午後の紅茶
紅茶の時間
山本 lemon 栧子
昼休みが終わるころ、五十嵐里江子が事務室の隅の炊事場でマグカップを洗っているとき、五十がらみの背広姿の男性が、社長を訪ねてきた。パート事務員の睦美が応対し、社長室に案内した。
「面接みたいよ」と小声でいい、睦美はお茶を持っていった。男性は背が高く痩せ型で、少し猫背だった。
二十分ほどして、男性は社長室から出てきた。二人に会釈して帰っていく後姿を見ながら、里江子は以前会ったことがあると思った。
直販店の店頭に立てる『富山県産コシヒカリ新米入荷』の幟を整理しながら、睦美が言った。
「もう新米の季節やね。また忙しくなるね」
「明日はたくさん売れると思うわ。運動会や行楽の季節だもん」
「新米を県外へ送る人もぐっと増えるやろうね」
新米が出まわる九月から十月は、里江子と睦美の勤める米穀販売会社は一番忙しい時期である。
午後二時ごろ、県内の大型ショッピングセンターにある七か所の直販店から、在庫のファックスが送られてくる。里江子は直販店の販売状況や在庫管理、旅館、ホテル、給食センターなど大口の取引先の定期配達の全般を管理している。
東側の壁ぎわにファックスとコピー機がおいてあり、机の上には電話とパソコンがある。奥の方に炊事場がある二十坪あまりの事務所で、事務員は里江子と睦美の二人だった。睦美には小学生の子供がいるので、十時から午後三時までのパート勤務となっている。
ファックスはいつも時間通りにくるとは限らない。里江子は先にきたものからパソコンに入力し、忘れている所へ電話したりして、翌日配達する商品のリストを作成する。
米の主力は県内産のコシヒカリだが、最近は「てんてかく」や「ひとめぼれ」という品種もシェアを伸ばしている。無農薬米、無洗米、玄米、七分づき、五分づきと、消費者の好みは年々多様化しているため、品目が多い。銘柄と数字に食い入るように画面を見つめていると、目が疲れてきた。数字がゆがんで見え、目頭を押さえるとじわっと痛みが広がった。
十キロの米袋を日に何個も持ち上げるのと夏バテが重なって、毎年季節の変わり目になると、首筋が凝り固まり、里江子は後頭部が重くなる。首筋は凝り、背中に錘が張り付いたようで眠りが浅くなる。体に汚泥のような疲れが蓄積していく。仕事を休んでこのまま一日寝ていたいと思う日もある。
こんな症状が表れたのは五年ほど前からだ。義父の病気と夫の転勤で忙しく、ある日めまいに襲われた。内科で高血圧と診断され薬をもらったが、不眠が続き体調がなかなか元にもどらなかった。婦人科では更年期でしょうといわれた。漢方薬や体操、温泉などいろいろ試して分かったのは、体の疲れと極度の精神的ストレスが重なったのが原因だということだ。その後、不快なこの症状は毎年季節の変わり目に表れるようになった。先週、右腕が痺れたので整形外科で精密検査を受けた。「頚椎変形症」という病名がつけられ、
「無理をすると首に負担がかかるから、疲れをためないで、休みなさい」
初老の医者が父親のような口調でいった。
休みを取ろうにも、里江子は正社員だから簡単には休めない。五十歳を過ぎ特技も資格もないし、この不景気なご時勢に職を失いたくなかった。息子は大学生で東京に住んでいる。大阪へ単身赴任している夫は月に二回帰ってくる。里江子は義母と二人で古い家を守っている。家族がばらばらに生活しているので、出費がかさむから働いているのだが、仕事は生きがいでもあり辞めたくなかった。しかし、体が何より大切なことも充分分かっているから、体調をいつも気にしながら働いているこのごろなのだ。
整形外科で渡された薬は血行を良くする白い錠剤で、食後三回飲むようにと袋に記されていた。
昼食のあと、その錠剤と水をコップ一杯飲む。錠剤はゆっくり溶け、体内に行き渡り、患部の緊張を少しだけほぐす。
里江子は敷地内にある精米工場へリストを持って行く前に、もう一度数の確認をした。
「睦美さん、二時五十分になったから工場へいってきます。それから社長に頼まれていた書類を作っておいたから、社長室へ持って行って」
「わかりました。明日の発送はこれで全部ですね。それと、直販店の売り出し用ポスターと幟も準備しておきます」
「三時になったら帰ってね」
「はい」と睦美は赤に白字を染め抜いた幟をはためかせた。
戸外は眩しいくらい明るかった。空は青く高く、自然に背筋が伸びた。こんな日を深呼吸日和というらしい。大きく息を吸い、腕を上げたり肩を回したりして凝りをほぐした。
工場の北側を立山行の電車が空気を揺るがして走っていった。青い空に貼り付けたような山脈がくっきり浮かび、紅い彼岸花が揺れて絵のような光景に、ひととき気持ちが和んだ。
工場の白い壁に「清潔第一」のポスターが張ってあった。里江子は入口で手に消毒薬のスプレーをかけた。新型インフルエンザが流行の兆しを見せてから、社内の習慣になっていた。
工場は清掃が行き届き清潔だが、米糠の匂いがした。大型精米機のそばで白い作業着の大橋工場長が機械を点検中だった。
精米機の工程は複雑だ。玄米は比重選別機にかけられ、異物を取り除き、米を大きさによって振り分ける。更に色彩選別機で良い米が残るように振り分ける。それから粗選機でわらや木屑、ゴミをとる。次に金属検査機で異物を徹底的に除去する。いくつもの検査工程を通った玄米は精米され、袋に詰められる。すべてオートメーション化されている。
『口にいれるものだから、厳重な上にさらに厳しい検査を通ってこそおいしい米が供給できる』
会社の理念が、社員に徹底されていた。近年、賞味期限や産地偽装、農薬混入事件まであり、食の安全が脅かされている。一度信用を落とすと、会社の存亡にもかかわるのである。
大橋工場長の下で働く北野郁夫と岡田宏司が十キロ詰めの米袋をチェックし、倉庫へ運ぶ作業中だった。二人とも二十代後半の若者だ。
「皆さんご苦労様です。工場長、これ明日配達の分です。お願いします」
「はい了解。明日は金曜日だし、コシヒカリの新米も出てきたから多いな。さあ一服しようか。紅茶淹れてくれる?」
「はい、今日は最近流行っているジンジャーティはどうですか」
「ジンジャーティ。いいね、それ飲んでみようか」
紅茶好きの大橋がうなずいた。里江子はカップを並べ熱湯を入れ温めた。
大橋は里江子と同い年である。背はあまり高くないががっちりした体躯で、格闘家のように素早く動く。言動にも無駄のない人である。若いころは船乗りでイギリスやインドの港町になんども寄港し、それ以来、紅茶好きなのだと教えてくれた。話すとロマンチストなのが分かる。同い年なのに兄のように頼りがいがあり、友達のような気安さもあった。
里江子も紅茶好きだった。一番好きなのはオレンジシャリマーティだ。数年前、忘年会のあと、大橋の妹が経営する喫茶店へ連れて行ってもらい、初めて飲んだ。オレンジシャリマーティはシャリマー茶にオレンジの薄切りを入れた紅茶である。シャリマーとはインドの花園の名前だと大橋の妹が教えてくれた。彼女は四十代半ばぐらいか。小顔で髪をアップにし、スリムな体に黒のロングスカートが似合う美しい女性だった。
お茶を口に含むと花のような甘い香りが広がり、幸福な気分になった。本当においしかったので、それからすっかり紅茶党になり、大橋に対する親近感が増した。
北野と岡田はもともとコーヒー派だった。
「紅茶はインフルエンザの予防効果があるし、歯垢を取り、口臭を抑えるし、疲労回復とストレス解消、利尿作用、いいことばっかりあるぞ」
大橋が折に触れて紅茶の効用を唱えるので、北野が「本当ですか?」としぶしぶ飲んでみた。
褒めはしないがおいしかったのだろう。今では時々、紅茶を飲むようになった。岡田も影響された。
「俺、紅茶って飲んだことないんすよ。一回飲んでみようかな。とりあえず、レモンは苦手だから、ミルク入れてもらえますか」
岡田は照れたような顔でクマの絵のマグカップを差し出した。
紅茶にした本当の理由は、大橋と北野たちと同じものを飲み、プロ野球や仕事の話をしたかったのだろう。
紅茶は湯の温度が重要だ。茶葉を沸きたての湯でゆっくり蒸らすのがこつである。里江子が淹れる紅茶がうまいと評判になって、精米工場や事務所では里江子のことを「紅茶の時間」とあだ名をつけていた。
紅茶が入るころ、北野たちは工場でかぶる白い帽子をとって、休憩室にやってきた。
「ジンジャーティって思ったより頼りない味だな。もっと濃く淹れたほうがうまいと思う」
「そうね。生姜の香りで、口臭が消える気がするね」
「ところで今朝社長から聞いたんだが、辞めた石田君の代わりに、来週から新しい人が来るそうだ」
紅茶をお代わりして大橋がいった。
「決まったんですね。何歳の人ですか?」
北野が訊いた。彼は学生時代柔道部だった。堂々とした体格をしていた。岡田は野球部出身で毎日ランニングを欠かさないという。二人とも労を惜しまない働き振りが好ましい青年だ。
「五十四、五らしい。前の会社が倒産したそうや」
「結構年食ってますね。社長の知り合いですかね? 名前は?」
北岡の父親ほどの年なので、驚きを隠さない。というのも、米の配達は重労働なのである。腰を痛めてすぐ辞めた者もいる。大橋たちの心配はそこだった。
「確かクズハラといった」
「いま再就職難しいからね。若くないけど、頑張ってもらわないと」
それから今年の新米はうまいという話題になり、ひととき英気を養って、三人はそれぞれの仕事に戻っていった。休憩室の後片付けをしながら里江子は来週からくる人のことを考えていた。クズハラという名は珍しい名字である。里江子はさっき事務所を通っていった男が、かつて同僚だった好恵の夫、葛原郁雄に違いないと思った。やはり見覚えがあったのだ。
三十何年前、里江子は自動車販売会社に勤めていた。五人の女性社員のうち、里江子は年齢が上から三番目で、好恵という一歳年下の同僚がいた。好恵は入社仕立てのころ、いつも里江子に付いて一緒に仕事を覚えていった。葛原はその会社の営業社員だった。いつもストライプや色物のワイシャツを着て、派手なネクタイをしていた。葛原の顔にはどことなく険があって好きになれないタイプだった。
外見だけではない。葛原は客から依頼があってもすぐには行動しないし、取引先や顧客の悪口をいう。朝は遅く来て、洗車や雪かきなどはしない。暇さえあれば煙草を吸っているなまくら者に見えた。しかし、口が上手で女性の顧客の心をつかむのがうまく、販売成績は悪くなかった。
ある日、里江子が葛原に荷物を二階まで上げて欲しいと頼んだことがある。一メートル四方の段ボール箱で里江子の手に余る重さだった。
「それって、僕の仕事ではないだろう」
馬鹿にしたような言い方で葛原が断った。その日残業していた女子は里江子だけだった。
中身は販促品で、営業マンの使うものだった。里江子を無視して新聞を眺めている葛原の態度に、不快感がこみ上げてきた。葛原は荷物運びを命令されたと上司に報告したらしい。命令などと誇張して上司に告げる気が知れなかった。思考が子供並みで責任感のかけらもない、あきれた男という印象が残った。
また、あるとき顧客から葛原へ伝言を頼まれたことがあった。二日後、対応が遅いと苦情が来た。すると葛原は伝言を聞いていないといったのである。支店長の前で、「おとといの昼前、ショウルームで伝えました」「聞いていない」といい合いになった。分かったといったのに忘れたから聞いていないというのだろう。里江子は気分が悪くなるくらい腹がたった。
「嘘をついてまで、責任を私に擦り付けて、どんな利益があるのですか。お客様は迷惑しておられるのに」
「よくも嘘つき呼ばわりしたな」
「確かに伝えたじゃありませんか。どうして聞いていないなんて……これから、葛原さんに伝言するときは、確認印をもらうことにします」
情けなくて涙も出ないが、声は震えていた。平気で嘘をつく葛原が許せなかった。人と争うような人間になるなと、幼いときから祖母に教えられて育った。
自分に非があれば認め、意見が違えば相手の言い分を聞く心の広さももっているつもりだった。だが、失態を隠すための嘘や、責任逃れの嘘は性質が悪い。
「葛原さんって、ほんとに酷い人ですね」と、ダメ押しのようにいった。みんなの前でそんな修羅場を演じたことが恥ずかしかった。この出来事で葛原に対する嫌悪感を増し、里江子の心の深い傷になった。
職場では顧客に対して結束して当たらねばならないのに、信頼関係など全くないことが悲しかった。
社内では真相を知らずに葛原の肩を持つ人もいた。里江子は気が強いとレッテルを張られた。噂に戸を立てることは難しく、言い訳をするわけにもいかず、みじめな思いを長く引きずった。
その後も、請求書の送り間違いや顧客の苦情があるたびに、里江子のミスらしいという噂が流れた。噂が一人歩きすると真実が隠れて、面白おかしく話題にされる。そんなネタを流すのは、葛原だろうと疑った。里江子は追いつめられる立場の危うさを感じ、針のむしろと化した職場を辞めようかと弱気になった。どうして葛原が一女子社員を標的にするのか、理由が分からなかった。こちらが生理的に葛原に嫌悪感をいだくのと同様に、相手も里江子の存在が目障りだったのかもしれない。
針のむしろは自分で取り除くしかない。里江子は今まで以上に明るく振舞い、ショールームを磨いた。来店客に笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶した。里江子の接客を「感じがいい」と客から褒め言葉が支店長に寄せられるようになっていった。
里江子が経営者なら、葛原のような男にはやめてもらう。あのころはバブルの初めごろで、景気も悪くなかった。努力しなくても物が売れたように見える時代だった。しかし、企業は競争に勝つためにしのぎを削っていた。社内ではQC(品質管理)に力を入れていた。品質向上こそが勝ち抜くためのキーワードだった。車の品質がよいのは当然で、誠実な対応で顧客管理をしっかりしないと新車は売れない。サービスの質の向上が求められているのに、葛原にはそれが理解できていないように見えた。葛原にいつかツケが回って信用を落とすことになるに違いない。葛原を反面教師にして、里江子は自分を磨いたのかもしれない。
葛原に対する好恵の評価は甘かった。
「いつもワイシャツの色、素敵よね。煙草を吸うポーズもきまっているわ。彼女いるのかなぁ」
好意を持って見ればキザがおしゃれに見える。好恵は男の外見しか見ていないのかとあきれた。
「わたしはあの人信用できないわ、陰日向があって。付き合うつもり? やめなさいよ」
「どうして? 頼めば鯛焼き買ってきてくれるし、優しいじゃない」
「仕事を頼んでもやらないで、鯛焼き買って来るのが優しさなの?」
そんなものは優しさとは認めない。里江子の忠告を、好恵は嫉妬と解釈したらしい。夢中だからなにも見えないのだ。そのうち目が醒めるから放っておこう。里江子は干渉しないことにした。
好恵はあまり深く物事を考えないし、人のいうことを真に受ける単純さが異性からは可愛らしくみえるらしかった。可愛らしく見せるのは演技だったかもしれない。好恵は葛原と交際を始めた。
「映画に誘われた、プレゼントをもらった」
そんなことを女子社員たちの前で自慢げに言った。そのうち同棲するようになり、好恵は会社を辞めてしまった。同棲は最近ほど市民権がなく、どこか陰湿でだらしないイメージのあった時代である。
「好恵さん、たいしたものね、同棲なんて」
「妊娠したっていうし、結婚できたからよかったじゃない」
「でも式も挙げないんだって。これって寿退社?」
女子社員たちの言い方には棘があった。大卒で家柄のよさそうな若い男は、あのころも結婚相手の理想だった。だから好恵に対する妬みもあったのだろう。
里江子は好恵に文学全集の「風と共に去りぬ」や「レ・ミゼラブル」と、いくらかの金銭を貸していた。「ちょっと足りないから貸して」といっては返さなかった。里江子は好恵に甘く見られていたのだと思う。 いつの間にか辞めた好恵の私物は、葛原が持っていった。貸した金と本のことはうやむやになった。好恵は幼稚でかわいい面もあったからと、忘れてあげることにした。好恵がいなくなってから、葛原は里江子に朝の挨拶も返さなくなった。二人は犬猿の仲だと社内中が認めていた。
春の異動で葛原は高岡支社へ異動になった。最後まで不愉快な男だった。里江子も翌年の秋に退社した。好恵とはその後一度も会ったことがない。随分たって昔の同僚から好恵が子供を置いて家を出たと聞いた。原因は嫁姑問題や夫の浮気が原因らしいという。
里江子には分からなかったが、好恵には見えた葛原の優しさとは、どんなものだったのだろう。優しさは時には臆病になったり、自分勝手になったり、残酷になったりする。真の優しさや愛情を見抜けなかった好恵に少し同情した。
葛原夫婦は里江子がこれまでかかわった最も苦手な部類の人間である。嫌な思い出ばかりだから会いたくなかったのに、また同じ職場で働くことになるとは皮肉なものである。
里江子は朝礼前に事務所と入り口の掃除をする。事務机とカウンターを拭き、ゴミを集め集積場へ持っていった。工場の前で朝の日差しを受けながら洗車していた北野と岡田が、おはようございます、と挨拶した。
なんとなく頭がすっきりしなかった。出掛けに飲んだ白い錠剤の効き目がまだ表れない。昨夜は好恵と葛原のことを考えていたらなかなか眠れなかった。睡眠不足は一番悪い。朝から里江子の首と肩はこわばっていた。
掃除が終わったころ、葛原が出社してきた。背広を着て、黄色のストライプのネクタイを締めていた。派手なネクタイを見ると、嫌な思い出が蘇る。振り払うように首を振ると、背中がミシミシ音をたてた。
午前八時四十五分。チャイムが鳴り朝礼が始まる。朝礼は事務所で行われる。給食部門やご飯の炊き出し部門もあわせ、本社勤務の社員二十人が集まる。朝の挨拶の後、社長から弁当事業の拡張の報告があった。これから需要が増えると見込まれ、新聞に広告を載せるとのことである。最後に新入社員が紹介された。
「葛原さんです。精米の仕事と配達をお願いします。早く仕事に慣れ、戦力になってください」
社長が激励した。後列に並び里江子は葛原の横顔に視線をやった。葛原は昔のようにスマートだった。心なしか顔色が悪く、髪に白いものが混じり薄くなっている。小鼻の右側に小豆のような黒子があった。二十数年の歳月は葛原を中年の顔に変えていた。
「よろしく、お願いします」
葛原はだみ声で簡単な挨拶をした。事務所で社長の説明を聞いてから、精米工場へと大橋についていった。葛原の勤めていた会社が倒産したとか、リストラされたとかいう噂が一人歩きしていた。自動車会社は今もあるから、転職した会社がつぶれたのだろう。
従業員が持ち場につき、新しい一日が動き始めた。
葛原の仕事は県内の大型ショッピングセンターの直営店へ毎日米を配達することだった。最初はまず米の種類や袋の大きさを覚え、約百袋の米を配達のワゴン車に積み込むことから始める。倉庫から米袋をフォークリフトでワゴン車まで運び、車に積み込む。米の重さがじわりと腰に負担をかける、力仕事である。
里江子は葛原が工場にいると思うと、なんとなく気になった。好恵の顔も脳裏をよぎった。あのときの子は二十五、六歳になっているはずだ。かかわりたくないくせに葛原を気にしている自分が憂鬱だった。
あっちは気付いていない様子だから、知らないふりをしていれば済むだろうか。社長や工場長に知り合いだというべきだろうか。あれこれ考えてみたが、まとまらなかった。
倉庫の前で、岡田と北野がワゴン車に積み込むのを手伝っていた。今日は出荷数が多く、七店舗分で十キロ袋が百個は下らない。時間がかかる模様である。三十分ほどして、里江子は車のそばへいき直営店に持っていく伝票を差し出した。
「おつかれさま。今日は多いね。伝票置いていきます」
葛原が手を伸ばし受け取ったとき、里江子は目をそらせた。首から背中にビビッと感電したような痛みが走った。離れてから振り返ると、葛原の視線は里江子に向けられていた。
米の配達は直営店のほかに料亭や寿司店、給食センターなどの大口の取引先もある。そちらは地区別にして、岡田が配達する。彼は市内の地図に明るく手際よく配達する。愛想もいいし、取引先からの評判もよかった。今日は配達初日なので、二人で回る手はずになっているらしい。積み込みが終わると、岡田が運転席に、葛原が助手席に乗った。葛原は殊勝な顔をしていた。
「気をつけていってらっしゃい」
里江子は子供を送りだすようにワゴン車に手を振った。
十月になると秋晴れの日が続いた。午後の日差しが差し込む事務所で、里江子と睦美は他県へ発送する送り状を何枚も書いた。それから十キロの米袋を箱詰めした。発送の手はずが概ね整ったころ、社長が戸外から帰ってきた。太った社長は上着を脱ぎ、暑そうである。冷えた番茶を出すとごくごく飲んだ。
「ああうまかった。里江ちゃん、銀行へいってきてくれないか。入金の付け合せをして、未収入金のリストを作っておいてください。それから、ここの書類を整理してファイルしといてもらえますか」
「はい、すぐにいってきます。あの……社長と葛原さんは幼馴染ですか?」
「うん、小学校の同級生。昔は近所だった。葛原は一人っ子で、大事にされすぎて育った坊ちゃんだった。子供のときからいい服着てたよ。いい服着てると、泥んこになって遊べないし、汚すと親に叱られるのさ。昔から手を汚さない奴だったな。僕は米屋の倅で、両親が忙しいから、ほったらかし。お陰でたくましく育ったけどね」
「町の米屋を大きな米穀会社にされたのだから、社長はたいしたものだって、みんな尊敬してますよ。社長は葛原さんのご家族とも親しいのですか」
「奥さんとは離婚したらしいよ。子供が小さいときに別れて、葛原のお母さんが女の子を育てたと聞いている。なに、里江ちゃん、葛原に興味あるの」
「まさか。ちょっと 聞いただけですよ」
里江子はしどろもどろの返事をした。社長が変に思ったかもしれない。さあ、急いで銀行へ行かなくちゃ、と里江子は通帳を鞄に入れた。
三時になると、紅茶の時間であるが、今日は遅れた。急いでアッサム茶を淹れた。アッサム茶は濃厚でミルクに合う。紅茶を淹れると、肩の凝りもほぐれるような気がする。がやがや話しながら大橋たちが集まってきた。
「葛原さん、紅茶とコーヒーどっちがいい?」
外で煙草を吸っている葛原に大橋が声をかけた。
「私は結構です。缶コーヒー飲んでますから。外で一服しております」
「葛原さんいらないってさ。煙草吸いたいから、ひとりの方が気楽なのかね。さあ飲もう」
大橋は紅茶をすすり、おいしいねぇと言った。里江子が焼いてきたバウンドケーキがうまいと岡田と北野が褒めた。
葛原が休憩室にこないと分かると、里江子は気が楽になった。お互い知らぬふりを通せるのならそれでいい。こちらから名乗るつもりはなかった。大橋にも二人の事は内密にしておくことにした。
台風が近づいてきていると昨夜からニュースが報じていた。今晩あたり、九州に上陸するので、朝から風が吹いていた。木々の葉っぱがせわしなく揺れている。
葛原が入社してから、またたく間に一カ月が過ぎた。時間の量は様々な感情を薄める作用をもっていて、葛原の存在がさほど気にならなくなっていた。
秋の深まりと共に、里江子はよく眠れるようになり、肩と背中の痛みはなくなって、白い錠剤は朝一錠だけになった。
夕方パソコンに向かっていると、ふいに旧姓で呼ばれた。退社までに仕上げようと集中していたので、驚いて顔を上げると、横に葛原がぬうっと立っていた。黒子に目がいった。社長は不在で、睦美は午前で早退し、事務所には里江子だけだった。葛原の煙草の煙が二人をしばらく遮断した。
「葛原です。覚えていますか」
「はい、ほんとにお久しぶりです。私のこと気付いておられたのですね。お互い年とって、別人みたいになったから、分からないだろうと思っていました」
里江子は椅子から立ち上がって挨拶した。
「初めは違うかなと思ったのですが。元気そうですね。この会社には長いのですか」
「十五年になります。好恵さん、お元気ですか」
「ええ、元気ですよ」
葛原は顔色も変えず答える。離婚したことを知らないと思っているのだろう。あるいは今も連絡を取り合っているのか。別れて十五年以上たった夫婦の関係を想像できなかった。離婚を隠していることに葛原の負い目を見た。
「懐かしいわ。好恵さん、どんな奥様になっているんでしょうね。専業主婦ですか? そうそう娘さんがおられましたね。お子さんはお一人だけ?」
「ええ一人です。今年結婚して、時々帰ってきますよ」
「それはおめでとうございます。好恵さんにぜひ会いたいと伝えてください。ゆっくり食事でもしたいわ」
葛原は曖昧に笑った。期待していないが、再会できたら昔話をして、できれば嫌な記憶を懐かしい思い出に変えたいと思う。
ドアが開いて、風が吹き込んできた。大橋工場長が事務所へ飛び込んできた。
「ひどい風だね。葛原さん、ここにいたの。北野君が探しとったぞ。そのうち雨になるだろうね。降らなきゃこの風、収まりそうにないや」
大橋は二人の顔を見比べて、天気のことをいう。
「工場へ戻ります。仕事の邪魔をしてすみません」
大橋に頭を下げ、気まずそうに葛原が事務所を出ていった。
「話し込んでいたけど、知り合いなの」
「ちょと、昔の知り合い。でも、知らん顔しとこうと思ってたら、あちらから声かけられたの」
「そうか。どんな知り合いか、いつか教えてよ。葛原さん、腰が悪いそうで、部所を変えて欲しいと社長に頼んだらしい」
昔の知り合いなのに知らん振りするとは、よい関係ではなかったと、いっているようなものである。工場へ走っていく葛原の後ろ姿を大橋は窓越しに見ていた。
里江子は肩と背中が痛いつらさを知っているので、葛原の腰痛に少し同情した。
「見るからに力仕事の似合わない男に見えますよね。社長は承諾されたのですか」
「うん。どこへいっても楽なところはないけどね。ところであんたは体調好くなったのかね。いつも肩が凝ってるようだったけど」
「あら、わかりましたか。隠してたのに。はい、やっとよくなってきました。筋肉が衰えているのと、運動不足ですって」
「俺みたいに、水泳始めるといいよ。いっしょにどう、肩凝りなんかすぐ治るから」
大橋はプールの費用や休日を説明して盛んに誘う。いくら兄のように思っているとしても、妻のいる男性といっしょにプールへ通うことは抵抗がある。親切はうれしいが、無碍に断るのも気が引けた。
「考えておきます」と無難に答え笑顔でごまかした。大橋が工場へ戻っていくと、事務所は静かになった。
葛原はまじめに勤めて、職場にもなじんだ様子だ。このまま昔のいいかげんなイメージを払拭できるとよかったのだが、腰が悪くては米の配達は無理だろう。
風が弱まる気配はなかった。木の葉が烈しく揺れている。はためく木の葉と葛原がだぶって見えた。
まもなく葛原は給食部門へ異動した。
「前に腰のヘルニアを手術したそうだし腰が痛いのでは無理だろう。せっかく入社したのだから、他で頑張ってもらうことにする」
と社長が決めた。無理なら辞めてくれといわない、社長の温情を彼は察しているだろうか。
弁当の配達も楽ではないはずだ。葛原は広範囲の配達と新規の得意先の開拓で忙しいのだろう。朝礼で顔を見るが、午後の紅茶の時間に会うこともなくなった。
午後に郵便物が届いた。取引先や銀行から、自動車会社のダイレクトメールや社長への私信など一束ある。仕分けをしていると、「北富米穀・五十嵐里江子様」という水色の封筒があった。差出人は書いてない。
丸い女性の文字で、心当たりがなかった。すぐ開封したかったが、来客だった。里江子は封筒をロッカーにしまった。
次から次へと用事が重なって、封筒を開く暇がないうちに、夕方になってしまった。仕事中も気になっていた。帰り支度をするためにロッカーを開けると、里江子は手紙を手に取った。差出人は思いがけぬ好恵からだった。
日暮れの時間がめっきり早くなり街灯がともり始めた。帰路を急ぐ勤め人たちがあわただしく行き過ぎる。このまま家に帰る気がしなくて、里江子は喫茶店に立ち寄った。銀杏並木通りにある茶房「おもかげ」は、大橋の妹の店だった。銀杏並木は金色に色付き、重たげで、街の景観が違って見えた。
テーブル席が三組とカウンター席で店内はあまり広くない。一組のカップルがいた。ピアノ曲が静かなおしゃべりのように流れていた。奥の席に着き、大きなガラス窓から、行き交う車を眺めた。黒いエプロンの大橋の妹が注文を訊きにきて、ようこそといった。
「オレンジシャリマーティを」
はい、と答え、彼女はメニューを下げていった。余計なことはなにもいわない。それが好ましかった。里江子は水色の封筒を開け、好恵の字を眺めた。
『里江子さんお元気ですか。突然のお便り、さぞ驚かれたことでしょう。
先日娘と電話していたとき、父さんが最近勤めた会社に母さんの昔の同僚がおられると聞いたと申します。誰だろうと思い、名前が分かったら教えてといいましたら、里江子さんとのこと。本当に懐かしくお便りいたしました。
挨拶もせずに会社を辞めてから二十数年も過ぎたとは夢のようです。お世話になったのにあのとき退社の挨拶もせず、さぞ無礼な……と思われていることでしょう』
一枚目を読み終えると、紅茶が運ばれてきた。
「ごゆっくり、どうぞ」
琥珀色の液体はほのかに甘いオレンジの香りした。一口飲んで、二枚目に進む。
『ご存知かも知れませんが、私は葛原と十五年以上前に離婚しました。葛原との結婚生活は十年でした。二十二歳で出産、夫の転勤と転職、義父母との同居、舅の介護。アトピーの娘をかかえて病院通い。いろいろなことが襲い掛かるようにおきて、考える暇もない十年でした。赤ん坊は泣いてばかりいるし、夫の帰りはいつも深夜。誰にも助けてもらえない厳しい日々の連続でした。結婚の夢と現実は大違いですね。姑との確執もあり、親孝行の葛原との関係も悪くなるばかりでした。
小さい娘に毎日母親の暗い顔や泣き顔を見せるのが辛くて、死を考えた日もありました。迷った末、バック一つ持って家を出ました。九歳の孫を姑が大変可愛がっていたし、生活の保障がない私より父親の家の方がよいかと、血肉を切るような決断でした。子供の幸福だけを考えて、耐えればよかったのでしょうが、私に根性がなかったのです。
娘が大学に入ったとき、学校へ何度も行って遠くから眺めていましたら、ある日、娘が目の前に来て、お母さん? と訊きました。ありがたくて涙が止まりませんでした。今では、結婚した娘と時々電話し合っています。
愛とか優しさってなんだろうと、ときどき考えます。周りの人をもっといつくしむ余裕があったら、人生も違ったものになったかもしれません。
今は老人施設のヘルパーとして働いています。
里江子さんは昔から毅然とした生き方をする人でした。だから、自分の不甲斐なさが恥ずかしかったです。これから寒さに向かいます。どうぞお元気でお過ごしください。 かしこ 滝田好恵』
名前は旧性で、現住所は書いてなかった。最初で最後の手紙なのだろう。
世間も異性も良く知らないうちに結婚して苦労したけれど、娘と和解できたということが救いだと思った。文面から穏やかさが感じられるのは、今好恵は心に安らぎを得て静かに暮らしているからではないだろうか。里江子のことを毅然と生きているというが、そんな立派なものじゃない。心がぼろぼろになって苦しくてならない時がたくさんあったのだ。
読み終えて、好恵に抱いていたわだかまりがかなり溶けているのに気付く。花模様の小封筒が同封され、中に図書券が入っていた。
「住所ぐらい詳しく書いてよ。図書券のお礼をいいたかったのに」
懐かしさや哀しさや切なさが交じり合って、こみ上げてきた。過ぎ去った日々がいとおしかった。
広葉樹がすっかり葉を落とし、晩秋の風が里江子を包んだ。工場の向こうから葛原が歩いてきた。このごろは朝礼でちらりと見るだけである。胸元の紫色のネクタイが目立っていた。いつもなら本能的に避けたいと思うところである。だが本能に逆らおうとする気持ちが働いた。行き過ぎようとした葛原に「お疲れ様です」と挨拶した。里江子はすれ違いざま振り向き、明るい声でいった。
「腰の具合は良くなられましたか。これから紅茶の時間ですけど、よかったらいっしょにいかがですか」
里江子の誘いに驚いたように葛原は立ち止まった。逆光を浴びた葛原の影が揺らいでとまどっているように見えた。
木の葉が音をたてて転がっていった。