序章【有象無象の集合体】
しんしんと雪が降る。
しんしんと雪が降る。
音もなく、ただ静かに、空から異形の化け物が降り注ぐ代わりに、小さな綿雪が降り注ぐ。
容赦なく体温を奪っていく白い綿雪など気にならないぐらいに、悍ましい化け物が目の前に鎮座していた。
地面に積もった雪には、悍ましい化け物の足跡などつかない。その化け物は冷たい虚空を浮かんでいて、黒い靄の中にいくつもの人間の眼球を浮かび、細い手が何本も突き刺さっていて、色々ななにかがぐちゃぐちゃに混ざり合ったかのような姿をしていた。
「お前を食らってやろう」「食らって隊列に加えてやろう」「それが我ら」「それが我らのやり方」
もぞもぞと蠢くたびに、ひび割れた声が空気を震わせる。
それは男であり、女であり、老人であり、子供だった。様々な魂魄の集合体が、そこにいた。
わさわさと何本もの手を蠢かせて隊列に取り込もうとしている相手は、若い青年だった。二〇代前半ぐらいだろうか、中性的な顔立ちは男にも女にも見えてひどく曖昧だが、澄んだ青い瞳に宿された眼光は力強く、決して目の前の悍ましい怪物に気圧されている様子はなかった。
「――ふざけるな!!」
青年は叫ぶ。
脆弱な人の身であるならば、きっと目の前の悍ましい怪物を前に震えて叫ぶことすらできないだろう。それなのに、青年は真っ向から怪物へ向けて「ふざけるな」と叫んだ。
まさか言い返してくるとは思ってもいなかったらしい混沌とした魂魄の集合体は、驚いた様子で言葉を詰まらせる。靄の中に浮かぶ人間の眼球をぎょろぎょろと忙しなく蠢かせると、
「ただの人間になにができる」「脆弱な種族になにができる」「我らの中で生きろ」「それが幸せだ」
「僕の幸福を、お前たちの常識で推し量るな!!」
脆弱な種族であるということに関して、青年は否定も肯定もしなかった。
それは紛れもない事実だからだ。人間である青年は、目の前の悍ましい怪物に軽く小突かれただけで死んでしまうほどに脆く儚い。だから、きっと今ここで殺された方が幸せなのだろう。幸いにも、相手は「我らの中で生きろ」と言っている。自我を残す手段は他にあるだろう。
それでも、青年は死ぬ訳にはいかなかった。生を手放すという選択肢は取らなかった。
何故なら、彼には目的があるからだ。命を賭しても、成し遂げなければならない目的があるからだ。
「――君たちの言う通りに、僕は弱い。それでも、僕はやらなきゃいけないことがある。こんなところで死んでいられない!!」
背筋を伸ばし、真っ向から有象無象が混じり合った悍ましい怪物を睨みつける。
彼の態度に今度は怪物の方が怖気づき、忙しなく眼球を蠢かせる魂魄の集合体に、青年は真っ直ぐに言い放った。
「――僕に従え、【時縛霊】!! 僕はその中で生きない、君たちが僕の中で生きろ!!」
それは、青年が人をやめた証拠だった。
悪魔の存在に手を伸ばした青年だが、その行動に後悔も反省もしていなかった。ただ、そうするしか勝てないと見込んだからだ。
たとえ人間をやめたとしても、彼にはやらなければならないことがある。
有象無象の集合体を下した青年は、澄み渡った青空の瞳から朝靄のような紫色となった瞳を瞬かせて、人間とも化け物とも言えない中途半端でどっちつかずな存在として生きる道を選び取る。
「――――ん」
グローリア・イーストエンドは目を覚ます。
霞む視界が捉えたものは、見慣れた書類の山だった。呆れるほどの戦術書と地図や指図書が散らばった部屋をぼんやりと眺めて、グローリアは冷めた紅茶が入った陶器のカップに手を伸ばす。
使える駒は揃った。
あとは進撃の機会を伺うだけ。
花の匂いがする飴色の液体を喉の奥へと流し込み、グローリアは執務机に積み重ねられた戦術書の一番下に敷かれていた羊皮紙を引っ張り出す。随分とボロボロになった羊皮紙には細かく作戦の概要が書き込まれていて、その中心に居座っている絵は青色に塗り潰された塔のようなものだった。
「待っててね、エリス。君は僕が必ず助けるよ」
羊皮紙の中心に描かれた青い塔を指先で撫で、グローリアは残った紅茶を全て飲み干した。




