第30話 かつて、僕が焦がれた高嶺の花
かつて、ロザリスの公女リュディヴィーヌは、熾烈な交渉の末に、我が焔王国の第二王子へと嫁いだ。
この縁談こそが、公国との戦争を寸前で回避させた、歴史的な和睦の象徴だった。
で、それから四世代――。
ロザリスの気高き血は王国内でも尊ばれ、その正統な系譜のひとつとして、フルーリス公爵家は揺るぎない地位を築いていた。……はずだった。
「……リュシエンヌ様。本当に、貴女なのか?」
情けなくも、声が震えた。
大学の片隅から、卑屈な憧れを胸に、眺めるしかなかった高嶺の花。燦々たる正義と美貌の体現者。
本来なら、ヤバマーズのような辺境男爵が、気安く名を呼ぶことすら許されない雲の上の住人――だったのに。
「はい。……ですが、今のわたくしは、王都から放逐された、一介の祓魔女です」
なぜ、こんな姿に。
公女のひ孫であり……両国の、貴人の末裔だぞ?
そんな彼女が身を削って、魔物を狩るような生活に身を落としているだと?
「どうしてだよ……。公爵令嬢が、なぜそんな泥を被るような真似を……っ!」
「……あの日、わたくしは立場を追われ、すべてを失った。拾いあげた聖王教会が、『このようにあれ』と望んだ。それだけのことなのです」
「そんなの、納得できるわけないだろう……!」
後悔が、僕の喉を締め付けてくる。
「フルーリス公爵家は、この事態を把握しているのか? あのご夫妻が、実の娘を切り捨てるなんてありえない!」
「わかりません。でも、もう……わたくしなど、どうでもよいのではないでしょうか」
「いいやっ、そんなことはないっ! 今からでも遅くないぞ! 公爵に助けを――」
「これでよいのです、アスタ様」
「リュシエンヌ様!」
「今のわたくしは、『リュス』です。失敗したわたくしに、公爵令嬢の肩書きなど……相応しくないのですから」
……失敗。その一言で、どれほど彼女の誇りが削られたかを悟る。
よみがえるのは、王都を騒がせた醜聞。
王太子との婚約者という立場から、聖王教会裁判という不透明な断罪。一方的な婚約破棄による転落。
傷物となった彼女は、すぐに修道院へ送られた――とは聞いていたけど!
(そこから、二年間を経た末路が、これか? あの時、僕がなにもしなかったから……!)
思わず、僕は叫んだ。
「だからって、祓魔女なんて汚れ仕事、貴女には相応しくないだろうがっ!」
感情を剥き出しにした僕の前に、聖騎士ロダンが割って入る。
「ヤバマーズ男爵。……リュシエンヌ様を、いや、『リュス』を……それ以上刺激するな」
ロダンの顔は、苦虫を噛み潰したようだった。
この頭でっかちの聖騎士は、最初から事情を知っていたのだ。
確かに、時折、不自然なほどの敬意と配慮を彼女に見せていた……気がする。
「アスタ様。お気遣いをありがとうございます。ですが……今はその話は良いのです」
澱んだ色彩の瞳が、僕を見た。沼底に沈むような錯覚を覚える。
「その話は良いなんて……僕は……」
「お聞きください。ことは一刻を争う、火急の事態なのですから」
「火急の事態……? 何かあったのか?」
「魔物肉の件。わたくしは漏らさぬことを誓います。ですから、これから話すことを、アスタ様も決して漏らさぬと約束くださいますか?」
「……僕の交友関係は広くない。秘密を守るくらいはお安い御用だ」
「そうではありません。……聖王教会の者にも、内密にして欲しいのです」
違和感。聖王教会に、話してはいけないこと、だと?
息をつくと、祓魔女リュスは告げた。
「わたくしは、この恢復聖剣レストラシオンを拝領した際に、特殊な力に目覚めたのです。……それこそが――回帰の力」
「回帰? ……肉体の再生能力ではなく?」
「肉体の再生は、恢復聖剣と血清の投与があれば可能な、祓魔女の基本的な能力です」
リュスの指が、再生したばかりの腕を強く握りしめる。
「ですが、この力は違う。わたくしに課せられてしまった使命……いいえ、呪いなのです」
リュスがどこか自嘲気味に口角を上げた。色のない唇だった。かつての薔薇のような生気は失われてしまっていた。
「死んでは戻り、時間をやり直す。死と汚辱、想像を絶する苦痛を幾度となく経験しながら、惨劇を回避できるまで……永久に繰り返す。それが、わたくしの視ている現実です」
あまりに荒唐無稽な話。
だが、リュスの声には狂気より、幾度となく悲惨な目に遭った者特有の……魂がすり減ったような途方もない重みがあった。
「おやおやおや。内緒話なら、もっと慎重にするべきだったね」
場にそぐわない軽薄な足音。
扉を開けて滑り込んできたのは、オノレ・ド・ラプラス。
「オノレ! お前、聞き耳を立てていたのか!?」
僕が詰め寄った。
だが、オノレはどこ吹く風。コーヒー片手に、特等席で観劇でも楽しんでいるみたいな笑みを浮かべる。
「聞き耳なんて人聞きが悪いな。ただ、廊下にまで君の声が漏れていたんだよ。魂の叫びというやつがね」
「くっ、僕のせいだって言うのか!」
「はてさて。そもそも、俺はラプラス伯爵家のスパイだと名乗ったはずだよ」
オノレは、耳元で凄んで見せた。
「――自分の油断を、他人のせいにするなよ。アスタ」
僕は、カッとなった。
「黙れ! 話をどこまで聞いた!」
「死に戻り、あるいは時間回帰。……まったく。熱力学の法則を真っ向から否定する、最高にエキサイティングで……救いようのない悪夢だね」
オノレは、僕の横をすり抜け、手近な椅子に腰掛けた。
わなわなと震えるリュスを見透かすように眺め……コーヒーを一口啜る。
「いや、確率論的な未来予知の一種なのかもしれないなあ。あるいは、生々しい主観体験を伴うシミュレートか。それなら、物理的な矛盾はないか。時間を巻き戻すよりは、よほどね」
僕らの視線を一身に浴びながら、オノレはマイペースに持論を展開する。
「貴公っ……! 今のを聞いて、ただで済むと思うなよ!」
ロダンも激昂しかけるが、オノレは動じない。
「おっと、短気は損だよ、聖騎士様。俺を消せば優秀な頭脳が消え、ついでにラプラス伯爵家も敵に回る」
「ぐっ、小癪な小僧めっ!」
拳を握り締めるロダン。だが、振り下ろすことは出来なかった。
「それより、久しぶりだね……リュシエンヌ。ひどい顔をしているじゃないか」
「……オノレ様」
「実は、最初から奇妙に思っていたのさ。もしかしたら、ここに来ているのは君なんじゃないかなって」
「……相変わらず、得体の知れない御方ですね」
「褒めてくれて、ありがとう……さて。その力が聖王教会にも内緒なのは、知られたら、マズいからだね」
そうだ。聖王教会に内密にして欲しい、ということは……今のリュスは、聖王教会にも居場所がないのか?
「そう、です。……きっと、悪用されてしまうから」
「だろうね。その様子じゃ、今ですら人間として扱われているか、怪しいけど」
「……それ、は」
「興味深いねえ、回帰か。負荷がひどく大きそうな力だ。確かに、聖王教会がこれを知れば、脳が擦り切れるまで使い潰すだろう。……だって、今聞いた条件だと、君が悲惨な目に遭わないと、発揮できない力だもんねえ」
リュスは、うつむいてしまった。
そうなのか? まさか、そこまでひどい立場だって言うのか!?
「うん、状況は理解したよ。 ……さて、リュシエンヌ。君がそんな切り札を晒してまでアスタを頼った理由。もはや、それは一つしかないね」
オノレは、もったいぶるように、あえてゆったりとコーヒーを飲み下す。
そして、いつもと変わらぬ軽薄な声で問うた。
「――さては、もうすぐこのヤバマーズが滅びるんだろう?」
リュスは絶句。幽霊でも見るような目でオノレを見つめた。
その沈黙は――誰の目にも明らかな、肯定の答えだった。




