第9話【猛毒の中で嗤う姫君】
多分、一生経験することのないことをしている自覚はある。
無人とはいえパレスレジーナ城は世界最大級の城として有名であり、その荘厳な外観は息を呑むほど美しい。もちろん普段ならばおいそれと入ることはできず、きっと騎士団を通してようやくパレスレジーナ城に入ることが許されるのだろう。
つまり、なにが言いたいか。
騎士団の警備が敷かれていないパレスレジーナ城に正面から堂々と乗り込むのは、今後も経験することはない。
「敵影」
「なし」
短い単語を交わして、ユフィーリアとショウはパレスレジーナ城の門を潜り抜けた。鉄製の門扉は無残にひん曲げられた状態で開かれて、およそ一〇〇年近くも放置された影響か草木は枯れてしまっている。遠目から見ると壮麗な白亜の城だったが、近くで見ればなにやら不気味さがこれでもかと醸し出されてくる。
僅かな風に乗って花のような甘い香りが漂ってきて、ユフィーリアは柳眉を寄せた。いつかに嗅いだことのある匂いだ。
「ここから一〇分ということだろうか」
「だろうな。獲物がどこにいるのか分からねえけど、馬鹿みたいにでかいって言ってたしな。見当はついてる」
ユフィーリアはそう言うと、ショウに「火球を一発打ち上げろ」と命令する。ショウは無言で頷くと、回転式拳銃の片方を天空へと向けて一度だけ引き金を引いた。
銃口から放たれた火球が空へと打ち上げられ、ボンッ!! と盛大な爆発音を立てる。それを合図と受け取ったか、遅れてがらーんごろーんという鐘の音が蒼穹に鳴り響いた。
背中を押し出すかのように響く壮大な鐘の音を聞いて、ユフィーリアとショウは同時にパレスレジーナ城へと足を踏み入れた。
随分と掃除がされていないのか、大理石の床は埃が積もり、窓は曇ってしまい、天井の隅には蜘蛛の巣が張ってある。奥から漂ってくる甘い花のような芳香に、ユフィーリアは軽く咳き込んだ。おそらくこれが毒素なのだろう。
「ショウ坊、気をつけろ。もうこの辺りから毒が漂ってきてやがる」
「了解した」
ショウは元より口布という素敵な装備を備えているので多少であれば軽減されるだろうが、ユフィーリアは口元を覆い隠している訳ではない。直に鼻孔をすり抜けてくる毒素に蝕まれる感覚が気持ち悪く、知れず顔を顰めた。
埃だらけの大広間を抜けて、真っ直ぐに伸びる道を辿る。城の奥へ進んでいくにつれて花の匂いも濃度を増し、ユフィーリアは外套の袖で口元を覆った。気休め程度にしかならないが、やらないよりマシだ。ショウも毒の気配を感じ取ったようで、小さな咳を数度ほど漏らしていた。
左右に分かれた廊下を無視して突き進み、二人の歩みは巨大な扉の前で止まる。ぴったりと閉ざされたそこは王都を治める女王陛下が在わす玉座の間であり、普通ならば謁見ということになるだろうが、無人の城にそんな常識が適用されるはずはない。
扉から漏れ出てくる死の芳香に、ショウが囁きかける。
「ここに天魔が?」
「…………いや」
ユフィーリアは否定した。
どこから漏れ出てくるのか不明だが、少なくともこの程度の濃度で一〇分という制限時間を提示するのはおかしい。常に毒を吸い続けている状態ではあるものの、今の濃度であればユフィーリアは三〇分ぐらい耐えられる。グローリアが危険視するほどでもない。
どれぐらいの時間が経過したか確認するべく、ユフィーリアは外套の内側から懐中時計を引っ張り出した。パレスレジーナ城に乗り込んでから、僅か三分しか経過していない。時間にはまだ余裕はあるが、本命がこの向こうにいないのであれば急ぐしかない。
ユフィーリアは懐中時計をしまい、ぴったりと閉ざされた状態の玉座の間の扉を蹴り開けた。バタン!! と勢いよく開いた扉の向こうから、ほんの少しだけ強くなった花の香りが舞う。
広大な玉座の間は伽藍としていて、ステンドグラスから差し込む極彩色の光が静かに室内を照らしている。雛壇に設置された玉座は主人の不在によって物寂しさを醸し出し、同時に得体の知れない不気味さが背筋を撫でる。
埃を被った天鵞絨の絨毯を踏みしめて、ユフィーリアとショウは玉座の間の中央辺りまでやってくる。広々とした室内をぐるりと見渡すが、天魔の姿は存在しない。
「…………いない?」
「やっぱりな」
怪訝な表情を浮かべるショウに対して、ユフィーリアは自分の予感が的中したことをため息と共に吐き捨てる。
どういうことだ、とショウの赤い瞳が物語り、しかし時間が惜しいのでユフィーリアは玉座の間をつかつかと突き進んでいく。無視をしている訳ではないのだ。制限時間が差し迫っているせいである。
後ろから追いかけてくるショウへ振り返ることなく、ユフィーリアは自分の予感が的中した根拠を説明する。
「パレスレジーナ城は二つの玉座の間があるんだよ。今のところは偽宮ってので、国外の客人をもてなす為の部屋だ」
「二つ? ――ということは」
「天魔はもう一つの玉座の間にいるってこった」
馬鹿みたいにでかいとアイゼルネは言っていた。彼の情報が正しければ、パレスレジーナ城でそんな巨体を押し込める部屋は限られてくる。
すなわち、玉座の間だ。
ところが、パレスレジーナ城は玉座の間を二つ有している。一つは先ほどの『偽宮』と呼ばれる部屋であり、王都アルカディアの外からやってきた来賓をもてなす為や式典などで使用される。
そしてもう一つは、パレスレジーナ城の最奥に存在する。
「もう一つの玉座の間は『真宮』って言ってな、王族が自分の臣下に勅命を下す時に使うんだと」
「何故そのような情報を知っている?」
「アイゼ――アイゼルネに聞いた。あいつは色んなところに潜入するのが仕事だからな、建物の構造にはかなり詳しいんだよ」
こと室内戦において、アイゼルネの右に出る天魔憑きはいないだろう。彼はあんなふざけた格好をしているが潜入任務を得意とし、敵に見つかった際に戦う術もきちんと持ち合わせている。特に建物の構造を把握して死角を使った陰険な戦闘を得意としているので、室内戦ではほとんど負けなしと言ってもいいだろう。
そんなアイゼルネより、以前からパレスレジーナ城の構造について聞かされていたのである。面白い建物があったらこっちが「もういい」と言うまで嬉々として語る彼の話が、今では役に立っていた。
偽の玉座の間――偽宮の奥にカーテンによって隠された扉を開くと、さらに濃い花の匂いがユフィーリアの鼻孔を掠めた。思わず噎せ返ってしまい、軽く咳き込んだ。残り時間が刻一刻と迫っているのだ、ここで足を止める訳にはいかない。
喉が焼けるような感覚に耐え、ユフィーリアはショウを手招きで呼び寄せる。胸焼けする甘い香りにさすがのショウもその美貌を歪めていたが、軽く咳き込んだだけでなにも言及することはなかった。
「この調子だと、本命は真宮の方だな」
「…………」
ユフィーリアの言葉に、ショウが応じることはなかった。彼はかろうじて首をコクコクと縦に振り、ユフィーリアに対して同意を示しただけだった。喋らない方が得策だろう。賢明な判断である。
毒の耐性を持っているユフィーリアでも、この猛毒の空気には少々堪えた。いつ血を吐くか分からない状況だ。気を抜くと指先から痺れてきて刀を抜くことすら危うくなってしまう。
(残りは三分か、四分ぐらいか。一太刀で決めねえと一〇分以内の帰還が難しくなるっつーか、多分こっちの命が危ねえ)
ユフィーリアは胸中で舌打ちをする。
長い回廊を進むたびに濃くなる花の香りに、思考回路まで蝕まれようとしていた。一〇分という制限時間は自然とユフィーリアの心を焦らせ、足取りもどこか早いものへと変わる。この毒に満たされた空気の中を走るのも一つの手だが、その分毒素を多く取り込むこととなってしまい寿命を縮める恐れがある。早足が限界というところだろうか。
噎せ返るほどに濃度が高くなっていく毒の中を突き進むユフィーリアは、ふいに背後から激しく咳き込む声を聞いた。ハッと瞳を見開いて振り返ると、ショウが壁に手をついて苦しそうに喘いでいた。
「ショウ坊!!」
慌ててショウに駆け寄ったユフィーリアは、ショウの手のひらにべっとりと鮮血が付着しているのを目撃した。もう吐血するぐらいに毒を吸い込んでしまったか。これではショウの身がもたない。
「ショウ坊、無理すんな。お前は城の外から回れ」
「…………問題、ない」
口の中に溜まったらしい血を吐き出して、ぜぇぜぇと荒々しい呼吸をしながらも、ショウはユフィーリアの提案を却下した。緩やかに首を横に振り、
「…………強敵を、相手に、貴様を、一人にする訳には、いかない。貴様を、ここで、この作戦で、失う訳には……」
「……………………」
ユフィーリアは歯噛みした。
ショウはユフィーリアを失う訳にはいかないと言った。だが、それはユフィーリアとて同じ思いを抱いている。ショウをここで失う訳にはいかないと思うが故の「外から回ってくれ」という言葉だったのだが、おそらくそう説得したところでこの真面目な少年は梃子でも動かないだろう。
ならば「命令だ」とでもつければ、彼は大人しく外に出てくれるか。空っぽと揶揄されるほどに、ショウは命令に対してひどく忠実だ。「命令だ、外に出てろ」とでも言えば、きっと彼は応じてくれるに違いない。
しかし。
ユフィーリアにはどうしても、彼に「外へ出ろ」という命令を下すことができなかった。猛毒によって思考回路に麻痺が生じたか、正常な判断ができずにいた。彼が問題ないのであれば問題ないのだろうとさえ思った。
「あんまり無理すんなよ。本気でやばくなったら言え」
「了解、した」
激しい咳は変わらず、だが毅然と了解と返すショウに背を向けて、ユフィーリアは真宮を目指す。
残り時間は三分を切った。
心持ち早足で進むことおよそ二分、ユフィーリアとショウの二人を出迎えたのは荘厳な雰囲気を感じる両扉だった。
赤い天鵞絨張りの表面に、そこかしこに金細工を施した豪奢な作りの扉である。本来ならばこの扉の向こうに王都アルカディアを統治する女王陛下が待ち構えていて、ユフィーリアたちはその勅命を受ける側だ。
しかし、今は別の意味の緊張感が漂っていた。扉から漏れ出てくる高濃度の毒はユフィーリアとショウの命をゴリゴリと削っていて、高い毒の耐性を身につけているユフィーリアでさえ咳き込むことを我慢できなかった。ショウは術式で編み出した回転式拳銃の維持すらできなくなったか、その両手はすでに空っぽの状態である。
今にも膝から崩れ落ちてしまいそうになるショウを支えてやり、ユフィーリアは命令を下す。
「俺が行く。お前はここで待ってろ」
「しかし……」
「命令だ。一〇分の鐘が鳴ったら撤退しろ。俺のことは構うな」
伝家の宝刀を振りかざし、ユフィーリアは反論しないことをいいことに残酷な命令をショウに下した。命令とつければ従ってしまう、彼の悪性を利用させてもらった。
案の定、ショウはグッとなにかを言いたそうにしていたが、命令が冗談ではなく本気であることを悟って、絞り出すような声で「了解した」と応じた。彼には申し訳ないことをしたが、もう立つことすら危うい彼を戦場となる真宮に連れ込む訳にはいかない。
ユフィーリアは「悪いな」と言ってショウの頭を乱暴に撫でてやり、それから一人で扉の前に立つ。
隙間から漏れてくる猛毒の空気は、途絶えることがない。ほんの少し吸い込んだだけで気を失ってしまいそうだ。目眩を訴え始めた体に鞭を打ち、ユフィーリアは真宮へと繋がる扉を渾身の力で蹴り開けた。
「やいやい天魔!! ここで会ったが一〇〇年目、大人しくその首を差し出せ!!」
自分を鼓舞するように叫んで真宮へと足を踏み入れたユフィーリアは、その先に広がっていた光景を目の当たりにして息を呑んだ。
偽宮よりもやや狭い程度の真なる玉座の間は、やはり偽物の玉座の間に勝るとも劣らないほど美しい。燃えるような緋色の絨毯に磨き抜かれた大理石、雛壇に据えられた玉座は曇り一つなく女王となる者の帰還を静かに待っている。高い天井には天使が空から降ってくる宗教画が一面に描かれ、一〇〇年が経過した今でも色褪せた様子すら感じられない。
花の香りに包まれた真宮の中心に、それはいた。
「――――――――」
アイゼルネから事前情報として、馬鹿みたいにでかいとは聞いていた。だが、改めてその姿を確認すると自分の中での常識はおかしいのかと錯覚してしまう。
緋色の絨毯を踏みつける蛇の肢体。とぐろを巻いた太い体を持つ紫色の蛇の先は、女の薄い腹と繋がっている。女の上半身を持ち、下半身は大蛇という如何にも怪物らしい天魔がそこにいた。
ユフィーリアに白い背中を向けていた天魔は、ゆっくりと振り返る。天井に届かんばかりの高い位置から、立ち尽くすユフィーリアを睥睨する。
玉座の間はパレスレジーナ城の中でも最も広い部屋だ。そして二つある玉座の間でも、真宮は偽宮に比べるとほんの少しだけ狭い。それでもなお、その巨体を十分に収納できるとは外に出れば相当な大きさとなるだろう。
蛇の体を持つ天魔の女は、おそらくまともな格好をすれば非常に美しいと感じる妙齢の女だった。紫色の蓬髪を垂らし、なにも身につけていない胸元を上手く覆い隠している。気怠げな印象を受ける瞳は毒々しい紫色をしており、真っ赤な唇をチロチロと蛇のように長く薄い舌が這う。艶かしさを醸し出す白磁の肌は劣情を誘い、おそらく世の男はこの毒蛾のような女の見た目に騙されて死に絶えることだろう。
妖しく輝く紫色の瞳をスッと音もなく眇めた天魔の女は、花が綻ぶような笑みを浮かべて嬉々とした明るい声でその名を呼ぶ。
「【銀月鬼】!! 会いにきてくれたの?」
(――――――――ぁ)
大人びた見た目とは裏腹に、彼女はさながら恋する乙女のような反応を見せた。蛇の肢体をずるりずるりとくねらせて這い寄り、天井近くまであった頭をぐいっとユフィーリアに近づけて、うっそりと笑う。
握っただけで折れてしまいそうな細腕を伸ばして、ほっそりとした指先でユフィーリアの頬をくすぐる女は「もうッ」と拗ねたような表情を浮かべる。
「いきなり人間の味方をするなんて酷いじゃない!! あんな塵芥に味方しても、いいことなんてないのよ。【銀月鬼】はいつも弱い方の味方をするんだから!!」
(――――ダメだ)
ぷりぷりと怒った様子の天魔は、ユフィーリアが【銀月鬼】本人であることに気がついていない。
確かにユフィーリアは【銀月鬼】でもある。【銀月鬼】と契約を果たし、かの天魔をその身に宿して人の身を捨てたのだから。
背筋を撫でる寒気にどう反応していいのか分からず立ち尽くしたままだったユフィーリアは、堪らず口元を押さえた。相手が近寄ってきたことで猛毒が押し寄せてきて、焼けつくような喉の痛みに我慢の限界が訪れたのだ。
堪え切れなくなった咳と共に、ユフィーリアは赤い血を吐き出す。ぼたぼたと零れる血が自分のものではないような気がしたが、足先から力が抜けていき、立っていることすらままならなくなる。猛毒に侵された体はついに限界を迎え、とうとうユフィーリアは膝をついた。
(こんな毒、耐えられねえ……ッ!! 一〇分どころか一〇秒だってきついぞ!?)
これだけの至近距離で、しかも無防備に笑っている天魔を相手に一太刀すら浴びせられないユフィーリアは胸中で悪態を吐くしかない。
彼女の全身から漂う猛毒が、容赦なくユフィーリアの体力を削り取っていく。咳に混じって赤い血が口から垂れて、痺れで支配される両足を踏ん張って立とうとするも、無様に床を転がる羽目になる。今までの毒に耐えられていたことが奇跡だ、間近でこんな毒を食らえば普通なら死んでいる。
「どうしたの? あ、ごめんなさい。私の毒のせいかしら? ねえ【銀月鬼】、死なないよね? 私の毒で死なないよね?」
心配そうに顔を覗き込んでくるが、それがユフィーリアの命を削る行為だと彼女は知らないようだ。
激しく咳き込み、血を吐き出しながらユフィーリアは顔を覗き込んでくる天魔を見上げた。死ぬ様子がないということが分かった為か、彼女は嬉しそうに破顔する。
「て、めェ……ッ!!」
「そんな野暮な呼び方は嫌」
天魔はツンとそっぽを向いたと思ったら、視線だけ蹲るユフィーリアへ向けてくる。
「【毒婦姫】よ、そう呼んでくれなきゃ嫌」
彼女はユフィーリアが敵であることを認識していない。だから自分の名前を、こうして簡単に明かしてしまう。
しかし、なんとも安直な名前の天魔である。毒を撒き散らし続ける女だから【毒婦姫】か。確かに『姫』と呼ぶにふさわしい品格と無邪気さを兼ね備えているが、子供のような純粋さでもって命を弄ぶのか。
なにかを反論しようと、せめて悪罵の一つでも吐き捨てられれば。ユフィーリアは唾液の中に混じった血を、大理石の床が汚れることも構わずに吐き出して。
――がらん、がらん、がらん。
けたたましく鳴り響く鐘の音が耳朶を打った。
紫色の蓬髪を揺らして、天井を見上げた【毒婦姫】は鬱陶しそうにその美貌を歪めた。
「なぁに? 外にうるさい羽虫がいるの?」
ずるり、と【毒婦姫】が蛇の体を引きずる。開け放たれたままになっている玉座の間の扉へ向かっているようで、ユフィーリアはそれをなんとかして引き止めようと腰に佩いた大太刀の柄に手をかける。震える指先で鍔を押し上げ、霞み始めた視界に【毒婦姫】の無防備な背中を収める。
行かせる訳にはいかない。たとえすでに一〇分が経過したとしても、この場で【毒婦姫】を切断すればこの作戦は終わるのだから。
それなのに。
「きゃあッ!?」
唐突に、【毒婦姫】が悲鳴を上げる。
驚いたように飛び退いた彼女の脇から、黒くて細いなにかが飛来してくる。虚空を引き裂くようにして玉座の間に現れた黒く細いなにかは、しゅるしゅるとユフィーリアの腕に巻きついた。
それはベルトのようなものだった。黒い革製のベルトで、確かな意思を持ってユフィーリアの腕を締める。
(――――まさかッ)
弾かれたように玉座の間の外を見やると、猛毒の空気の中に佇む少年兵がベルトの先端を握りしめていた。息も絶え絶えの様子でありながら、しかしユフィーリアの命令より先に与えられただろう最高総司令官の命令を果たそうとしている少年。
そんな彼を睨みつけて、【毒婦姫】は金切り声を上げた。
「ちょっと、なにするのよ!!」
怒気を露わにすると同時に、その全身から漂う花の香りが一層濃度を増す。脳味噌を直接ぶん殴られたかのような衝撃が襲いかかってきて、ユフィーリアの意識が飛びかける。
ショウは苦悶の表情を浮かべたまま、ぐいっとユフィーリアの腕に巻きついたベルトを引っ張る。すると、ベルトが勝手に縮み始めてユフィーリアを主人の元まで引きずっていった。
ベルトのされるままに【毒婦姫】の脇をすり抜けて、ユフィーリアは半ば強制的に真宮から引きずり出される。毒の濃度は変わってはいないだろうが、あの高濃度の毒を至近距離で吸い込んでいた為か廊下に出れば幾分かマシになった。
「しょ、ぼう……!!」
「制限時間を告げる鐘の音は鳴った、撤退するぞ」
早口にそう告げたショウは、ユフィーリアを引きずりながら真宮に背を向けて走り出す。猛毒の空気を引き裂くように走る少年の背中に、【毒婦姫】が怒声を叩きつけた。
「待って、待ちなさい!! 【銀月鬼】、【銀月鬼】ィ!!」
ユフィーリアを求めるように叫ぶ彼女の体から、さらに濃度の高い猛毒が噴出される。
脳を揺さぶるほどの衝撃を孕んだそれは、かろうじて繋ぎ止めていたユフィーリアの意識を今度こそ刈り取った。
(――――くそ、くそッ)
深淵の中に沈んでいく意識の中で、ユフィーリアは戦うことなく無様に敵前逃亡するしかできない己の不甲斐なさを恥じた。
敵を目の前にして逃げるよりも、あのまま猛毒に侵されて死んだ方がよかったのではないだろうか。




