第29話 聖職者(ヒロイン)に魔物肉を食わせるのは正気か?
勢いよく廊下を駆け、客間の扉をバァンと開けた。
湯気立つ皿を掲げ、雄たけびを上げようとして――。
「……あ」
はたと、心臓が冷えた。
「男爵。そのように血相を変えて、如何された?」
「アスタ様……? その、手に持っていらっしゃるものは――」
射抜くような二対の視線。
一方は、ベールから覗くリュスの暗渠の瞳。
一方は、厳格な意志を宿したロダンの鋭い眼光。
「え、いや、これは……肉、薄切り肉のソテーなんだけど」
それ以上、舌が回らない。
青銅鹿のソテー。実に美味そうな照りだが……。
(言えるか? これ、魔物肉なんだけど食べるかって)
本人たちと向き合った途端、冷静になってしまった。正直に話せば、ロダンの大剣が僕の首を飛ばす未来しか見えない。
原材料を伏せるのは、きっと簡単だ。「仕留めた鹿肉だ」とでも言えばいい。
鹿であることは、嘘ではない。それで腕が治るなら、方便じゃないか。
――けれど。
(僕はヤバマーズの当主であり、同時に研究者だ。自分の研究物を、誇りが持てない取り扱いをするなんて、あっちゃいけない。本人の同意もなく、食べさせるなんて……)
ロダンが鼻をひくつかせ、怪訝そうにした。
「ふむ、よもや鹿肉か? 貴公その肉がどうかしたのか」
「これは……」
勇気が出ない。
(ここで揉めたらダメだ。……そうだよそれに別に、今じゃなくてもいいじゃないか)
代わりに、保身の心が溢れ出す。
「なんでもない、これは僕の食事だよ。……邪魔して悪かったな」
僕が諦めようとした、その時。
「ううっ!? く、あ……」
リュスは頭を抱え、ソファに崩れ落ちた。
聖騎士ロダンが、弾かれたように寄り添う。
「リュス! 大丈夫ですか!?」
「……ううっ、はあはあ。ええ、問題は、ありません」
祓魔女リュスは脂汗を流し、唇を震わせた。
「このままだと……惨劇が。また、悲惨な運命が……」
「悲惨な運命だって?」
「いえ、これは……アスタ様にはお話できないことです。……きっと、巻き込んでしまいますから」
また預言めいた口調。
この女の不調は、なにか訳ありか? それとも、高速再生の副作用か?
僕は、皿の縁を指が白くなるほど強く握り締める。
(クソ。ここで日和ってどうする。命の恩人を前にして、自分だけ安全でいようっていうのか? 異端だと思われたくないからって? そんなの、腰抜けのすることだ!)
僕は、迷いを断ち切って一歩踏み出した。
「ロダン、どけっ! リュス、これを食え!」
「待て、男爵! 貴公のただならぬ様子、普通の肉ではあるまい。まさか――」
「ああ、そうだ。正直に言う。これは青銅鹿……魔物の肉だ!」
部屋の温度が、一気に数度下がったような錯覚。
ロダンの顔が、みるみるうちに怒りで赤黒くなった。
「狂ったかヤバマーズ! 聖職者に、よりにもよって禁忌の肉を、魔物を喰らえと言うのかっ!」
「教義で腹が膨れるなら、今すぐ聖王様にパンでも降らせてもらえ! でも、今、彼女に必要なのは祈りじゃない、肉体を作るための材料だろ!」
「黙れっ! もはや教会に報告するまでもない、この御方にそのような不浄物を――」
ロダンが、大剣の柄に手をかける。一触即発。
だが、僕は逃げなかった。一切れの肉を摘み、口に放り込んだ。
「むぐっ、もぐもぐ。はぁ。見ろ、ちゃんと食えるんだ! 旨いぞ、リュス。お前の腕を治すために、僕が……僕たちが除染したんだ!」
「わたくしの、ために……? アスタ様が……?」
僕の必死の気迫に、リュスが暗渠の瞳を大きく揺らした。
震える手を、ゆっくりと皿へと伸ばしていく。
「リュス! 待て、いけませんぞ!」
「いいえ、ロダン。きっと……これこそが、悲惨な運命を変える分岐なのです」
リュスは覚悟を決めて、口へ運んだ。
咀嚼。喉が大きく動き、飲み下される。
「……っ!」
リュスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「温かい。……身体が、心が喜んでいる」
それは――乾ききった大地が雨を得たような、生への歓喜。
リュスの左腕の断面から、柔らかな白い光が溢れ出している。
「でも、回復にはまだまだ量が足りないみたいだな。全部食え。……お代わりだって、いくらでも持って来てやる。お前の腕が、元通りになるまでな」
「……はい。アスタ様のお気持ち、余さずいただきます」
リュスは、次々と肉を口に運び始めた。一噛みごとに、彼女の青白い肌に微かな赤みが差していく。
さあ、まだ大変だぞ。
単純計算でも、前腕と同じくらいボリュームはたっぷり食べないと、再生のコストが見合わないだろうからな。
***
一刻ほど後。
僕は空になった五枚目の皿を手に取り、大きく息を吐いた。
「どうだ、リュス」
「……はい。すっかり、指の先まで感覚が戻りました。これで、間に合うかもしれません」
「間に合う? よくわからんが、動くなら重畳だ」
安堵した途端、極度の疲労が襲ってきた。
異能の酷使による目まい。身体がぐらついた。
「アスタ様っ!?」
再生したばかりの、温かな細腕。それが、僕を支えてくれていた。
「クソ、すまん。……除染作業は堪えるみたいだ。まだ、微細なコントロールに慣れなくて」
「無理を、なさいましたね。こんな、出鱈目な方法で魔素を抜くなんて」
「……お前に言われたくないよ。自分の腕を躊躇わずに切り落とすような奴にさ」
「躊躇わなかったわけでは……実は、ないのですよ」
「あん?」
結局、除染の工程はすべて話した。蓄積毒のリスクも。
聖騎士ロダンは「理解の範疇を超えている」と唸り、祓魔女リュスは、己の腕を撫でながら受け入れた。
聖騎士ロダンは言う。
「ヤバマーズ男爵。……貴公のなしたことは、教会の法に照らせば、万死に値する背信行為だ。魔物肉を聖職者の糧とするなど、前代未聞の汚辱と言えるだろう」
「だろうな。で、僕を報告するか」
「……だが、リュスの腕が戻り、本人も納得している。吾輩は、この件については沈黙を守ろう」
「そいつは、どうも」
僕は鼻で笑った。なんて、意地っ張りな奴。
さて、一件落着かと思ったが、リュスの気配が変わった。
「……アスタ様」
「なんだ?」
「貴方様は、自身のお立場が危険になることも厭わず、こうして、わたくしを助けてくださいました。いいえ、これが初めてではないですね。……もはや幾度となく、わたくしを救ってくださった」
「はあ? いや、救ってくれたのは、リュスの方だろ」
元々、綿毛から僕を守った代償がその腕だったはずだ。
しかし、リュスは首を振る。
「いいえ、そうではないのです。わたくしは何度も死に、戦いをやり直している」
「やり直す?」
「……ええ。でも、アスタ様がいれば、これから起きる惨劇を止められるのかもしれない。きっと今度は、わたくしが貴方様を信じる番」
祓魔女リュスは、自らのベールに手を掛けた。
「お待ちください、リュス! それは禁じられて――」
そして、聖騎士ロダンの制止を無視して、彼女は白布を脱ぎ去った。
露わになった顔は、記憶の底にある公爵令嬢と瓜二つ。そう、もし、髪が眩く輝く金髪であり、瞳に絶望の影がなければ――。
「――お久しぶりですね、アスタ様」
僕の過去への、未練が……なぜか、口をきいた。
「……お久しぶり?」
「覚えておられませんか? ……いえ、変わり果ててしまったから、わからないのですね」
ああ、こんなことがあり得るだろうか。いや、まさか。
「……わたくしは、リュシエンヌ・ド・フルーリス」
僕は、やはり――自分が、かつてなにも出来なかった情けなさを、突き付けられている。
「時々大学で、貴方様をお見掛けしておりました――わたくしが追放された、あの日までは」
リュシエンヌ。
彼女は、我らが三代目が懸想した、ロザリスの公女。リュディヴィーヌの――ひ孫にあたる公爵令嬢だった。




