第42話 ひだまり戴冠式、夢のなかでも嘘つき男爵
温かかった。
肌を撫でる風は、どこまでも柔らかく。鼻腔をくすぐるのは、ひなたの匂い。
「……ここは」
ひどく穏やかな葉擦れの音がする。
見渡す限りのタンポポ畑。どこまでも、どこまでも。
どこか青臭くて、空はどこまでも青く、高く。
僕が嫌う、あの忌々しい『乾いた霧』なんてまるで存在しなかった。
陽光が燦々と降り注ぎ、黄色い花弁がさざ波のように揺れている。
「……なんで、僕はこんなところにいるんだろう」
僕は……こんな長閑な場所を知らなかった。
ふいに誰かが、呼んだ気がした。
「おにーちゃん?」
振り返る。
広大な花畑の中央。そこに一本の大きな木が、心地よい木陰を作っていた。
根本に、小さな影がひとつ。
真っ白なワンピースを着た少女が、ちょこんと座っていた。
綿毛のように儚げで。今にも風に溶けてしまいそうだった。大きな木の下で、強い日差しを避けるように、じっと僕を待っていた。
(おや……目も鼻も、ちゃんとあるな)
そんな当たり前のことに、なぜだか妙な安堵を覚えてしまった。
少女は目が合うと、パッと表情を明るくした。
「本当に、おにーちゃんだ! 本当に、本当に迎えに来てくれたんだねっ♪」
「迎えに?」
「うん♪ おかあさんが言ってたの。『良い子に待ってたら、いつか、おにーちゃんが帰って来る』って。あたち、ずっと信じてたんだよ」
ふわりと駆け寄ってくる。
白く透き通るような肌、絹糸のような髪。
「あたちね、おにーちゃんに、コレあげたくて」
差し出されたのは、タンポポで編み込まれた小さな冠。
茎はあちこちほつれ、花の向きもバラバラな、ひどく不器用な代物だ。
けれど、一生懸命に作ってくれたんだろう。この小さな手で。
――指先が赤らんでいて、痛いほどに気持ちが伝わってきた。
「……いいのか?」
「もちろん! だって、おにーちゃんのために、ずーっとつくったんだもん」
「そうか……。ありがとうな」
「えへへ♪ ちょっとだけ、しゃがんでね」
僕は、膝をつく。
温かな、血の通った手で。精一杯、背伸びをして。
僕に、その不格好な花冠をかけてくれる。
「おかーさんがね。えらい王さまは、金の王冠をかぶるんだって言ってたの。でも、おにーちゃんは、領主だから……ちょっとちがう?」
「そうだな……。王さまとは、ちょっと……いや、だいぶ違うな」
僕は、苦笑い交じりに答えた。
自分が誰なのか、ここがどこなのか。そんなことはどうでもよかった。
ただ、今はこの少女の願いを叶えてあげたい。心から、そう思った。
「……できた♪ ほら、やっぱり。すっごく似合ってるよ!」
「この冠が?」
「そうだよ、おにーちゃん。似合ってる♪ 似合ってる♪」
「はは……。タンポポが似合う男爵、か。あんまり格好いいもんじゃないな」
少女は、僕の困り顔を見て、満足そうにキャハキャハと笑い転げた。
なぜだろう、この無邪気な笑顔を見ていると――胸が、痛いほどに締め付けられる。
……本音を言えば。僕には、すこし重たすぎる気がしたのだ。この『冠』と言うやつが。
たとえ、タンポポで出来た――黄金の冠ですら。
僕の頭には、あまりに重たく感じた。
「ねえ、おにーちゃん」
「なんだい?」
笑い止んだ少女が、ふいに、不安げな表情で僕を見上げた。
「どうして……おかーさんは、あたちをおいてっちゃったのかな」
舌足らずな、口調。込められた悲しみ。
「どうして、あたちを一人にしたの? おにーちゃんも、どうしていなくなっちゃったの?」
喉が、詰まる。
わからない、とは、言えなかった。
「ねえ、どうして? どうして、あたちだけ……」
「君は……いったい……」
少女は答えず、うつむく。
「あたち、おうちに帰れるかな。みんなと一緒に、また暮らちたい……」
「……その、それは」
ごめん、とも、言えなくて。
言葉に困って……どうしようもなく、僕はこの小さな体を、そっと抱きしめた。
少女を傷つけた、すべての理不尽から守るように。
「僕が……どうにかするから」
そうやって、僕はまた、いつもみたいに景気のいい大嘘をついた。
出来るかどうかもわからないのに。それでも、口が勝手に「できる」と言うのだ。
……腕のなかで、少女が言う。
「ねえ。どうして、いなくなったの。……サキオンおにーちゃん」
その名を、呼ばれた瞬間。
少女の姿が、次第に、眩い光の粒子となって、風に溶けていく。
僕を抱きしめていた温もりも、黄金の花畑も、大きな木も、出来過ぎた陽光も……ぜんぶ、ぜんぶ。
「……サキオン」
深い、闇の彼方へと、消え失せていった。
***
重い瞼を押し上げる。
見慣れた、どこか煤けた屋敷の天井。
「……なるほど。僕は、また死に損なったか」
呟いて、喉奥が痛んだ。出た声は、想像以上に掠れていた。
「ゴホッ、ゲホ……っ、う、ううっ……」
せき込むたびに脇腹に鋭い痛みが走り、神経が悲鳴をあげる。
体も重い。泥縄で縛られてるみたいな、不自由さ。
「若様っ、お目覚めになられましたかっ」
うるさい。響いたのは、馴染みの絶叫。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたゲロハルトが、視界に飛び出してきた。
「うるさいぞ、爺……。僕は、どれくらい寝てた」
「丸一日! 丸一日でございます! 若様が森で倒れられたと聞いた時、爺めは、今度こそ心臓が止まるかと――」
「……丸一日。ずいぶん寝てたな」
すると、ゲロハルトが急に居住まいを正す。
「ハッ!? そうでした、すぐにリュス様をお呼びしなくてはっ!」
「はあ? なんで、リュスが――」
いや、気付いた。
呼ぶまでもなく、リュスは部屋の前に立っていた。
「えっ、その顔。……どうしたんだ?」
髪は乱れ、頬は土気に沈んでいる。
暗渠の瞳は、いまや底なしの虚無。
涙は枯れ果てたのだろう、赤く腫れあがった瞼と、頬に白く残る痕だけが、教えてくれた。
「……アスタ、様」
リュスはおそるおそる歩み寄り、力なく膝をつく。
震える指先が、シーツ越しに僕の脚に触れた。




