1、「君の笑顔だけで世界は輝いて見えた」
地歴463年
数百メートルはある鉄骨の巨塔が、無数に林立している。
建物と建物の隙間から覗く空は、まるで裂け目のように細く、地上にはほとんど光が届かない。
常に湿った空気が漂い、地面は油と雨水が混ざった黒い泥で濡れている。
ここは「神の街」と呼ばれる都市。
だがその名の由来は、繁栄や文明ではない。――
空に開いた、“穴”にある。
それは、空を覆う雲の中央にぽっかりと開いた、直径数キロにおよぶ巨大な空洞だった。
穴の縁は薄く光り、その奥は雲海を切り裂くように黒く、まるで“深淵”がそのまま天に反転したかのように、そこだけが光を拒んでいる。
人々は口々に言う――あの先は神の世界だと。
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「おい! 待て、こらぁぁ!!」
怒号がこだまする。
薄暗い路地裏を、一人の少年が駆け抜けていた。
背丈はまだ小さく、年の頃は十二、三といったところだ。
やせた身体に薄汚れたシャツをまとい、手には何かを大事そうに抱えている。
後ろからは、三人の成人男性――追う者たちの靴音と怒鳴り声が近づいてくる。
「くそっ、あのガキ、どこへ逃げやがった!?」 「袋の中身を返せぇ!!」
少年は歯を食いしばり、ひとつ角を曲がる。
先に、幅一メートルにも満たない横道が見えた。
ためらいなく飛び込む。まるで――最初からそこを通ることを計画していたかのように。
狭い通路。頭上には錆びたパイプ。壁には古いネオンの残骸。
その途中、少年は立ち止まることなく、懐の包みをふと横の窓へと放り込んだ。
カランという音すら立てず、それは暗闇の奥へ消える。
「よし……あとは撒くだけの簡単作業だ」
少年は口元に小さく笑みを浮かべると、壁を蹴り、あっという間にビルの外壁をよじ登っていった。
軽快な足音が、まるでリズムのように響く。ピョン、ピョン、ピョーン。
驚いた男たちは立ち止まり、見上げる。
「またあいつ……人間かよ!」 「屋上に逃げたぞ!」
大柄の男が指示を飛ばす。 「おまえらは下から回れ! 俺が上で追う!」
少年はビルの縁に飛び移りながら、息を整える。
風が冷たい。
地上の喧騒が遠くに霞み、代わりに聞こえるのは風と機械の唸りだけ。
彼は耳に当てた通信機を軽く押さえた。
「……レナ、受け取れたか?」
雑音を挟んで、弾むような女の子の声が返ってくる。
「バッチグーよ! バッチグー! 早く合流しよ
ー!」
「待てって。まだ撒いてないんだから。追手が近
い」
「もう~、雫はほんっと真面目なんだから!」
雫は苦笑する。
眉間にしわを寄せつつも、どこか楽しげな色が瞳に浮かんでいた。
ビルの間を飛び移るたび、心臓が跳ねる。
恐怖ではなく、興奮。
――これが生きているって感覚なんだ。
ふと、彼は空を見上げた。
一面を覆う雲。だが、その中央だけ、ぽっかりと黒く穴が開いている。
直径数キロに及ぶ“空の穴”――神の街の象徴。
その奥は、空よりも暗く、どこまでも続いているように見える。
深海のように静かで、だが何かがこちらを“見ている”気配があった。
「神の世界、か……」
雫は呟いた。
薄汚れた手を空へ伸ばす。指先がかすかに震える。
「……神なんて」
呟きは風に消えた。
遠くで、追っ手の怒声がまた響く。
だが、彼はもう走り出していた。
灰色のビルの海を駆け抜け、無数の煙と光と音の中で――
少年は、誰にも知られぬまま、生き延びるための“戦い”を続けていた。
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錆びた階段を上ると、足音が金属を鳴らして響い た。
息を整えながら、雫は古びた扉の前で立ち止ま る。
壁はコンクリートが剥がれ、ところどころ黒ずんでいる。
風が吹くたびに隙間からヒュウ、と寂しい音が漏れた。
この郊外では珍しくない風景――けれど、雫にとっては“帰る場所”だった。
「レナ、ただい……」
そう言いかけた瞬間、奥から甲高い声が飛んできた。
「雫~~~っ!!!」
ドアが開いた瞬間、勢いよく抱きついてくる影。
ふわりと漂う甘いシャンプーの香り。
黒髪が、まるで水のように足元まで流れていて、目はたれ目、頬は丸みを帯びている。
レナだった。
「お、おい! む、むね! しまえ!」
「もぉ~、細かいこと気にするんだから雫は~!」
レナはケラケラと笑う。
雫は顔を真っ赤にしながら、慣れた手つきでボタ ンを閉め、乱れた胸元を整える。
その動きの素早さは、もはや職人芸の域だった。
狭い部屋の中に、二人の笑い声が響く。
――といっても、“部屋”と呼ぶには無理があるかもしれない。
六畳ほどの空間。
壁際には古いスチール製の棚が一つ、そこに折れたフォークや缶詰の蓋が無造作に並んでいる。
床はむき出しの鉄板で、冷たさがじわりと靴底から伝わる。
窓はひとつだけ。
外には巨大なビルの壁が立ちはだかり、空の光は 届かない。
唯一の灯りは、天井の裸電球――薄黄色く、頼りない光。
それでも、どこか温かかった。
ここでは珍しい、“人の匂い”がする場所だった。
「食料はちゃんと取れた?」
雫がレナに聞く。
「見て! こんなにたくさん!」
レナは嬉しそうに机の上を指さした。
そこにはパンが三つ。
それだけなのに、まるで宝石のように見えた。
「すごいでしょ? 雫のお陰だよ!」
「……危なかったけどな。」
「成功したんだし、いいじゃん!」
壁際に置かれた二つの椅子に机を向き合うように
して二人が座る。
レナはパンを一つ取り、にこにこしながら二つに 割り、さらに四つに裂いた。
中は固く、もう乾きかけている。
けれど、雫の前に差し出された瞬間、それがどんな料理よりも価値のあるものに見えた。
「はい、あーん」
「自分で食える。」
「いいから、ほら!」
渋々口を開けると、レナは嬉しそうに笑った。
その笑顔に、雫の口元もつられて緩む。
「……これで、一週間は持ちそうだね。」
レナはそう言って、机に頬杖をついた。
裸電球の光が、彼女の黒髪に淡く反射している。
「そうだな。」
雫は答えたが、その顔には微かな影が差していた。
レナはすぐに気づいた。
長いまつげを伏せ、少し寂しそうに笑う。
「もう……またそんな顔してる。」
「え?」
「“これでいいのか”って顔。最近ずっとそう。」
図星だった。
雫は何も言えず、視線を逸らした。
レナはゆっくりと立ち上がり、雫の隣に腰を下ろ す。
近づくと、髪の匂いがふわっと漂う。
それは、この部屋に唯一残っている“清潔”の象徴だった。
「ねぇ、雫。あの時お母さん、なんて言ってたんだっけ?」
そう、食い気味に聞いてくる。
「……“レナを守りなさい”って。」
「そうだよ。」
レナは笑った。
「だから雫は、ちゃんと守れてるよ。私を。」
「……それでいいのか? 本当に。」
雫はぽつりと呟いた。
「盗んで逃げて、それで“守る”って言えるのか……?」
レナは一瞬、黙った。
そして――ゆっくりと雫の手を取った。
冷たい指先が触れる。
その温度に、雫の呼吸が止まる。
「いいんだよ。」
レナの声は静かで、けれど確信に満ちていた。
「だって、私は今、生きてる。こうして雫とご飯食
べて、笑っていられる。それだけで、十分だか
ら。」
彼女の瞳はまっすぐで、どこまでも透明だった。
外の世界がどんなに汚れていても、
この瞳だけは濁らなかった。
「……バカだな。」
雫は小さく笑った。
「そんなこと言うなよ。俺は……お前を、もっとちゃんとした場所に――」
「ちゃんとした場所なんて、ここにあるじゃん。」
レナは軽く首を傾けて笑った。
「ここが、私の世界だよ。」
その言葉に、雫は何も返せなかった。
代わりに、レナが彼の額を指で軽く弾く。
「痛っ。」
「約束。ね?」
「……守るよ。」
「うん。」
二人の間に沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は不思議と優しかった。
部屋の外では風が唸り、遠くで機械の駆動音が響いている。
でも、ここだけは世界が止まったみたいに穏やかだった。
雫はふと、狭い部屋の天井を見上げた。
そこには、ひび割れたコンクリート。
その上に貼られた小さな写真――
まだこうなる前、青空の下で笑う母とレナの姿。
「……神なんて、いないよな。」
ぼそりと呟く。
「うん。」
レナは笑った。
「でも、いたらいいね。雫のこと、ちょっとだけ助けてくれるような神様。」
その声は優しく、でもどこか遠かった。
まるで、いつか届かなくなることを予感している
かのように。
雫は苦笑しながら答えた。
「俺なんて助けなくていいよ。レナを幸せにしてほしい。」
一瞬、レナの表情が変わった。
笑っていた口元が、きゅっと引き結ばれる。
「もう!」
立ち上がったレナは、思い切り雫の頭を軽く叩いた。
「そういうこと言わないでって、何度言えばわかるの!」
「い、痛っ……!」
雫が慌てて頭を押さえると、レナは真っ赤な顔で
言い放つ。
「私を幸せにするのは雫じゃないと許さない!」
言い終えたあと、レナの声が震えた。
頬にほんのり涙の光が浮かんでいる。
「……ごめん。」
雫は小さく呟き、レナを見上げる。
その視線に、レナはふっと微笑んだ。
「バカ。」
彼女はそう言って、雫の額にそっと自分の額を重ねた。
「ちゃんと、そばにいてね。」
「……うん。」
雫は静かに頷いた。
裸電球がチカチカと揺れ、
壁に映る二人の影がひとつに重なった。
その夜、神の街の空では――
雲の穴の奥が、かすかに光っていた。




