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裏側

作者: N(えぬ)

 妻はコーヒー党だった。飲むときはサイフォンで本格的に淹れていた。淹れ立てを熱いうちに飲む。時間の経ったコーヒーや、ましてや冷めたコーヒーなど絶対に口にしなかった。

 私はと言うと、コーヒーはあまり好きでは無かった。だから紅茶か日本茶を飲んだ。そして、細かいことはまるで気にしなかったので、淹れ立てかどうかなど気にしなかったし、冷めていても気にしない。「水でないものならそれで満足」だった。そして、朝にカップに淹れた飲みさしの紅茶に、ポットに残った、当然冷めていて、渋くて真っ赤になった紅茶を継ぎ足して、それを平然と飲む人間だった。


 妻はそう言う私の行為がかなり気に召さず、若いころはそれが原因でよく喧嘩をした。けれどそう言う喧嘩は、いつしかやらなくなった。彼女が「私を理解した」理由わけではない。その点を無視するか、あるいは目をつぶるか、そういう風に決めたのだろう。気に入らないことであることには、相変わらず変わらなかったのだと思う。私が、冷め切った紅茶ポットから自分のカップに紅茶を注ぐと、妻はプイと横を向くようになった。汚らわしいものから目を背けるように。

 私はその点で妻からの評価が低かったかも知れないが、生活全般においては彼女の話に耳を傾け、できる限り善処して過ごしたつもりだ。何しろ、一度は愛し合って結婚したのだから、お互い相手に、どこかいいところを見いだしていたのは、疑問の余地は無いだろう。


 だが、時間は愛の炎を小さくし、いつの間にか消し炭にしてしまい、ほじくり返しても残り火も無い状態にしてしまったようだ。彼女から私は疎ましく思われるようになった。長年連れ添って、相手のことについて、酸いも甘いも感じ取り、最期までうまくやっていこうというようには、残念ながらならなかった。そして、不幸なことは、妻が私に対してそう言う感情を抱いている反面、私は彼女に多少なりとも愛情を持っていたことだった。

 妻は私が仕事を定年するのと同時に離婚を言ってきた。それは唐突な提案だったので、私はもう少しよく話し合いたいと言ったが、妻は「いままで溜まってきたものがあり、抑えることは出来ない。話し合いは無意味」と言った。私はそこまで行く前に、何かやりようが無かったのかと思ったが、そういうことに気づかなかった私自身もきっと悪いのだろう。

 息子と娘は私を庇ってくれた。それは嬉しいことだったが、妻はそのことにとても憤慨した。「私のほうが悪いというの?」と幾度も嘆いていた。


 私は離婚に同意した。一生懸命働いて、夫婦の終の棲家と思って買った家は妻に渡した。私はいくらかの現金と身の回りのものを持って子ども達の暮らす近くにアパートを借りて住むことにした。子ども達は、将来は一緒に住んでもいいとも言ってくれた。それもとても嬉しかった。でも私はまだ働けるし、やれる間は一人でいいのだと言った。


 離婚した妻は、それから一人で暮らしていたらしい。地域のボランティア活動などにもむかしから熱心であったし、習い事なども好きで友人の多い人間だった。一人になっても、少なくとも昼間は人との交流という面で寂しいとか退屈だとかいうことは皆無だったろうと思う。きっと疎ましい元夫を追い出して、気分よく生活できると思える。そう言う手はずだったに違いないのだが、それは少し計算違いがあったようだ。とあとからそう思う。


 ある晩、私は離婚してから初めて元妻から、かつて暮らした家に呼び出された。「家の中のことでわからないことがあり、来て、見てもらいたい」という。そんなところがあの家にあったろうかと思った。なにかの故障なら私では無く業者を呼んだほうが賢明だとも言ったが、ぜひとも私に来てもらいたいということだった。


 私は家に着き、呼び鈴を鳴らすと元妻はすぐに出てきた。家のドアを開けたときに見た彼女の顔は、何十年も前に見た懐かしい、愛情のある笑顔を浮かべていた。私はそれで少し困惑した。けれど「もう、元妻、元夫だ」そう思っていた。私のこころには、そこに決然としたけじめが付いてしまっていた。だから、この元妻の屈託の無い笑顔に、妙な恐怖感を覚えた。

「どうしたんだい」

 ドアのところに立ったまま私は彼女に尋ねた。

「中で話すから、さあ、入って」

 私は彼女に言われるままに中へ入った。家に入るとすぐ、何か懐かしい匂いがした。私が好物にしていた煮込み料理の匂いだ、と思った。家の廊下を歩きながら通りすがりにダイニングのほうを見ると、食事が用意されているようだった。「どういうつもりだろう」そう思った。


 彼女は私をまずリビングに通した。そこも数ヶ月ぶりに見る懐かしさがあった。家具の配置もなにも、前と変わっていないようだった。私は上着を脱ぐよう勧められ、彼女は私の後ろに回って上着を脱がせようとした。そんなことはこの10数年、彼女はしなくなったことだった。

「ああ、いや自分で脱げるよ」

 私を身を翻して彼女の手を振り払ってしまった。彼女の目は悲しげだった。

 そして、しばらく話した。けれど彼女は私を呼び出した「要件」を話そうとしなかった」

「用がないのなら、帰るよ」

 私そう言った。彼女は私の前に立ちはだかるようにして、

「おなかがすいているでしょう?夕食を用意してあるの、食べていって」

 と、ひたすら愛らしく言った。結婚する前の彼女を見ているよな錯覚を覚えた。けれどやはり、それは、

「それはやめておくよ。また何か、用事があったら連絡してくれ」

 私はそう言い捨ててドアのほうへ向かった。

「あぅっ……」

 何か全身に電気が走たような気がした。右の腰の上辺りになにかが……。私は顔を向けると、その部分に細長い包丁が刺さっていた。もちろんそれを握って私に突き立てたのは彼女だ。

 私は腰の包丁を右手で押さえて彼女の目を見た。彼女の目は興奮に包まれて、もうさっきの愛らしさなど無かった。私は左手で上着のポケットから携帯電話を取りだした。彼女は、その私に何度も斬りかかった。私はそれを這いつくばって避け、かわしながら警察を呼んだ。


 警察が到着したとき、私は「助かった」と言う気がした。興奮している彼女は、サイレンの音にも気づかなかったようだ。突入してきた警官に幾度か制止を求められて、やっと彼らの存在に気づいたようだった。だが彼女は警官の警告を無視して私にさらに一撃を加えようとした。

「パンっ!パンっ!」

 乾いた音が響いた。彼女は警官の銃撃を胸に受けて後ろに倒れた。もうその時点でダメだったろう。私も彼女も病院に運ばれたが、彼女は死に、私は生き残った。


 その家は、元妻の遺産として子どもたちに引き継がれた。家はしばらく、誰も住まず、そのままにされた。ゆくゆくは売り払うだろう。母親が父親を殺そうとしたあげくに警官に射殺された家になど、誰も住みたいとは思わない。だが、私はしばしばその家を訪れて妻の霊を弔った。二人の「終の棲家」のはずだったこの家。私は愛着があった。元妻は、この家で最期を迎えた。私もそうしたいように思った。


 私は危ういところで生き延びたが、受けた傷でこころも体も予後はあまりよくなかった。3年ほどして、私は病院のベッド上でこれを書き、子どもたちに「最期はあの家で過ごさせて欲しい」と我が儘を言った。


以上、父の書いたとおり記す。

父は、家に戻り11日後に亡くなった。



 その石版状の墓標の表には故人の元夫婦の名があり、その裏にびっしりとこの話が刻まれている。きっと滅多にだれも気づくまい。

 この事件で彼女を撃った警官は、時折このことを思い出して、こうして墓参に訪れる。




タイトル「裏側」

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