第12話【虚構の一手】
【やっぱりこうなってしまうんだね】
「しょうがねえ、しょうがねえ。なにせこれしか劇的に勝てる方法はねえんだから」
夜の闇に沈む白亜の城を前にして、ユフィーリアは仁王立ちしていた。
紺碧の空を貫かんばかりに高い尖塔は銀髪碧眼の美女に妙な威圧感を与えてきて、普通の人ならば今ここで回れ右をしてもおかしくはない。それほどにこの巨大な王城は、荘厳にして悍ましい気配が漂っている。
パレスレジーナ城――此度のユフィーリアの戦場だ。
ユフィーリアの足元にすり寄ってきた三つ目の白猫を介して、上官であるグローリアの申し訳なさそうな声が響く。
【ごめん、ユフィーリア。君の提案した作戦が最善策なんだ。君にだけ負担を強いるようで悪いんだけど】
「おいおい、グローリア。いつになく弱気じゃねえか。お前も【毒婦姫】の毒でも吸って頭をおかしくしたか?」
大胆不敵に笑うユフィーリアは、その態度を変えずに言う。
「お前は全ての天魔憑きを束ねる司令官だろ。ならいつだって、堂々としてりゃいいじゃねえか。立てる作戦は卑怯極まりなく、しかし姿こそは堂々と――いいね、最高だ」
【なんだか酷い言い方に聞こえてくるけど、まあそうだよね。勝つ為にはどんな卑怯な手を使ってでも勝たなければならないことだってあるんだ。正義の味方になりたければ、戦争なんかしてないよ】
いつしか弱気な姿を消し去り、元の堂々とした態度を取り戻したグローリアは告げる。
【それでは作戦を開始する。ユフィーリア・エイクトベル、健闘を祈る】
「了解。――あ、その前にグローリア。ショウ坊にちょっと通信を繋げてくれ」
パレスレジーナ城に踏み込もうとしたユフィーリアは、ふと足を止めて相棒に通信を繋げるように頼む。
グローリアは特になんの疑問も持たずに【ちょっと待ってね】と応じると、一〇秒もしないうちに白猫から別の声が聞こえてきた。静かで、穏やかで、そして凛とした少年の声だ。
「よう、ショウ坊。緊張してるか?」
【いつも通りだ】
「そうかい。だったらお前の腕には期待できそうだな」
いつものような淡々とした口調でつっけんどんな返答をするショウに、ユフィーリアは苦笑した。彼の態度もいつも通りだ。北戦線でも、大量の天魔に囲まれていながら慌てふためくことはなかったのだから当然か。
「じゃあ、俺の命は預けたぜ。――頼むぞ相棒」
【――――了解】
少しの間をおいて淡々と応じたショウとの会話は、ここで終わる。
さて。
深淵がぽっかりと口を開いているかのようなパレスレジーナ城の玄関から、甘い香りが風に乗って漂ってくる。命を削る死の芳香。今回は一人で挑まねばならず、ユフィーリアを死の淵から引き上げてくれる味方はいない。
それでも、ユフィーリアが恐れることはなかった。自分の目論見は必ず成功する。彼女はそう確信しているのである。
「それじゃ、グローリア。あとは頼むぜ」
【うん、気をつけて】
頑丈な軍靴に頭を擦りつけてきた白猫は、未練はないとばかりにスタコラサッサと走り去った。意外と薄情な使い魔である。
ユフィーリアはやれやれと肩を竦めると、花の香りで満たされたパレスレジーナ城に足を踏み入れた。
奥へ奥へと目指していくにつれて、花の香りも濃度を増してきた。噎せ返りそうなほどの甘い香りに、ユフィーリアはひっそりと顔を顰める。
偽宮を過ぎ去り、今は真宮を目指している途中である。不気味な絵画に「これいくらするんだろうな」という視線をくれてやり、ユフィーリアは立ち止まることなく猛毒の中を突き進んでいく。その足取りに迷いはなく、確実に死へと近づいているのに恐れすら感じさせない。
軽快に大理石の廊下を歩いていき、真宮へと着実に近づいていくユフィーリア。一人だからか周辺に気を使うことなく、歩調も軽々とした様子で、五分もしないうちに真宮へ辿り着いた。昼間はショウの体調を気遣いながら歩いていた節があるので、一人であれば気楽なものである。
(さーて、お姫様はいらっしゃるかなっと)
それとも深夜だからか寝ているだろうか。
だとしたら好都合、寝首を掻いてしまえばいい。動かなければただの的だ。切断術もすぐに当たる。
しかし、寝ていないのだとしたら――。
(寝てる可能性は低いと見ろ。相手は天魔、人類を脅かした怪物だ。状況は上手く運ばない、常に最悪を想定しろ)
都合のいい方向へと考えようとする思考回路を無理やり修正して、ユフィーリアは逸る心臓を落ち着かせる。豊かな胸の奥では、命の脈動を感じさせる肉の塊がどくどくと鼓動を響かせている。水を打ったように静かな王宮の中なら、ユフィーリアの心臓の音すら聞こえてしまうだろう。
いつのまに閉ざされていたのか、ぴったりと真宮の扉は閉まっていた。その隙間からは猛毒がこれでもかと漏れ出していて、ユフィーリアは小さな咳を漏らす。喉が焼けつくような痛みはなんとか飲み込んで、ユフィーリアは真宮の扉を押し開けた。
ギィ、と蝶番の軋む音が壮麗な玉座の間に落ちる。嵌め込まれたステンドグラスから差し込む極彩色の光は、夜の闇に沈む広間を明るく照らしている。だが空気の流れはとても悪く、目眩がするほどの猛毒によって玉座の間は満たされていた。
そして、やはり彼女はそこにいた。
【毒婦姫】。
紫色の蓬髪を胸元に垂らした彼女は、器用に立ったまま眠っていた。高い天井すれすれに頭があり、太い蛇の体はとぐろを巻き、ピクリとすら動く気配はない。あの体勢で眠れるとは、ある意味尊敬できる。
「……………………んん?」
ユフィーリアの気配を感じ取ったのか、ずるずると蛇の体が動き出す。【毒婦姫】は眠たげに紫色の瞳を擦って、閨の代わりにしている玉座の間に侵入してきたユフィーリアを睥睨する。
豊かな胸元を上手く覆い隠す蓬髪だが、身じろぎしたせいでちょっと見えてしまっていた。なんかこれから殺す相手なのに、いいものを見せてもらった気がする。
「…………【銀月鬼】? 【銀月鬼】なの?」
【毒婦姫】の声に明るさが差し込む。
ユフィーリアは胸中で「きやがったな」と呻いた。いつもなら「【銀月鬼】じゃねえ!!」と怒鳴り返すところだが、そうしないのは喉が焼けるほどの猛毒に耐えているからか。
外套の内側からいつも吸っている毒の煙草を取り出して、黒い煙草の先端を咥える。マッチで先端に火を灯したユフィーリアは、薬品めいた匂いのする紫煙をゆっくりと吐き出す。毒に侵された肺に、煙草の煙が染み込んでいく。
改めて【毒婦姫】を見上げたユフィーリアは、さながら騎士のように恭しくお辞儀をしてみせた。
「お初にお目にかかります、【毒婦姫】」
鈴を転がすような美しい声が紡ぐのは、穏やかさを感じる優しい口調だった。ユフィーリアが平素から使う汚い言葉とは打って変わって、気品のある礼儀正しい言葉である。
ゆっくりと頭を上げたユフィーリアは、キョトンとした様子の【毒婦姫】へ視線をやって優雅に微笑む。
これこそが、ユフィーリアが思いついた最善策だった。
「私が【銀月鬼】です」
――すなわち、【銀月鬼】になりきること。
【毒婦姫】はユフィーリア・エイクトベルのことを、彼女自身に取り憑く天魔の【銀月鬼】として認識している。悲しいことに幾度となく間違えられ、自ら訂正しなければ気づいてもらえないぐらいに似ているらしい。まあ天魔憑きは、契約した天魔に合わせてその体が作り変えられるので、似てしまうのは仕方ないのだが。
いつもだったら訂正しているところだったが、今回ばかりは上手く利用させてもらうことにした。【銀月鬼】になりきれば、余計な戦闘をしなくて済む。
さて、相手はどう出るか。
ユフィーリアがなりきる【銀月鬼】を偽物だと判断するか、それとも本物だとして受け入れるか。もし偽物だと判断されれば、挑発に挑発を重ねて外まで誘き出さなければならない。ユフィーリアには【毒婦姫】を外に連れ出すという任務があるのだ。
なんとしてでも外に連れ出さなれけば――たとえそれが、如何なる卑劣な手段を用いたとしても。
「……………………」
【毒婦姫】は紫色の瞳を瞬かせて、それから桜色の唇をムッと尖らせた。大人な見た目に似合わず子供らしい仕草を見せる彼女は、拗ねたような口調で言う。
「壁があるみたいで嫌。私はもっと、貴女と仲良くなりたいのに」
――これは、受け入れられたのだろうか。
ユフィーリアは表情に出さず、安堵の息を吐き出す。【毒婦姫】の認識は騙せたようだ。あとはどうやって彼女を外に連れ出すかが問題になってくる。
「これは失礼いたしました。ですがこれが私の性分ですので、ご容赦を」
「話には聞いているけれど、本当にどこまでも丁寧な天魔なのね。それでいて雄々しいほどの強さを有するだなんて、まるで矛盾だわ。――そこが好きなの」
うっとりと恍惚とした表情を浮かべた【毒婦姫】が、その美貌をグッと近づけてくる。鼻先をくすぐる花の香り。喉の奥までせり上がってきた血の味を、吐くほど苦い煙と共に胃の腑へと流し込み、ユフィーリアは取り繕うように朗らかな笑みを見せた。
思った通りだ。【毒婦姫】は【銀月鬼】に対して、なんらかの好意的な感情を抱いている。それが憧れであるのか、純粋な恋心であるのか不明だが、ユフィーリアたる【銀月鬼】に真っ直ぐな好意を寄せているのであればそれを利用しない手はない。
言っただろう――どんな手を使ってでも勝たなければならないのだ。それがたとえ、怪物が抱く恋心であっても利用できるものは戦術として組み込むのだ。
豊かな胸の前で手を組んだ【毒婦姫】は、やはり楽しそうに想いを馳せる。
「ああ、ああ。どれほどこの時を待ち侘びたのかしら! 私、貴女とたくさんお話ししたかったの。仲良くなりたいの。でも貴女は人間の味方をするでしょう? だから今までお話しできる機会を窺っていたのだけれど」
「奇遇ですね。私も君と話がしてみたいと思っていたところです」
ぱちくりと紫色の瞳で瞬きをする【毒婦姫】は、ユフィーリアの言葉に面食らったようだった。彼女からしてみれば仲良くなりたいと強く望んだ相手からの、またとないお誘いだ。
一方で、なにか裏があるのではないかと疑うのも事実である。ユフィーリアの誘いを吟味し、それが果たして真実かどうか見極めて、なおも悩んでいる様子の猛毒の姫君へあと一押しとばかりにユフィーリアは言う。
「今宵は月が綺麗です。こんな空気のこもった部屋に閉じこもっているなど、もったいないとは思いませんか。よろしければ、私が城の外までエスコートしましょう。――どうか私の誘いに乗ってはいただけませんか?」
「ッ!!」
気障ったらしく手を差し伸べてみたが、相手からすると効果覿面だったようだ。
花が綻ぶような笑みを浮かべた彼女は、はっきりと頷いて「ええ、是非!!」とユフィーリアの誘いに飛びついた。疑う余地すらなかった。
「すぐに行きましょう!! すぐに!!」
「そんなにお急ぎになると危ないですよ」
「あら、やだ。私ったらはしたない。――でも分かってくれるわよね、【銀月鬼】? 昼間は無粋な連中に邪魔されたんだもの。そんな貴女からデートのお誘いだなんて、まるで神様からの贈り物ね」
乙女の顔で微笑む【毒婦姫】は、本当に心の底から【銀月鬼】を敬愛しているようだった。デートに誘われたのが嬉しくてたまらないのか、太い蛇の体が玉座の間全体を這いずり回っている。敵対していなければ「可愛らしい一面もあるものだ」と微笑ましく思っただろうが、残念ながら相手は容赦なくこちらの命を削ってくる怪物である。悲しきかな、彼女は生きているだけで罪なのだ。
せめて人間と契約をすれば少しはマシになるだろうが、【毒婦姫】という天魔は人間を塵芥と称した。嫌っているのは自明の理である。
煙草による毒で【毒婦姫】から絶えず噴出される毒をなんとか中和させながら、活動可能限界時間を超えて【毒婦姫】と向かい合うユフィーリアは、ゆっくりとその手を差し出してやる。気分は淑女をエスコートする紳士だ。
「それでは参りましょうか、レディ?」
「嬉しいわ。なんだか【銀月鬼】ったら、王子様みたい」
わざわざ高い位置にある本体をグッと下げて同じ高さにして、【毒婦姫】はユフィーリアの差し出した手に手のひらを重ねてきた。それから楽しそうに鼻歌まで歌いながら、ずるずると蛇の体を這いずらせて玉座の間から移動し始める。
デートに至極ご満悦の様子である【毒婦姫】は、ユフィーリアの腕にしがみついて「ねえねえ」と甘い声を出す。
「【銀月鬼】はどこで生まれたの? どうしたらそんなに強くなれたの?」
「お、おう――ああ、いえ。失礼。そういったことは秘密とさせていただきます」
思わず素が出てしまいそうになり、慌ててユフィーリアは取り繕う。
正直なところ、ユフィーリアは【銀月鬼】の出身地だとか強さの秘密だとか全く知らないのである。深層意識の中に存在する【銀月鬼】に語りかけたところで、うんともすんとも言わないのだ。それなのにどう答えろと。
そんなことより。
表面上は穏やかに微笑んでいるものの、ユフィーリアの内心は嵐のように荒ぶっていた。それもそのはず、【毒婦姫】がふしだらにも腕を組んできたからだ。
ここで【毒婦姫】の姿をおさらいしてみよう。
まずは紫色の蓬髪――これはいい。長く豊かな頭髪は意外と触り心地がよく、ユフィーリアの頬を撫でる毛先は高級な絹のようだ。見た目こそボサボサで手入れなどされていないようにも見えるだろうが、凝った手入れなど必要ないぐらいに質がいい。いつまでも触っていたいぐらいだ。
言動こそ幼さを残すものであるが、顔つきは淑女のそれである。妖艶であり、人外めいた色気に目眩すら覚える。爛々と輝く紫色の瞳に艶めいた赤い唇、チロリと覗く細い舌がユフィーリアを誘っている。白磁の肌は瑞々しく、同時に生気のなさを感じるほどだ。大人びた顔とは裏腹に子供らしい仕草の矛盾は、ある意味では唆られるというもので。
問題は彼女の体だった。乙女のような態度とは正反対で、彼女の体躯は実に豊満である。豊かな双丘は手のひらから零れ落ちそうなほどであり、キュッと括れた艶かしい腰つきは抱き寄せれば折れてしまいそうな儚さがある。ほっそりとした腕でユフィーリアに抱きつく【毒婦姫】は、白魚のような指先でユフィーリアの戦いすぎてボロボロに傷ついた手のひらを撫でる。その愛おしげな指先と言ったら、本気でユフィーリアの身を心配してくれている様子だ。
ちなみにであるが、彼女は服を着ていない。それでもって抱きついているものだから、剥き出しの果実がムギュッとユフィーリアに押しつけられている状態でして。
(煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ煩悩よ去れ)
はしゃぐ【毒婦姫】には曖昧な笑みを浮かべて応じるユフィーリアだが、内心はもう大荒れである。
絶えず噴出される猛毒を除けば、【毒婦姫】はそんじょそこらの女を凌駕するほどに美人だ。全く、天魔という存在はどうしてこうも美人揃いなのか。思えば【銀月鬼】も相当な美人さんだったような気がしたが、そんなことはさておき。
咥えた煙草を落としそうになったことで、ユフィーリアは我に返る。咥えた煙草がある種のユフィーリアの命綱である。これが燃え尽きた時は新しい煙草を取り出す間もなく、ユフィーリアは喀血することだろう。
(危ねえ危ねえ。そもそも残りも短くなってきてやがる)
偽宮を通り過ぎて、あとは真っ直ぐ続く廊下を辿れば外に出られる。
しかし、それまでにユフィーリアの咥えた煙草が果たしてもつかどうか。
ここでも時間との勝負かとユフィーリアが胸中で舌打ちをすると、するりと【毒婦姫】がユフィーリアから離れていく。なんだと警戒するユフィーリアをよそに、彼女はずるずると蛇の体で這いずって真っ直ぐに伸びた廊下を駆け抜けていく。
その先に待ち受けているのは、夜の世界だ。
(――まさか、外の連中に気づいた!?)
いや、いいや。
最悪の場合を想定すれば気づいたと判断してもおかしくないが、それでもパレスレジーナ城からは距離を取っているはずだ。よほど飛び抜けた視力を有しているか、よほど勘が鋭くなければ気づかない。
いざとなったら後ろから狙ってやる、とユフィーリアが大太刀に手を添えて【毒婦姫】の背中を追いかけるが、懸念は杞憂に終わった。
「――――わあ、本当にお月様が綺麗!」
外の世界に飛び出した【毒婦姫】は、その巨躯を目一杯に伸ばして夜の世界を堪能する。冷たい夜風に紫色の蓬髪を靡かせて、夜空を飾る白銀の星々とぽっかりと浮かぶ青白い三日月に瞳を煌めかせる。両手を伸ばして月を掴み取ろうとするその仕草は外の世界にはしゃぐ子供のそれで、はた目からすれば微笑ましい光景だ。
【毒婦姫】は、夜の世界に喜んでいる様子だった。久方振りに外へ出たとばかりの反応に、追いついたユフィーリアが息を吐く。
(――――ああ、やっぱりな)
短くなった煙草を足元に捨てて、燻る小さな炎を軍靴の底で踏み消す。
冷たい風に乗って花のような香りが鼻孔をくすぐるものの、それは命を削るまでに至らない。おそらく超至近距離から嗅げば堪らず咳き込むことになるだろうが、真宮に閉じこもっているよりもこちらの方が断然いい。
ユフィーリアの煙草と同じなのだ。密室で毒を流せばたちまち死んでしまうし、それを分かっているからこそ【閉ざされた理想郷】――より正確には大衆食堂――では、なるべく煙草を吸わないようにしているのだ。箱の中に閉じこもる大多数の人間が、ユフィーリアの毒に塗れた紫煙によって中毒死してしまうのを避ける為に。
真宮は閉ざされた空間だった。そこに居座り続ければ、ただでさえ危険な毒が濃度を増してより危険な毒となってしまうのは当たり前である。
だからこそ。
ユフィーリアは【銀月鬼】に扮してまで、【毒婦姫】を外に連れ出すことにしたのだ。そうすれば、どんな状況になっても戦いやすい。
ようやくマシな空気を吸えることになったユフィーリアは、深呼吸を繰り返して静かな空気を肺の中に取り込んでいく。中に混じる花の香りは、この際ご愛嬌だ。この程度であれば、ユフィーリアの対毒性で十分に耐えられる。
「ねえ【銀月鬼】!! 私に話があるのでしょう?」
荒れ果てた城の前庭でくるりくるりと舞い踊っていた【毒婦姫】は、にこやかな笑みをこちらに向けてくる。
ユフィーリアは銀髪を掻いて、せめて最期まで付き合ってやるかと思考回路を切り替える。
「【毒婦姫】――できることなら、違う形で出会えればどれだけ嬉しかったでしょう。君の無邪気さは心の底から愛おしく思い、可能ならばいつまでもこうして語り合っていたいところですが」
そこまで言えば、いくら子供の如き無邪気さを持ち合わせる【毒婦姫】とて気づく。彼女はその美貌を「嘘よね……?」と言わんばかりに引き攣らせている。
残念ながら、嘘でもハッタリでもないのだ。今だけは。
「ここで、お別れだ」
最後の瞬間に口調を元に戻して、ユフィーリアは引き裂くような笑みを浮かべた。
その時。
呆然と立ち尽くす【毒婦姫】のちょうど心臓の辺りに、赤い光線が突き刺さった。
☆
花の香りが、夜風に乗ってショウの鼻孔をくすぐった。
鼻先まで覆う黒い口布の位置を直し、ショウはパレスレジーナ城から遠く離れた建物の屋上から目的地へと視線を固定する。
ぽっかりと開いたパレスレジーナ城の玄関から、巨大な体を持つ女が飛び出してきた。紫色の蓬髪を夜風に靡かせて、花が綻ぶような笑みを美貌に張りつけている。距離があるのでなにを話しているのかまでは分からないが、懸命に両手を空へ伸ばしている様は、その巨躯を目一杯に利用して紺碧の空に浮かぶ三日月を手に入れようとしているようだ。見た目こそ妙齢の女性であるのに、中身はひどく幼い。
あれが【毒婦姫】――パレスレジーナ城に居座り続ける怪物。
あの怪物との謁見が叶ったのは相棒であるユフィーリアだけであり、そしてまた彼女を連れ出す役割を負ったのもユフィーリアである。ショウも【毒婦姫】が閉じこもる真なる玉座の間――真宮まで一緒に行ったはずだが、ショウ自身には毒の耐性がなく部屋の前で待っているしかできなかった。
「…………あれほどの大きさであれば、当てるのは容易だ」
自分に言い聞かせるようにして呟いたショウは、両手で抱えた装備を構えた。
マスケット銃である。銀色の銃身には溝が刻み込まれ、撃鉄の部分には赤い石が埋め込まれている。一般的なマスケット銃とは違い、分解できるような箇所が見当たらない。
これは、ユフィーリアが貸し与えてくれた装備だった。曰く「お前の方が上手く扱えるだろ」らしいが、果たしてどうだろうか。
初めてこのマスケット銃を目の当たりにしたのは、第零遊撃隊としての初任務の際だった。両手で数え切れないほどの天魔に囲まれたあの時、最後に降ってきた水の虎がショウにとっては最大の鬼門だった。
火葬術は水に弱い。雨に降られれば濡れて炎は消えてしまうし、水を蒸発させるほどの炎を扱えば今度は体力がもたない。大量の天魔を火葬した直後に現れた敵に対応できるほどの体力が残っていなかったショウを守るように、ユフィーリアがあの水の虎に立ち塞がったのだ。その時に水の虎が出した眷属の一体を屠ったのが、このマスケット銃なのだ。
片手で扱えるほど軽いものではないし、狙いもろくにつけずに引き金を引けばあらぬ方向へ飛んでいくのは必然だ。ユフィーリアの扱い方は少し特殊であり、正攻法しか知り得ぬショウは己のやり方に従う他はなかった。
長い銃身を手で支え、冷たい銃把に頬を当てる。照準は片目だけ。しかしその狙いがブレることはない。
「――お前、的当て得意か?」
その問いに対して、ショウは「得意だと思う」という曖昧な答え方をした。回転式拳銃を得物とするから重火器の扱いは慣れているが、的当ては正直なところ自信はない。ショウの得意な戦術は広範囲を焼き払うことにあり、正確な狙いを定めて攻撃することはあまりやらない。
それでも、ユフィーリアには満足のいく答えだったようだ。彼女は「そうかそうか」と笑って、不思議な外套の内側からこのマスケット銃を引っ張り出してきたのだ。
「じゃあこいつをお前に預ける。お前の方が上手く扱えるだろ」
軽い調子でそんなことを告げて、ユフィーリアは今しがた閃いた作戦――【銀月鬼】になりすまして【毒婦姫】を騙し、外に連れ出す作戦をグローリアに提案しにいってしまったのだ。
「期待に応えられるかどうか不明だが――」
彼女は言ったのだ、「俺の命は預けたぜ」と。命を預かっているのであれば、その想いに報いるのは当然だ。
狙いを定めた【毒婦姫】が、パレスレジーナ城へと振り返った。無防備に背中を見せている。ショウは引き金に指を添え、息を止めた。
外してしまったらどうしようという不安も、もちろんある。
だが、それよりも。
視界の先にいた銀髪碧眼の美女が、見慣れた大胆不敵な笑みを浮かべた。
それが、ショウにとっての合図となる。
遠く離れた位置では、とても彼女の言葉を拾うことはできない。それでも自信を持って笑い飛ばす彼女の期待には、沿わなければ。
何故ならショウは、ユフィーリア・エイクトベルの相棒だからだ。
――ここで、お別れだ。
彼女の桜色の唇が、言葉を紡ぐ。
その行為を皮切りに、ショウは一息に引き金を引く。耳元で硬いなにかが砕け散る音が聞こえ、赤い光が視線の端を高速で流れていく。【毒婦姫】の無防備な背中に照準を合わせた銃口に溝から流れた赤い光が収束すると、銃声を轟かせることなく夜の世界を引き裂いて射出される。
赤い光は見事に、【毒婦姫】の背中を通り抜け、心臓を貫いた。




