第36話 毒喰らいのプロポーズ、愛しの君と地獄に堕ちたい
「正気ですか、アスタ様!? この綿毛の嵐を、突き進むなど……死にに行くようなものです!」
リュスの声は、もはや悲鳴だ。
当然だろう。僕だって、こんなの狂気の沙汰だと思う。
けれど――死を目前にしてもなお、僕はリュスの前で『格好悪い男』になることに耐えられなかった。
……リュスが、絶望に濡れた瞳、その姿のままなのも嫌だった。
だからこそ、僕は出来るだけ静かな声で紡ぐ。
「いいか、リュス。このまま戦って、僕が死ぬ運命にあるのなら。それこそが、僕がなにか致命的な計算違いをしている証拠だ」
脳裏に、あの食えない悪友が浮かぶ。
オノレ・ド・ラプラスに習った、逆行推論の思考法だ。
「何を見落としたのかは、まだわからない。だが、さっきの噴霧器の破損は、最初のほころびに過ぎないはずだ」
失敗した、とは、口にしない。
それでも間違いなく……修正不可能なエラーが、目を覚ましつつある。
ならば――。
「起死回生の可能性は、一番思い切った手段にしかない。そして、それは……わずかでも余力がある『今』しか打てん」
「でも……っ、わたくしはもう、アスタ様が苦しむ姿なんて見たくない!」
リュスは言葉を詰まらせながら、縋るように言い募る。
「せめて、そう、一度立て直すべきです! 作戦を練り直し、日が沈む前にもう一度挑めば……アスタ様ならきっと、もっと良い策が思いつくはずっ!」
「いいや。それは違うぞ、リュス」
僕は、彼女の淡い期待をきっぱりと断ち切った。
「この戦いに、『次』など存在しないのだ」
未来を視る回帰の力。積み重ねられた剣術。祓魔女となったリュスは、ある意味では超人なのだろう。
だが、この泥臭い現実において――彼女は、救いようのない素人だった。
「体勢を立て直す?不可能だ。なぜなら、ここにいる全員が……既に白骨茸の毒に、曝露してるのだから」
「な、っ……」
「噴霧器を起動した時点で、僕らは皆、毒まみれだ。化学反応で生じた毒ガス、微細な飛沫。防毒マスク越しでも、おそらく無事ではない」
絶句するリュスを置き去りに、僕は自らの装備を見据える。
「装備も同じだ。綿毛対策と言えば聞こえはいいが、この皮傘も外套も、毒に浸した使い捨てだ。どれもこれも再整備なんて出来ない」
「そ、そんな……」
「わかったか。今は興奮で戦えても……一度戻れば、洗浄と手当てで動けなくなる。二度目の出撃に耐える体力なんて、もう誰も残っちゃいないんだ」
後がないからこそ、僕は安全性を捨てて、全力を踏み切った。
全財産を賭けてしまったギャンブラーに、降りる権利なんてない。
ここで勝たねば、ヤバマーズは滅びる。
リュスが言ったあの絶望を、僕は完全に信じて受け入れた。
そして、魔人を倒さぬ限り、女神が微笑んでくれないというのなら。
「毒喰らわば、皿までだ。……いっそ、僕は皿まで舐めてやろうと思う」
一度手を汚したら、最後までやり遂げるのがヤバマーズの流儀。
僕こそ、七代目当主。アスタ・ド・ヤバマーズ。
「そう、なにせ僕は――『毒喰らいの男爵』なのだから」
これは開き直りか、あるいはヤケか。
けれど、不思議と僕の声は――騒乱の戦場に凛として響き渡った。
「旦那ぁっ! おいらの腕はもう千切れそうですっ! ハンドルが回りやせん!」
「俺の噴霧器、さっきからミシミシ泣いてやがるぞ!」
「こっちの皮傘、穴が空きやしたっ! もう持たねえっ!」
猟兵たちの報告は、どれも最悪の知らせばかり。
ああ、もう時間切れだ。
「リュス。貴女から見て、どうあがいても僕に勝ち目がないのなら……今すぐ逃げてしまいなさい。オノレに頼めば、きっと何とかしてくれるから」
そうさ、奴は言ったのだ。女子供は逃がしてくれる、と。
あの青髪は、約束だけは守るはずだ。
「……オノレ様に? でも、それじゃ、アスタ様はどうされるのですか?」
答えは、とっくのとうに決まっている。
僕が魔物肉を口にして、こんなウロコを宿した瞬間よりも、ずっとずっと前から。
「こんなクソみたいな場所だが……僕は、ヤバマーズの領民に生かされてきた。だから、僕だけは、この地を捨てるわけにはいかないんだよ」
僕は努めて、穏やかに笑いかけた。
袖を掴むリュスの指先は、凍えた小鳥みたいに小刻みに震えている。
さあ、僕はこれから、彼女に残酷な言葉を投げかける。
――こんなにも愛おしく、ボロボロになった預言者を、救いたいと願っているのに。
「リュス。……行きたくないのは、わかっている。僕には想像できないくらい、怖くて……辛いのだろう。でも、あえて言わせてもらうぞ」
一歩踏み出し、彼女の華奢な肩を掴んだ。
真正面から――底なしの暗渠に向き合う。
「僕と一緒に死ぬつもりで、付いてきてくれ」
地獄に行こう、僕は大ホラを吹いて誘った。
「貴女がいてくれれば、僕の勝率は1%から2%に跳ね上がる。だから、僕と一緒に死んでくれ。そのつもりで着いてきてくれ」
僕が生きるか死ぬか、正直もうわからない。でも、まあ、たぶん死ぬだろう。
けれど、もし、わずかでも希望を見出してくれるなら。
「そうしてくれたら、意地でも。……意地でも、この絶望をぶち壊してやる」
伝えた途端。
世界から、あらゆる音が消えた気がした。
数秒の沈黙――何分にも、何十分にも感じた。
「ふふ……ずるい。ずるい、ですね。アスタ様」
リュスの口から、乾いた笑いが漏れる。
どうしてか、リュスの涙ぐんだ瞳に――消えかかっていた命の火が、再び青白く燃え上がる。
「わかりました。……お供いたします。地獄の、その先まで」
リュスが、恢復聖剣を構え直す。その所作には、もはや迷いはない。
見守っていた聖騎士ロダンが、重厚な大剣を豪快に振り抜き、土煙を上げた。
「ふん……リュスが納得しているのならば、吾輩がもはや語る言葉もない。元より、魔人討伐は聖騎士の本懐よ!」
「なら、これで可能性は3%だ! 僕一人が挑む時の三倍だぞ。最高にツイてるな、おいッ!」
軽口が、止まらない。
いや、本当は……怖いよ。とんでもないことになってしまった、と思う。
それでも、僕は、猟兵たちに吠える。喉が裂けんばかりに。
「おい、野郎ども聞けっ。これが最後の命令だッ!」
毒液に塗れ、満身創痍で戦い続けていた男たち。その視線が、僕という一点に収束する。
「合図とともに、噴霧器の安全ピンを抜け。お前らのありったけを叩き込み――僕らの道を切り拓けッ!」




