黒蝶
矢萩市は関東地方の北部に位置する県内にある。ただ、県庁のある市からかなり離れた場所にあり、以前あった小さな町を合併し無理やり市に押し込めた感がゆがめず、ちぐはぐな道路が迷路のように右往左往しながら続いている。広い国道は市の外れを掠め、観光客の通過を当てにしたチェーン店のファミリーレストランや大きな焼肉屋が並列している。市の中心部を占める地域の人達は、地元の慣れ親しんだ店などを利用する者が多い。それでも若者たちは、お洒落なファミリーレストランや大きな焼肉屋に繰り出す。市内には何軒かの自動車販売の傍らに修理工場が併設されているのが当たり前の風景だ。地方によく見られる一人一台は必須条件になっており、車が故障した際の修理工場とガソリンスタンドは必要不可欠な存在なのだ。矢萩駅は市の中心部に位置し、矢萩市役所や警察署それに地方裁判所など行政機関が一画に集中している。中心部から外れた場所に住む者は大半が車移動。一日二往復のバスを当てにしている者は、学生か老人または余所者くらいだろう。これといった観光地もない矢萩市の財源確保の一つが、山の裾野を含めた広大な土地を利用した矢萩市営墓地だった。県内外からも墓を求めて建立する人々も多い。荒れ放題の山の所有者は都会に出ており、税金もさることながら山火事を危惧する消防、はたまた繁殖する猪などの対処も求められる。嫌気がさした所有者は二束三文の値段で市に譲渡。墓地の入口にある事務所前は百台以上の車が止められる駐車場を配し、膨大なお墓の年間管理費やお彼岸やお盆の時期に繁盛する仏花や線香など販売が市にかなりの収益を生んでいる。また、休憩所の二階には、納骨式や一周忌の法要後など親族の食事会を催す大広間が設えており、部屋の使用料や仕出し料理を提供する料理茶屋の手配代も当然市に既存する。しかし、お彼岸やお盆の時期を外すと法要などで来る人に限られ、普段は広大な敷地に人影は見当たらず、ひっそりと静まり返っている。
春のお彼岸を過ぎた頃、丘崎汐里は丘陵地の矢萩市営墓地の急階段を登っていく。階段を登ることが困難な人の為に、頂上まで迂回の道路が整備されるなど至れり尽くせりの墓地だ。その日は天気が良く汗ばむほどだった。汐里がやっと「丘崎家」と書かれた墓前に辿り着くと、白ユリや赤紫色のアネモネ等がカスミソウで彩られた大きな花束が置いてあった。線香皿の線香が完全に燃え尽きてはいない。汐里は慌てて辺りを見回したが、それらしき人影はない。汐里は手桶の水を花立に入れ、持参した花と花束の花をやや強引に差した後、手桶から杓子で墓石に水を掛け、墓前に座って手を合わせた。それから掛けた水を丁寧に拭き清めた。墓碑には早世した母の丘崎千香や五年前に亡くなった祖父の丘崎徳次郎、更に一周忌を二か月前に終えたばかりの祖母、丘崎法子などの戒名が刻んである。一体置かれていた花束は三人のうち誰にお参りしたのだろう。汐里はそんなことを考えながら墓碑に刻み込まれた三人の名前をゆっくりとなぞった。この墓を建てたのは十九年前、母が二十歳で交通事故に遭い、亡くなった時だったと聞かされている。しかも、母は二月で二十歳の誕生日を迎えて僅か一月ちょっとで事故に遭った。十九歳で産んだ汐里がまだ生後三カ月の乳飲み子だ。いくら事故とは言え、母は産まれて間もない我が子を残しての死は無念だっただろうと思うと、汐里は墓参りの度に遣る瀬無さを感じる。十九歳の汐里は今年のクリスマスで二十歳を迎え、その頃の母と同じ年齢に当たる。事故について祖父母は触れたくないからか詳細を語ることはなかったし、汐里も聞くことを躊躇われた。もう一つの気がかりは、汐里の戸籍に父親の欄が空白になっていることだ。それは大学の入学手続きを行った時だった。それまで、父は母と一緒に事故で亡くなったと聞かされていた。入籍前だったから丘崎家の墓に父は入っていないと説明されていたが何か違和感を感じていた。高校までは地元の学校だったので入学手続きは全て祖母が行っていた。流石に大学は東京であり、祖母もこれ以上隠しおおせる訳はいかないと察したのか、母が大学生の時、東京で見知らぬ男との間で汐里を妊娠したと言った。自分の母が不貞の末に汐里を出産した事に傷つくことを恐れて黙っていたと言い、泣きながら謝った。汐里はショックで眠れぬ日々を過ごしたが、少し落ち着いてから母は何故堕胎をしなかったのだろうという疑問が出てきた。見知らぬ男ということは母がレイプされたということだ。しかし、これから先の考えは封印した。母が苦渋の決断で命の重さを優先してくれたおかげで今の私がいる。もし、堕胎していたら私は存在していない。汐里は墓碑の母の名前を何度もなぞり、静かにお墓を後にした。矢萩市の中心部から離れた所にある汐里の家は、祖母が亡くなってから空き家のままだ。家の前庭には祖父が一生懸命手入れしていた畑を祖母が引継ぎ、細々と野菜などを植えていた。汐里も高校生の頃は時々手伝っていたが、二人分の野菜を賄う程度だった。汐里は墓参りの折に家の掃除をし、申し訳程度に草を引き抜いた。平屋の木造家屋は主を失った途端、歪が進行し掠れたような嫌な音がする。東京に住み始めた汐里が大学卒業後に、ここに戻る可能性はないだろう。いずれ処分をしなくてはならないだろうが、自然に囲まれ遠くに山並みが連なる風景は汐里の故郷であり、産まれ育った十八年の時間は何ものにも代え難い。汐里は縁側に座り、暫くの間ぼうっと山並みを見ていた。その時、スマホの着信音が汐里を現実に引き戻した。
「汐里、今どこ?」
電話は佐路崚祐で汐里が付き合っている男だ。四月から東京大学法学部の四年になる。一年前、汐里が恵聖女子大学文学部に入学したての頃、裏道でバッグを引ったくられそうになり、たまたま横道から出て来た峻祐に助けられた。犯人は全速力で表通りに逃げ、慌てて後を追った峻祐は、捕まえられなかった事を今でも悔しがっている。
「若い女が裏道でボケッと歩いてるから、カモネギにされるんだ」
「失礼ね。ボケッとなんかしてないわ」
汐里は、むっとして踵を返したが慌てて振り返り、有難うございましたと頭を下げた。確かに、三か月前に急死した祖母のショックが完全に抜けきらず、ふっとした瞬間心ここにあらずとなることがあった。
「今日、そこに泊まるんじゃないよな」
「まさか、家が締め切りだったから少し掃除して、部屋の空気の入れ替えをしてたのよ」
一年前の年明けの頃、大学受験の為東京に行っていた汐里に、隣の小母さんから祖母が倒れたとスマホに連絡がきた。慌てて取って返したが、病院に着いた時には帰らぬ人となっていた。心筋梗塞だった。朝、出掛けに頑張っておいでと私を抱きしめたのは、何か予兆があったのだろうか。早世した娘が残した孫を、愛情を持って育ててくれた祖父や祖母。私は二人に恩返ししないうちに、死に別れてしまった。
一年前まで私の生活が営まれていた場所なのに、何故か遠い日の思い出に取って代わってしまったようだ。
「これから戸締りしてマンションに戻るのは夜になると思う」
「どこかで会って飯でも食うか?」
「ううん、いいわ。今日は疲れてるし」
「そうか、でもこっちに戻ったら電話してくれ。気を付けて帰ってこいよ」
「分かったわ」
汐里は、去年大学に入った時、高田馬場にある五階建てのワンルームマンションに入居した。多少、建築年数は経ているが都心の割には家賃が安いので気に入っている。今は祖父母が私の大学の学費や生活費の心配をしないように積立預金を残してくれたお蔭で生活出来ている。一年経ち、大学生活にも慣れてきたので、二年になったらアルバイトをして、大切なお金を大事にしようと思っている。
マンションへ戻るといつものように入口を入り、奥の左右に設置されている郵便ポストを覗く。五階建てのワンルームマンションの入居者全員のポストが間隔を空けて、横並びに設置されている。汐里のポストは廊下に近い奥のほうにある。蛍光灯が頭上にあるが、全体的に薄暗い。大体、下らない広告等が入っているのだが、時々大学からの通知書が入っていることもあるので無視はできない。ポストは部屋の鍵で開けられるようになっており、他人が開けることはできないが、大きい広告の封筒がはみ出していることもある。ポストから郵便物の束を持って部屋に入った。一枚づつチェックしていくと、普通サイズの茶色い封筒が入っていた。表書きには、丘崎汐里様の氏名のみ。裏は何も書いていない。これは、当然郵便ではなく、本人が投函したものだ。学生向けの安いマンションだが、一応入口の上には防犯カメラが付いている。でも、非常階段の方は付いていない。しかも一階の廊下の塀は飛び越えられる高さだ。汐里は急に、今日墓前に花を置いていった人物が気になりだした。今まで花を手向けてくれた人はいなかったから。よく考えると、祖父の葬儀の時も祖母の時も親戚縁者は誰も来なかった。二人とも一人っ子なので、親戚はいないと聞いていた。その分、まめに近所付き合いをしていたせいか、友達たくさん来てくれた。
部屋に入ってから開封すると、中から何も書かれていない白い便箋二枚に挟むように小さな鍵がテープで貼り付けられていた。汐里は薄気味悪くなり、すぐ崚祐に電話した。
「変な封筒?空けたのか?それをテーブルに置いて触るなよ。すぐに行くから鍵はしっかり掛けておくんだぞ」
大学に近いからと地下鉄の後楽園駅にあるマンションに住む峻祐は、慌ててタクシーを捕まえ駆け付けた。汐里の部屋に行く前に、用心深く汐里のマンションを一周し、変質者がいないか確認した。
「不用心にもほどがあるぞ。もし、中に毒などが塗られた紙が入っていたら、安易に触るものじゃないだろう」
峻祐は汐里の部屋に入るなり怒鳴った。汐里は、封筒よりも峻祐が怒鳴ったことに驚いた。
「だって、封筒を空けてみなくっちゃ分からないでしょう。まさか、封筒を持って警察に届ける訳いかないじゃない」
汐里は、反発しつつ峻祐が怒ってくれたことが、少し嬉しかった。
「夕飯食ったのか?」
「まだだけど、今日は疲れたからコンビニ弁当でも買いに行こうかと思っていたの」
「俺は食ったからコンビニ弁当買ってきてやろうか?」
「ううん、何かお腹が空かなくなったし。パンやカップメンがあるから、今日はそれでいいわ。それよりコーヒー入れようか?夕飯は後で食べるから」
「コーヒーは後でいいよ。それより、この封筒か?」
峻祐は白い手袋をはめて、テーブルに置かれた封筒を持ち上げた。よく、テレビの刑事ドラマで見かけるような。
「峻祐、その白い手袋いつも持ち歩いているの?」
「いつも持ってる訳ないだろう。変な封筒がきていたというから持ってきたんだ。でも、部屋には何袋置いてるよ。法学部の人間は、後に検事か警察か官僚か等、色々考えるからね。それに素手で触ったら指紋が付くだろう」
「じぁ、私の指紋が付いちゃったわ」
「汐里の指紋くらいいつでも取れるし。それより、今後変な物があっても不用意に開けるんじゃないよ。まずは、俺に連絡しろ」
峻祐はそっと封筒から便箋を取り出し、貼り付けられた鍵を慎重に剥がした。どう見ても家やマンションの鍵には見えない。コインロッカー等の安っぽい鍵でもなさそうだ。悪戯にしては鍵自体しっかりしているし、暗号のようなものが極印されている。さすがの峻祐でも意味が分からない。いや、むしろ謎が増えて、何なのか推理のしようがない。もっとも、推理小説好きの峻祐が謎解きするようなものでもないだろう、これは現実なのだから。その不気味な空気が汐里の周りに漂い始めているような気がする。峻祐は家から持参した大小の透明なビニール袋にそれらを丁寧に入れた。
「やっぱりコーヒー貰おうかな」
「うん、私もついでにトーストを食べるわ。峻祐が来てくれたから、お腹が空いてきたし」
汐里はコーヒーをセットしながら、ハムエッグとトーストを作った。最初に会った時は青白い顔をしていたが、峻祐に話して幾分不安が解消されたのか、顔色も少し戻ったみたいだ。その分、峻祐の方が深刻な顔をしている。汐里のパンを食む音で会話は中断された。汐里の食べ終わるのを見計らって、峻祐は何気なく会話を始めた。
「今日何か変わったことあったか?」
「別に。あっ、ただお墓の前に大きな花束が置いてあったの。今まで他の人がお参りに来てくれる事が無かったから変だなって思ったわ。近所の人がお盆やお彼岸に来てくれる人もいるけど、ほとんど仏花でしょう。今日の花束は、それとは違って大きな花束だったわ。でも、三人の内誰に手向けたのか分からないけどね」
峻祐は、その花を手向けに来た人物の事が気になった。今までお参りに来たことがない人が、このタイミングで鍵を届ける。勿論、鍵を置いて行った人物と関係あるか分からないが気になる。よく考えたら汐里の事を余り知らない。ここ一年、付き合い始めてから、お互いの家族や過去等を話す事は皆無だった。もっとも出会った時は、汐里は唯一の家族である祖母を亡くした頃で、家族の話し等出来る雰囲気では無かったし、峻祐自身家族の話しをしていない。
「お墓の中には祖父母の他に、お母さんもいるんだよね」
峻祐は慎重に言い出した。今まで、お母さんの事について、汐里が言いたくなさそうだったからだ。案の定、汐里はちょっと躊躇するように下を向いた。それから、ふっと息を吐いて峻祐の顔を正面から見つめた。
「私の父親が誰だか分からないの。十九歳で私を産んで、二十歳 の時に交通事故で死んだと、泣きながら祖母は言ったのよ。相手は分からないって、誰だか分からないって。それってレイプされたんじゃないのかと祖母に問いただしたかったけれど、私には勇気が無かったわ。もし、母が堕胎していたら、今の私はいない。母の心情を考えると辛いけど、私には感謝しかないの」
涙を浮かべながら言った汐里を、峻祐はきつく抱きしめた。
「ごめん、辛い事を話させて。ただ、少し不安なんだ、花束の事も鍵の事も。お母さんが交通事故にあったというなら、調べられるよ。俺が調べてみるけどかまわないか?それとも、二人で調べてみるか?」
「ううん、お願い。峻祐に頼みたい。これ以上、何か出て来たらって思うと不安で」
「分かった。じぁあ、この鍵は預かっていくけどいいか?」
「ええ、持っているだけで怖いもの」
峻祐は汐里を一人にして帰るのは不安だったが、戸締りを厳重にすることを約束させてマンションを出た。心配だが泊まるのは、はばかられた。気持ちが揺らいでいる汐里を抱くのは卑怯な気がしたから。汐里のマンションを出た峻祐は一瞬立ち止まって考え、久し振りに実家に行くことにした。暗号のようなものが極印されている鍵が、何かしら暗雲を呼び込んでいるような気がしてしょうがない。父親と言い争ってから、実家とは距離を置いている。一人息子故か、自分の将来について何かと口出しされ、かっとなって別居したのだ。もっとも、父も一人息子だが。しかし、癪だが今は父親の力を借りたいと思っている。一人であれこれ調べるには限度があり、時間もかかりそうだ。万が一汐里に何か起きてからでは遅い。成城にある実家は、いわゆる邸宅である。曾祖父が大地主で代々受け継がれたに過ぎない。警察関係者になったのは父の宗臣が初めてだった。祖父は医師になって大学病院に勤務していたが、都会の喧噪が嫌で宗臣が東京大学法学部に入学すると、祖母と共に南の離島の診療所に移り住んだ。ただ、祖母が三年後に脳梗塞で亡くなったことが、宗臣の中では許せなかった。あのまま東京に住んでいたら、母は助かったに違いないと思っていたからだ。それでも祖父は島の診療所で頑張っていたが、五年前に癌で亡くなった。癌と分かった時も島を離れず、最期は診療所で島民に看取られながら死んだ。峻祐は祖父が好きで、子供の頃から何度も祖父の離島に遊びに行った。厳格な父とは正反対で、いつでもニコニコと島民達に接し、島中の人々から愛されていた。
警察庁長官の父は留守のことが多い。高田馬場駅に向いながら、父のスマホに電話した。出られない時は、すぐに切られる。
「何だ、久し振りだな。私の番号は消去されていなかったのか?」
崇臣はいつも通り、少し嫌味を含めて言った。峻祐は、それを無視した。
「今、どこ?」
「何事もなけりゃ家にいる時間だ。何か用か?」
「用がなけりゃ電話しないよって言いたいけど、聞きたいことがあるんだ」
「嫌味な奴だ。まあいい分かった」
「今、高田馬場駅だから、これから行くよ」
峻祐は、それだけ言うと電話を切った。嫌味な性格は、父親譲りかと思うと、ちょっとショックだ。家に着くと母の基子は嬉しそうに迎えてくれた。二年前に今のマンションへ移り住んだから、我が家は久し振りだった。基子とは時々外で会って昼食をしている。マンションの家賃を含め、生活すべてを父に依存しているのが少し悔しいが、今は勉学に忙しいと自分自身に言い訳している。
「コーヒーがいい?それともビールでも飲む?」
基子がいそいそとリビングに入って来た。
「ごめん、今、親父に話があるから」
峻祐が言うと、基子は頷いて部屋から出て行った。宗臣も何か察したらしい。
「私の書斎に行くか?」
そう言うと、さっさと書斎に向った。相変わらず本棚に囲まれた部屋は、地震が来たら本によって圧死しかねない。大きな書斎机の前に置かれた二人掛けのソファーと小ぶりなテーブル、ゆったりと座れる一人用の椅子。宗臣は椅子に腰を下ろし、峻祐は向いのソファーに座った。父と向かい合って座ると、今にも尋問されそうな気分になる。
「で、何なんだ。聞きたい事って」
「俺もよく分からないんだが、嫌な予感がするんだ」
「嫌な予感だけじゃ何とも言えないじぁないか」
峻祐は黙って例の鍵が入った小さいビニール袋を宗臣に見せた。更に、これもビニール袋に入った封筒と便箋をテーブルに置いた。宗臣は、鍵の入った袋を手に取ってじっくりと見ていた。
「これは?」
「俺が今、付き合っている汐里の郵便受けに入れられた物で、最初は意味が分らなかったが、その鍵に暗号のようなものが極印されているのが妙に気になったんだ。それに今日初めて聞いたんだが、汐里の母親が二00三年三月二十五日二十歳の時、死亡していると墓標に刻まれているとの事だ。汐里は、母が東京の大学に通っている時に見知らぬ男性の子を妊娠し、矢萩市に戻って出産した。しかし、汐里が三カ月の頃、用事があるからと告げて東京に行き、交通事故で死んだと祖母から聞かされていた。乳飲み子を残してまでの用事って何だろう。しかも、直後に交通事故で死亡したと。どう考えてもおかしいと思う。汐里の戸籍には父親の欄が空白になっている。祖母に尋ねると相手は分からないと言われたと。汐里は、そのことでずっと苦しんでいたんだ。以前、祖父母は東京に住んでいたらしいが、その後、矢萩市に移り住んだと聞かされている。つまり、汐里を出産した時点では、祖父母は矢萩市に住んでいた。俺がパソコンで二00三年三月二十五日の都内の交通事故を検索しても、その日交通死亡事故は掲載されていない。引っかかったのは鍵のことだけど、汐里の過去も気になるんだ。今日、汐里が墓参りに言った折、花束が墓前に置かれていたという。しかも、帰ってきたら、これらの物が郵便ポストに入っていた。郵送じゃないから誰かが直にポストに入れたことになる。花束を置いた人物と鍵を入れたのが同じ人物じゃないのかな。つまり、墓前に花束を置いた人物は、墓に入っている三人と関わりがあると思う。汐里のマンションの監視カメラは入口上の一ヶ所だけだが、親父なら、そのあたりのことをすぐに調べられるよな」
「親をこき使いやがって」
宗臣は、そう言いつつ視線は鍵に向けられていた。鍵の極印が気になるようだ。峻祐は言うことは終わったとばかり、さっさと書斎から出ると基子のところに行き、用事は済んだから帰るよと伝えて家を出た。心配なので一瞬汐里の所へ戻ろうかと思ったが考え直し、自分のマンションへ帰った。次の日、宗臣からラインで返事がきた。
【一】二00三年三月二十五日、都内では交通事故による死亡
事故は発生していない。その他による死亡事故も発生し
ていない。
【二】汐里のマンションはワンルームマンションで学生が多い
いせいか、大勢が出入りしており、監視カメラは意味を
なさない。一応チェックしたが、これといった不審な者
は写っていない。一階の塀は低いので簡単に廊下に入れ
るし、一階の郵便ポストは入口から少し奥まった場所に
あり、カメラに写らず簡単に行ける。
【三】汐里の祖父、丘崎徳次郎は神田の古本屋に産まれる。
徳次郎の父親が終戦のどさくさに紛れて、かの地で古本
業を始める。妻、丘崎法子は児童養護施設出身者で、結
婚後古本屋の二階で所帯を持った。同時期、矢萩市に家
を建て、時々行っては畑をやっていたようだ。本格的に
畑をやるようではなく、別宅として建てたみたいだ。汐
里の出生届は矢萩市に提出されている。しかも、一度も
産科に行っていない。矢萩市によると出生届は生後二週
間と定められているが、実際は一か月後だった。母親の
体調が思わしくなく、届け出が遅れたとの事。取り上げ
たのは矢萩市の産婆で、しかも十九年前に急死している。
つまり、汐里を取り上げた直後の可能性もある。
一人暮らしだったので、詳細は分かっていない。この時の
年齢は七十九歳となっているので、急死しても不自然では
ないが直後というのが気になる。
以上の事を鑑みて、まだ不明というか怪しい事案が多い。引き続調査してみるが、時間がかかるかもしれない。それに、お前じゃないが、ひょっとすると大変な事案に発展する可能性がある。今は、汐里さんに何が起こるか分からないので、彼女を守ってくれ。また、分かった事が判明しだい連絡する。
以上
峻祐は確かに嫌な予感がしていたが、ここのまま調べると闇の中に引きずり込まれるような気がしてきた。汐里を守れという父の言葉は何を意味しているのか。何から守れというのか。あるいは、警察庁長官の父は、何か感づいていているのでは。恋人同志の同志が知らぬ意味合いを含んで蠢いていく。今までの汐里の生活が砂上に築かれた時間なのか?峻祐は胸の中にモヤモヤ感を抱きながら、汐里のマンションに向った。守れと言われても分からないし、ましてや今度の事柄についてはっきりしていない、暫く汐里には言わないほうがいいだろう。何も伝えずに汐里を守るにはどうしたらいいだろう。汐里のマンションに着いてから、これから行くことを汐里に連絡するのを忘れていた。でも、昨日の今日だし家にいるはずだと、部屋に行った。しかし、ドアホンを鳴らしても反応が無い。峻祐は何かあったのかと焦って、汐里のスマホに電話した。すると、汐里のあっけらかんとした声が聞こえた。峻祐は心配していただけに、声高に言った。
「どこにいるんだ?」
「今ね、メグと新宿でランチしているのよ。ほら、昨夜は不安であまり食べられなかったでしょう?」
峻祐は、すぐマンションに帰れよって言おうと思って言葉を飲んだ。これから先、何が起こるか分からないけれど、汐里をずっとマンションに閉じ込めておくことは出来ない。汐里にも汐里の生活があるし、もうすぐ大学二年になる。俺も四年になったら、学業も忙しくなり、汐里にくっついてばかりいられない。それとなく汐里の身辺警護を父に頼むしかないが、これといった実害が出ていない状況で身辺警護を頼むのは、個人的なことで父の権力を利用することになりかねない。後は、俺が出来る限り汐里の側にいるようにしよう。
「メグと一緒か。今、汐里のマンションに着いたら、いなかったから心配したんだ。まあ、たまには遊んで来いよ。夜にはマンションに行くけど、その時は連絡するよ」
「分かったわ。ごめんね、連絡入れとけば良かったわね。じぁ今夜は夕食作っておくわ」
峻祐は汐里が昨夜の事に必要以上に神経質になっていないことに、少しホッとした。汐里に何か分からない事で不安がらせてもしょうがない。峻祐は、矢萩市の汐里の実家に行ってみよう思い立った。ついでに、丘崎家の墓参りもしてこよう。確か、車がないと不便な所だと汐里に聞いていたが、これから実家まで車を取りに行くのも面倒なので高田馬場駅でレンタカーを借りた。関越道を走り、国道で矢萩市まで行った。矢萩市営墓地の大きな看板が見えたので、まずは墓地に行くことにした。事務所前の駐車場に車を止めて花を買い、丘崎家の墓の場所を聞いてから階段を登って行った。年寄りには結構きつい階段を登って、丘崎家の墓に着いた。まずは花を買ったことを少し悔やんだ。汐里が言ってた通り、花立には目いっぱい花が差し込まれ、峻祐の花を挿す余地は無かった。仕方く花は墓前に置いた。これも事務所で買った線香に火を付け、線香皿に置いた。手桶の水を墓石に掛け座ると、静かに手を合わせた。それから、横に設置されてある墓碑に目をやると、汐里が言っていた通り、三人の戒名と没年月日が彫られていた。没年月日は、死亡届の通りだろう。後は、汐里の母千香の死亡の原因が不明だ。しかし、墓の前で考えても分かるわけないとし、周りを眺めながら駐車場に戻った。その後、汐里の実家の住所を頼りに、家に辿り着いた。木造平屋で、汐里はここで産まれ育っているが、家を建てたのは徳次郎と法子が結婚してすぐとのことだった。その時は神田で古本屋をやっており、こんな所に家を買う必要も無い気がした。別宅にしては、別荘のような佇まいでは無く、畑も野菜作りで生計を立てるほど広くもない。峻祐が庭先に立って畑を眺めていると、不審そうな目で隣のお婆さんが見ていた。峻祐は、慌てて頭を下げた。
「私は、ここに住んでいた汐里さんの友達なんです。今日は、たまたまこちらの方に用があったので、丘崎家の墓参りに行って来たついでに、汐里さんの実家に来たんです。お祖母さんの一周忌に来れなかったもので」
隣のお婆さんは、人の好さそうな笑顔で頷いた。
「そうですか。汐里ちゃん元気にしていますか?法子さんも急に亡くなって、そりゃ汐里ちゃんはショックだったですよ。ちょうど大学の試験か何かで東京へ行ってましたからね。私が汐里ちゃんに連絡をしたんですよ。汐里ちゃんが東京の大学に行くことになったら、お祖母ちゃんのことを宜しくと携帯のいや今はスマホっていうんですか、番号を教えておいてくれたんでね」
「お祖母さんも本当に急でしたね。元々、心臓が悪かったんですか?」
「いやいや、普段はとても元気な人で、ほらここの畑もお祖父さんが亡くなってからも一生懸命やってたんだよ。でも、心臓発作って分からないものなんだね。救急車を呼ぶまでもなく、あっという間だったからね」
「心臓発作を起こしたとき、側にいらしたんですか?」
「側も側っていうか、私と一緒に、ほれ、そこの縁側でお茶を飲んでたんだよ。でも、やっぱり心臓に持病があったのかねぇ、卓袱台に薬の袋みたいなのが置いてあったからね」
「何の薬か聞きました?」
「それどころじゃないよ。お茶を二口位飲んで、すぐに苦しそうに呻いてね、私が叫んでお爺ちゃんが驚いて救急車を呼んだけどね。それから、病院に運んだり、私はすぐに汐里ちゃんに電話したりでね。大変だったよ。人間はあっけないものだと思ったよ。後からだけどね」
「それは、大変でしたね。目の前で人が亡くなるなんてこと、余り無いですものね。でも、汐里さんはご近所の方達が葬式など手伝ってくれて本当に嬉しかったと感謝してましたよ。親戚の人がいなかったみたいだから」
「そうだね。お祖父さんの時も親戚の人はいなかったからね。何でも、二人とも一人っ子だったらしい」
それじゃ汐里ちゃんに宜しくと言って、お婆さんは帰って行った。
峻祐は卓袱台に置かれていた薬の袋が何の病気の薬なのか気になった。帰ったら汐里に聞こうと決めて、矢萩市を後にした。
夜、汐里のマンションに行くと、汐里がいそいそと夕飯の準備を始め、ローテーブルの上に箸やスプーンやフランスパンを並べ、冷蔵庫からサラダやビールやチーズ等を置いた。
「今晩は頑張ってビーフシチューを作ったのよ、お昼悪かったと思ってね」
「いや、俺こそ悪かったな。心配してたんで、つい口調がきつくなって」
「ううん、心配してくれて嬉しかったのよ。ただ、部屋にずっといると何となく不安が増殖していく気がしてね。丁度、メグからランチしないって電話を貰ったから、すぐにオッケーして出掛けちゃったの」
汐里は、峻祐がビールはいいと言うので、温めたビーフシチューをスープ皿に注いで、峻祐の前に置いた。
「うまそうだな。これならすぐにでも嫁に行けるぞ」
「やあねぇ、餌で釣ってるみたいじゃない。それに、私はまだ可愛い十代の娘なんだからね。選り取り見取りよ」
「おっ、大きく出たな。まっ、可愛いのは認めるよ」
暫くは食事をしながら、久し振りに会ったメグの話題で盛り上がった。食事が終わり、コーヒータイムを見計らって、峻祐が言い出した。
「実はね、今日汐里に振られたから思い立って、丘崎家の墓に行って来たんだ。汐里との事を報告しようと思ってね。そして、墓碑も見たんだが確かに三人の戒名が書いてあった。ほら、汐里が花束を三人の誰の為に置いたか、気になっていただろう。俺もそう思って墓前で考えていたが、三人の誰かにではなく三人に共通する人物の可能性もあるよ。それから、ついでに汐里の実家にも寄ったら、隣のお婆さんが声を掛けてきてね。どうやら俺を不審者と見ていたらしい。汐里の友達ということを信じて貰えてね。暫く話しをしたんだ。法子さんが倒れた時、そのお婆さんは一緒に縁側でお茶していたんだってね。汐里に連絡したのも、その人だよね。お婆さんによると、お茶していた時、卓袱台に薬の袋のような物が置いてあったと言ったけど、汐里は何の薬だったか分かるか?」
汐里は思い出すように、視線を上に向けて考えていた。
「ううん、記憶がないわ。あの時は病院に駆け付けて、それ以後ショックで余り覚えていないの。隣のお婆さんや近所の人達が家に入って、掃除やら何やらやってくれたから、ひょっとすると、その時のどさくさで捨てられたかもしれないけど。私は自分の部屋で泣きはらしていたの。少し落ち着いたのは、葬式が終わって骨壺をお爺ちゃんの仏壇前に置いた後かな。家の中も綺麗に掃除されていたし、私は薬の袋を見た記憶がないの。そもそも、お祖母さんは健康で、私が知る限りでは病院にかかった事、無いんじゃないかしら。市の健康診断を受けたって事も聞いたことないし」
「それから、お婆さんが汐里に宜しくって。俺も汐里がご近所の人には感謝していると伝えておいたよ」
汐里は、その時の事を思い出したのか、少し涙ぐんだ。峻祐は薬の袋を見たというお婆さんの話しを無視するわけにはいかない。むしろ、突然の心筋梗塞を引き起こす薬があるかどうか分からないけど、それを飲まされていた可能性も捨てきれない。法子の病歴などは父に頼むしかない。他人の個人情報を一介の者が探り出すのは困難だ。父が言うように解明には時間が掛かるかもしれないし、重大な事案が含まれていた場合は峻祐の手に負えるような事ではないはずだ。汐里の事は心配だが、大学生の峻祐が出来ることは限られている。まだ関係を持っていないのに、いきなり同棲する訳にもいかないし、結婚しても見えない敵から汐里を守ることは出来ない。相手が敵なのかどうかも分からないのだから。峻祐は、その夜も汐里に戸締りをしっかりするように再三言ってから、自分のマンションに帰った。
その後、これといったことも無いまま、峻祐は四年に、汐里は二年に無事進級した。
宗臣からラインで回答が送られてきた。
法子が矢萩市で市の健康診断を受けた形跡はなく、病院に掛かったことも無かったと連絡があった。心筋梗塞は心筋に変性を起こす壮年以後に起こりやすい病気だが原因は色々あり、急に血圧降下でショック状態で死に至ることもありうる。ただ、薬の現物も無く、ましてや薬だったのかも分からない状態で、急死の原因とする訳にはいかないと思う。ましてや、心筋梗塞で死亡した時点で不審なこともないから、当然解剖もしていない。それとは別に、少し話したい事があるから家の方に来てくれ。お前は、いつでも暇だろうが私は忙しいから時間が空いたら日時をラインする。
以上
相変わらず嫌味な親父だと思いつつ、話しがあるの一言を無視する訳にはいかない。でも、結局薬の件は、どうしようもなさそうだ。 峻祐は四年になり、司法試験に向けて学業が忙しくなってきた。平穏な日々が続き、以前のように頻繫に汐里と会うことが無くなり、お互いラインだけは毎日欠かさず連絡を取り合っていた。守らなくてはとの緊張感も薄れつつあった。汐里もラインで学友とディズニーランドや買い物などを楽しんでいた。そんな隙を見計らうように、ある日の夕方、スーパーの買い物帰りに汐里が暴漢に襲われた。薄暗い横道に入った瞬間、若い男が後ろからこん棒を汐里の頭上に振り下ろそうとした時、たまたま横道に入ってきた男性が取り押さえて大事には至らなかった。助けてくれた男性は五十代で柔道の有段者だという。横道の奥にあるバーのマスターで、店の準備に行く途中だった。峻祐は父からの電話で汐里の事件を知り、慌てて所轄の警察署に行った。汐里はショックで峻祐の顔を見るなり抱き付いて泣き出した。ショックなのは峻祐も同じだった。襲ってきた若い男、田上幸太は昨日深夜、新宿の歌舞伎町の裏通りで声を掛けられた見知らぬ男から、お金で汐里を襲うように頼まれたと供述している。人相風体は灯りのないところで、しかも、黒いパーカーのフードで顔は見えず、背が高かったということ以外、黒っぽいズボンだったと思うの曖昧模糊とした証言だ。田上幸太は二十五歳、高校卒業後地方から出てきて運送会社に就職。最初は真面目に仕事をこなしていた。主に仕分け作業をしていた。休日の暇潰しにパチンコへ行き、徐々にパチンコへと嵌り込み給料では足りずサラキンに手を出した。運送会社に柄の悪いサラキンの人間が督促に訪れるようになり、周囲の事もあり解雇された。その後、歌舞伎町でキャバクラのチラシを配ったり勧誘する仕事もサラキンの店から強要された。この借金地獄から逃れたいと思っている時、百万円の成功報酬に目が眩んだと供述している。運送会社の社長によると、もともと小心者で仲間から荷物の重い物を押し付けられても、文句も言わず粛々と働いていた。運送会社の社長は、罪を償ったら社員一同待っていると伝えてくれと言った。そのことを知らされた田上は、大声でわんわんと声を上げて泣いた。明日、田舎から両親が慌てて出て来るらしい。ただ、汐里を襲った事実は消えることなく、裁判に掛けられることは待逃れない。救いは、運送会社の社長以下社員達と両親の支えだろう。
助けてくれたマスターの佐野慎は、お礼を言う峻祐と汐里に、偶然通り掛かっただけだからと素っ気なく言うと、簡単な事情聴取の後、店の開店準備があるからと、早々に帰っていった。むしろ、汐里は襲われる原因など事情聴取に時間がかかり、警察署を出た頃はすっかり暗くなっていた。峻祐は父に知らせてくれたお礼と、事件の詳細を言おうと思って電話をしたが、今は忙しいと切られてしまった。もっとも、父が峻祐に電話してきた時点で詳細は知っているはずだった。何しろ警察官なのだから。峻祐は震えている汐里をマンションまで送ったが、今夜は泊まろうと思い、父にその旨をラインで送っておいた。汐里は部屋に戻ってもショックは抜け切れていない。峻祐は汐里がスーパーで買ってきた物で、簡単な食事を作った。当然、汐里は食欲が失せていたが、作ったおじやを少しだけ食べた。ワンルームの狭いベッドに汐里を寝かせ、峻祐はパソコンで事件を検索してみたが未遂のこともあり、殆ど報道されていなかった。峻祐は犯人の田上幸太より、見知らぬ男の方が気になっている。夜の十一時頃、父からラインが入った。
田上幸太より気になる事が出て来た。明日、久し振りに休みになり一日中家にいる。以前、ラインしたように話したい事がある。汐里さんに聞かせられる程の情報では無い。明日から暫く、汐里さんにはホテルで過ごしてもらうよう手配した。お前から、そのあたりのことを汐里さんに伝えてくれ。身の安全の為ではあるが、そのことを強調しすぎると怯えさせてしまう。まあ、お前のテクニックかな。ホテル名など明細は追ってラインする。
以上
翌日、汐里は完全にショックから抜け出せていなかったが、以外と持ち直していた。峻祐は、ホテルへの移動を説得するのに手こずるかと思っていたが、色々調べたい事がある。しかし、昨日の事もあり汐里をマンションで一人にすると不安だ。鍵の件にしても、すでに汐里の部屋まで相手に判明している。暫く、ホテルにいてくれないか?と、持ちかけると案外素直に了承してくれた。峻祐は、余りに簡単に了承してくれたことに却って不安になった。
「汐里、大丈夫か?無理してない。本当は、あんなことがないように、ずっと側にいてやれば良かったと思っている。でも、これから先のことを考えると、はっきりさせないといつまでも、中途半端な状況が続いてしまう。毎日、ホテルに行きたいが状況により行けない時もあると思う。でも、今まで通りお互いラインで毎日連絡取り合おう」
「うん、分かったわ。私、夜中に目が覚めたの。峻祐が隣にいてくれるだけで安心だったわ。でも、よく考えたら、ずっと一緒にいるのかどうか分からないでしょう。勿論、この先も峻祐の側にいたいけど、人生何が起こるか誰にも分からない。あの鍵を見た時から、何か嫌な予感がしてたわ。いえ、その前に墓前に花束が置いてあった時から。今まで、何故早世した母が父親の分からない子供を出産したのか深く考えなかったわ、怖かったし。私は母がレイプされたのかと考えたこともあったけど、触れてはいけない気がしてた。それ以外、私は祖父母が大切に育ててくれて何の不安もなかった。峻祐が母の事故死を調べるって言い出した時、私のこれまでの人生が曝け出されるような気がしたわ。それは、怖いけど、どこかでハッキリさせないと前に進めないと思う。ホテル住まいってチョットリッチな気分かも」
汐里が無理しているのは分かっていた。でも、汐里の言うように今ハッキリさせないと前に進めない。峻祐は、汐里をきつく抱きしめた。
「大丈夫だ。汐里は汐里。ずっと俺の汐里だ」
次の日から汐里は霞が関に近いホテルに移った。勿論、霞が関は警視庁や警察庁の近くでもある。峻祐は汐里をホテルに送ると、実家に急いだ。基子は峻祐の顔を見ると、昼食の用意はしてあるからと言い残して外出した。宗臣は、書斎で待っていた。
「汐里さんは、大丈夫だ。必ず警察が守るからな」
「警察が汐里を守らなくてはいけない状況なの?」
「そのことが今ひとつハッキリしない」
「警察庁のトップである親父が分からない事ってあるのか?」
「当たり前だ。日本の津々浦々まで、全てを把握出来る組織など無い。勿論、警察もだ。まあ、黙って聞け。今、分かっている事として、警察は昔からいろいな部署で情報収集にエスを使っている。いや、警察だけではなく、検察や各省庁でも使っていると暗黙知されている。警察は主に公安だが、それ以外に捜査一課や二課、地域課など捜査に関係している者は個人的にエスを使っていることが多い。相手はバーのママやマスターだったり、居酒屋の店主又は普通の服飾雑貨店経営者そしてヤクザの中にもいるのだ。公安の人間がヤクザの中に入り込む潜入捜査も普通に行われている。警察だけではないぞ、新聞記者などもネタモトとしていろんな方面に関係を持っている者も多い。例えば刑事をネタモトにして、お互いウインウインとしている。何しろ抜くか抜かれるかの世界だからな。しかし、公安にも手に入いりにくい情報がある。いまや日本には世界中からCIAやFSB等の諜報部員が来ている。映画みたいに派手に動き回る訳じゃない。公安は日本やロシアや中国や韓国などのマフィアやヤクザに関しては常に網を張ってといる。だが、国相手となると中々難しい。公安が潜入捜査しても、警察官である以上完全に身を隠すのは無理だ。さっき言ったように金を出してエスを使うとなれば、接触時にこちらの身分も明かさない訳にはいかない。そんな中、密かに闇の諜報部員がいるとの噂が囁かれている。黒蝶と呼ばれているが実態は把握されていない。まず、黒蝶の正体も分からないし、何人いるのかも分からない。彼らに金を払って雇うことも出来ない。何故なら彼らは自ら情報を売ってくる。彼らの情報は一説に億単位になるといい、また、それだけの値打ちがある情報だ。警察庁の情報にも黒蝶からのものもあると思う。ただ、黒蝶は直に接触してくることはない。だから、実態は分からないままだ。これらの情報は当然ながら口外できるものではない。金を払う場合は、すべて外国の口座だ。昔はスイスが無記名で口座を作る事が出来たが、世界中の悪人の金を集めていると非難され、今では難しい。しかし、それなりのルートがあるらしい。黒蝶は五カ国語以上を自由に扱う。黒蝶をしている間は結婚など身内との繋がりは持たない。黒蝶から手を引いた後は、黒蝶の仕事を一切せず一般の人になり、結婚等家庭を持っているらしい。語学力にものを言わせて国外で生活する者が多いと聞く。ただ、国家間の情報収集となると、それなりの危険が伴う。国内だけでなく国外で情報収集することもあるからだ。例えば殺害されることも当然ありうる。また、相手を殺害する場合もあるらしい。しかし、殺すにしろ、殺されるにしろ、各国の警察が動くことはない。事件、事故以外に警察が動く事が無いし、そもそもそのような遺体が見つかる事もない。つまり、彼らは犯罪のプロだ」
峻祐は、話しを聞いてても絵空事のように実感が伴わない、。
「正体の分からない黒蝶って本当にいるの?」
「だから言っただろう。今ひとつハッキリしないって。ただ、以前、アメリカの大統領と日本の総理大臣が両国を揺るがす大事件が起きた。この情報の入手先が黒蝶と言われている。他にも表に出ない情報が各国でやり取りされている場合もあるらしい。それらの情報は国を揺るがすか、救うか。漆黒の闇は各国にもあるだろう。その闇の中で舞う蝶々。それが黒蝶だと言われている」
「分かったというかよく分からないけど、国家を揺るがす黒蝶と汐里の事とどう繋がっているの?」
「そう、分からないのは、汐里さんと黒蝶の関係なんだ。さっき言っただろう。黒蝶をしている間は結婚など身内の繋がりは持たないと。これは、あくまで私の想像だが、汐里さんに父親がいないと言ったが、実は黒蝶なんじゃないかと。つまり、汐里さんの父親は黒蝶の掟を破ったんじゃないか。つまり、母親が事故などでは無く、殺害されたのではないかと、見せしめに。だが、黒蝶は、お互いの正体を明かしていない。誰が汐里さんの父親か分からないが、母親だけは分かった。それと、墓前に花束を置いたのも、鍵を汐里さんに渡したのも父親かも知れない」
「花束は自分の罪を悔いたからだとしても、鍵はどういう意味なんだろう」
「勿論、これも私の想像の域を出ないが、父親は黒蝶を辞めたんだと思う。あの鍵に彫られた極印が父親の印じゃないかな。正体不明の黒蝶にとって自分の証しは、それぞれが持っている極印だと思う。それを汐里さんから警察に渡ることを見越して。つまり、黒蝶に汐里さんの事から手を引けと宣告した」
「でも、あの鍵が汐里から警察の元に渡るなんて、父親はどうして考えたのだろう?」
「相手が黒蝶だとしたら、汐里さんの全て、つまり付き合っているお前の事も、父親が警察庁長官であることも分かっているはずだ。そんな事が出来なければ、黒蝶としての資格は無い」
「そこまで宣告したなら、何で汐里を襲ったんだ」
「汐里さんを狙っていたのは黒蝶ではないかもしれない。何しろ、黒蝶は、お互いの正体を知らないはずだ。闇の中で飛び交う各国の諜報部員の可能性も大だ。何しろ、自国を守り他国の情報を得るたうめに暗躍しているのだから。普通は黒蝶を辞めることを宣言する必要はない。自然に社会に溶け込めばいいのだから。ただ、汐里さんが黒蝶の娘だと言うことは内々で知れ渡っていたのかもしれない、汐里さんのお母さんが亡くなった時から。殺害されたのかどうかは、分からないだろう。もしかしたら他国の諜報部員が見せしめとして、黒蝶全体に警報を鳴らしたのかしれない。何しろ黒蝶の事が分からないから警察では手の打ちようがない。下手に追及して国が大損害を受ける可能性もある。暫くは様子を見てみよう」
「そんな悠長な。それじゃいつまで経っても汐里は逃げ回らなけりゃならないじゃないか」
峻祐は、父の話しを聞いてもピンとこないし、それこそ訳の分からない見えない闇が広がっていることすら信じられない。諜報部員は00七の映画しか思いつかない。ただ、あの鍵の極印を見た時に感じた不気味な空気は、闇の世界への入口だったのか。
「現時点では、ハッキリしたことは分からない。だから、私の想像の域を出ない。もっと、原点に遡ることも必要かと」
「原点とは?」
「例えば、戦前戦後に何が起きていたのか?徳次郎の父親、丘崎次助は、何故神田に古本屋を開く事が出来たのか?東京は大地震や大空襲に襲われ、壊滅的な危機に見舞われた。そのどさくさの最中に何が行われていたのか?そう簡単に解明出来るとは思わないが、黒蝶の原点は、そのあたりから始まったんじゃないかと。全ては憶測の範囲を出ないし、解明することが日本の根幹を揺るがすことになったら断念せざる得ない。ただ、我々が動くことによって彼らに脅威を与えることが出来るかもしれない。そうすれば、汐里さんに害が及ぶことは無いと思う。ひょっとしたら、汐里さんの父親と思われる黒蝶は、そのことを狙って鍵を送ってきたのかも知れないが。まずは、暫くお前は汐里さんのガードについてやれ」
峻祐は宗臣の話しは簡単に信じがたいが、事実汐里が何者かに狙われたのだがら、まずはハッキリするまで汐里の側にいよう。このことは汐里に話す事ではない。曖昧模糊とした話しは、却って汐里を怯えさせてしまう。汐里をホテルの部屋に閉じ込めてばかりでは息苦しいだろう。今夜の食事はホテルの最上階にある高級レストランにしよう。なんたって軍資金は宗臣からせしめて来たのだから。峻祐は汐里にラインし、これからホテルに向う旨を伝えた。
汐里は、さぞかしぐったりとしているだろうと思っていたが、以外に元気でパソコンに向かっていた。
「私は文学部なんだから、小説家を目指そうと考えたのよ。人間目指す目的が出来ると気力が湧いてくるわ。だって今度の事は何も分からないけれど、今生きているでしょう。母が何で死んだのか分からないけれど、若くして死んだのは無念だと思うの。私だって、あの時佐野さんに助けられなかったら死んでたかもしれない。私は小説のような運命論者じゃないけど、人はいつどうなるかなんて自分じゃ決められないでしょう。それなら生きている今を大事にしなけりゃと思い至ったの」
「それで小説家を。数奇な運命を自伝小説として?」
「ううん、数奇かどうかは関係なく自伝は書かないわ。だって、自伝は想像力が発揮できないじゃない。それこそ事実を正確に書くなら警察の調書で十分だと思うわ。一字一句しつこいぐらいに聞いて来たでしょう」
峻祐は汐里が数奇な運命に翻弄されぬことを祈り、今度の事がハッキリしても伝えることは止めようと思い、汐里にキスした。
「どうしたの?いきなりキスするなんて」
「汐里が言っただろう。いつどうなるか分からないって。だから、今の内に何度でもキスしておこうと思ってね」
「ちょっと、何だかキスの大安売りみたい」
汐里は、そう言いつつ自分から峻祐の唇に触れた。
二人は、リッチなディナーを堪能し、部屋に戻ってワインの余韻に任せて、初めて身体を合わせた。
宗臣は、難しい顔をして警察庁長官室の窓から日比谷公園の遠景を眺めていた。戦前戦後の資料は、中々手に入らない部分もある。特に終戦前のどさくさに関する資料は無いに等しい。わざと処分したのか、混乱の最中に紛失したのか定かでは無い。丘崎次助が神田に古本屋を立ち上げた経緯もハッキリしない。それこそ、いつの間にか古本屋があり、その周囲にも同じような古本屋が立ち並んだ。勿論、土地の名義も丘崎次助で登録されていた。焼野原の所にいきなり大きな建物が建てられていた。最初は掘っ立て小屋のようだったが、それなりの坪数がある。木造二階建ての家が、その後、コンクリートの立派なビルに建て替えられている。次助とタキの間に徳次郎が産まれている。だが、それ以前に丘崎次助の戸籍がハッキリしない。軍隊に徴収された記録も無く、本人曰く満州で戦っていたというが、その記録もない。終戦間際に戸籍喪失証明書が出された。その時には、もう住所は神田の古本屋になっている。不可解な事が多いが、それに意義を申し立てるだけの書類の類もない。宗臣は次助が第二次世界大戦中、網をくぐってソ連側か日本側に、それこそ諜報部員として活動していたのではないか。戸籍喪失証明書が簡単に発行され、しかも神田に大きな古本屋を構える事が出来たのは、報酬だったのではないだろうか。それなら、黒蝶は丘崎次助が立ち上げたのかも知れない。息子の徳次郎が結婚と同時に矢萩に別宅を買ったのも、ひょっとすると父親の事を知り、いざという時の逃げ場を確保していたのか。ただ、このことは自分の想像の域を出ない考えだ。警察として証拠がないものを、ただ悪戯に論議することは出来ないだろう。
そうこうするうち、宗臣の耳にロシア大使館にロシア人が救いを求めてきたとの情報が入ってきた。何でも大使館の前でロシア男性がフラフラして倒れたという。ロシア大使館は素早く行動を起こした。本国の国民が病死したので、本国に送り返したとの声明を出したのだ。宗臣は、すぐに黒蝶の仕業、つまり汐里の父親による千香と汐里に対する復讐だと思った。勿論、ロシア側は病死で通したのだが、そのロシア人は諜報部員だったのではなかろうか。黒蝶は本来なら人目に付くような殺し方はしない。それを敢えてしたのは黒蝶か各国の諜報部員に対する牽制の意味がある、汐里を守る為に。これを機に汐里は峻祐と同じマンションに引っ越した。峻祐の側で安心ということと、以前のマンションは防犯に関して余りにもお粗末だったからだ。そして、このことは宗臣の指示によって行われたので、汐里と自分のマンションの賃料を支払ってくれるよう約束を取り付けた。今までもマンションの賃料や生活費は、母の基子が密かに払ってくれていたが、この際、はっきりと父の宗臣から了承された方がいい。宗臣は汐里の分は兎も角、お前は自分から出て行ったのだからと言ったが、結局押し切られたかたちになった。
それから半年が過ぎ、峻祐は司法試験を突破し、汐里は勉学の傍ら小説を書いては色々な賞に応募し、落ちてはチャレンジよと前向きに捉え、書き続けている。
峻祐は、久し振りに実家へ行った。自分の進路を色々考えていたが、検事より悔しいが警察庁を受けようか相談しに行った。
「何だ、警察庁は転勤が多いいから、嫌だって言ってなかったか?」
「自分の後を次いでくれると言われて嬉しいのに、素直じゃないんだから」
コーヒーを運んできた基子は宗臣の横に座り、笑いながら言った。
峻祐は宗臣の嫌味は、無視するように言った。
「別に親父の後を継ぎたいなんて思ったんじゃなく、今度の事で日本国内だけじゃなく、世界中に目を向けなくては駄目だなって」
「本当に意地っぱりなところは親子ね。さあ、私はこれからデートだからね、汐里さんと。夕飯は家で食べることになっているから、ゆっくり親子喧嘩しててね」
そう言うと、基子はさっさと外出して行った。
「お前の嫌味は、母親譲りだな。それより警察庁の試験は大変だぞ。それに受かっても日本中どこに行かされるか分からんからな。俺だって大阪や北九州にも行ったしな。一応家族同伴が基本だからな。お前も転校を余儀なくされたよな。汐里さんにも、このことは伝えたのか?」
「いや、まだだけど汐里は、何も言わずに付いてくるよ。俺に惚れてるからね」
「私はそこまでずうずうしくはなかったぞ。まあいい。それより、ひとつ気になる事がある。覚えているか、佐野慎という男を。汐里さんを助けた男だ。彼が四カ月前に、バーを畳んで海外へ行っていた。ロシアだ」
宗臣は、軽い溜息を付いた。
「佐野慎は、黒蝶で汐里の父親だったんじゃないかな。汐里を暴漢から助けたとき、常に汐里を監視していたのかも知れない。監視というより見守っていたと。あのバーも殆どやっていなかったみたいだから、公安がよく使う借部屋だ。彼は全てを知っていた。汐里さんが、あのマンションに越してくる半年前に、あのバーを居抜きで借りた。そして、半年前に一連の事に片が付いたので、海外に脱出したのだろう。もっとも、佐野慎に何の容疑もかかっていないのだから、逃げる理由がない」
「でも、何でロシアなんだろう?勿論、あのことは殺人事件じゃないけど、選りによってロシアに行くなんて。何となく敵国に行ったみたいじゃないの」
「これも私の一方的な考えだが、あのロシア人の殺害を依頼したのはロシアじゃないかと」
「そんな、自国の人間を他国の者に殺させるなんて」
「あのロシア人がやり過ぎたのかもしれない。ロシアにしたら諜報部員は常に目立った行動は避けなければならない。それなのに、あのロシアの諜報部員は歌舞伎町で姿を晒した。勿論、諜報部員は特定出来なかったが、田上幸太が逮捕された事実は日本の警察に残る。万が一、田上が諜報部員の事を少しでも思い出したら大変だ。ロシア側は佐野さんに依頼した。しかし、プロならロシア大使館の前に放り出す事はしない。以前も言ったが復讐だ。プロである佐野さんは億単位のお金で引き受けたのだろう」
「汐里の事を思っていたら、そんな事出来ないはずじゃないのかな」
「以前、言っただろ。黒蝶を止めない限り生きるか死ぬかの瀬戸際で諜報活動する犯罪のプロだ。彼は黒蝶を辞めても、超一流のヒットマンでもあった。各国の闇に入り込み情報を得ていたかも知れないし、情報を売っていたかも知れない。それによって、巨万の富も得ていただろう。千香さんとの出会いは黒蝶にとっては掟破りだが、彼が愛する事を初めて知った人だったかも知れない。ただ、そのせいで千香さんが殺された。彼は汐里さんとの接触を避け、ずっと闇の中から彼女を見守っていただろう。今回図らずも事件が起き、汐里さんを助ける事により初めて面と向かって話をした。きっと、汐里さんに千香さんの面影を見たのだろう。実際、汐里さんに会い、言葉を交わすことによって彼は変わった。今、貧しい子供たちを助ける活動をしている団体が世界中にある。そこに寄付金が匿名で送られてくる。どんなに調べても送り主は分からない。もし、彼ならば永遠に分かることはない、存在を消し去るプロなんだからな。これは彼なりの千香さんと汐里さんへの贖罪だと思う。」
峻祐は汐里の全てを引き受け、一生守っていく決意を改めて誓った。
「ただいまー」
元気な基子と汐里の声が重なって玄関から聞こえてくる。
佐野慎は娘の汐里と一期一会の時を過ごせたと信じたい。