声を借りるもの
ある真夜中のこと、僕は顔を引っ張られるような感じで目が覚めた。
(昨日は誰かうちに泊まってたかな? ていうか誰やふざけてんのは)
痛くはないが、くすぐったい。寝起きでぼんやりした頭で『誰や』と叫んだ。いや、叫んだはずだった。
(あ、あれ? しゃべれん……?)
起き抜けで声が出ないという類いではない。唇や舌、喉という器官そのものを無くしたように、声を出すという動作そのものができないのだ。元来、のんびりやの僕も流石にパニックになった。
(いったい何がおこったんや)
目を見開き、辺りをぐるりと見回す。と、部屋の隅で動く影を見つけた。大きさや動きからして、人ではないようだ。
(鳥……? 鳥やなあ、あれ)
大きさからみるに、カラスのようだった。どこか開いてて飛び込んで来たのだろうか。上京する前に住んでいた故郷を思い出した。寝苦しい夜などに暑さに負けて窓を開けていたら、野鳥などが飛び込んできたものだ。ああ、都会でもそういうことがあるのだなあと、自分の置かれた状況も呑気に忘れて、やや感動すら覚えていると、突然、その影が僕の方へ向かい、
『心配いらないですよ。ほんのいっとき、借りるだけです』
しゃべるその声は、僕のものだった。
『あなたの口を借りましたが、ちゃんと返しに来ますから』
口を借りる? その言葉に、恐る恐る顔を撫でてみる。鼻から下、口があるべき部分は卵のようにつるりとして何もなかった。
『では、明け方近くには戻ります』
呆然とする僕を尻目に、そいつはゆっくりと翼をひろげ、どこへともなく消えていった。
(まいったなあ……)
今の自分の顔を想像してみた。口だけがない顔は、どうにも間抜けで仕方がない。それに、
(もしもずっとこのままやったら……どうやってご飯食べよ……?)
とりあえず、早よ返してくれ。
翌朝、僕は起きてすぐに顔を撫でてみた。
「あ、良かった。口あるわ」
もとの顔だ。ちゃんとしゃべることもできる。
「えらいリアルな夢やったんかなあ……でも」
喉がひりついて、舌が重怠い気がする。
「あの鳥、僕の声で一晩中しゃべってたんやろか」
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、口に出してみた。まあ実際は、風邪をひいたに違いないけども。
それから一週間ほどたった頃、職場の同僚から変なことを聞いた。
あるペットショップに、僕そっくりの声で話す鳥がいるというのだ。場所や店の名前を聞いてみたが、行ったこともないところだった。第一、僕はペットなんて飼ってないし、これからも飼うつもりもない。僕には無縁の場所だ。
「お前、結構声に特徴あるからなあ」
「でも、そんなとこ行ったこと無いで。……なあ、その鳥って、もしかしてカラスみたいなやつ? 一週間くらい前に、変な夢みてな」
不意に、あの夜のことを思い出し、同僚に話してみた。
「カラス? 違う違う。普通のオウムやった。派っ手な色のな。ま、興味わいたんなら一回行ってみ。ホントに似てるから」
あの夜来たのは、そのオウムだったのだろうか。
「いくら寝ぼけとったとしても……カラスとオウム間違うやろか?」
首を捻る僕に、同僚が言った。
「お前の言ってるの、九官鳥と違うか?」
ますます間違うかいな。あんなでかい九官鳥、いてたまるか。
その日の夜のこと。また、顔を引っ張られる感覚が僕を襲った。薄目を開けてみると、目の前にはあの鳥がいた。僕の口をくちばしで引っ張っている。二度目ということもあって、割と冷静に観察する余裕があった。やっぱりカラスだ。
「お前、何してん……」
その言葉は最後まで言えなかった。また、喉そのものがなくなったような感覚。そして……。
目の前のカラスが、何かを咥えている。くちばしに挟まれたそれは、生き物のようにぐねぐねと動いていたが、やがて、ごくりと飲み込まれた。カラスは二回ほどかぶりを振ると、
『心配いらないですよ。ほんのいっとき借りるだけです。絶対返しに来ますから』
僕の声でしゃべった。
おいこらちょっと待て。今飲み込んだのって、僕の口か。さっと手を伸ばし、カラスを鷲づかみにする。図に乗るなよ。田舎育ちをなめるな。
『放してください。口のない顔で凄まれたら怖いですっ』
カラスは僕の声でバタバタともがいた。口のない顔にしたのはお前やろ、早よ返せ!
『あのペットショップでオウムが待ってるんです。絶対戻って来ますから放してくださーい!』
ペットショップ? 同僚から聞いたあの店だろうか。手を少しゆるめたが放すつもりはまだない。理由話すまで自由にはしないぞと、目で訴える。
観念したのか、カラスはポツポツとしゃべり始めた。
『ことの起こりは、ある一羽のオウムに話しかけられたことでした。店の外からでも目立つ赤や水色の羽がきれいな、それはうつくしいひとでございました』
……ひとやないやろ。
『ねえ、あなたカラスさんでしょう。少し、おしゃべりの相手をしてよ。お空の話、聞かせてほしいわ』
『君にはたくさんの仲間がいるじゃないか。そんな立派な鳥かごに住んで、ご飯だって不自由しないのに、まだ退屈だって、わがまま言うのかい?』
『私達の中にはね、一度も空を見たことない子だっているの。私も、この店の中しか知らないわ。毎日同じような話題しかないの。つまんない。みんな夜は寝ちゃうし。私、宵っ張りなの。ね、ほんの少しだけ、夜のちょっとのあいだだけでも、おしゃべりできないかしら』
カラスは最初、戸惑ったという。何しろ、
『この世に留まって五十数年、こんなふうに誰かに必要とされたことはなかったもので』
ふんふん、五十数年ね……。って、お前ホントにカラスか?
『寂しいという思いは、この世の未練に変わるもんなんですよ。気がつけばこんな化けガラスになっておりました』
まあ、人の口取る時点で普通の生き物やないわな。
『そのオウムと親しくするうちに、自分の心の変化に気づいたのです。これは恋だと』
あー、鳥は個体識別能力ひくいからな。結構簡単に求愛すんねん。……ってなんで僕がカラスのノロケ聞かされなあかんのや!
『そしてオウムはある日、こう言ったのです……』
『ねえ、カラスさん。あなたは人間の言葉がわかるのでしょう?』
『君だって、人間の言葉を真似られるじゃないか』
『いいえ、私達オウムは、ただ音を真似るだけ。意味は理解できてないの。ねえ、カラスさん。私に、人間の言葉を教えてくれないかしら。鳥は鳥同士、お話ができるし、互いに言ってる意味もわかるけど、人間とはお話できないもの。いつかは飼われていくなら、人間の言葉がわかるようになりたいの』
いつかは、飼われていく……。
その言葉を、カラスはゆっくりとかみしめたそうだ。彼女は自分とは違う。ゴミをあさる事も、テリトリーを荒らす与太者を蹴散らす事もできないし、することもないだろう。世界が、違うのだ。
『人間の言葉がわかるようになれば、君は嬉しいかい? 人間と暮らすようになれば、君は、うれしいかい?』
『ええ、とっても』
『そうかい。……僕もうれしい。だって君が嬉しいことなんだからね』
カラスは、決心を固めた。
『あなたの口を借りたのは、つまりはこういうことなのです。人の口を借りなくては、人間の言葉がうまく発音できないもので。あの……もう、よろしいですか?』
掴んだ手を放し、窓を開けてやった。
『必ず戻って来ますから。あ、窓は開けなくて結構ですよ。化けガラスには、いろいろ方法があるものですから。では、行ってきます』
暫く後、カラスの羽音で目が覚めた。戻るまで起きているつもりだったが、いつのまにかうとうとしていたらしい。眠っている間に戻してくれたのか、顔は元に戻っていた。
飛んで行こうとするカラスに、僕は声をかけた。
「時々なら、遊びにこい。でもなあ、もう僕の声は貸さんからなー」
翌日、例のペットショップに行ってみた。
『コンニチハ! コンニチハ!』
一際目立つ、派手な色のオウムはすぐに見つける事ができた。
「カラスから、話は聞いた。君、うちに来るか?」
『ウレシイナ! ウレシイナ!』
会話を聞いていた若い店員が苦笑した。
「この子、とっても人懐っこいんですよ。でも最近、こんな変わった声で鳴くんです」
そうなった原因を、僕はよく知ってます。
「この子、ください。なんか、親近感わいて」
さあ、あのカラスが今度うちに来るときは、どんな声でなくだろうか。もう僕の声は、貸してやらないのだから。
出会った頃のように、自分の声で鳴くがいい。