第4話【後悔、後悔、そして】
走る。
飛ぶ。
駆け抜ける。
瓦礫を飛び越え、荒れ果てた社の中を経由して、沈んだ桟橋を踏み台にして戦場を駆け巡る。
「――うおおおおおああああああッ!!」
雄叫びを轟かせて、ユフィーリアは追いかけてくる黒い蛇のようなものから逃げ回っていた。青い瞳には恐怖からくる涙が滲み、持てる身体能力を全て駆使してひたすら逃げる、逃げる、逃げる。
グローリアは結界から飛び出た部分を排除して、再び封印作業に移行するだとか言っていたが、その言葉を受け入れてしまった過去の自分をぶん殴ってやりたい衝動に駆られる。結界から飛び出した部分が多すぎて、排除しきれないのだ。
「なんで!! 俺ばっかり!! こんな目に遭うんだっての貧乏神にでも取り憑かれてんじゃねえのか俺ぇぇぇえええええ!!」
天魔最強と名高い【銀月鬼】の天魔憑きでも、基礎となっているのはユフィーリア自身なので感情はそのままである。怖ければ泣くし、なんだったらチビっちゃうことだってある。
黒い蛇のようなものの正体は、悪夢の繭の根である。自在に床や壁を壊しながら這い進み、桟橋を叩き壊し、瓦礫を飲み込みながら、ユフィーリアをひたすら追いかけた。体力などないに等しく、先ほどから嬲るようにユフィーリアと一定の距離を保ちながら這い寄ってくる。
おのれ、菖蒲。性格の悪いことをしやがって。――胸中で悪態をついたユフィーリアは、崩壊しかけた社の中に飛び込み、土足で廊下を走り抜ける。迷路のように右へ左へと曲がりながら襖が開きっぱなしになっていた部屋に飛び込むと、襖をぴしゃりと閉ざす。
「ぜえー、はあー、軽く……軽く綺麗な川が見えた……」
多分それは渡ってはいけない類のものだ。
肩で息をするユフィーリアは、襖の向こうからなにかを引きずるような音を聞いて身を強張らせた。
ずるり、ずるりと床を這う根がユフィーリアを探しているようだった。本当はすぐにでも居場所が分かるはずなのに襖を突き破らずに焦らしているのは、やはり飲み込んだ菖蒲の性格の悪さが滲み出ているのだろうか。
息を殺し、ユフィーリアは額に浮かんだ汗を拭う。外套の内側に手を忍ばせて、それから一気に襖を開く。
黒い根が「何事だ!?」とでも言いたげに鎌首をもたげるが、構わずユフィーリアはその太い根っこに外套の内側から引き抜いた注射器を刺した。ガラス容器の中身には煌々と白い輝きを放つ液体が揺れていて、暴れ狂う根に問答無用で中身を注入する。
すると、どうだろうか。輝く液体を注入された根は、見る間に干乾びてしまった。あれだけ激しく暴れ回って抵抗していたのに、力尽きたようにぱたりと廊下に倒れると、その体がひび割れていく。
中身を全て注入して空っぽになった注射器を投げ捨てると、ユフィーリアは「なるほどな」と頷いた。
「悪夢だからな、光の要素に弱いのか」
――先ほど、ユフィーリアが悪夢の繭の根に注入したのは『光素』と呼ばれるものだった。
空から降り注ぐ無数の天魔のうち、樹木系の天魔の体液を特殊な方法で濾過すると生成できるのだ。本来の用途は水に数滴ほど垂らしてカンテラ代わりにするのだが、夜行性の天魔なんかにはこの光素を直接注入するのが一番効く。
ひび割れた根を蹴飛ばしてやり、ユフィーリアは深く息を吐き出した。倒した途端にどっと疲れが出てきた。
「ちくしょー、あとこれ何回やりゃいいんだよ……」
そもそも万年金欠のユフィーリアに、光素は馬鹿みたいに高くて手が出ないのである。今回はたまたま安売りしていたものを一つだけ購入したが、それでも「ぼったくりだろ!!」と叫びたくなるほど高額だった。実際、ちょっと叫んだ。
たった一つしかない光素を使い切ってしまったユフィーリアは、襖を背にしてそのままずるずると座り込む。
「エドはこの三倍の量をこなしてんだよなァ……あいつすげえわ」
まったくもって、相棒には本当に恐れ入る。ユフィーリアでさえ一本が限界なのに、この三倍の囮を一人で担っているのだから大変だろう。
束の間の休息に一服でもしようかと煙草を引っ張り出したが、煙草を咥えて火を灯そうとマッチを取り出すも、小さな箱の中にマッチはなかった。どうやら使い切ってしまったようで、予備のマッチはなかったっけと外套の内側を探るも見当たらない。予備すらも用意していないとは、喫煙者としてあるまじき愚行だ。
咥えていた煙草を箱の中に戻して、ユフィーリアはため息を吐いた。どうにも本調子が出ない。自分らしくないというか、まるで汚泥の中を生きているかのようだ。息ができずに喘いで、泥の中を彷徨い歩いているかのように体が重い。
脳裏をよぎったのは、悲しみに沈むあの鮮烈な赤い瞳だ。最後まで彼の赤い瞳を真正面から見ることを拒み、逃げた。ユフィーリアの弱さが招いたことだ。
「…………あー、クッソ」
様々な要因があって調子が悪いユフィーリアは、ガシガシと乱暴な手つきで銀髪を掻き毟った。
今は目の前の戦場に集中しなければ、ほんの僅かな隙を突かれて戦死しかねない。戦死などすれば、今後の天魔との戦争に支障が出ることも理解できる。
それなのに。
(『最強』って、こんなに重かったっけ?)
火のついていない煙草をくるりくるりと口の端を使って器用に回しながら、ユフィーリアはぼんやりとそんなことを考えていた。
いつもなら、それほど重みを感じることはなかった。いつのまにかずっしりとした重みを、『最強』という二文字は伝えてきた。東戦線で天魔を狩っていた時の方が、だいぶマシだったかもしれない。
「やめだやめ、こんなことに時間を使ってられっか」
咥えた煙草を箱に戻し、ユフィーリアはひび割れた悪夢の繭の根を踏みつけて隠れ場所として使っていた社を飛び出す。乱雑に積み重ねられただけの瓦礫の山へ駆け上がり、戦況の確認をする。
遠くでいまだ健在の様子の悪夢の繭は、ごうごうと唸りを上げて根を自在に振り回していた。瓦礫を薙ぎ払い、大地を削り取り、結界の外にある山岳を食らって成長し、紺碧の空めがけて枝葉を伸ばしていく。その様相の、なんと恐ろしいことか。
「簡単に断ち切れたらいいのによ、断ち切ったら得体の知れないモンが生まれそうで嫌だなァ」
切断できてしまえば終わるはずなのだが、事はそう簡単に運ぶ訳がない。
おおおお、おおおお、と唸る悪夢の繭が支配する戦場に、ユフィーリアは足を踏み入れるのだった。
☆
病室代わりにあてがわれた部屋の隅で、ショウは膝を抱えて座っていた。
失恋したような気分だった。
手酷くショウを振った相手は、今もなお戦場で暴れ回っていることだろう。遠くから聞こえてくる破砕音や風の音が、戦場の激しさを物語っている。
視線を下にやると、垂れ落ちてくる自分の長い髪が鬱陶しい。乱暴に掻き上げるが毛量が多いのでどうすることもできず、結ぶしか方法はない。
いつも使っていた髪留めはどこへやったかと己の体を探ってみると、髪留めの代わりに出てきたのは鮮烈な赤い色の髪紐だった。紐の先端には小さな鈴が括りつけられていて、揺らすたびに小さくちりちりと音を奏でる。
これは、ユフィーリアが持っておけと言って押しつけてきたものだ。捨てるなとも言っていたので、今までずっと放置していた。
ショウは鈴のついた赤い髪紐を握りしめて、絞り出すような声で嘆いた。
「……俺は、奴の信頼を裏切ってしまったのか……」
「おそらくそれだけが理由ではないかと思われます」
「――ッ!?」
いきなり耳朶に触れた穏やかな女の声に、ショウは俯けていた顔を跳ね上げた。
静かに開いた襖から、金髪の狐巫女――葛葉がひょっこりと顔を覗かせる。彼女も彼女で色々と大変だったのか、琥珀色の瞳の目元は赤く腫れていた。涙を流したような痕跡を見つけたショウは、思わず問いかけていた。
「……泣いたのか?」
「八雲神様が、その命を使って悪夢の繭を鎮めると言ってくださいました。止めることができなかった私は、愚か者です」
ショウは納得した。
八雲神は神宮『斗宿』の国主――この世界の王様である。そんな彼が無茶をした時、臣下である葛葉は止めなければならない。その止めることができなくて、彼女は涙を流したのか。
国を任された方はさぞ辛いだろう、と他人事のように思うショウは、様子を見にきただろう葛葉へさらに質問を重ねた。
「それだけが理由ではない、とは?」
「見下されているのでございます」
琥珀色の瞳は、真っ直ぐにショウを射抜いていた。
その瞳の奥には鋭い光が宿されている。彼女の目が物語るには、「お前が戦場に出ないせいで、八雲神が命を懸けなければならない状況になったのだ」だろうか。
戦場に出ることができないのは、この際仕方がないのだ。ショウだって、戦場に出たいと願った。その願いをあえなく一蹴したのは、ショウの相棒であるユフィーリアだ。
小さな炎さえ出てくることはなく、武器も他に有していないので戦場では荷物になるだけだ。そんなことは、ショウが一番理解している。
睨みつけてくる葛葉から静かに視線を逸らすと、彼女は「やはりでございますね」と言う。
「契約された【火神】の核が残っているので、威力は多少制限されますが術式は問題なくお使いになることができるでございます」
「術式が……使える? 馬鹿な、炎すら出てこないのに何故そんなことが断言できる!?」
ショウは試しに手のひらに回転式拳銃を生み出そうとしたが、血管が切れそうなほど踏ん張っても炎はおろか火の粉さえ出てくることはなかった。戦いに適していない、真っ白な手があるだけだ。
しかし、葛葉は「だから言ったでございましょう」と、さながら小さな子供を叱りつける母親の如き口調で続けた。
「ショウ様は【火神】に見下されておいででございます。見下されているということはすなわち、術式を行使させるに値しないということでございます」
「術式を……?」
「通常、天魔は己が気に入った魂を持つ者としか、契約をしませんでございます。例えばユフィーリア様が契約をなさった【銀月鬼】は、真っ直ぐな芯を持った魂を好みますでございます。――貴方様がご契約をなさった【火神】は、気高い魂を好むと言われております」
「気高い、魂……」
そんなものを、自分は持っていただろうか。
気高さなど微塵も当てはまらない、ただの操り人形のような少年に、彼女の言うような魂を有しているだろうか。
ただ呆然と反芻するショウは、自己分析の結果、そんなものを持ち合わせていないと判断すると、さらに落ち込んだ。
そんな彼の頰を優しく撫でて、葛葉が諭すように言う。
「よろしいですか、ショウ様。【火神】がもし、貴方様を本当に見限ってしまったのならば、もう貴方様は深淵の彼方へ消えていることでしょう。ですが、消えていないというのならば、まだ可能性はあるでございます」
「……可能性?」
「【火神】を説得する可能性でございます。貴方様が【火神】を従えるに相応しい態度を見せれば、【火神】も共に戦ってくれることでございましょう」
「……そうだろうか」
「元来、葬儀屋一族の【火神】と言えば、国一つの民を丸ごと焼き尽くすことができるほどの実力を持っているでございます。術式の有効範囲であれば、天魔最強と謳われた【銀月鬼】よりも凌駕します。それほどの力を有しているのです、自分なりの矜持がおありでございましょう」
顔を上げた先にあった葛葉は、嫋やかな笑みを浮かべていた。
「ショウ様。貴方様はユフィーリア様の相棒なのでございましょう? こんなところで、あの方の相棒の座を誰かに明け渡してもよろしいのでございますか?」
「――――」
その言葉は、確かにショウの中にあったなにかを大きく揺るがした。
彼女は、ユフィーリア・エイクトベルは、ショウを相棒だと言ってくれた。相棒であると認めてくれたのだ。それなのに、ショウは彼女の信頼を裏切るような発言をしてしまった。
そうだ。もう一度、今度は自分の意思で、彼女の相棒になるのだ。
「だが、【火神】と対話など……」
「お任せください」
葛葉は、そっとショウの額に人差し指と中指を突きつける。指の先にぽわりと白い光が宿ると同時に、急激な眠気がショウへ襲いかかった。
意識が深淵に引きずり込まれる間際、葛葉の声が朧げながらショウの鼓膜を揺らした。
「貴方様は、きっと【火神】を説得させると信じているでございます。【銀月鬼】すら認めた相棒なのですから」
――――ぷつり、と意識はそこで途切れた。




