第43話 何百の夜を越えて、一緒に今日を過ごしたい
「……夢、では、ないのですね?」
「ああ、そうみたいだな」
「生きて……いますか……? 本当に……本物のアスタ様……ですか?」
「生きてるよ、間違いなく。僕は、天国を追い出されてしまった。毒喰らい男爵は、いらないとさ」
冗談めかしたが、リュスは、にこりとも笑わない。
次第に這うように、その指先が、僕の手に、そして身体に伸びてくる。
「温かい。……ああ、幻ではないのですね」
「おいおい。まるで、僕の幻覚でも見てたみたいな言い草じゃないか。……リュス、お前こそ大丈夫なのか」
問いかけた瞬間、リュスの糸が切れた。
崩れ落ちるように、僕の胸元に顔を埋め。激しい嗚咽が漏れ出す。
「……あ、ああ……、あぁぁぁあぁっ!!」
すがりついてくる、リュス。
「よかった……っ。本当に、目覚めてくださった。わたくし、また……また、アスタ様が目覚めない世界に、戻ってしまったのではないかと……」
「いいや。……貴女は間違いなく、ここにいるよ」
「怖かった、怖かったのです。眠ったら、また、またあの戦場に――貴方様が、あの綿毛に貫かれる瞬間に、戻されてしまうのではないかと……っ!」
抱きしめてやりたかった。
大丈夫だ、終わったんだと、力強く告げてやりたかった。でも、片腕が持ち上がらないから――。
残る右手で、精一杯。想いを込めて、ぎゅっと抱きよせる。
驚くほど、頼りなく。柔らかい。
「リュス、終わったんだ。もう、やり直す必要なんて、ない」
「嘘です、信じられません。……わたくし、これまでで。あの十秒のなかでさえ……何回も。何十回、何百回も、アスタ様が死ぬのを見ました」
「でも、今はこうして、貴女を抱きしめてるよ」
「血を吐いて、腕が弾けて。それでも、最期に笑いながら消えていく貴方様を、何度も、何度も、何度も……ッ!!」
リュスの指が、シーツを、皮膚を、身体を、引きちぎらんばかりに強く掴む。痛いくらいに。
「どうして、笑ってくれたのですか? わたくしの、失敗のせいなのに」
「違うんだ、リュス」
そんな無数の死、僕はまるで理解できないのだけど。
けれど、死ぬ間際に、リュスが笑いかけた理由は――よくわかる。
「貴女のおかげだよ。……リュスがいてくれたから、僕は最後の最後まで、怖くなかったんだ」
「……っ、違います」
「違わない」
「わたくしが――」
「いいから。リュス、僕を見てくれ」
促すが、彼女は首を振るばかりだ。
仕方なく、右手で、乱れた髪をぎこちなく撫でる。
「ほら、耳を澄ませてごらん」
重いカーテンの隙間から、ヤバマーズ特有の、灰色に濁った陽光が差し込んでいる。
けれど、その先からは――喧騒が聞こえた。勝利に沸く人々、宴の準備に駆り出された子供たちの笑い声。鳴り響く、鐘の音。
「鐘の音が聞こえるだろ。正午だ。……僕たちは、一緒に苦難を乗り越えて、今日に辿り着いたんだよ」
「一緒に……辿り着いた……?」
「そう、一緒に、だ。やり直しの利かない、たった一度きりの『今日』だ。リュスが、何百の夜を越えて、最後にその手で掴みとったのは――僕と生きている未来。紛れもない、貴女の勝利だよ」
リュスはようやく、恐る恐る顔を上げた。
赤く腫れ潤んだ瞳が、僕の顔を、呼吸で上下する胸を、必死に焼き付けようとしている。
「本当に……もう、戻らなくて、いいのですか?」
「ああ。これからの時間を、一緒に過ごそう。……そうしてくれるかい?」
そっと、僕が頬へ手を伸ばせば……彼女も自ら、掌に寄せてきた。
「……温かい。本当に、終わったのですね」
安堵が閾値を越えたのか、身体からすとんと力が抜けた。
そのまま頭を預け、規則正しい寝息を立て始める。
ようやく、この気高い魂は――安らかな眠りを許されたのだ。
「やれやれ。……寝相くらいは、公爵令嬢らしく優雅にしてくれよな」
ずしりと重い。けれど、この痛みすら伴う重みこそが、リュスと生を掴み取った証だと思えば、悪くない気分だった。
「リュス様は、戻られてから一睡もせず、食事もとらず。ずっと若様の傍にいようとされて……」
「そうなんだろうなあ……」
「はい。……実に、穏やかな寝顔でございます」
「残念ながら、僕の角度からは見えないんだよなあ、これが」
動けないもどかしさに、溜息をつく。
様子を窺っていたゲロハルトが、涙ぐみ鼻をすすりつつ、やがて言った。
「ぐすっ。それで、若様……。リュス様を、そのままに?」
「ああ、このままでいい。……僕も、もう少しだけ、この『今日』を味わいたいんだ」
この腕にある重みを、離したくない。
そんな身の丈に合わない強欲な願いも、今日くらいは許されるだろうか。




