第10話【助言】
落ちていく。
落ちていく。
どこまでも、どこまでも、終わりのない深淵にユフィーリアは落ちていく。
(――――あー、この感覚。久々だな)
ここ二年はなかったはずだが、また急にどうして。
ユフィーリアは目の前に広がる闇に手を伸ばす。掴めはしないのだが、ピンと伸びた手は節くれだった男のものだった。指先にできたささくれや手の甲に刻まれた古傷が、戦いを経験した男のものであると物語っている。それはかつて、ユフィーリアが男だった時の手だった。
髪の毛も銀髪から闇に解ける黒髪へと変貌を遂げ、身長も女の時からぐんと伸びている。筋肉もがっしりとついていて、極めつけに胸がない。当然だ、今のユフィーリアは男なのだから。
深淵へ落ちていくというより、深淵へと潜行していく感覚に近いだろうか。ともあれ背中から落ちていっている体勢を変えて、ユフィーリアは足場すら存在しないはずの闇の中に両足で着地を果たした。ここの世界はいつもこんな感じなのだ。久々の感覚とはいえ、経験しているのであれば着地は容易い。
闇の中に着地すると同時に、足元の闇から白い波紋が生まれた。さながら水面のように揺らめく足元を一瞥し、ユフィーリアは正面を向く。それから口の端を持ち上げた。
「よう、【銀月鬼】。二年ぶりだな」
「やあ、ユフィーリア。二年ぶりだね」
ユフィーリアと一〇歩分の間隔を置いて立っていたのは、銀髪碧眼の美女だった。
透き通るような銀髪は膝裏に届くまで長く、青い瞳は宝石の如き輝きを放っている。作り物めいた顔立ちは浮世離れした印象を受け、ユフィーリアの知り得る異性の中でもとびきりの美貌だと言えよう。白磁の肌は瑞々しさがあるものの、どこか正気がないようにも見える。
東洋の結婚装束である『白無垢』を想起させる純白の着物を身につけた彼女は、身の丈ほどの大太刀を携えていた。白鞘に納められたそれを腰に佩き、すらりと伸びた足は漆塗りの下駄を履く。清楚さと気高さが同居したかのような美女だが、その額からは禍々しい雰囲気をまとう鬼の角が伸びていた。
血の気の通わない口元に笑みを浮かべた銀髪碧眼の鬼――【銀月鬼】は豊満な胸の下で腕を組む。
「随分と久々な気がするけれど、君は成長しないね」
「そりゃそうだろ。天魔憑きは成長しねえ、永遠に時間を止められちまってるからな」
「おや、私が言っているのは精神的な話だが?」
「喧しい。俺はいつだって少年の心を忘れないの」
ユフィーリアの言い訳じみた返し方がツボにはまったのか、くすくすと楽しそうに【銀月鬼】は笑う。こうして見る限りでは、天魔であるはずの彼女も人間のようにも見える。人と同じような姿形をしているが、その中身は人智を超えた生命力を有している。
【銀月鬼】といえば、天魔最強と名高い怪物である。その美しい見た目とは裏腹に、神速の居合術の使い手であり、視界に入った如何なるものでも切断する『切断術』を行使する。見つめられれば最後、首が落ちるとも囁かれ、彼女の前に立って生きて帰った人間はいない。神速の居合のみならず彼女自身の力も突出していて、その剛腕で殴られればに脆弱な人間など肉片になるとされている。楚々とした美しさとは対照的な荒々しい戦闘力を持つ彼女は、敵である人間からも味方である天魔からも恐れられた。
そんな彼女と契約を果たしたのは、本当になにかの間違いではないかと思うのだ。穏やかな口調をし、理性的な印象を受けるけれど、彼女は天魔最強だ。前線に立ち、数多の怪物を率いて戦う英雄的な象徴とも言えようか。
「なあ、【銀月鬼】よ。やっぱり俺と契約をしたのは間違いじゃねえのか?」
「おや、どうして?」
「お前は天魔最強だ。天魔の中で最も強いと言われてる。英雄だなんだと呼ばれてもおかしくないのに、どうして俺と契約して全てを託した?」
ユフィーリアは【銀月鬼】から、彼女の『切断術』とその他諸々の戦闘知識も受け継いだ。紛れもなく最強に取って代わったのだ。
でも、最強ならば【毒婦姫】の毒如きに耐えられずにしてどうするのだ。最強なのに、無様に敵前逃亡をした。――敵前逃亡するしかできなかったのだ。
沈んだ面持ちを見せるユフィーリアに対して、【銀月鬼】はあっけらかんとした口調で言う。
「なにを言うかと思えば。君は私を『助けて』くれると言っただろうに。だから私はあの時、君に私の全てを託したのだ。――私の願いを聞き届けてくれると言った君に」
青い瞳が爛々と輝く。
【銀月鬼】との契約において、ユフィーリアは彼女のたった一つの願いを叶える代わりに全てを受け継いだ。
それが、天魔の殲滅だ。
「私は、その、自分で言うのもあれだが強かった。とてもとても強かった。だからその強さが疎ましく思われていたのだろうね。凌辱され、手足も折られて、満身創痍となって、この世のなにもかもを恨みながら死んでいくのかと思った時に、君が現れたのだから」
そうして【銀月鬼】の力を受け継ぎ、最強の座にのし上がったユフィーリアは、天魔の殲滅を成し遂げる為に戦い続けるのだ。たとえそれが一人になったとしても、仲間を失って孤独になったとしても――【銀月鬼】との契約を履行する為に、一体でも多くの天魔を屠るのだ。
「君の中から見ていたよ。【毒婦姫】か、確かに厄介な相手だね」
「弱点とかねえの?」
「ない。実のところ、私は彼女に会ったことすらない。反応からして彼女が私のことを知っているのは判断できるが、なにぶん私は天魔の存在そのものをすでに唾棄すべき敵だと認識しているからね。切ってしまえば終了だ」
あははは、と軽い調子で笑う【銀月鬼】を相手に、ユフィーリアは殴りたい衝動に駆られた。ちょっと拳も構えてしまった。
最強と名高いのであれば、少しはマシな対処法を教えてくれるかと期待したのに。ユフィーリアは小さく舌打ちをすると、【銀月鬼】は思い出したかのように「そうだ」と口を開く。
「君の相棒になったあれ。確か、えっと、そう【火神】だったかな。あれはいい奴だよ」
「お前の口からいい奴とか言うの珍しくねえ? 全部の天魔を恨んでるんだろ?」
「確かに天魔の殲滅を君にお願いとして提示したけれど、人間と契約をした天魔は少し考えてもいいかな。なにせ、彼らには理性がある。そして彼らは彼らなりの理由があり、意思がある。少なくとも野蛮な雑魚とは違うさ」
常々思うのだが、どうにもこの【銀月鬼】がなにを考えているのかよく分からない。天魔の殲滅を頼んだはずなのに、人間と契約した天魔の存在は見逃すようだ。
納得いかないと言いたげにユフィーリアは自前の黒髪をぐしゃぐしゃと掻き毟ると、
「ユフィーリア」
「……ンだよ」
「君は私とは違う。私は常に一人で戦っていた。朝も昼も夜も、関係なく。人間だろうと天魔だろうと殺したよ」
少し寂しそうに笑う【銀月鬼】は、心底羨ましいとでも言いたげに、
「でも君は、たくさんの仲間がいる。なによりその隣には、対等に戦えるだけの存在がいる。そのことをしっかりと、頭に入れておきなさい」
「…………ケッ。言われなくても」
当たり前のことを指摘されて、ユフィーリアはプイとそっぽを向いた。
言われなくても分かっているつもりだった。
【銀月鬼】はやれやれと言わんばかりに肩を竦めてみせて、「きちんと理解しているのやら」と呟いた。
「ほら、もう行きなさい。君の愛すべき仲間が待っているよ」
「分かりきったことをわざわざ確認させる為に呼び出すんなら、ちったァ最強らしい戦術の一つでも伝授しろよな」
ここ二年ぐらいはこうして【銀月鬼】と面と向かって会話することなどなかったのだが、今日に限ってどうして呼び出してくるのか見当がつかなかった。それでも彼女のやりたいことなど微塵も理解できない自信があったので、ユフィーリアは悪態を吐きながらも言われた通りに深淵から立ち去ろうとする。
すると、【銀月鬼】が思い出したように「そうだ」と口を開いた。
「実のところ、私は室内戦が不得手でね」
「だろうな。切断術は見えてるモンしか切れねえんだろ、室内だったら視界が狭まるのは当然だろうがよ」
「そうだとも。だから私はいつも、室内にいる敵は外まで誘い出すことにしていた。君も参考にしてみるといい」
朗らかに笑う【銀月鬼】は、ご丁寧にも手まで振ってユフィーリアを見送った。
彼女がなにを言いたいのか分からないのだが、ユフィーリアは「ああ、うん。そうする」と適当に頷いてさっさと深淵から立ち去ることにした。
誰もいない、なにも聞こえない、本当の本当に無の空間。
長きに渡って宿主であるユフィーリア・エイクトベルの深層意識に閉じこもる【銀月鬼】は、ユフィーリアが立ち去った方向を見据える。
ユフィーリア・エイクトベルは、間違いなく強い。天魔最強と謳われた【銀月鬼】でさえも、彼の可能性には舌を巻いた。
思えば、出会った時もそうだった。彼は人間の身でありながら、単騎で天魔を何体も屠っていたではないか。人間の時から卓抜した身体能力を有し、あらゆる場面を想定した戦闘知識を蓄えている。そしてなにより、彼もまた居合術の使い手だったのだ。
「ユフィーリア、私は君に力を託すことができてよかったと思っているよ」
これはまさしく、神々が巡り合わせた運命だ。出会うべくしてユフィーリア・エイクトベルと【銀月鬼】は出会ったのだ。
紛れもなく彼も最強と呼ばれる英雄であり、自分の異能力を存分に引き出してくれるだろうと判断した。その目論みは見事に的中し、元々の所有者である【銀月鬼】よりも彼は切断術を使いこなしている。
「同族から辱めを受けるより前に出会っていても、私は君に私の全てを託していただろう。それぐらいに私は君のことを気に入っているのだよ」
さて。
彼は一体どんな戦いを見せてくれるのだろうか。
彼の言う【毒婦姫】との戦いはこれからだ。きっと彼ならば、痛快な喜劇を見せてくれるに違いない。




