「あはは。俺は目的のためなら、手段を選ばないからね」
「うへー。……ガチ勢、マジパないっす。引くっす」
ドン引きする、ジル。
なんだよ、そのガチ勢って。
でも、内心同意もする。
オノレは、この不毛の地へ来るハードルを、小石を跨ぐ程度の感覚で飛び越えているわけで。
……ホント、なんだこいつ。
「おうすっ! 立ち話もいいが、この山積みの荷物、いつまで馬車に積ませておく気だ?」
そこに割って入ったのは、日焼けした精悍な顔立ちの中年男――オコトギ・マッケンジーだ。
ヤバマーズ男爵家の傍流にして、領地の経済を支えるマッケンジー商会の主。
その絶妙な距離感と来たら――。
「なあ、坊ちゃん……じゃねえや。ご当主様よぉ。いつもより、多めに積んできたんだがなあ?」
ほら。早速、親戚特有の馴れ馴れしさ混じりに、マウントを入れてきやがった。
だが、僕が王立大学で学べたのは、オコトギが学費を融通してくれたおかげでもあるわけで……。
「オコトギ! 本当に、よくぞ連れてきてくれた……!」
色々と飲み込み。僕は笑顔で礼を言い、労うように肩を叩いてやった。
すると、オコトギは、なんとも言えぬ渋い顔をする。
「ふん、客人のことか? なら、もう一人隠れてるぞ。ほおれ、出てこい」
馬車の影から、おずおずと、今にも消え入りそうな雰囲気で顔を出したのは――。
どこか鬱々とした、線の細い青年だ。
「あれ、ヘイホーじゃん。お前まで来たのか?」
「お前までって、ひどくないですか!? 手紙をくれたのはアスタ様じゃないですかぁっ!」
「冗談だよ。でも、手紙に書いた通り、今のヤバマーズにまともな給金もメシもないぞ?」
「そこは冗談であってほしかったんですけどぉぉっ!」
相変わらず、イジリ甲斐がありそうなやつ。
ヘイホーは……まあ、ぶっちゃけ、ただの平民だ。
(ああ。でも、来てくれたんだな。その、気持ちがありがたい!)
再会の喜びを噛みしめながらも、ちょっとした違和感を覚える。
(ん? でも、リュスは一組の男女って言ってたよな。……女なんてどこにも――?)
そこで、空気をぶち壊す一声。
オコトギだった。
「それより、ご当主様よ。黒銀結晶なんて儲け話……どうして、この儂に内緒で進めてやがったんだ?」
やはり、来たか。
オコトギは不機嫌を露わにする。ほら、気を使え、と言わんばかりに。
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