序章【真夜中の殺人】
「はぁ、はぁッ」
夜の闇を引き裂くように。
あるいは恐ろしいなにかから逃げるように。
男は走る。ただ走る。ひたすらひたすら走って走って走って走って、生きる為にひた走る。
「はぁ、はぁ、はぁッ」
息も上がってきた。酸素を吸うたびに肺が軋む。
足が痛みを訴えてくるが、ここで走ることをやめてしまうと、追いかけてくるなにかから逃げ切ることは不可能だ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁッ」
逃げる男を助ける人物は誰もいない。
光の差さない路地裏を転がるようにして走り抜け、すぐそばにあったゴミ箱を蹴飛ばして倒し、積み重ねられた木箱を飛び越えて、少しでも追いかけてくるなにかの阻害になればいいと願う。
しかし、頭のどこかではこれだけで本当に逃げ切れるのか不安なところもある。何故なら現に、背後から忍び寄ってくる筆舌に尽くしがたい恐怖は、障害物程度に足を止める気配は全くない。
「くそ、くそがあッ!!」
堪らず絶叫した。
自分がなにをした。なにもしていない。ただ平穏無事に過ごしていただけだ。いつのまにか地下の世界から地上の世界にきてしまったが、ここは天敵である天魔もいないし過ごしやすい場所だと思っていたのに!
叫んで助けを乞うたところで、今の時間帯は深夜を過ぎたところだ。草木も眠る丑三つ時とはよく言ったもので、おかしなことにこれだけ絶叫しても不審に思った住人が外に出てくることがない。
「あ、あは、あああ」
疲れ切った男は、ようやく狭い路地を抜けた。
パッと視界が開け、閉店した店が整然と並ぶ商店街に出てくる。青白い月明かりが目に眩しく、男は息苦しさを訴えてくる胸元を押さえる。頰を汗が伝い落ちていき、荒々しい呼気が深夜の商店街に落ちる。
人通りは皆無で、男は安堵したようにその場に座り込んでしまった。
これで安心だ。少し休んで、どこかの建物に身を隠せば終わり。
――そう思っていたはずだった。
ずるり。
ずるり。
なにかを引きずる音が、男の耳朶に触れる。
そんな、まさか。だって今の今まで男を追いかけていたはずなのに、どうして。
もしかして、思考を先読みして男が路地裏から抜ける瞬間を待っていたのか!?
青白い月を背負って、静かな商店街に人影が現れる。ずるりずるりとわざとらしく足を引きずって、じいっと怯える男を観察するように見つめている。背はそれほど高くなく、肉もついていない。中肉中背というのがいい表現だろうか。
さながら幽霊のような覚束ない足取りで、人影は固まって動けない男に歩み寄っていく。ふらふらと頼りなさげに頭を揺らし、ほっそりとしたしなやかな腕を伸ばしてくる。
「ひ、や、あああ」
男の口からは悲鳴すらも出てこない。ひゅ、ひゅ、と息を飲む音と共に単語にすらならない言葉ばかりが漏れ出る。
「お、おれ、おれが、俺がなにをしたんだ!! なにをしたんだよ!!」
ようやく文章らしい悪態を吐けた男だが、その質問に対する答えを人影は与えなかった。
ただ、笑った。
引き裂くように、白い歯を見せて、獰猛に。
「ああ酷い。これは酷い」
「見ていられないね」
「『引き裂き魔』という奴は一体なにがしたいんだ」
夜が明けて、朝がきて。
静かだった商店街が開店の準備を始めた頃に、それは見つかった。
中年の男の死体だった。かろうじて男であると分かるのは、彼の首がまだ原型を留めていたからだろうか。それ以外は本当に無残な有様で、目も当てられないぐらいの惨劇だった。
腹は無理やり左右に引き裂かれ、内臓はぶちぶちと千切られたことで腹から零れ落ち、両手両足はもがれて放り捨てられている。残虐の限りを尽くした殺し方だった。
吐き気を催すような死体に対して野次馬たちは口々に「酷い」だの「怖い」だのと囁く中、たくさんの野次馬から離れた位置から状況を観察していたらしい少女は、今にも泣き出しそうな顔で呟く。
「ごめんなさい」




