第40話 百死の盾。泥塗れ令嬢が捧ぐ、たった十秒の奇跡。
何百、何千という捕食綿毛が、嘲笑うように不規則な螺旋を描き、全方位から僕たちを押し包もうとする。圧殺寸前だ。
そこに無慈悲な種子弾が、五月雨となって追い撃ちする。
「――はぁぁぁあッ!!」
僕の鼓膜を震わせたのは、命を削りゆく聖騎士ロダンの咆哮。
飛来する種子弾が、ロダンの大剣に、鎧に、皮膚に、容赦なく着弾。激突の度に、甲高い破砕音。
「まだまだぁぁあっ! 吾輩は……吾輩は、聖騎士なのだッ! そう、あらねば……ならんのだっ!」
ロダンの防具は、限界だった。綿毛への抵抗を司る忌避剤は剥がれ、死が食らいつく。
だが、最後の一線――聖騎士の血清。活性化した細胞は、根の浸食を拒絶し、枯らして弾き飛ばす。
それは文字通り、命の灯火を燃料に肉体を維持するものだった。さながら、凄絶なる信仰の肉盾。
されど、強化された肉体とて無敵ではない。傷口から、熱い血潮がしたたり落ちていく。
もう片翼を担うのは、祓魔女リュス。
「止める、絶対に、一つも通させないッ! わたくしが、アスタ様をッ!」
リュスの恢復聖剣が、青白い閃光を撒き散らした。
網膜に焼き付く高速剣閃。銀の残像が綿毛の群れを次々と細断し、空中に光の軌跡を描き出す。
だが、相手は途方もない物量。
防ぎきれなかった一本、また一本と、リュスに触れるたび、布鎧に染みた白骨茸の成分と激しく反応。ジリジリと黒い煤を吹き上げた。
(ああ……くそっ、見ていられない。二人とも、僕のためにこんなボロボロになって――)
今すぐ叫びたかった。「もうやめろ」「下がれ」と。
でも、この喉から出たのは、僕自身の想いを裏切る命令だ。
「リュス、絶対に下がるな! 貴女ならできる、僕は貴女の剣を信じているッ!」
「――はいっ、アスタ様!」
かつての高貴な公爵令嬢の面影は、もう、そこにはない。
ただ、一人の男を……己の居場所を守り抜くと決めた。苛烈な祓魔女の貌が、そこにあった。
リュスは、地獄へ誘った僕を、喜んで受け入れたのだ。
まるで、福音のように。
「ロダン、右の弾幕を叩き落とせ。迎撃しろ!」
「承知ッ! この程度の礫、粉砕してくれるわッ!」
聖騎士ロダンも、当然のように頷く。
きっと、命を捨てるつもりだ。己が、最期まで聖騎士らしくあるために。
「キャハッ、キャハハハハッ! カエッタラ、カンムリ作ロウネ。ユビワモ、ウデワモ……オカーサンニ、イッパイ、ツクッテアゲル♪」
綿毛の魔人だけが、この凄惨な現実を理解していないようだった。
巨大な三日月の裂目を歪に広げ、その暗黒の喉奥を晒して嗤う。
僕は、その光景に恐怖を感じるより先に……声を聞いた。
そうだ、ヤバマーズの血が騒ぐのだ。『状況を打破せよ』と。
(……ああ、そうだ。結局、そうなのだ。ああ、思考を止めるな――観察しろ、脳を回せ)
だから、僕は何度でも、無慈悲な命令を下す。
たとえ、その相手が……この世で、最も尊く想う女性であったとしても。
「頼む。……二人だけで、あと十秒だ。もう、十秒だけ耐えてくれ」
「十秒ですね。……ええ、必ずや。わたくしの魂に代えましても」
リュスが、目を細めて僕を見た。
なんで、そんな風に笑うんだよ。どうして、そんなにも優しく、慈しむように笑えるんだ。
僕のなかで、カウントダウンが始まる。
「今までの、予兆は……僕のウロコが覚えてる」
魔人の頭部――白い塊が、脈動を繰り返しながら、さらに膨張。禍々しいオーラを放ち始めていた。
あれが決壊する時。この深い森も、領民たちが待つ村も、ヤバマーズのことごとくを飲み込む綿毛の津波が始まるのだろう。
「はあ、はあ……」
呼吸が鉛のように重い。肺の奥が焼けるようだ。意識が朦朧とする。
確かに、僕はもう限界だ。
だが、魔人の磁気出力が最大級に跳ね上がった今だからこそ、力の流れが、かつてないほど鮮明に理解できた。
リュスが、魂を振り絞って叫ぶ。
「何度でも、何度だって、防いでみせますっ!」
リュスが、迫りくる種子の雨を切り裂いていく。返す刀で、死を運ぶ綿毛を塵へと変えた。
「諦めないっ! 何度、死んでも、やり直すっ! ここを耐え凌ぐまでっ! アスタ様へと勝機を繋ぐまでっ!」
切っ先が、限界を越えて閃いていく。
リュスの瞳から、なにか大切な輝きが失われていくのがわかった。
僕は理解する。彼女は、今まさに回帰――無数の死を繰り返しているのだ。
コンマ一秒の隙間を埋めるためだけに、主観的な時間の中で、何十、何百回と凄惨な死を経験し、敗北の運命をひたすら塗り潰し続けている。
(この卓越した剣技は……技術じゃない。死に覚えの試行錯誤で生み出された、今だけの最適解だ)
僕のために。
ほんの一秒一秒を捻り出すためだけに、死に続けている。
僕が一撃を放つ、そんな奇跡を捻り出すためだけに。
「わたくしの、これまでは! 臓物を弄ばれ続けた痛みは、誰にも理解されない孤独は、涙が枯れても止まらない悲しみはっ! 救われぬ苦しみはっ!」
ああ、ごめん。本当に、ごめんよ。
本当に、謝っても許されない。
僕が、貴女に希望なんて見せてしまったから。貴女に命じてしまったから、頼んでしまったから。
貴女に、憧れの貴女に、こんなことをさせたかったわけじゃないのに。
こんな生き地獄を、強いたかったわけじゃないのに。
「――きっと、この瞬間の、奇跡のためにあったのですッ!」
それでも、彼女は気高かった。
綿毛が舞い散る、吹雪のなかで――凛と、リュスは百死の盾となった。
(ああ。今、僕は……間違いなく。泥と血に塗れた今の貴女に生かされている)




