第1話【一触即発】
春の訪れを感じたはずのゼルム雪原は、再び銀世界へと戻ってしまっていた。
曇天からしんしんと降り続く雪は容赦なく生物の体温を奪っていき、降り立った天魔は温かいと喜んでいたはずだが、今や寒さに耐性のない個体は逃げ出す始末である。この凍てつくような寒さでは逃げ出すのも分かる気がする。
そんな白銀の大地を爆走する人影が二つ。正確には人影は三つあるのだが、一つは爆走する銀髪碧眼の女に担がれている状態だ。
「おい、どこまで逃げりゃいい!?」
「寒さを凌げる場所がいいだろう!!」
銀髪碧眼の女は、なんとか並走している黒髪赤眼の少年へ振り返らずに叫ぶ。先を走る銀髪の女に追いつこうと必死に少年は走るが、如何せん身体能力の差がありすぎる。
雪の中という悪環境を爆走する銀髪の女は、唐突に「うおおお!?」と足を止めた。大地は雪で覆われていたので、急停止をかけたことで少しだけ滑る。
ようやく隣に並ぶまで追いついた少年もまた、女の視線を追いかけて不思議そうに首を傾げた。
「――なんだあれは」
「爆発した、箱か?」
寒々しい色をした海に浮かぶ、透明な立方体。おそらく氷で作られているのだろうが、その上の方は爆発したように内側から裂けてしまっている。
箱の様相を保つ不思議な氷からは、やはり氷で作られた橋のようなものが伸びていた。荒波を受けても折れることはなく、その氷の橋は箱を陸地に繋ぎ止めている。
あの箱の中に逃げ込んだ天魔と鉢合わせする可能性も捨てきれないが、厳しい寒さを凌げる場所を他に探す時間が惜しい。好機を逃せば三人仲よく氷像の仲間入りだ。
「行くぞ、ショウ坊。箱ン中で天魔と鉢合わせたら、速攻で火葬してやれ」
「了解した、ユフィーリア」
銀髪碧眼の女――【銀月鬼】の天魔憑き、ユフィーリア・エイクトベルは意気消沈して一言も発しない上官を背負い直して、箱を繋ぎ止める氷の橋を渡っていく。
その背中を追いかける黒髪赤眼の少年――【火神】の天魔憑き、ショウ・アズマは赤々と輝く回転式拳銃を片手に、同じく橋を渡る。後ろから天魔が追いかけてこないか、彼は背後を警戒しながらユフィーリアへと続く。
しんしんと雪が降る。
再び永久の凍土と化した北の大地にて、援軍が見込めない最悪な状況に第零遊撃隊の二人は直面していた。
☆
箱の中は集落かなにかのようだった。
少なくとも、誰かがここで生活していた面影がある。凍りついた木箱に霜が降りた書籍、氷の壁にはなにやら区分けされた文字がずらりと並んでいるのだが、文字が読めないユフィーリアには壁の文字を解読することはできなかった。
幸いなことに、この氷の箱の中に天魔の姿はない。全体的に雪が降り積もって、さらにどこもかしこも氷漬けにされているが、不思議なもので氷の箱の中は比較的暖かかった。天井が裂けてしまっているので、なんとも言えないが。
「どうやらこの箱の中は『学校』のようだ」
「学校だァ? どこにそんな証拠があるんだよ」
「蓋が開いた木箱の中身は、おそらく教科書だ。読み書きを教える為のもので、教科ごとに違う書籍がある。こちらは数学、こちらは化学とある」
それぞれ凍った本を手に取って、ショウが言う。
皮製の表紙に刻まれた金色の文字は旧語で書かれているものの、数学やら化学やらと言われて内容まで理解できる訳がなかった。「なにそれなんの意味があるの?」である。
とりあえず、茫然自失の状態に陥ったグローリアをなんとかしてやるべきだろう。いつまでも肩に担いだままでいたら、そのうち胃を圧迫されて吐かれても嫌だ。ユフィーリアはこの学校内に座れる場所はないかと視線を巡らせて、そして氷塊の影になって隠れていた椅子に座らせてやる。
なにやら木箱とは違って、ちゃんとした椅子だった。担いでいたグローリアは背もたれにぐったりと寄りかかって、虚空をぼんやりと見つめたまま動かない。
「グローリア、おいグローリア。正気に戻れ」
「……………………」
ユフィーリアがペチペチとグローリアの頰を叩くが、彼はやはり虚空を見つめたまま動かない。いつもの幻想的な輝きを宿した紫色の瞳からは生気が感じられず、ガラス玉のようである。
頰を叩いても身じろぎせずに曇天を見上げるグローリアに、ユフィーリアは正気に戻すことを諦めた。これ以上、無理をして彼を正気に戻したところで「エリスのところへ行く」だのと寝ぼけたことを言われたらたまったものではない。
「これからどうするつもりだ?」
「どうするもこうするも、援軍を呼ばねえ限りはあの婆さんに対抗できねえだろ」
他に使えるものはないかと視線を巡らせるが、どこもかしこも凍っているので使い物にならない。木箱でも解体するかと思ったら、ショウがどこからか濡れた本を回収してきた。
視線だけで「それはどこから盗んできた?」と問いかければ、彼は氷の箱の隅の方を顎で示す。見れば、半開きになった箱の中にまだ無事な書籍があり、濡れているページはあるものの焚き火にするにはちょうどいい。
どさどさと乱暴に投げ出した書籍に、ユフィーリアはマッチの火を灯す。が、本のページが湿っているので思うように火がつかない。
「……ショウ坊、お前の火葬術でどうにかならない?」
「書籍を生き物と断定するのはさすがに無理があると思うのだが」
「だよな」
「ああ」
燻って消えてしまったマッチの火に視線を落とし、ユフィーリアは「仕方ねえな」と呟いて外套の内側から小さな缶を取り出した。
化粧品と見紛いそうなほどの小さく、そして平たい缶である。缶の中身は赤茶けた砂のようで、ユフィーリアは缶の中身を本の上に全てぶち撒けた。
「なにをしている?」
「濡れたものでもこうすりゃ一発」
不思議そうに首を傾げるショウへ、ユフィーリアは親指をぐっと立てて本の山を踏んづけた。
すると、本の中心に小さな炎がめらめらと燃え上がり、やがて立派な焚き火となる。踏みつけただけで火がつくとは、驚きの技術である。
「昔な、全身が勝手に燃えてる猿みたいな天魔がいてな。そいつらの遺灰は、衝撃を与えると勝手に燃えるっていう性質を持ってたんだよ。マッチよりも酷い消耗品でな、すぐになくなるんだわ」
「ならば、少量ずつ使っていけばよかったのでは?」
「この湿った本にちょっとずつ使って通用すると思うか?」
分厚い本を燃料にして燃える炎に手をかざしながら、ユフィーリアは「で、だ」と切り出す。
「援軍を呼ばなきゃならねえ状況だが、連絡を取る手段はあるか?」
「残念ながら、俺にはなに一つ思いつかない。そのような小道具すら携帯していない」
「だよな、知ってる。スカイの使い魔もこんな極寒の地にはいねえだろうし」
そもそも寒さに耐性のある使い魔を、彼は有していただろうか。
普段から鼠やら猫やら烏やらの使い魔ばかり見ている印象があるので、今回の馬の使い魔は初めて見たものだ。だが、いずれも寒さに耐性など持ってはいないだろう。
ましてやここは、永久凍土と名高いゼルム雪原だ。こんなところまで彼の使い魔などやってこないだろう。
連絡手段がないこの状況に舌打ちするしかないユフィーリアは、ガシガシと銀髪を掻くと、
「今回の終わりはエリスって婆さんを倒せばいいんだろうよ。現状、あの婆さんに対抗できる戦力は俺らしかいねえ。グローリアは使い物にならねえし、よしんば戦えたとしても戦力の頭数には入れねえ」
「しかし、あの老婆に対抗手段などあるのか?」
「いざとなりゃ切断術でもなんでも使ってやる。なりふり構っていられるか」
それがたとえ、誰かの大切な人であっても。
敵に回った以上はユフィーリアの敵であるし、倒さなければならない相手だ。なりふり構っていたらこちらが命の危機に晒される。
とはいえ、あの防寒対策も万全じゃないこの状況で、あの雪と氷を操る老婆に近づけばどうなるか分かったものではない。
「常識的に考えれば、雪には炎が有効だ。ショウ坊、お前が主軸となってあの婆さんの相手をしてもらおうか」
「……了解した。その判断が必要であれば致し方ない」
ユフィーリアの言葉に、ショウは少しだけ間を置いてから了承した。真面目な彼のことだ、きっとグローリアのことを気にかけているのだろうが、今はそうやって気にかけていれば命取りになってしまう。
残酷な判断をさせてしまったのだと思う。それでもやらなければ、こっちがやられるだけだ。
――なにか解決案があるのであれば、別の話だが。
「……………………ねえ、待って」
不意に、グローリアが口を開いた。
虚ろな紫色の瞳をユフィーリアとショウへ向けて、彼は言う。
「エリスをどうするの……?」
「殺す」
ユフィーリアの回答は簡素であり、冷酷だった。
「敵になった以上は、あの婆さんと戦わなきゃいけねえ。戦うってことは命のやり取りだ。敵になったんだから当たり前だろ」
「やめて」
グローリアは拒絶した。
当たり前の反応だ。彼はあの老婆を助ける為に、今日この時まで生きてきた。それを目標にしてきたのだ。
その目標である彼女を殺すと言われて、納得できるものか。
「お願い、エリスを殺さないで。エリスは僕の先生なんだ、僕が助けなきゃいけないんだ。だから――!!」
「忘れ去られてんのに、今更なに言ってんだ」
「――――」
グローリアは口を噤んだ。
ショウが「言い過ぎではないのか」と苦言を呈してくるが、ユフィーリアは気にも留めない。
「グローリア、酷いことを言うようだが俺はあの婆さんとなんら関係はねえ。だから救おうが救わないが、どっちだっていいんだよ」
「でも……僕は」
「お前の意見なんざ聞いてねえんだよ。それとも」
ユフィーリアは大太刀の鯉口を切り、真っ直ぐに上官だった青年を睨みつけた。
「――力づくでも止めてみるか?」
グローリア・イーストエンドに、二つの選択肢が突きつけられた。
自分の恩師を救う為にユフィーリア・エイクトベルという最強に立ち向かうか、それとも。
一人で恩師を救うという馬鹿な考えを改めるか。




