2話
「って、ナナかよ。びっくりしたぜ、なんでこんなところにいるんだ?」
「驚かされたのはわたしですし、先に質問をしたのもわたしです」
ナナはずんずんと進んで距離を詰めてくる。
とてつもなく端正で美しい顔が、至近距離から俺を見上げてきた。
信じられないほど大きくつぶらな瞳は、深く濃いサファイア色をたたえている。
背中まで伸ばした髪の毛は光沢を放つ淡い水色で、髪型は清楚さと高貴さを兼ね備えたハープアップ。
俺より四つ年下の一八歳だが、小柄で華奢な体型のため実年齢よりいくぶん幼く見える。
ただしスタイルは良く、細身ながら出るところはしっかり出ていた。
身につけている衣服は派手さのない軽装だが、素材も仕立ても超一級品のオーダーメイドだ。
彼女の正式な名前は、ナナステラ・ユーリア・フォン・グランアルス。
その名が示すように当代の皇帝、デュオノクト・フェブルウス・フォン・グランアルスの実の妹だった。
「その装いと荷物……まさか本当に帝都を発つつもりなのですか?」
「そうだけど――って近っ!?」
ナナはさらに俺へと顔を近づけた。
いつも無愛想で表情の変化に乏しいナナだが、付き合いの長い俺にはわかった。
今のナナは怒っていた。それもかなり激しく。
「信じられません。わたしにひと言の断りもなく、どこか遠くへ行ってしまおうだなんて……! リヒトは、リヒトはわたしのことなんてどうでもいいんですかっ……!?」
「ちょっ、落ち着けって。どうでもいいわけないだろ。ちゃんとナナには出発前に挨拶していくつもりだったって!」
「そ、そうだったんですか。だったらいいです。ひとまずは許してあげます」
少し機嫌を直してナナは俺から顔を離した。
その頬がほんのりと赤らんでいたのは、がらにもなく興奮したせいだろう。
「それはそうとこの家、警備という名の監視でどこもかしこも見張りだらけだってのに、よく入ってこれたな」
俺との接触が許可されたとはとうてい思えなかったが、
「冬眠してもらいました」
ナナはさらりと告げた。
皇帝の妹にして超一流の魔法騎士でもある彼女にとって、そのていどは朝飯前だった。
まあ、能力的にできるからといって、心理的に実行できるかどうかはまた別の話なのだが。
「なあ、ナナからもデュオのやつに言い聞かせてやってくれよ。精霊への祈りを一日でも欠かしたら帝都全体に影響が出るってな」
「言ったところで無駄でしょう。兄様は……変わってしまわれましたから」
「やっぱナナから見てもそう思うか?」
「明らかです。以前の兄様であれば、大神官の廃止などという愚挙は間違ってもなさらなかったでしょうし、友人であるリヒトにこんな仕打ちをするはずもありません。それなのに……」
ナナの瞳に寂しさと憤りが去来した。
「リヒトだけではありません。わたしに対してもです。以前の兄様はわたしの婚姻に関して、皇帝の妹という立場を気にせず本当に好きな相手を選んでいいと言ってくれました」
そこでナナは俺に目配せを送った。
いまいち意味は掴めなかったが、とりあえずうなずいておく。
「とてもうれしかったし、すごくたのもしかったです。それなのに、それなのにですよっ! 先日、兄様は突然わたしになんの相談もなく、勝手に結婚相手を決めてしまったのです!」
「えっ!? ナナお前結婚すんの? 誰とっ?」
「知りませんっ! わたしに求婚する予定の貴族の子弟が二〇〇人以上いるから、その中から選べと兄様は仰っていましたけれど!」
「に、二〇〇人ってすげえな。でも、そんだけ人数がいたら一人くらいはナナのお眼鏡にかなうやつが――」
「絶対にいませんッ! だってわたしは――ッッ!」
ナナは俺を見つめてなにかを言いかけ、急に顔を真っ赤にして口を閉ざしてしまった。
「おーい、ナナ? わたしは、のつづきは?」
「と、とにかくですっ! いきなり結婚相手を決めろだなんて、信じられないし許せませんよねっ? リヒトだってわたしがどこの馬の骨ともつかない輩と結婚するのは嫌でしょうっ? そうですよねっ!?」
「いや、貴族の子弟なんだから、どこの馬の骨ってことはないと思うが……」
ものすごい目つきで睨まれ、慌てて俺は付け足した。
「も、もちろんナナが望まない相手と結婚するのは大反対だぜ! デュオのやつもひどいことしやがるなぁまったく!」
「反対してくれるのですねっ? ということはリヒトは少なからずわたしを大事に想ってくれているということですよねっ!?」
「ああ。ナナは俺の大事な友達だからな」
「と、友達、ですか……」
勢いこんでいたナナが、急にしゅんとしおれた気配を見せた。
「えっ、あれっ? と、友達で間違ってない……よな?」
「は、はいっ! 今のところは大事な友人どうしです! 間違いありませんっ!」
「ふぅ、よかった。もう友達じゃないとか言われたらどうしようかと思ったぜ」
俺はほっと胸をなでおろしていたが、どうしてかナナはいたく不満げに頬を膨らませていた。
「なんにしても、兄様が用意した縁談などすべてぶち壊してやりますから」
ナナは一歩も譲らない気構えで鼻を鳴らした。
「ところでリヒトはどうなのです? 帝都を出て行くあてはあるのですか?」
「いや、もちろんないけど」
俺はのんきに答えた。
「一週間も経てば、俺の言ったことが本当だってみんな嫌でも理解する。そうなったら後はどこでなにをしてようが、向こうから呼び戻しに来るだろきっと。それまでは気楽な物見遊山の旅としゃれこむつもりだぜ」
「リヒト、それは楽観視がすぎます」
ナナはため息をついて言った。
「そんな道理や常識が通用するなら、そもそも国外退去を命じられる事態にはなっていないと思うのですが」
「そうは言っても、現実はどうやったってねじ曲げられんだろ。帝都から日に日に魔力が枯渇していくっていう現実はな」
「であればよいのですが……」
ナナは部屋の外に意識を向けて、
「そろそろ見張りの方々が冬眠から目覚めるころです。リヒト、今夜はこれでお暇しますね」
「ああ、じゃあなナナ。来てくれてありがとう。しばらく顔を合わせることはないだろうけど、そっちはそっちでがんばってくれ」
「どうでしょう。再会にはそれほど時間がかからないかもしれませんよ?」
意味深な言葉を残してナナは去っていた。
◇◇◇
翌朝、まだ薄暗さの残る時刻に俺は自宅を出た。
所持品は一頭の馬と、馬体にくくりつけた最低限の荷物のみ。
もちろん見送りはただの一人もいなかった。
出発した直後、俺は背後を振り返る。
そこにはグランアルス帝国の中枢である宮殿と、祭祀場の根幹をなす魔導樹「ビフロスト」の威容がそびえ立っていた。
とりわけ魔導樹の全高は二〇〇メートルを超え、帝都のどこからも目にすることができた。
大神官に任命されてから四年間、一日も欠かすことなく通いつめた場所。
今すぐあそこへ駆けこんで祈祷の儀式を始めたいという衝動が湧いたが、ぐっとこらえる。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、俺は馬に乗って速歩で走らせた。
帝都オルファンは魔法文明に満たされた都だ。
街の外周部には巨大なドーム型の特等魔導炉が合計一三基も設置され、そこから昼夜途切れることなく潤沢な魔力が送られてくる。
帝都に住む大多数の平民は魔力を持たず魔法を使えない。
それでも魔導炉から供給される魔力と各種の魔道具を利用することで、存分に魔法の恩恵に与っていた。
火を起こすのに薪を集める必要はないし、井戸から水を汲んで桶で運ぶ必要もない。
どんな季節でも各家庭内は快適な温度が保たれ、作物を育てるために土を耕す必要もなかった。
けれどそれらすべては、日々の精霊への祈りによって支えられている。
その事実を知る帝都民が、果たしてどれだけいるだろうか――?
「なあおい、あんた。もしかして元・大神官のリヒト・スメラギか?」
大通りを進んでいたところ、労働者らしい中年男に声をかけられた
「そうだけど?」
「やっぱりそうか! くたばれこの詐欺師野郎っ!」
男は突如、鬼の形相になって、俺へと石を投げつけてきた。
早朝とはいえ、天下の往来での凶行。
少なくない人が目撃していたが、男を咎めようとする者は一人もいなかった。
俺に対する同情的な視線さえ一つも見つからない。
(これが今の世論ってわけか)
知らぬ間に大衆の情報操作も完了していたらしい。
諦めの感情をいだきながら、俺は手綱を引いて馬を駈歩にした。
「お前の悪事もこれまでだ!」
「二度と帝都に戻ってくるんじゃねえぞ!」
「無駄飯くらいの役立たずが! その立派な馬だって俺らの税で買ったんだろうが!」
投石の射程距離外となったあとも、罵声はしばらく飛んできた。
「駄目だなこの街。きついお灸を据えてやるのもやむなしだぜ」
俺は馬上で深い嘆息をせざるをえなかった。
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