第19話【絶望の契約】
目の前に置かれた虫籠には、一匹の百足のような悍ましい蟲が蠢いている。ぎょろぎょろと三つほどの細長い胴体に埋め込まれた人間の眼球が不規則に動いて、それを見つめる姉弟を観察しているようである。
虫籠の前に座らされた姉弟――ナツキとスバルの二人は、ほぼ同時に唾を飲み込んだ。この虫籠の前から今すぐ離れたいが、離れることができないのは背後に突きつけられた黒色の剣山のせいだ。
少しでも動けば、命はない。
逃げることができない絶望を生み出す二人の姉弟は、相手の次の言葉を待った。
「――選べ」
天井に蟠る闇は、嗄れ声で命じた。
「どちらか一方がその天魔――【感染蟲】と契約しろ。そして契約した者は、契約しなかった者を眷属として従えろ」
闇に浮かび上がる黄金色の眼球が、状況を楽しむようにキュッと細められた。相手は笑っている。この状況を、絶望しかないこの状況を笑っている。
姉と弟の思いは一緒だった。
こんな悍ましい天魔と契約などしたくない。それはつまり、人間をやめることに繋がるのだ。寿命を超越した怪物として永遠を生き、時には危険な戦場に身を投じなければならない。
だがこの天魔と契約するのは、自分でなければいけない。そうしなければ相手が契約をすることになってしまい、負担を強いることになってしまう。そんなことは絶対にさせない。
「――私が」
「――おれが」
二人が考えることは一緒だった。そして実行に移したのも同時だった。
互いの顔を見合わせて、それから相手を如何に諦めさせることができるか口論が始まる。
「私が契約する。スバル、お願い。諦めて」
「それはできない。姉ちゃん、おれが天魔と契約する。おれが全部、嫌なことも背負うから」
「スバルにそんなことさせられない!! だって、だって私はお姉ちゃんだもん!!」
「おれだって姉ちゃんにそんなことをさせられる訳ないだろ!! おれだって弟だ!!」
互いに互いを大切にしているからこそ、自分が犠牲になることだけは譲れない。
彼らの頭の中には、永遠の命を手にすることができるという利点は抜け落ちていた。この姉弟にとって重要なのは、相手が如何に苦しまずに生きることができるかという点だけだ。
どちらかが苦しむぐらいなら、いっそ自分が苦しんだ方が遥かにマシだという強い強い自己犠牲精神を持ち合わせていた。両親を亡くした姉と弟の二人だけの家族だからこそ、芽生えた精神だった。
相手よりもまず自分が、と美しい姉弟愛を見せる二人へ、闇に浮かぶ黄金色の眼球がつまらなさそうに言う。
「早くしろ。――選ばぬと言うのであれば、貴様ら二人とも刺し貫いて殺してやろう」
姉弟の背後に突きつけられた黒色の剣山が、ザザッとその尖った針の群れを蠢かせる。脆弱な体構造のナツキとスバルでは、この剣山に刺し貫かれて耐えることなどできやしない。
相手を天魔憑きにしたくない。
かといって、ここで殺されたくないのも事実。自分が死ぬことでもう片方を見逃してくれるのであれば喜んで犠牲になるが、そういう状況ではなさそうだ。
黄金色の眼球に急かされた影響か、弟のスバルが虫籠に手を伸ばす。ナツキが「スバル!!」と制止する声すら届かず、彼は虫籠の華奢な檻を開けてしまう。
檻から解放された百足は無数の足を蠢かせて虫籠から飛び出すと、スバルの手をすり抜けてナツキめがけてやってくる。
「姉ちゃん!!」
スバルが叫ぶ。
這い寄ってくる百足はそれほど早くなく、ナツキも避けようと思えば避けられた。そうしなかったのは、これと契約をすればスバルはなにも背負わなくていいという考えがよぎったからだ。
この百足の天魔は、自分を選んでくれたと思った。だから、自分が契約するのだ。
ナツキはやってくる百足の前に膝をつき、手を差し伸べた。不規則に蠢く人間の眼球が気持ち悪い。悍ましい姿の虫から逃げないように、ナツキは胸中で自分を鼓舞しながら虫へ――【感染蟲】へ告げる。
「私が契約します。だから、」
弟には、手を出さないで。
その言葉は不要のようで、【感染蟲】は頭部から伸びる二本の触角をナツキの柔らかな手のひらに突き立てた。
容赦なく【感染蟲】の触角はナツキの手のひらを貫通し、激痛を与えると同時に鮮血が零れる。
「あ、ああああああああッ!?」
「姉ちゃん!!」
スバルが目を剥いて駆け寄ってくる。
【感染蟲】は触角でナツキの手のひらを引き裂き、食い破り、踏み潰す為に振り下ろされたスバルの足から逃げるように、ナツキの柔らかな手のひらの中にその細長い体を滑り込ませた。皮膚を引き裂き、柔らかな肉を食い破ったのはその為か。
めりめりと腕を縦に引き裂くような痛みがナツキを襲い、堪らず絶叫を上げてしまう。こんな痛みに耐えられる方が異常だ。
体内に潜り込んだ百足の天魔は、肉を割り裂いてナツキの腕の内側を這い回り、ついに肩口を通じて内臓を収める腹の中までやってくる。もぞもぞと内臓を探られるような気持ちの悪さに今度は吐き気を催し、ナツキは胃液を口から撒き散らした。目の前がぐるぐると回っていて、腹の中をまさぐられる痛みと気持ち悪さがナツキを襲う。スバルが心配して背中をさすってくれるが、それすらも鬱陶しく感じるほどだ。
(――あの子も、こんな痛みに耐えていたのかな?)
ナツキの脳裏によぎったのは、青い髪をした少女だった。箸が転がっても笑ってしまうほど笑いのツボは浅く、壊れたようにケタケタと笑い転げていた彼女。
彼女もまた天魔憑きだった。近接戦闘が苦手で、距離が遠ければ遠いほど実力を発揮する生粋の狙撃手。元々狩人をしていたようで生き物の肉を捌くことが得意で、いつも美味しいお肉を届けてくれた。
あの子の痛みは、理解しているつもりだった。だけど、理解しているつもりだっただけで、本当に理解はしていなかったのだ。彼女もまた違う方法で天魔と契約して、人間をやめた身だ。ナツキと同等か、それ以上の痛みを味わったことだろう。
歯を食いしばって腹の中でとぐろを巻く百足の天魔が与える痛みに耐え、ようやく徐々に痛みも和らいできた。気持ち悪さは若干残るものの、最初ほどの激痛はもうない。
「はあ、はぁ……ぅえッ、おええッ……はぁ、はッ」
嗚咽を漏らすナツキの背中を、スバルが「姉ちゃん、しっかりして」と泣きそうになりながらも撫でていてくれた。最初は煩わしく感じた彼の体温だが、今ではすっかり心地いいものへと変わった。
脂汗が滲む顔を上げて、ナツキは苦しさを喉の奥へと押し込んで笑ってやる。スバルはナツキへ縋りついて、細々とした声で「ごめん、ごめんなさい……」と謝罪した。心優しい弟のことだ、ナツキ一人に苦しいものを全て背負わせたことに負い目を感じているのだろう。
「ふは、ふはは。ようやく決まったか」
黄金色の眼球が愉悦に歪む。
酸っぱさが混じる唾液を無理やり飲み込んで、ナツキは眼球を真正面から睨みつけた。「これでいいのだろう?」とばかりの態度を取る彼女に、闇に浮かぶ眼球がさらに命じてくる。
「次はそこの小僧を眷属にしろ。――最初に生み出す蟲は『強化寄生虫・破壊衝動・殺戮型蟲』だ」
聞き慣れない言葉。
ナツキは闇の命令になど従うものかと睨みつけるものの、嗄れ声は「従わなければ弟の命はないぞ」と黒色の剣山をスバルの背中へ突きつける。
弟を従わせなければ、殺されてしまう。
それでも、いきなり訳の分からないものを生み出せと言われてできる訳がない。
「姉ちゃん」
そっと、握り込まれたナツキの手にスバルが手を重ねてくる。暖かな手のひらから伝わってくる体温が、ナツキの心を穏やかにしていく。
「おれ、平気だから。姉ちゃんが痛いの我慢したんだから、おれも我慢するよ」
ナツキはひどく申し訳なく思った。
天魔憑きになったというのに、目の前の怪物から弟を守ることすらできない。そんな無力な己をただ恥じる。
小さく「ごめんね……」とスバルに謝ると、ナツキは闇が指示した言葉をなぞる。
「『強化寄生虫・破壊衝動・殺戮型蟲』」
その時だ。
腹の中にとぐろを巻く【感染蟲】が、突如として暴れ始めた。再び吐き気を催して、ナツキは自分の口を手のひらで押さえる。
せり上がってくる胃液を喉の奥に押し込んで、ひたすら襲いくる吐き気に耐える。「姉ちゃん!?」とスバルが驚くが、不思議なことに吐き気はすぐに収まった。
代わりに、左腕に痛みが走る。見れば皮膚の下で細長いなにかが蠢いていて、ナツキは思わず「ひッ」と引き攣った悲鳴を上げてしまう。
これはなに?
なにが動いている?
肉を割り裂くような痛みは、先ほど【感染蟲】が体内に潜り込んだ時と同じ感覚だ。めりめりという柔らかいものを引き裂く音が腕の中から聞こえてきて、ナツキは耳を塞ぎたい衝動に駆られた。こんな得体の知れない音を自分の中から聞くなんて、なんと気持ちの悪いことだろうか。
やがて、ぶちりと皮膚が引き裂かれた。鮮血をまとってナツキの腕から這い出てきたのは、黒色の百足だった。幾百もの足を蠕動させてナツキの手のひらを内側から食い破った百足は、ずるりとナツキの足元に落ちると今度はスバルへ這い寄っていく。
「姉ちゃん。おれ、平気だよ。だからそんな心配しないで」
スバルは無理をしたように笑うと、足元までやってきた黒色の百足をすくい上げる。黒色の百足は長い触角をゆらゆらと揺らすものの、ナツキの【感染蟲】のように手のひらを食い破ることはなかった。
黒色の百足を手に乗せて、スバルは百足を頭から飲み込んだ。白い喉が苦しそうに蠢いて、きつく閉ざされた目尻からは生理的な涙が伝い落ちる。
何度も吐き出しそうになりながらも、スバルは黒色の百足を嚥下した。飲み込んだその直後、気持ち悪そうに嗚咽を漏らしていたが、ナツキに対して気丈に微笑みかけて「飲んだよ」と告げる。
「ふは、ふはは。それでいい、それでいい」
黄金色の眼球がますます細められて、嗄れ声は楽しそうに笑う。
「これでいいでしょう。私たちを【閉ざされた理想郷】に返して」
「それはできない」
ナツキの要求をにべもなく断った嗄れ声は、彼女たちの次の反応を本当に楽しみにするように、こう告げた。
その宣告は、ナツキにとっては絶望以外の他ならなかった。
「――貴様の寄生虫を食わせて、この海上の都に人間を集めよ。そして集めた人間を、弟に殺させろ。――人間が生み出す絶望を、我に与えよ」
さもなければ。
そのあとに続く言葉は、もう分かっていた。




