雪苺物語
『本日、午前十一時。○×動物園へ移送中のトラックが転倒し、一頭のライオンが市街地へ逃げ出した模様です。周辺住民の――』
雪苺は箸の先端を口にくわえながら、お昼のニュース番組を見ていた。
「まあ、怖い。これってこの付近のことでしょう?」
食卓の向かいで、雪苺の母は心配気な顔をしていた。
しかし、雪苺はテレビも母親も無視して、お昼ご飯を食べ始めた。
「こら、雪苺!!」
鋭い一喝。それは昼食を共にしている最後の一人の声。雪苺は横目で、隣の小柄な老人を見た。
「お母さんが話しかけたのに無視するんじゃない」
「だって面倒くさい」
「なっ、なにを〜」
老人がゲンコツをつくった。
「まあまあ、おじいちゃん。いいんですよ。雪苺も、もう十五才ですから、親離れしたいんですよ」
「しっしかし、じゃな」
「そうそう」
雪苺がすかさず相槌を打つと、老人の顔が烈火の如く染まった。しかし、噴火もいよいよという寸前で、急速にしなだれ悲観に暮れてしまった。
「まったく、いつからこんな性格になったのか。幼いころわしと共に、研鑽の日々を送った雪苺は、本当に素直で愛らしい子じゃったのに」
「じいさん、やつは遠い昔に死んじまったのさ」
「……バカモン」
老人は短い嘆息をつく。雪苺はゲラゲラ笑う。母は仕方ないわね、といった表情で場を受け入れていた。そこで、雪苺の腕時計から一時の知らせを告げるアラームが鳴った。あらかじめ、この時間に鳴るようにセットしていたことは忘れていたが、その意義は覚えている。
雪苺がアラームを止めたときには、顔つきは冷徹なものになっていた。
「さて、そろそろ行くかね」
雪苺は箸を長卓の上の茶碗に乗せ、立ち上がる。
「あら、外にでるの? 危ないわよ。ライオンに襲われるかも」
「ライオンなんか、この俺にとっちゃわけないね」
雪苺は力こぶをつくって、歯を食いしばる。
体格としては中学三年の平均を下回る雪苺だったが、無駄がない筋肉質な体をしていた。
「お前、まさかまた、喧嘩しに行くんじゃないだろうな」
「……ち、違うよ〜」
あからさまに雪苺の目が泳いだ。
「わしは、そんなつもりでお前に拳法を教えたわけじゃないぞ。次に、喧嘩をしているのを聞いたら、道場でみっちり、わしが直々にしごきあげてやるからな」
「へいへい」
適当な返事をして、雪苺は玄関から出て行った。残されたのはただ二人、母は重く長い息を漏らした。
「あの時期は不安定なのでしょうかね」
老人は渋い顔をして、顎に手をやる。
「雪苺の気持ちもわからんでもないがな。本当にいい友達が出来れば、すぐにでも変わるもんじゃろうて」
雪苺は口笛を吹きながら歩いていた。すっかり気分は上機嫌だった。
「ずいぶんとご機嫌だな」
道すがら、前方から声をかけられた。一人は自転車に乗っていて、他の二人は金属バットを持っていた。しかし、野球部にしては誰一人として坊主ではない。
「俺の顔、忘れたとは言わせねーぞ。雪苺この前は世話になったな。てめーなんかにやられちまって、こっちは大恥かいてんだよ」
「覚えてないですけど、えっぼくお世話したんですか。でもお礼とか別にいいですよ。親切心でやったことですから」
雪苺は両手を振って謙遜の合図を送る。瞬時に自転車に乗っていた一人が、口から泡を吹いた。
「舐めやがって。泣かして土下座させてやるからな」
「いやいや、僕急いでるんで、通してくれるだけでいいですよ」
雪苺はせせら笑う。三人が激昂して襲いかかってきた。
(じいちゃん、これは不可抗力だぜ)
軽やかな調子の口笛。それは自転車に乗っていた雪苺が発するものだった。
(いや〜、あいつら下手なモンスターより金品持ってやがるぜ)
どんなRPGでも戦闘後にはモンスターから戦利品を貪っている。勇者はみんなやってる。噂では、新しいFFはリアリティの追求ということで、このシーンが追加されるらしい。
さてはともあれ、雪苺は戦利品をこぎながら、ホクホクした財布のことを考えると笑みが止まらない。
しかし、それもこれまでだ。雪苺にとって金などよりよっぽど重要な事柄があった。
ついに目的地まで来てしまったのだ。
自転車によって時間を短縮して着いた場所は、どこにでもありふれた公園。
そうはいっても最近は荒廃気味で、夜になると不良共のたむろする場所ではある。
案の定、昼の二時ごろだというのに、閑散としていて誰一人いない。
「情報を信じて、あとは待つだけか」
雪苺は近くにあった、一帯を見渡せられるベンチに座った。周りの樹木から、さやさやと葉の擦れ合う音が聞こえて、なんだか気分が落ち着く。
雪苺がここに来たのは、ある人物に会うためだった。
一発殴るたびに真実を話してくれる、(不思議な)不良と呼ばれる人種たちによると、休日の午後二時に、そいつはここの公園に訪れるのが日課らしい。
「本当かよ」
不良の言うことだ。雪苺はにわかには信じていなかった。ただ……
(別に嘘だったら嘘で、もう一度あいつらに会いにいけばいいしな)
雪兎は彼らにとっては嫌な算段をつけ始めた。怯えきった彼らの顔が浮かんで、嗜虐の笑みが雪兎からこぼれる。雑魚ばかり蹴散らしても闘争心は満たされないが、所持金稼ぎとストレス解消にはなる。少なくとも暇になることはない。
しかし、幸運にも彼らの命は救われた。雪苺はRPGでいうところのいわゆるラスボスを噴水近くで発見してしまった。
そいつは、身の丈百九十センチ、厚く迫るような胸板、かもしかのように引き締まった太もも、どれもかれもおよそ中学三年とは思えない筋肉のつき方をしていた。
小柄な体格の雪苺にとっては憧れと同時に嫉妬の対象だった。特に成長期に入ってから、女子からも追い抜かれていくばかりの雪苺には目の毒だ。
だが、目を閉じてしまうわけにはいかなかった。雪苺もその容姿を噂でしか聞いたことはなかったが、おそらくこの人物が待ち焦がれていた相手に違いないと確信したのだ。
工藤剛。東第二中学の頭を張っている人間だ。その腕力は圧倒的にして残虐そのもの。彼が一年生のころ、東第二中学三年生の不良グループが絡んできたのだが、その全員が素手で病院送りになった。その伝説は二年経った今でも色あせず、『東の鬼神』、『虐殺魔』、『撲殺魔人』様々な異称で装飾され畏怖されている人物だ。
そして噂が噂を呼んだ今では、『ヤクザも避けて通る』『すでに三人殺している』といった冷酷無常な究極生物と化している。
――それなのに。
雪苺は何度となく目をこすった。嘘だと思いたかった。ただ、残念ながら幻覚でないことがはっきりしただけだった。
剛の足もとには、連れ添う二匹の生き物があった。それぞれの首輪にリードが付いていて、しっかりと剛の手に握られている。珍種、希少種ではないが、たぶん飼い主のせいで物珍しく見える。
連れているのはチワワと黒猫だった。決して『撲殺魔人』が連れて歩いていい生物ではない。いや、それよりも。
(猫にリードつけて散歩? なんか猫嫌がってるけど)
とりあえず雪苺は心の中でツッコんだ。
舌をだしながら嬉しそうにしている犬はまだいいとしても、猫はなすがままに背中から引き摺られていたのだ。一切抵抗の影が見えないその状態は、どこか猫ライフを諦めた観があった。
しかし、雪苺は我に返った。
(違う違う。間違ってるぞ。ペットなんかどうでもいい)
そう雪苺の本来の目的は剛自身にあるのだ。
あれほどのガタイをしておきながら、脆弱ということは考えきれない。だとすれば、久方ぶりに血沸き肉踊る一勝負が待っている。
雪苺の血がたぎっていた。抑えきれない欲情が、すでに血の匂いを嗅ぎつけ、はけ口はすぐそこだと興奮して、誰かが烈火の如き形相で怒号を叫び続けている。
殴り殴られ、血を吐かし吐かされ、ただひたすら、わがままに、乱暴に、傍若無人に振舞う、甘美な暴力に彩られる排他的世界。
そこに今から踏み入れることに歓喜を覚え、雪苺は舌なめずりしながら、剛に歩み寄る。
「あんた、隣町の第二東中でトップ張ってる人だよね。俺と遊ぼうよ」
一見爽やかにもとれる微笑だったが、雪苺の目元はまったく笑っていなかった。刺すような殺気が小柄な体から放たれている。台詞自体には棘がなくとも、発音の仕方に邪悪なものが潜み、必然的に相手の危機察知能力を刺激するものだった。
破壊はいつだって突然だ。
仮に相手が逃げるなり、詫びを入れるなり、断りをいれるなりしても、雪苺はみすみす逃がすことなどもう有り得ないが。
殺したい。
それだけだ。頭の中にあるのはそれだけだ。
「うぬ? それは、わしに言ってるのか」
「ああ」
すでに雪苺は臨戦態勢だった。すでに、刀に手を触れているような状態だ。後はいつどこで刀身を抜き、刃を煌めかせるかだ。
剛も臨戦状態にあるはずだと踏んだ雪苺は、一挙手一投足に目を見張る。
「ふむ、別に構わんが……」
剛は腕を組んで思案気に唸った。この時点で雪苺の背は丸まり、体が前のめりになっていた。
「こいつらを遊ばせてからでいいか」
力の配分が崩れた雪苺は前につんのめった。
というより、よく意味がわからなかった。しかし、声高く吼えるチワワにより意識を取り戻した。だから、考えをまとめた。いや、後先を考えずに半分どうでもよさ気に結論をだしてしまった。
「い、いいけど」
なんだか毒気が抜かれた気持ちのまま雪苺は答えた。剛は懐からフリスビーを取り出した。武器を取り出すかもしれないと疑っていた雪苺だったが、どうやら剛の話は嘘ではないらしい。
「ガッハッハッ、行くぞ、ポチ、タマ。ウォォォォシャァァー!!」
雪苺は目を疑った。剛がフリスビーを投げた瞬間、宙にあったフリスビーが、瞬く間に霞んでいった。実物より何倍も小さい寸法になったのを、雪苺は遠目で確認する。三百メートル以上も滑空して、しかも公園を飛び越して川の方へ落ちたようだった。
一方、それを取りに行かされる二匹のほうとなると。
まず、意気揚々と走り出した犬のポチが急ブレーキをかけた。大きく黒みがかった瞳をことさら大きくして、バッと剛に振り返った。しきりに無理と訴えているようだった。
「どうした、ポチ。さあ、取ってくるがいい」
純粋な笑顔だった。純粋な笑顔でせかしていた。
(こいつ、マジだ。マジで言ってやがる)
ポチは意を決して、フリスビーが落ちていった方向に走っていった。
満足げに剛は頷いているわけだが、目下の対象動物を見て頭を掻いた。
「しかし、タマはたるんどるな。そんなんじゃあ町内一の立派な雄猫になれないぞ」
(猫がフリスビー追ってたまるかよ)
タマは横たえたままだった。脇腹が動いてなければ、ひょっとしたら死んでいると勘違いしそうな様子だった
「ふむ、すまんがお前、タマを見ておいてくれ。わしはポチの方を見てこよう」
『ガハハハ』と豪快に笑いながら剛は、雪苺にタマのリードを渡した。否応なしだった。あっという間に、雪苺と剛との距離が離れていく。巨体に似合わない快速だった。ひょっとしたら、全身の筋肉が瞬発力に優れているのかもしれない。
だが、今はそれよりも身に迫る問題があった。
雪苺は下を見やった。息も絶え絶えのようなタマと目が合う――が、一瞬で顔をそむけられた。もう、どうにでもしてくれと言わんばかりだった。
(猫としては哀れだな)
雪苺が同情のため息をついていると、心臓が跳ね上がるような大声がした。
「裕次郎、何してんだよ!!」
見ると、公園をぐるりと囲んだ茂みの一角で、ダックスフンドを連れた男が怒声を上げていた。三十代くらいの男はリードを引っ張って、無理やり乱暴に茂みからダックスフンドを這いださせた。
(まあ、飼い主にしても色々あるか)
しかし愚行はそれだけではなかった。
異常な鳴き声が響いた。
飼い主が愛犬を蹴り飛ばしたのだ。
雪苺はその光景を荒んだ目で眺めた。
(虐待の常習犯かな。まあ、悪い星の下に生まれたと思って諦めるしかないな。俺には関係ないしな)
雪苺は知らん振りを決め込んだ。縁もゆかりもない犬のことだ。それに、雪苺は生まれてこのかた博愛主義を主張したことなど一度もない。どこぞの見ず知らずのペットが百万匹死のうが、百億匹死のうが、別にどうってことはなかった。
もし、そうでなければ、名の通った不良たちに喧嘩を売るなんていう行動などするわけがない。やさぐれた人間が動物に対しては心優しいというのは旧石器時代の話だ。雪苺は日常的なストレスや、社会への鬱憤を晴らせることだけしか求めていないのだ。誰かを、何かを、守るために拳を振るうなど、雪苺には到底考えられなかった。
飼い主の腹立ちが紛れないようで、さらにダックスフンドの横っ腹を蹴り続けていた。それと共に断続的に、耳に障る鳴き声が続いた。
雪苺は目を細めて、公園の街灯を見上げていた。家を模したガラスケースの中に電球が入っていた。少し珍しいタイプの街灯かもしれない。
キャンキャンキャン!!
だが、あいにく太陽が輝いていて、電灯が点いても光度はわからないだろう。いや、市長が地方債で四苦八苦している時期に、そんな無駄遣いをすることなど……
キャンキャンキャン!!
そもそも、市長の名は何だったのかさえ……
キャンキャンキャン!!
「おい、てめーそのへんにしとけよ」
瞬間的に雪苺はドスの利いた声を発していた。
(……ちっ、くそ、何で)
怒りに対する戸惑いが雪苺の中で拡がった。無関係を装うとしていたのに、これでは矛盾している。なのに、答えが見つからない。しかし、相手方は待ってはくれなかった。雪苺の容姿を確認したあと、勝てると踏んだのか、眉を吊り上げながら堂々と雪兎に近づいてくる。雪苺は外見上、相手に舐められるのは常であり、逆に凶暴な内面で補正をかけていたのだが、この瞬間ばかりは容姿と内側が同調した。
漠然とした不安、それにともなう虚脱に襲われる。
ただ、自分から喧嘩を売っておいて取り下げるなど、雪苺は自分に許しはしない。仮に不本意であっても受けねばならないだろう。
怖れを抱いたまま勝てるのかどうかはわからないが、雪苺は身構えた。
しかし。
「待たれい。そこの御仁」
廃れた公園に珍しくも新たな登場人物があらわれた。しかも、それは特殊でなおかつ一団だった。ヒーローものの色分けされた仮面を被り、これまた色分けされた全身タイツを着込んでいる。
雪苺の頭が良くも悪くもリセットされた。もしくは、状況判断に全てが注がれただけなのかもしれない。
(なんだこれ。五人いて五色ってヒーロー戦隊か)
雪苺が不可解そうな顔をしていると、五人組は扇状に組み体操をした。
「我ら、過激派動物愛護団体 アニマルズ」
レッドのリーダーらしき奴がそう名乗った――からといって、雪苺も男も何らかの反応を起こすことはなかった。
「ワンちゃんの鳴き声を聞きつけて来てみれば、そこの男、貴様先ほど犬を蹴り飛ばしていたな。断じて許さんぞ。万死に値する」
ピンクが喋ったのだが、声色からして確実に男だった。雪苺は奇妙な浮遊感を覚えたが、そんなことはすぐにどうでもよくなった。
突如として五人組は男に襲いかかったのだ。しかもヒーローにあるまじき戦術――袋叩きだった。隠し持っていた警棒を全員が手にしている。もし、ジャンル分けすれば確実に悪党だろう。
「ジャスティス! ジャスティス! どうだジャスティスソードの味は、フハハハハハ」
血に染まった警棒をかかげて、レッドが叫んでいた。
しかし、男のダックスフンドが吠え始めた。若干位置が遠かったようだったが、主人を守ろうと明らかに敵意を剥きだしにしていた。
「おおお。見るんだ。これが犬の忠誠心というものだ。どんな虐待にも屈せず、飼い主を信じる心。実に尊きお姿だ」
五人はダックスフンドを拝み始めた。
(――帰ろう、危ない人たちだ)
雪苺はそう思ったのだが運が悪かった。
「待ちたまえ、君」
雪苺は肩をつかまれた。レッドの奴だった。
「さっきの注意よかったよ」
なぜかフランクな感じで話しかけてくる。
「はあ、そうですか」
注意というか、喧嘩をふっかけただけだったような気もするが、雪苺は頷いた。
「どうだい、うちのメンバーに加わらないかい。いいよーうち、人を凶器でぶん殴るってのは気持ちがいいも……ゴホン! ゲフゲフッ、いいかい、愛犬家のために泣く泣く飼い主に罰を与えるわけだが、それは崇高なる目的のためなんだからね。どうだい、こんな我らとぜひ活動をともにしないか」
「いいえ、僕間に合ってますんで」
「そっそんな、新聞の勧誘断るみたいに。そうだ、第一撃目は君に譲るから。頼む君という存在が必要なんだ。ピンクを見た時点でわかっただろ」
「いいです」
(趣旨が変わっとる)
早々にその場を立ち去ろうとしたら、雪兎の手の平に、軽く尾を引く感じの手ごたえがあった。雪苺の内面では顔を両手で覆っているような精神状態だった。
(そうだったよなぁ)
「うん?」
レッドが疑問の声らしきものをあげた。途端に、雪苺に対するレッドのアプローチが弱くなった。レッドは顎を胸元に引いて何かを見ているようだった。確実にある物を見ていることだろう。
仕方ないので、雪苺も短く疑問の声を上げる。こうなれば、成るように成れというやつだった。
「ん?」
まるで、どうかしました、といった具合のにっこりとした笑みをする。まるでおかしいのはお前のほうだと言わんばかりだった。
しかし、相手はめげるどころか、気にすることもなかった。
「きききっ君、猫をリードで繋いで、挙句の果てに引き摺り回すとは、なんとむごい拷問を」
「えっ拷問? ええ!?」
雪苺は芝居がかった調子で、自分の周りを見回す。それから最後に、視線を下にいる猫に向けた。
「あっ、ああ〜、なるほど。この猫のことですか」
雪苺はぽんと手を打ってから、またもやにっこりとした笑みをつくった。
「ああ〜、ではない!! せっかく有望な団員を見つけたと思ったのに、これでは君にも制裁を与えなければならないではないか。我々はどんな差別もしないのが鉄則なのだよ」
残念がっているはずなのに声が高揚気味だったのは、雪苺の聞き間違いだろうか。
しかし、雪苺も馬鹿ではない。少なくとも動物愛護を隠れ蓑にする暴漢魔たちよりは。
「いえいえ、誤解ですよ。実はこの猫、最近内臓脂肪が付きすぎて、獣医さんにダイエットするように言われていたんです。でも家から外に出たがらない性分をしてまして、こうして僕が健康のため無理やり外へ散歩に連れだしているんですよ。まあ、引きずってはいますが、家にいるよりはカロリーが消費されると思いますよ」
長台詞だったが一度たりともかまずに、おまけにまくしたてることなどもせず、ごく自然なリズムで言いきった。雪苺も内心、自分自身でびっくりしていた。
「ぬぬっ……そうなのか。それは、それは、ご苦労様で」
なぜか、今のほうが残念そうに聞こえたのだが、雪苺は気のせいだと自分に言い聞かせた。
「ええ、それではご機嫌よう、皆さん。活動の方頑張ってくださいね」
(本当、今日ロクな奴に会わねー)
雪苺は心底辟易していが、同時にそこからの解放感に安堵の息が漏れた。早く家に帰って今日という日を忘れてしまおう、雪苺はそう思っていた。
「おーい、待たせたな。わしのタマはいい子にしていたかー。ガッハッハッ」
無遠慮で馬鹿みたいな声が聞こえるまでは。
「いったいどういうことだ?」
レッドが雪苺に尋ねてきた。
(いったいどういうつもりだ?)
雪苺は剛に尋ねたかった。
が、聞けるわけもなく、どうしようかと思案する。だが、この一瞬の隙に、筋肉馬鹿が口を開いた。
「いや〜すまんな。随分とポチのやつが手間取ってしまってな。タマを預かってくれて、ありがとう」
豪快に笑う剛を、雪苺は殺してしまおうと考えていた。が、そんな余裕はないらしい。警棒を手の平にポンポンと打ちつけながらレッドが話しに入ってきた。
「となると、そっちのタマという猫は、そっちの筋肉ムキムキ君のものなんだね。じゃあ君、 さっきの話をもう一度聞かせてもらいたいもんだね」
(まだ大丈夫、まだ大丈夫。どうとでも回避できる)
雪苺は必死に自分に言い聞かせて、頭をフル回転させた。
――しかし。
「リーダー!! 見てください」
ピンクが男でも類を見ないような野太い声で騒ぎ始める。指でさし示したのだが、その方向にいたのは。
……ポチだった。体をびしょ濡れにしてヨタヨタと歩き、その場で力つきて横に倒れた、ポチだった。
「これにはですね、深い訳というものがあってですね」
「なんとういことを。もういい、二人とも同罪だ!! やってしまえ」
レッドは話も聞かずに判決を下した。
(俺は関係がねえーちゅうに)
雪苺が弁解しようにも、相手は博愛精神にかこつけて暴力を振るうものどもだ。話し合いで解決する確立は稀薄だった。
じりじりと奴らは、詰め寄ってくる。雪苺は闘いを覚悟した。拳を軽めに握り、足のつま先に力を入れて即座に反応できるように整えた。
それなのに、警棒を持った相手が一向に動かない。尻込みしたというのか。確かに向こうの肩が震えている。しかし、どうにも彼らの視線は雪苺を捉えていない。むしろ、その背後にあるような気がしてならなかった。
「グォォォォ」
一瞬、雪苺は剛が雄叫びを捻りだしたのかと思った。しかし、どうにも人間の声帯では出しえないような重低音があった。地獄の底から湧き上がってくるような畏怖を覚える類の鳴き声だ。
雪苺は嫌な予感がした。頭の中でサイレンが鳴り響いている。
が、振り返らない訳にもいかない。
雪苺は恐る恐る首を斜め後ろに回した。
「グオオオオ!!」
咆哮だった。口腔は鋭く尖った牙が並ぶそいつは、舌の奥からすさまじく空気を震わせる音を発していた。
(じょ、冗談だろ)
雪苺の目が飛び出しそうなくらいに開かれた。
「ぬぅタマ大きくなったな。男子三日会わずば活目して見よというが」
(ち、違げーから、それタマじゃないから)
雄々しいたてがみと、獣特有の強い匂い、それに鋭利な爪、もうこれは間違いがなかった。というより、どこをどう見れば、タマに結びつくのだろうか。
雪苺よも先に声を荒げる一団がいた。
「ラ、ライオンだー!! 本物だぞ」
「もしかして、脱走したやつじゃないのか」
パニックに陥ったアニマルズが声を錯綜させる。
雪苺はそこに混じることはなかったが、脳内ではアニマルズの推理に同調した。
そして、残る一人は。
「ガッハッハッ。違う違う、これはわしのタマだ」
完璧に見当はずれだった。
(百パーセント、ライオンだと思うが?)
しかし、根拠の見当たらない宣言は放って置いといて、雪苺は本物のタマを見た――いや、正しくは見ようとした、だ。
なぜなら、そこにはタマが居なかったからである。
どうやら、あまりにも驚きすぎてリードを離してしまったのだと雪苺は理解した。だとしても、それではタマは一体どこに?
雪苺は公園内をぐるりと見回した。すると、爆裂に土煙を上げて疾駆するタマが目に入ってしまった。主人のことなど一切振り返りもしない。一瞬、ライオンに恐れを成したと考えたものだが、恐らく違う。距離はすでに取っているはずなのに、速度が一向に緩まない。
(いや、あれはあれで幸せなのかもしれない)
雪苺は一考した。犬は主人と共にあるのが幸せだが、猫にとってはそうとは限らない。むしろ、真っ直ぐに道を突き進むほうが、タマにとっての幸せなのかもしれない。
不思議と今のタマは活き活きとしているように見えた。これならば、立派な猫ライフを取り戻して、野良でも生きていけることだろう。
(行けタマ。自由と尊厳のために、ひたすら突き進め)
雪苺は応援していたが、我に返れば、自分には自由も尊厳すらも無に帰す死がすぐそこに迫っているのを思いだした。
確か、それは朝のニュースのことである。いくら脱走したからといって、そんな目の前に現れるなど雪苺は思ってもみなかった。
しかし身近で接近してみると、百獣の王たる根源を思い知らされる。威圧というか殺気そのものが一つの殺傷武器といっていい。
そして、射竦められた雪兎たちを差し置いて先に動いたのは、ライオンだった。何とレッドに頭から噛みついたのだ。
「ギャアアアア!!」
雪苺は耳を塞いだ。だが、隙間からゴリッゴリッという音が聞こえてくる。
(ハワワワワ。何も聞こえない。何も聞こえない)
レッドは手足をバタつかせていた。頭部がライオンの口に収まり、四肢が独自に動いているのは、何かグロテスクな生物の誕生を思わせる。
誰も助けに入らない。そもそもライオンとの仲裁に入るからには、大怪我を覚悟するかもしくは、弱肉強食の観点からいって、それ以上の強者でなければならない。いったい、地球上のどこに百獣の王者以上の人間がいるのだろうか。
雪苺はその場から逃げることを意識した。幸い同じような全身タイツがあと四体もいるのだ。レッドを狙ったからには、ライオンはそっちを標的にすることだろう。
しかし、唯一、人類史上始まって以来の危険察知能力が働かない男が、ここに一人いた。
「こら、タマやめんか!!」
ずかずかと歩いていく筋肉馬鹿。
(いや、わざわざ自分から)
止めようかと思ったが、足がうまく前に出てこない。いや、そもそも、なぜこの男を救わなければならないのかと、雪苺は疑問に感じていた。
あろうことか、剛はライオンの膝裏にローキックを放った。何を馬鹿な、雪苺は慄然としたが、尋常じゃない打撃音の後、ライオンの片膝が落ちた。ライオン自身もこれには驚いているようで、目が点になっていた。その証拠に咥えていたレッドの頭部を離している。
誰もが目を疑ったに違いない。人間がライオンに片膝をつかせるなど有り得ない。
しかし、現実に起こっている。それも目の前でだ。
(だから、信じる……いや信じないよ!!)
だが、とりあえず雪苺は頭を振ってライオンに視線を戻した。ライオンも茫然自失していたようだが、すぐに剛に視線を合わせようとした。
が、時すでに遅し。ライオンの視界に剛は映らない。剛の姿が見えていたのは雪苺たちだけだ。剛は巨体にも関わらず、体重を預けたり捻りを加えるなどして、ライオンの背中に圧し掛かり、あれよこれよという間に首筋に二の腕を回していた。いわゆるチョークスリーパーという技だ。
(いや、さすがにオトスのは無理だろ)
雪苺は信じたくなかったが、剛が一つ唸り声を上げた。丸太のような腕が、ライオンの喉を万力のように締め上げる。
ライオンの喉元からヒューヒューとカスれた空気音が響いてくる。
(できれば、ライオンからそんな声は聞きたくなかった)
雪苺はただただ唖然としていた。凄いはずなのに、なぜかあまりにも馬鹿馬鹿しく思えた。
「何て非常識な奴だ」
(確かに)
不覚にも雪苺は同意してしまった。
――仮面に牙の名残があるレッドに。
どうやら、被っている仮面自体が合金か何なのかは分からないが、耐久性は抜群だったらしい。かすかな穴とひび割れ程度で済んで、仮面内部は無事だったようだ。死人がでなくて安堵とした雪苺だったが、どこか残念な気がしてならなかった。
雪苺の予想通りというか、早くもレッドが周りの仲間に良からぬ指揮を執る。
「しかーし、我々はただで引くわけにはいかん。今回は、そこのワンちゃんを回収するだけで良しとしようではないか」
指を差された当のポチ自身は、息を整えるだけで精一杯だった。この場でアニマルズに応戦するのは、ただでさえ小さいチワワにはそもそも酷な話だろう。
肝心な化物のような飼い主は、百獣の王を絞め落とすのに手こずっていて、アニマルズの行動を阻止することができない。
アニマルズは指先をなめらかに動かして、一歩、また一歩と、ポチに近づく。愛想のきいた声でしきりに犬を呼び、彼らはがに股で擦り寄っていく。ポチを中心にして、円で囲い込む五色全身タイツの完全包囲網だった。およそ円の半径は二メートル。
危機を察したのか、ポチがわずかに首を持ち上げた。ポチのつぶらな瞳に自分の姿が鏡のように映りこんでいた。
(なぜ、俺を見る)
疑問。不可解。謎。どれだけ考えても、雪苺には思い当たる節がない。雪苺は一度たりともポチの名すら呼んだことがない。それなのに、今にも泣き出しそうな丸く見開いた目で、雪苺のことを見るのだ。瞬きすらしないその瞳は救いを訴えているようだった。
円の半径が一メートルに縮まった。もうアニマルズ全員の手が届く範囲だ。
ポチの視線は乱れない。一心に雪苺の瞳と視線を繋げたままだ。しかし、光沢のある艶やかな漆黒の瞳が、間に入ったアニマルズの手と重なって見えなくなってしまう。あと数秒で、ポチは新しい飼い主を得ることになる。
犬のことだ。力や環境に従順な性質を持ってすれば、一ヶ月でアニマルズを受け入れることだろう。
そういうものだ。人間も犬もそんなものだ。しょせん、大差ない。
でも、だとしたら生きてるってなんだろうか。
「あ〜〜! もぅ!!」
雪苺が吼えた。
そして、誰かのくぐもった声。円形の包囲網に一箇所決壊が生じた。
「な、なんだ!?」
アニマルズが疑問の声を上げたとき、雪苺はグリーンが前向きになって倒れようとしているのをつかんで止めていた。
だが、時すでに遅し。雪苺はグリーンの手からポチをもぎとり、つかんでいた手を放した。グリーンが音を立てて倒れる。受身動作が一切なかったので、失神は間違いなかった。
雪苺は背後にポチを下ろしてやり、アニマルズに向き直る。しかし、その瞬間の雪苺の表情は別人だった。悪鬼の如き笑みで、アニマルズを一笑する。
「こいつは、俺が貰ったぜ。返して欲しけりゃかかってきな」
レッドが前に進み出た。しっかりと警棒を手にしていることから、この男の狡猾さが滲みでている。
「ふふふっ、あんな化物みたいな人間が相手ならいざ知れず、君のような子が――」
「御託はいいんだよ。かかってこいよ」
レッドの声を遮って雪兎は手招きする。そこには嘲笑があった。
「ぬぬぬぅ。馬鹿者め。それほど、このジャスティスソードの味を確かめたいというのか。……ふん、しかし、わたしも大人だ。そんな子供相手に無粋な真似はせんよ。ここは話し合いで解決しようではないか」
レッドが柔和な声で近づいてくる。その道中、警棒を捨てさりまでした。温和そうな立ち居振る舞いで、眼前まできた。
「――なーんてな!!」
レッドは背中から取り出した警棒を振りかぶった。用心深さの極みである二本目である。
仮面の内側から残虐性のある笑い声、対して雪兎は辟易したかのような笑みをつくる。
レッドが警棒とともに振り下ろす右腕、それに連動するかのように雪兎も右腕を上に挙げる。このままだと、警棒が雪苺の右腕に直撃する。それを予測したのか、レッドがさらに嗤う。下手をすれば骨にひびが入るだろう。そしてそれはレッドに甘美な達成感を与えることになる。
――もちろん、このままいけばの話だが。
雪苺は腰を落としながら、左足を左斜めに一歩だけ踏み込んだ。すると警棒の打撃接点が変わり、警棒を握る手首の下に雪苺の腕が接触した。しかも、雪苺の腕が邪魔をして、レッドは警棒をそれ以上振り下ろせない。
レッドの目論見は阻止した。だが、雪苺の瞳は冷たく、集中力をまだ切らしていない。
瞬間、レッドの警棒を持つ手を、蛇のような動きで上部から手を滑り込ませて握ってやる。それは衝撃を吸収するよりも前、いわゆるいなしと呼ばれる要領の手際だった。
見事な立ち回りに、レッドは驚きの声を上げる。しかし、彼はまた驚きの声を上げる必要があった。
すでに、雪苺はつかんだ右腕の外回りから、レッドの股下に左足を入れ体勢を崩してやり、即座に左手の拳を放っていた。
脇腹に弓矢の如き一撃――レッドからひき潰されたかのような蛙の声、雪苺は寸隙の間もなく再び側頭部に一撃放った。渾身の力が入ったものだった。強い衝撃音が響く。
そして、すぐさまにレッドと距離をおいた。雪苺は左手を幾度となく上下に振る。お粗末な話だが、すっかり忘れていたのだ。仮面が硬かったことを。
しかし、レッドのほうも無事ではない。攻撃の手を止められた状態で脇腹に入った一撃は、本来の二倍以上の打撃力を与えていた。レッドは立つのがやっとという感じだったが、苦笑していた。
「ふはっはっ、この……仮面は強化セラミックでぇぇ、でき……とるのだよ」
腰が折れているというのにレッドの強気は収まらない。どころか、彼は息を一度止めて、呼吸を整えた。そして、動きはぎこちないものの再び雪苺に襲いかかったのだ。
(根性はすげえな)
雪苺のほうは左手の甲を赤らめていて、今だに手を振っていた。捌き、受け流しなどの間接的な守りにおいては問題ないが、もはや拳としは使い物にならない。
だから気を遣った、というわけではないが、雪苺は横薙ぎに払われた警棒をしゃがみこんでかわした。
が、単にしゃがみ込んだわけではない。右足に体重を残し、体勢を低くしたまま踏み込んだ左足にその体重を徐々に移行。それから右足を突き上げる前蹴りを放った。見事なまでの三日月円を描いて、靴裏が天と向かい合う。その上空で浮かび上がるのはレッドの体だった。
仮面との境目である喉に狙いを定めて、踵で蹴ったのである。
強化セラミックが吸収する部分はあるだろうが、顔面に密着していたためすべては無理だ、瞬発性の衝撃に弱い頭部にはさぞ応えたことだろう。
地面に打ち付けられたのを見た雪苺は、高々と上げた右足を、四股を踏むようにして大地に打ち下ろす。尋常ではない地鳴りが轟き、湯気のように砂煙が立ち昇る。
「おいおい、こんなもんかよ。二人同時にかかってきたらどうだ?」
残りのブルーとグリーンが意を決したかのように、雪苺の前面に進みでた。彼らの決断はおおよそ正しい。だが、雪苺を相手にするに置いては間違いだ。
先に出していた右足の踵だけを地に着けて、つま先を浮かすという基本体勢から始まった雪苺の足捌きは見事というしかなかった。
瞬時に足の交互を入れ替えながら前に跳躍して、あっという間にブルーとグリーンの間に中腰で立っていたのだ。
狐につままれたような声がグリーンとブルーから漏れた。
無論、驚かせて終わりではない。雪苺の上半身の部位で二つだけ、遅ればせながらに、肩甲骨よりも後ろから滑空するものがあった。
千の時を超え、紡がれ、今に延々と受け継がれるる拳技。それらは、元来一つの技にしか過ぎず、単調に過ぎなかった。だが、原始から幾星霜が経つにつれ、武に従事するものたちは、あらゆる創造性をもちいてここに芸術に昇華されうるべき武の表現を描いた。
拳、刺、硬、破、掌、斬、払――
そして残るが、一つ。
――突。
まるで指の一つ一つが重厚な鋼の如き硬度で初めて可能とせしめる拳の指技。
雪苺の両手から十の指が直立したまま相手の腹部に狙いを定める。
左右に五指が二色に着弾する瞬時に、雪苺は下にあった親指が上になるよう捻りを加えてやる。
皮膚と内臓周りの肉の感触が指に絡みつく。
八仙皇俄拳流 雪苺式 泰山双破掌。
雪苺の我流ではあるが、効果は凄まじい。二人の動きは最初は何ともなかったのだが首をかしげた刹那、仮面内からくぐもった嘔吐音と全身の痙攣。横たえた後、彼らはあたりを七転八倒している。
「あと、六時間はその調子だぜ」
雪苺は快活に笑った。砂埃を巻き上げる音が響いた。逃げようとしている人が一人いるらしい。視線を向けると、ピンクが慄いた。
「おおおい、っちょっと、わっわっわたし――女の子なのよ」
無理のある裏声だった。
「お前は男だーー!!」
股間を蹴り上げた感触は、くにゃっという稀有なもので、ピンクが男だと立証された。ついでに言うと玉の一つの存在が薄れた。
「外見で人を見くびるからこうなるんだよ」
パンパンと手を払うように叩いて、雪苺は終わりを告げた。そして、大気を震わせる振音。五色の屍に新たな巨躯が加わった。
ライオンが舌をだらりと下げて白目を剥いていた。
(こいつ、マジでオトしやがった)
「う〜ん。タマは本当に強くなったな」
豪快な勘違いをして笑うその男を見て、いよいよ人間ではないと確信を持ち始めた雪苺だったが、不思議と恐怖はなかった。
「さて、用事もすんだし、タイマンをやるか」
雪苺は苦笑する。
「喧嘩ってやつは体格じゃねーんだよ」
雪苺は身構える。腕力においては絶望的、しかし、敏捷速度、攻防の回転率、急所の熟知、経験に次ぐ経験、雪苺が剛を這い蹲らせる方法が皆無なわけではない。
そう皆無ではない。
――なのに。
雪苺の拳が両脇にだらりと垂れ下がった。
「やーめた。今日はもうなんか疲れた〜」
手を後ろ手にして、ため息をつく雪苺がそこにいた。その反面、剛はむぅと唸った。
「やめるのか。残念だ。ところで、タイマンってどういう遊びだ?」
「はははは、やっぱりお前そうとう天然だよな」
機械的に白んだ笑いをして、雪苺はきびすを返す。公園を出て、感慨深いものが胸に咲いているのに気づいた。
妙な一日だった。疲れたし、嫌なこともあったが、不思議と嫌いじゃない一日だった。夕暮れ時、影が一層の濃淡を作り出し、哀愁の色づかいが、帰郷の念を生む。わびしい気持ちのなか、ありふれた脱力感を感じながら、雪苺は黄昏時を歩く。
「ガハハハハハ。タマ、お前体重も増えたの〜」
「って、おいっ!!何でついてくんだよ」
剛が白目を剥いたライオンを肩に担ぎながら、すぐ後ろを歩いてくる。
「わしも、家がこっちの方面じゃからの」
「そうかよ。それにしても、お前何てもの担いでんだよ」
「ふふっ、しかしこれでタマも立派にこの一帯をしめるボス猫になれるぞ」
「お前、凶暴な外来種を入れて、猫の生態系を勝手に荒らすんじゃねえよ」
「むう、タマ!! もう重い!! ちゃんと自分の足で歩け」
剛が気絶したライオンを地面に叩きつける。ただならぬ重量と衝撃に土煙が舞う。
「聞け! 俺の話を。いや、そもそもそれタマじゃねえからな、ぶん投げるなよ。動物園に連れてってやれよ」
「動物園か……」
「そうそう動物園だよ。それでタマのことは最初からいなかったと思え」
「ぬう、どうしたお前。胸を怪我したのか。なにやら腫れているようだが」
「きゃーーー。変態、馬鹿、クソ、さわんじゃねえよ。胸にさわんじゃねえよ」
「いや、わしは怪我をしていると思ったんだが。それより、顔が真っ赤だぞ。熱もあるんじゃないか」
「はあ、はあ、いつかその天然さで死んでしまえ」
「ふむ、よくわからんが、それで動物園に行くのはいつにする」
「いつの間に、俺がお前と動物園に行くことになってるんだよ!!」
「ぬっ、タイマンしない代わりに、遊びにいくのではないのか?」
「行くわけねえだろ。何で、俺がお前と行くんだよ」
「そうか……嫌か。残念だな」
「なっなんで、そんなに落ち込むんだよ。気持ち悪いぞ」
大きな影と小さな影が地面に斜めに移しだされていた。すべてはオレンジの夕日の思うままに、すくい取られてしまう。
ありふれた居間の情景。小柄な老人は新聞紙を虫眼鏡で食い入るように見やり、雪苺の母はシワ一つないように服を伸ばしてアイロンがけをする。
その空間を壊すようにふすまが開けられる。雪苺は他人行儀に足を忍ばせる。そして、母親が鼻歌混じりにアイロンを滑らせている様を、おぼつかない瞳で眺めていた。だが、急にこのままではいけないと思ったのか、母親の意識に言葉を割り込ませる。
「お母さん……」
「うん、何? どうしたの雪苺?」
いつも通りに振り向く母親。しかし、雪苺にはいつも通りの態度ができない。
「あのさ……」
意を決したのにその先が続かない。雪苺は畳に人差し指で『の』の字を書いた。顔が上を向かない。
「どうしたの? なにか今日あったの」
「いや、そうじゃなくて」
雪苺の声は消え入るかのようだったが、それでも何とか言い切ろうと必死だった。顔から汗が滝のように湧き出る。
「この前……さ。お母さんが、スカート買ってきたじゃん。ミニのやつ。あれっどこやったっけ?」
「あれって――雪苺が『スカートなんざ着るわけないだろ』って言って、自分でハサミで切り刻んだじゃない」
途端に雪苺の顔から血の気が引く。それまでの朱に染まった顔が、見る見るうちに失意のどん底に沈む。だが、すぐにそれは追い払われ、雪苺は仮面を被った。
「そっか、そうだったね。忘れてた、エヘヘ」
笑顔だったが、それは痛々しい涙目の笑顔だった。雪苺は別れをぽつりと呟き、立ち上がった。
「ちょっと雪苺。そこ座りなさい。何があったの?」
雪苺はためらっていた。言うべきか言わざるべきか、しかし、観念したかのように重い唇を動かした。
「今度さ。動物園に行くことになってさ。それで、あれ着けて行こうかなって……」
「まあ!」
「なぬっ!」
一方は両手を合わせて目を輝かせ、一方は新聞をびりびりに引きちぎった。両者ともにもじもじしながら話す雪苺に何かを感じ取ったようだ。
「それじゃあ、今から一緒に洋服を買いに行きましょう。夢だったのよ。雪苺とウィンドウショッピングをするのが、もう本当にお母さん嬉しい。ブラも買いましょうね、寄せて上げるやつ。あっ美容院にも行かなきゃ」
「ならんっ! そりゃあ、わしだって雪苺の女の子っぽい姿を見たいけど、どこぞの馬の骨なんぞに雪苺を取られてたまるか。その男、道場に連れてくるんじゃ、うっかり殺してやる。でも、その前にわしもショッピング連れて行って。雪苺のかわいい姿が見たいよおおおぉぉ〜」
母親が老人に舌を出す。
「駄目ですよ。おじいちゃんが雪苺を修行漬けにしたから、男の子っぽい性格になったんですからね。こういうときは私一人が――楽しみますもんね」
「そっそんなあ〜」
そう言って、母親は軽く身支度を整えて、小動物のように不安がる雪苺を連れ出してしまった。
フェミニンツイードワンピース(白)、フラワー型バッグ、レトロリボンパンプス。
ドキドキしても金曜日。それまでに心臓が張り裂けそう。でも、きっとなにもかもうまくいく。鏡を見ながら自分の唇にリップを塗って願うだけ。
決戦は金曜日。
質問。
なぜ、ドリカムなんですか。
私にもわかりません。