たろうさま
盆地の底に住む者達はその山を「たろうさま」と呼んでいた。
天辺が丸く、稜線がなだらかなその様は、大男がどっかりと腰を下ろしているようにも見えるからだ。
だがその優しげな姿は外見だけなのだと、山肌を覆う森に一歩踏み入れば知れる。
「たろうさま」は、厚みは薄いが丈の高い岩の板を大地に突き刺したような山なのだ。
「たろうさま」の頂上には龍神を祀った神社の本殿がある。願えば何でもかなえてくれるという噂だが、そこへ行く道らしい道は無い。
だから大概の者は、まだ道のなだらかな二合目あたりにある下社に参いり、それで満足して帰って行く。
どうしても本殿に行きたいのなら、下社のすぐ裏手から始まるうっそうとした暗い森を抜けねばならない。
森の木々は、根の下に一抱えもある大岩を抱え込んでいる。大岩を上り下り、木の間を抜け、頂上まで一直線、天を突く崖のようなところを這い上がって行く。
時折キノコ狩りが迷い込んだり猪狩りが入り込んだりもするが、大抵、転がり落ち、滑り落ちして、帰らざるを得ない。
たまぁに帰りきれずに岩場に叩き付けられ、身体中から血潮を吹き出して命を落とす輩もいる。そういった岩場の割れ目には不思議とツツジが根付いて、夏の口には岩場が血色の花で覆い尽くされる。
それを見て、
「我欲が強い物は龍神にたたられるのだ」
と、村衆は噂する。
「いや強弱の問題ではない、すこしでも我欲がある物は、皆たたられる」
とまで言う者もいる。
だから下社より奥へ入ろうという者はほとんどいない。
人々は皆、自分が欲を持っていることぐらいは、十分知っている。
その日。
珍しく、身なりの少しばかりいい武士の子が二人、下社より奥へ入っていった。
先を行く方は色黒で背が低く、後に続く方は色白でひょろ長い。だが目鼻立ちは良く似ていた。それに、先を行く子供が着る膝丈袴の小素襖の背に記された小さな紋所と、ついて行く少年の大紋素襖に散らされた紋所は、同じ「上り藤に武の字」だ。
二人が兄弟だというのは、誰の目にも明らかだった。
下社のやしろがはるか背後に見えなくなったころ、不意に先頭が立ち止まり、あたりをきょろきょろと見回した。
あちらこちらで木々の枝が撓い、そこここで茂みの種々が音を立てて揺れている。
殿軍も立ち止まり、森の闇や草の陰の間をぐるっと見、ぽつりと言った。
「弁丸よ、随分といろんなモノがおるな」
背の低い男ノ子……弁丸は、振り返りながらにんまり笑い、
「さすがに協丸は鋭いなぁ」
と、背の高い男ノ子……協丸の頭の上あたりを指差した。
「ほれ、そこ」
協丸は指先を追って見上げた。
横に張り出した太い木の枝から、頭を下にだらりと垂れ下がっている、真っ白いトカゲが、クルリとした目玉でこちらを見ている。大きさは人間の赤子ほどもあろうか。
「うわっ!」
思わず尻餅をついた協丸の耳に、ケタケタという笑い声が三方から聞こえた。
一つは目の前の弁丸の口から、二つは頭の上のトカゲの口から、最後は弁丸のはるか後ろの方から。
「シロ、あまり人を脅かすでない」
その三つ目の笑い声がいう。鈴を鳴らしたような声だ。トカゲはずるずるストンと木から降り、弁丸の脇を二本足で駆け抜けた。
ところがトカゲはすぐに前足を下ろして四つ足走りになった。そして鈴の声の主の足下で猫のように転げた。
白の単衣に紫の袴、帯の後ろに玉串の柄を差込み、下げ髪を稲穂のついた藁で切り結びにしている十三・四歳ばかりに見受けられる娘が、白トカゲを抱き上げた。
白トカゲが顔を埋める単衣の襟には、墨痕淋漓として何やら書かれているが、達筆が過ぎて読むことはできない。
トカゲの頭を撫でる左右の手首と襟首に、七色の水晶をつないだ数珠が光っている。
「お帰り、弁丸」
うれしげに言う娘の顔を、白トカゲが不満顔で見上げていた。
「おう、桜女か」
弁丸は両手を大きく振り回した。
「前に言ったじゃろう、ワシの乳兄妹の桜女じゃ」
ようやっと立ち上がった協丸の目に、紙のように白い顔色をした娘の、墨のように黒々とした瞳が飛び込んできた。
「ほう、あれが……」
「愛らしかろう?」
弁丸が何故か自慢げに言う。確かに、桜女は絵に描いたような愛らしい娘だ。
「うん、そうだな」
「あれは、ワシの嫁じゃ」
「嫁ぇ!?」
協丸が頓狂な声を上げた。弁丸はいたってまじめな顔をして、
「武藤家の跡目は協丸に譲るが、桜女だけは譲らんぞ」
きっぱりと言い切った。
「それは……譲られても困る」
小さな声で協丸はつぶやいた。もっとも、弁丸はその小さな声にまるで気付かなかったらしく、両手を振り回したままで桜女の方へ駆け出した。
「桜女、ババさまはまだ生きてるか?」
シロと呼ばれたオオトカゲに勝るとも劣らない勢いで駆け寄る弁丸を、桜女はきゅっと眉を吊り上げてにらみつけた。