第37話 天国でピクニック。幼気タンポポ大好きっ娘の首を獲れ。
安全ピン。
それは王都にある消火装置から着想を得た、加圧装置のカラクリだ。
引いたが最後、樽内部で硫酸と重曹が反応。爆発的に発生した炭酸ガスが、限界まで内圧を引き上げる。
ただし、今までにない噴射と引き換えに、噴霧器はもう自壊するまで止まらない。文字通りのオーバードライブ。
「その隙に、僕が魔人の首を獲ってきてやる! ――行くぞッ!」
「応よぉっ、旦那様! 魔人とのダンス、リードを譲るんじゃねえぞッ!」
視界の先、白く濁った霧の深淵が、巨大な顎を開けて僕たちを待ち構えている。
最後に、僕ら三人は互いに頷き合い――「今だっ!」と叫んだ。
一斉に、安全ピンが弾き飛ばされる。
――シュゴォォォォォォォッ!!!
鼓膜を劈く高圧蒸気音が、森を震わせる。
白骨の息吹は、もはやミストではなく、暴力的な濁流となって綿毛の吹雪を押し戻し、タンポポゾンビをまとめて薙ぎ払った。
「コイツも食らいやがれっ!」
猟兵たちは、ギリギリまで最前線に踏みとどまった。
残された陶器瓶も、毒を塗ったボルトも、すべてが霧の深淵へと放たれていく。
「二人とも、遅れるなよっ! 僕の背中だけを見てろっ!」
僕は左手の甲を疼かせて、三日月の刃を顕現させた。
毒のカーテンが切り開いた、絶望の隙間へと飛び込むために。
背後で、一台、また一台と噴霧器が爆発する。
(ああ、これで完全に退路が断たれてしまったな)
死地への片道通行証を握りしめた自分を、どこか冷めた意識が俯瞰していた。
「あはは……本当に、3%の心中ですね、アスタ様!」
風を切って走る、僕のすぐ後ろで。
リュスが、戦場に不似合いなほど鈴の鳴るような声で笑った。
何がそんなに楽しいのかは、わからない。だけど、今だけでも彼女が笑えるのなら、それだけで救われた気がした。
「面白いのはこれからだぞ、リュスっ!」
足元のタンポポが劇薬を浴びて腐り果てる。その死骸を踏み越えて、さらにさらに奥へ、深淵へと突き進む。
***
どれほど走っただろうか。
決死の強行。前線を喰らい破り、迷霧を強引に突破した途端――世界が劇的に、変貌した。
「……これは」
リュスが、引き攣った吐息を漏らす。
そこには、この世のものとは思えない――美しくも、背筋が凍るほど穏やかな絶景が広がっていた。
開けた空間、立ち込める乾いた霧。
中央にそびえ立つ、一本の巨木。周辺を埋め尽くす、数千、数万のタンポポ。
陽光の届かないはずの深淵で、そこだけは敷き詰めたように、黄色い花が……愛らしくも、さざ波を打って揺れていた
「まるで、ピクニックにでも来たみたいだな」
そう。それは死後の世界――天国とやらを、誰かが悪意たっぷりに模倣したような光景だった。
一歩外にある陰鬱な森とは対照的な、出来過ぎたほどに――皮肉めいた長閑さ。
冗談にしては、趣味が悪すぎる。
「アスタ様……あそこに。巨木の根元を」
リュスの視線を追う。
黄金の花畑に座り込み、無邪気にタンポポを摘んで遊ぶ、小さな影。
細く伸びた指先が、一つ、また一つと花を千切り、その冠毛を優しく風に散らしている。
ふぅ――。
花を吹く、透き通るような吐息。
仕草だけなら、どこにでもいる幼子そのものだった。
だが、ソレがこちらに気付き、緩慢に振り向いた途端。総毛が立った。
その顔には、目も鼻もなかった。
ただ、びっしりと敷き詰められた白い綿毛の隙間から、三日月の形をした裂目が不気味に開き、歓びを孕む歪な声で言ったのだ。
「……オニイチャン、キタネ。迎エニキテ、クレタノ?」
呼応するように。
視界を埋めつくす、タンポポのすべてが、いっせいに鎌首をもたげて、こちらを向く。
「アハ、アハハッ。オニーチャン、ホントニ、ホントニ来テクレタンダネ♪」
花を摘んでいたソレは、ふわりと重力を無視して浮き上がった。
綿毛の球体と化した異形の頭。そこから、根で編み込まれた胴や手足が、不格好にぶら下がっている。
かつて人間だった――そう、おそらくは、僕よりも遥かに幼かった少女の、あまりに無惨な成れの果て。
「アタチ、待チクタビレチャッタノ……。早ク、オウチニ帰リタイナァ……」
寂しげな声。僕は不覚にも、哀れになった。
「それは悪かったな、お姫様。……でも、お前にはもう、帰る場所なんてどこにもないんだ」
「……貴公、妙な情けは無用だ。一度、魔人と化した以上、魂を解き放ってやることだけが唯一の慈悲」
「わかってる、ロダン。……僕らに油断してやれる余裕はない」
左手のウロコは、もはや熱いを通り越して、痛いほどに拍動している。
目の前の魔人が放つ魔素は、今までのどんな危機とも比較にならない。高密度のエネルギーが、明確な指向性をもって、僕の喉元を突き刺している。
「オカーサンガネ、イッテタノ。迎エニ来ルマデ、ココデ遊ンデナサイッテ。
オニイチャンモ、イツカ、帰ッテ来ルッテ……」
会話は成立しない。人類と決して交わらない、乖離。
僕は、左手の三日月の刃を正対させ、一歩ずつ、死線を見極めるように、じりじり間合いを詰める。
「アスタ様、気をつけて! あの子の周囲、空気がおかしいです!」
「ああ、わかってる。……たぶん、この花畑ぜんぶが、あいつの感覚器官だ」
咲くタンポポの一輪一輪。空を舞う綿毛の一つ一つ。
このすべてが魔人と繋がっている。僕らの一挙手一投足、呼吸の乱れすら、この花園は逃さない。
「で、リュス。貴女が経験した『満開』が来るとどうなる?」
「わたくしも、滅びの結末を視ただけで、その理屈まで把握しているわけではありません。……ですが、おそらく」
リュスは喉をごくりと言わせ、剣の柄を握り直した。
「ここに敷き詰められた、万を超えるタンポポ。これらが爆発的な増殖と共に冠毛を広げ、村へ種子を放つのでしょう。――その時、世界は白く塗り潰され、すべての命は死に絶える」
「それで、やがて、村はここと同じように、幻想的なタンポポ畑になるってことか。それは、なんて――」
綿毛の魔人は、根で編まれた両手を広げた。待ちわびた時が来たと、幸せそうに。
「フワフワ、オ空ヲ、飛ベタライイノニ。ソシタラ、スグ、オウチニ帰レルヨネ。……ネェ、オカーサン♪」
これからヤバマーズを、そこに生きるすべてを滅ぼす――冒涜的な超繁殖。
その根源たる、情念が……。
「そいつは。誰もが抱く、あまりに無垢な――『帰郷願望』だ」
そう、それはなんて――痛ましく、救いがないのだろう。
瞬間、魔人の綿毛が、針鼠みたいに逆立った。
黄金の絨毯が、次第に白色へと変わり始める。万に至る花々が、破滅を運ぶ綿帽子へと姿を変えつつあった。
「来るぞ! リュス、ロダン! ここで食い止められなきゃ……僕らに明日は来ないッ!」
表面だけの長閑さが剥がれ落ち、真の終焉……『満開』が幕を開けようとしている。
空を埋め尽くそうと、舞い上がり始める綿毛の吹雪。あまりに幻想的で優美な、死の群れだった。
「オニーチャン! アタチネ……タンポポ、ダーイスキ♪」
魔人は無邪気に笑うと、無数の触手状の蔓を高速で伸ばし、空間を縦横無尽に蹂躙し始める!
綿毛の魔人エグレット――討伐開始。




