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ワンちゃんのベイビーだから

作者: 多奈部ラヴィル

都内、某所にきれいでスタイルも抜群でお尻も大きく、才媛の物腰が優しい女性がいた。名を「ゆき」といい、誰もがその「ゆき」は雪の降る夜、雪のように真っ白く生まれてきたのだと想像するのである。そして実際のところはというと、なに、その通りで、ゆきは1月の雪がぼたぼた降る日に、真っ白く生まれたから、ゆきの両親はとても力強く、ゆきと名付け、その名前から喚起される、誰もが思うその直截なイメージは、父親のその文学的才の故だったのだ。

 ゆきには大挙して男性どもが押し寄せ、群がり、それぞれが選び抜いた花を持っていた。ありきたりではあるかもしれない。そうバラを持った男性は心に思い、心細くなる。その他のバラを選んだ男性も周囲を見渡してそう思うのだった。つまりとにかく、バラを持ってきてしまった、男性陣はあたりをきょろきょろと見渡して、意気消沈、すっかりがっかりしてしまったというわけだ。

 そして選ばれたのは、健二という名の、24歳、ラーメン屋で働く青年だった。その青年は初めから、時間給でラーメン屋で働く俺などに、なんの縁もないのだと最初っから決めてしまっていて、そこに群がっていたのはただ単に、ゆきをそばで見てみたいものだという思いと、イベント感覚、それだけであったから、何も金をはたいて花など買う気も起らず、健二が持った花は、ゆきのもとへ行きすがら、空き地でむしり取った、シロツメクサであったのだ。そしてそのシロツメクサは手折られるとすぐにしなしなとしなびはじめ、ゆきに見せたころには、ただの「俺のへその緒でも見てください」というような、そんなゴミになっていた。けれどもちろん、健二はゆきに己のへその緒を見せたわけではないのである。


 これで何回目のデートだ?俺はうそぶいてみる。そう、6回目。紛れもなく6回目だ。俺は、毎回ゆきを水族館に誘った。そしてその前に、と入る喫茶店で、俺は必ずアイスカフェラテを飲み、ゆきはジンジャーエールを飲んだ。ジンジャーエール。ありきりではないが、そう珍しい飲み物ってわけでもない。ジンジャーエールはゆきにとても似合っていた。俺は中学の時と高校の時はモテたのさ、そう自信を持とうと思う。けれどジンジャーエールの氷をかき回す、ゆきのストローを持つきれいな貝殻みたいな、そんな色で塗られた、そして切りそろえられた指を見ていると、すっかり自分に自信も失うし、こうしているのが不思議なような気分になるんだ。

「どうして俺を選んだの?」

そんなことを聞く度胸なんてない。何か致命的な誤解があって、それが目の前でほつれていくんじゃないかと、怖かったのだ。

 というのも俺は大学入学と同時にラーメン屋でバイトをしだし、少しロックなどもやってみて、案外大学というものは楽しいものだと、思っていたら、出席があまりに少ないと、学部長に呼ばれ、除籍だ。という通告を受け、すみません、中退します。とやっと履歴書に書かれるは圧倒的に不利なようにも思われる、「除籍」ってやつを何とかのがれ、やと「中退」という称号を得たんだ。そして24歳、年寄りなら言うだろう。無限大の未来が、とか、頑張れば成し遂げられると。でも大学を2年で中退し、特に何に優れているわけでもなく、ただ漫然とラーメン屋で時給で働く、そんな俺にそんな希望を持てと言われても困ってしまうばかりだ。無限大のようにも、頑張ればっていう風にも思いたい。けれど俺と同じ年で俺と同じ境遇の男がいたら、多分二人で揃って

「あーあ」

と言うだろう。俺の未来っていうのは、なんの志望も諦めていたし、なにかができるとも思っていなかった。つまり

「あーあ」

そう言うものだった。

 そんな回顧を始めたのは、俺が口も開かずに、ゆきのきれいな貝殻色の爪を見てばかりいたせいで、そのときやっとゆきは口を開き、

「なんかさ、健二君って、私の手を見てるよね」

と言った。俺は大いに慌てた。そう言われればそうかもしれない。6回のデートの中6回ともゆきの爪ばかり見ていたような気がしないでもない。変態。俺はぞっとした。世の中の男一般、好きな女の子に、もし「変態」と思われてしまったら、もう首をくくるしかないだろう。そう、死ぬしかない。

「きれいな爪の色だなって、いつも思っててさ。それはうちのラーメン屋の従業員にも大学生の女子が働いてるけど、そんな爪じゃないから」

「それが珍しくってってわけ?」

「珍しいっていうか、とにかくなんかきれいだなって、」

 俺はその時確信したんだ。俺は早くも振られる。ゆきにとって俺は臆病で、多少若いくせして未来の展望もない、ただの爪フェチ男だ。

「爪、褒めてくれてありがとう。私音大じゃない?ピアノをやっていきたいと思ってるから、爪を誉められるのって結構うれしいな。あまり爪特定で誉められたこともないし」

そうか、と思う。俺が危ういところで失敗しなかったことは天の僥倖だろう。しかし天の僥倖っていうやつは、そう何回も起きることではないだろう。危ういところだった。これからはもし、手すりがあるのならその手すりにシッカリとつかまって階段を下りていこう、そう思った。

 「ねえ、今日は水族館はやめにして家に来ない?実はチーズケーキを夕べ作ったんだけど、一人じゃ食べきれないわ。7号でワンホール作ってしまったの。ベイクドよ」

ベイクドは俺も知っている。ワンホールっていうのも言葉の意味から推し量って分かる。けれど7号っていのはなんだ?

「7号っていうのは、」

「そうなの、もちろん一人きりじゃ食べられないわよね」

そうか、7号。大きいらしいじゃないか。そんなもの俺が全部食べてやる。ひょろひょろして見えるかもしれないけれど、俺はいつも大盛りだ。7号。


 彼女の部屋は目黒の川沿いにあり、こじんまりしているが、新しそうな、きれいなマンションだった。ゆきの部屋にはグレーの毛足の長いカーペットが敷かれていて、その毛足が一糸乱れず同じ方向を向いている。ゆきに差し出されたスリッパを玄関で履いてみても、そのスリッパを履いて出さえ、そのカーペットの上に乗るのはためらわれるようだった。ゆきは

「入ってよ」

と笑顔を見せて言い、ゆきはコーヒーメーカーにスイッチを入れている。俺は恐る恐る入った。

ゆきの部屋はなんていうのか、俺はあまりそういうことに疎くて分からないが、、アンティークの家具が品よく並べられ、ホコリがどこにあるっていうんだっていう風に、掃除されている。それでもベッドサイドに置かれたテーブルに散らかっておかれたアクセサリーを見てやっと俺も安心できたというか、リラックスできた。

「毎日掃除するの?」

と俺が聞くと、

「うん、変かもしれないけど毎朝掃除してる。うちの両親っていうのが、また、私と同じ音大出なんだけど、二人とも教員をしているのね。その頃うちの両親は、どうしたっていうのかな、朝掃除をとことんやらないと、ピアノを弾けなくなるって言い張ってた。子供心に、そんなのおかしいって思ってたの。それなのにね、今私が、その両親の病気を受け継いでいるっていうわけ。そのベッドサイドのテーブルに乱雑にアクセサリーが置かれているでしょう?それがね、私の何に対してだかも分からないけど、そうなの、親っていうわけでもないのよね、何かに対する反抗なのよ。ピアノを弾く人間にとって、ピアノを弾けなくなるっていうのは本当に恐ろしいことなのよ。だから、小さくしか反抗できないっていうわけ」

 俺たちは近所のセブンで買ってきた、発泡酒を開け乾杯し、そして俺はポテトチップスの袋を開けた。

 するとゆきがキッチンに立ち、何かを炒めはじめた。なんだろうと思う。そして運ばれてきたのは「森の燻製」というウインナーらしい。

「ごめんね。うち包丁がないのよ。だからこれくらいしかできないの。私は両親とはちがって、オーケストラに入りたいって思ってる。だから」

「全然OKだ。とてもうまい。炒め加減がとても絶妙だ。俺はラーメン屋だから、そのくらいは分かるんだ」

と言うと、ゆきはほっとするような笑顔を見せて、

「ありがとう」

と言い、俺は切羽詰まったような性欲に襲われた。

 しかしまだウインナーをすべて平らげたわけでもないし、ゆきがさっき冷蔵庫から運んできたベイクドチーズケーキは案外大きい。俺は全部食べてやるさとうそぶいたのが、心の中のつぶやきであったのか、それともゆき相手にそう言ってしまったのか、よく思い出せない。けれど、甘いものが多少苦手だったりもする俺だが、休み休み、ゆきの話を聞きながら食べ勧めていく。

「ねえ、健二君、このチーズケーキは少し手ごわいわよね。残しても全然いいのよ」

 けれどその言葉にうっかり乗るわけにはいかない。そう。天の僥倖。今起きるとは予想すらできないんだ。

 俺はなんなく平らげた。そう言えばお昼だって食べていなかったんだ。そしてケーキであるからには相当甘いのだろうと予想したチーズケーキが、レモンの香りの強い、あまり甘すぎなかったということも要因だ。俺たちはTSUTAYAで借りてきた「モテき」を見た。その間も俺はポテトチップを食べ続けたほどだ。この「モテき」を選んだのはゆきだが、何故それを選んだのかは分からない。なんとなく。そんなものかもしれないが、俺はついつい「モテき」を深読みしようとしてしまうんだ。

 何本目か分からない氷結を飲みながら、俺は少しいつもの、ゆきといるといつも起きてしまう、緊張感が多少ほどけてきた。いつもは質問だったり、うなづいたりだったりしかできなかった俺が、自分の話を始めたんだ。

「そりゃあね、やっぱり除籍よりは中退の方がいいと思ったんだ。履歴書?そんなもののためじゃないさ。親を泣かせたくない、そういう心づかいだった。まあ、いずれにせよ、親は泣いたんだけどさ。今の俺?そうだな、現代の象徴は引きこもりのニートってやつだと思ってる。だけど、引きこもりのニートになってしまったら、女の子と、ゆきと水族館にだって行けないだろう?それは俺の中で受け入れられないものだった。そこで俺は選んだのさ。フリーター。そう、引きこもりのニートほどには先進的ではない、内向的先進性を持った存在だ。俺はそれに甘んじようと思った。なに、俺は24歳。未来はいついかなる時も変化し続けるし、俺の茫漠たる未来も希望に満ち溢れているはずなんだ」

 数時間前俺は確かに

「あーあ」

と思っていた。けれど何か俺のこれからの人生はもしかしたら、光り輝き、その茫漠たる未来っていうやつに、なにか、奇跡、違うな、大いなる冒険、そう、そんな感じだ、そんな未来が待っているそんな気持ちにもなってきた。

 するとゆきが話終えるちょっと前に、

「ねえ、よかったら、シャワー浴びたら?もう終電もないし」

終電がなくなるということ。それが女子の部屋でまたは己の部屋で、その終電がなくなるというタイミングを迎えるということ。これは男のロマンなんだ。

 そのゆきの言葉に促されて、俺は立ち上がった。そして少し足がもつれる。

「大丈夫?飲みすぎたかな」

違う。そうじゃないんだ。男のロマンにうっとりしてしまっていただけなんだ。

ゆきのシャンプーはとてもいい香りだった。俺もこのシャンプーを使おうかなと思ってしまうほどだった。それほどいい香りだった。けれどその「いい香り」の源泉をたどってみると、それはゆきの香りだったからだっていうことに気づいた。ゆきの長い髪はいつもいい香りを漂わせていた。もちろん俺は身体も、いたるところまで、隅々までよく洗った。そして変なことを考えた。デブの女には性格の悪い女が多いと友達が言っていた。そうなのだろうか?では痩せている爪のきれいなゆきは、性格がいいっていうことになるのだろうか?そこまで考えてみて、そうだな、俺たちはお互いのことを分かり合えるほど、長く付き合っちゃいない。俺を選んだのはゆきだったが、その理由を聞くほど肝っ玉は据わっていない俺だ。そんなことを考えていたら、ずいぶん時間が経ってしまい、ゆきに変に思われないだろうかと、ふと思いつき、慌てて風呂から出た。

「ずいぶん長かったわね」

「うん、バスタブのある風呂って久しぶりだったんだよ。俺の部屋にはシャワーしかないんだ。けれど、いずれはバスタブのあるマンションに引っ越そうと思ってる。ちなみにそれは近々なんだ」

と俺も自分で言いながら、妙だな、と思えることを言った。

「私もシャワーを浴びるから、少し照明を暗くしていい?」

とゆきが言う。

「なんで?」

「まだすっぴんを見られるほど、そこまで親しいわけじゃないっていう風に、私には思えるの。健二君がどう考えるのかは分からなけど」

「OK。ゆきがそうしたいなら、それでいい。いつか太陽の下ですっぴんを見せてくれる日が来るって俺には確信があるから」

うそだ。そんな確信などない。ゆきに嫌われたくない。そう切実に願っているだけだ。俺は茫漠たる未来に光があると一瞬思ったが、ゆきがシャワーを浴び、一人きりで暗い部屋にいると、いつかゆきが俺を捨てるのは間違いがないことのように思える。俺はトランクスとTシャツという格好で、コーヒーテーブルに置かれた発泡酒や氷結の間を一つずつ振っていって、やっと入っている氷結を見つけ、一気に飲み干した。そのゆきに振られた後の俺は光なんて見えないままラーメン屋で働いているだけの、そうモテたりなんてしない、そんな24歳に戻るのだろう。そしてしつこいようだが、その時に絶対に希望なんて見えないんだ。

 ゆきが風呂に入っている間は未来永劫っていう風に思えた。もうゆきはゆきだから風呂で溶けてしまったんだ。そんなことも思ってみたりした。酔っていたんだろう。するとゆきが髪を濡らしながら、風呂から出てくると、一日中主人の帰りを待っていた子犬のように、俺はぶんぶんしっぽを振りたい気分で、

「早かったな」

「そう?私いつもそんな風よ」

ゆきはタンクトップにショートパンツといった格好だということは、この暗い照明でもなんとなく分かる。

 俺は高校1年の時、童貞を失ったわけだが、その時、常に草食に思われていた俺が、ベッドでは激しく肉食だったと、たいして好きだったわけじゃない、不細工でおっぱいの大きい女に、学校中に触れ回られた。ベッドでの行いを触れ回られるっていうのは、ゆかいじゃないが、草食に見える俺が、実は肉食だったとい噂は俺をモテる男に仕立て上げた。だから、もしかしたら、その不細工でおっぱいの大きい女には感謝すべきだったのかもしれないが、俺は俺に次に告白をしてきた、少しだけかわいい子にすぐに乗り換えた。そうだ、俺はベッドでは暴れてしまう。けれど今宵はすっぴんを見せられないと、そんな風に言うゆきを肉食でもって襲うつもりは毛頭なかった。ただシングルのベッドで添い寝をする。そんなつもりでいた。ドライヤーを使う音がする。結構長い時間に感じる。俺はダメになったなと思う。惚れた女が、洗面所から中々姿を現さないだけで、不安になっちまう。そして何か話しかけたくなっちまう。

 俺はふと、そうだ、しょんべんをしたいと思って、あれからどれくらいの時間が経つのだろう、そう思いだしたんだ。そして少し酔っていたせいもあるのか、ゆきの部屋で、俺の部屋で用を足す方法とまったく同じ行動をとってしまったんだ。つまりトイレのドアを閉めないまま、じゃーと用を足す、そういう行為だ。かなり長い時間我慢していたようで、長時間のじゃーは続いた。トイレの電機はつけてある。するとゆきがトイレの照明に照らされながら、俺を見て笑っている。俺は落胆を禁じえない。ご両親は掃除マニアのピアノの先生。トイレのドアを開けっぱなしで用は足さないだろう。もしかしたら今までのゆきの彼氏だって、名家の出かもしれない。俺は道路工事の監督と、珍来でのパートをしていた親の息子だ。うちの父親だってトイレのドアは小便に限ってはトイレのドアは開けっぱなしだった。

 「もう休みましょう?」

ゆきが言った。俺たちは重なるようにシングルベッドで横になり、そしてゆきは黙っている。俺も寝ようとした。さっきまで俺は酔っていたはずだ。眠れるはずなんだ。そしてゆきは、それはいつもどのくらい飲むのか知らないが、目が少し眠たそうな目になっていたのを俺は照明を暗くする前に見ている。そうだ。ゆきもすぐに眠るだろう。眠ることに反抗しないことに決めてはみたが、ゆきに何かを話しかけたくなる。でもそうしちゃいけないんだとこらえる。

 するとゆきが突然上半身を起き上がらせる。

「どうした?」

「どうもしないけど、」

「どうもしない?」

次の瞬間、ゆきはおれの首に両腕を回し抱きしめた。

「健二君って、首が案外太いんだよね。はじめっから気づいてた」


 俺は正直感動した。ゆきも積極的とは言えるのかもしれない。自宅へ招き、終電に急かさず、俺にシャワーを勧める。けど違うんだ。俺が高校時代の肉食期、積極的な女はいくらでもいたし、急かす女もいた。でもゆきは違うんだ。優しい、そんな物腰。柔らかくて華奢な腕、甘える風でもなく急かす風でもなく、そういうふうにしてみたかったと身体と少しの言葉だけで、表現した。

 ゆきを抱きかかえながら、もう一回横にする。

「あのな、ゆき、村上春樹の、確かノルウェイの森だったかな、その作品の中にね、すごく印象深く覚えていてるシーンがあって、それっていうのは蛍を逃がすシーンなんだ。俺も少し真似してみたんだ。ワードを使うとか、そういうんじゃない。ただ、ノートにシャーペンで書いてみたんだ。それは蛍ではなく、カナブンでね。カナブンが屋上で少しためらうようにとどまり、小さく羽を震わせはじめると、カナブンは飛んでいくんだ。突然にね。なにを言いたいって特にないんだ。それは小説ではないし、始まりと終わりがある文章でもない。でもね、でもうまく書けた。そう思ったんだ」

「うん」


 そして一回目は失敗したんだ。暴発じゃない。その反対だ。俺は突然腹が痛くなったと言ってトイレに鍵をかけこもった。そして想起するわけだ。今までの性的経験。ある女は体が柔らかくて、アクロバティックな体位さえできた。ドスケベな女だっていた。そして思い返す。今まで見たAVで一番興奮したのって、なんだっけ?


 かなり長いことトイレに入っていたらしい。ゆきはタオルケットにくるまるようにして、寝息を立てていた。もちろん俺もその傍らに横になるつもりだった。そして寝ているゆきに異常に興奮を覚えたんだ。はじめは柔らかく背に腕を回して起こそうとしたが、次の瞬間少し乱暴にタンクトップをまくり上げ、ショートパンツも脱がせて

「何?」

というゆきの口をふさいだ。俺は結局柔らかく、キズなどつけないよう、丁寧に抱こうと思ってたんだけど、そうできなかったんだ。そして俺がトイレから出てきたとき、もしゆきの目がパッチリ開いていたら、そんな第2戦目はなかったんだと思う。もしゆきが目を開けていて、第2戦目を始めたとしたら、第1戦目と同じ結果に終わったと思うんだ。もし目に意志が宿っていたら。


もし僕が万物の創造主になれたなら


君に


君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス


みんなみんなプレゼントする


もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ


もし君がそれらを欲しいと願うのなら




深夜3時過ぎ、俺はゆきに起こされた。物腰が優しく、っていう起こしかたじゃないんだ。俺は何発もゆきにびんだをされた。俺は一瞬何が起きているのか分からず、

「なんだよ」

と声を荒げてしまったら、

「最近じゃ、とんとモテないんでしょう」

とつまらなそうに言って、またびんたをする。俺はだんだん理解した。この部屋はゆきの部屋でさっき、ゆきを抱いたんだっけ。今俺の顔をびんたしているのはゆきだ。

そして俺は「なんだよ」と昔モテたころの女に対するような、そんなぞんざいな言葉と態度をとってしまったことを、突然の歯痛のように後悔する。

 そして目を開け起きると、そこにすっぴんのゆきがいて、なおも俺の顔をびんたし続けようとしたので、俺はあわてて、ゆきの腕をつかんだ。そうさ、俺は小学校の頃、少林寺拳法を習っていたんだ。

 それにしてもゆきはすっぴんだった。昨夜は確か「そこまでは、親しくない」とかそんなことを言っていなかったっけ?俺は首肯し、確かに了解だ、という旨をゆきに伝えたはずなんだ。それともなんていうんだろう、したからと、それを指して、「俺と親しくなった」とゆきの中で思ってくれたんだろうか。

 「私が電気をつけて私がすっぴんでいることに対して、何らかの意味をつけないで頂戴ね。そして何度も『健二君』と呼んでも、身体をゆすっても、健二君は目を覚まさなかった。それでびんたを繰り返した。何回ものびんたに対する意味はそれよ」

「俺を、親しい男と認めてくれたのか?」

「さあね」

見るとコーヒーテーブルに満載だった、空き缶や菓子の袋、ウインナーが盛られていた皿なんかは、きれいに片づけられていた。そして俺がウインナーを食べるた時に汚してしまったケチャップの跡も消え去っている。布巾でテーブルはきれいに拭かれたのだろう。そのテーブルに青くて、蓋のある灰皿で、ゆきはたばこを吸っている。その動作は柔らかいものの、女郎のような、なんていうだろう、女性がやけっぱちになって、「どうでもいいのよ。疲れてるんだから早くして」というような雰囲気が漂っているんだ。俺は少し理解した。セックスを終えて変わるのは男だけじゃない。女もだ。しかし俺たちのケースの場合、変わったのはゆきで、俺は変われないんだ。どうしてかっていうと俺は、何かを手に入れたっていう、安心感を持てないでいる。

 「とにかく私はお腹が空いたの」

ゆきはたばこを吸い終えると、ベッドで上半身を起こし、ぼんやりしている俺に言う。

「あなたはラーメン屋でしょう?それ以外の特性なんて見当たらないわ。ラーメンを作ってちょうだい」

俺は絶望した。どうやらゆきが俺を選んだのは、俺が、ラーメン屋で働いている24歳、いや、「ラーメン屋で働いている」かららしい。それ以外の特性なんて見当たらない。俺はこれからどうして生きていけばいいのだろう。そこまで絶望した。死ぬしかないのだろうか?俺はラーメン屋で時給で奴隷のように働いて、動けなくなったら、介護ヘルパーを呼び、下と風呂の世話をしてもらい、そしてしばらく生き、そして死んでいく。そんな未来しか俺にはないのならば、今いっそ死んでしまった方がいいんじゃないだろうか。そして再度回顧するんだ。もしかして俺が大学を結果中退となったのは、俺が自分自身で思っているほど、モテなかった。そこに尽きるのではないかと。ラーメン屋に働く女だっている。ちょっと可愛い子だっている。俺はそんな子がバイトとして入ってくると、少し意識してしまう。でも彼氏がいたりとか、ほかの奴にかっさらわれたりとか、そんな風に尻すぼみになってしまう。そうだ。多分大学入学時18歳から今まで、計6年間俺はモテていない。というか女性と付き合っていない。一回のぞき部屋にいったことはある。それだけだ。そののぞき部屋で体験したことは猛烈な「助けてくれ!」という誰に助けてもらいたいのか分からないが、そんな気持ちと、自分がどんどんバラバラになっていくような、そんな吐き気がするような気分を味わった。それだけだったんだ。だから俺はデートの6回、その

間喫茶店でゆきの爪しか見ることができなかったのだし、うまくふるまえなかったんだ。過去、そうだ、俺が感じるより遠い過去なんだ。その過去、中学高校とモテたって、それはずいぶん前の話で、俺は今現在モテるっていう男じゃないのかもしれない。だからゆきだって俺にラーメン屋以外の特性を見つけられなかったんだろう。俺は黙って作戦を練った。俺にラーメン屋であるという以外の特性が、今現在ないのならば、それ以外の特性を身に着けるほかはないのかもしれないが、とりあえず現在、ゆきが俺がラーメン屋で働くという特性で俺を選んだのだとしたら、今の急務はおいしいラーメンを作ること、それ以外にないんじゃないだろうか。しかし困った問題が、俺とゆきの恋路を阻む。

「めんてぼがないんだ」

「めんてぼ?」

「うん、めんてぼだ。俺はその『めんてぼ』を漢字で書くすべがあるのかさえわかっちゃいない。けれどラーメンを作るには、絶対にめんてぼが必要なんだ。めんてぼ。これを俺が今持っていたらなあ!」

「めんてぼ?それって何をするためのものなの?」

「ほら、ラーメン屋でカウンターに座ると、見ることがないかい?あの麺をシャン、シャン、シャンとする奴。あれなんだ」

「ああ、私も見たことがあるわ。しゃしゃしゃってやるやつね」

「違うんだ。しゃしゃしゃじゃない。シャン、シャン、シャンってやるやつだ」

俺は地雷を踏んでしまった。ゆきはめんてぼの描写を俺になおされたことが我慢ならなかったらしく、へそを曲げた。

「ゆき、覚えているかい?俺がゆきに差し出した花は、決して俺のへその緒なんかじゃない。シロツメクサだ」

「じゃあ、私も言わせてもらえば、シロツメクサはその一本で完成していないのよ。首飾りになって初めてシロツメクサって完成される」

 どうもゆきは、もしかしたら本気で、無茶苦茶本気で、無茶苦茶腹が減っているのしれないと思うに至った。なぜならば、昨夜よりヘビースモーカーになっているし、コーヒーを何杯も飲むし、すっぴんで電気をつけているからだ。ゆきが吸うたばこはマルボロのゴールドだ。それほど多くの人が、マルボロのゴールドを吸ってはいない。けれどゆきはマルボロのゴールドを吸っている。

「そのすっぴんっで電気をつけてるっていうことの意味だけど」

俺が話し出すと、すぐにゆきは言った。ファンデーションよりさらに色が白い。血管の通り道をマジックペンで書いたら面白いだろうななどと思いながら、ゆきの話を聞く。

「あのね、そういうことって、もうどうだっていいのよ。あなたって、ちょっとめんどくさいわ。ああ、お腹が空いているせいで、部屋の掃除をできなくなって、それによって指を負傷してしまったら、健二君のせいだと思う。ウインナーをあんなにも遠慮なく食べてしまうなんて」

俺はさらにさらに絶望を禁じ得ない。おれをゆきは「めんどくさい」と表現した。俺は思う。今青木が原の樹海に入ろうとしている人がいたら、右腕を差し出し手を握り合い、

「お互いよくやったよな。でもどうしてもままならないことは人生にはあるし、それを自分で修正しようと思っても出来ないことだってある。成功を祈るよ。そして君も俺の成功を祈ってくれ。グッジョブ。もう会うことはないだろうけど」

俺たちは名残惜しくハグを繰り返す。そして俺たちは何回か「さよなら」を言い合い、青木が原の樹海、別々の方向へ歩いていく。

「ああ、」

俺はうっかりそんな言葉を漏らしてしまった。目の焦点をゆきに戻すと、ゆきは機嫌が悪そうだ。そしてそんな「機嫌が悪い」なんていう表情や表現を俺に見せてくれるのだから、俺は光栄と思わなきゃいけないのかなと思う。俺はいったいゆきの彼氏なんだろうか。そもそもそこから怪しい。でもそんなことを尋ねるほど俺の肝っ玉は強くもない。固さもない。そんなことを考えている俺だから、6年間彼女も出来ず、のぞき部屋で吐き気を催したんだ。そんな俺はめんとくさい。ああ、そうさ、めんどくさいのさ。

 空がどんな色をしているのか、はっきりは若らない。「ピアノ」という言葉で簡単に想起される様な、深い緑色の厚いカーテンが垂れ下がっている。「ピアノ」らしくそれに模様などついていない。

 「ねえ、もうそういうのいいから、めんてぼを探す旅に出ましょうよ。確かに私たちにとって、めんてぼを手に入れるのは急務よ。けれど私はそんな風に男性を焦らせるようなバカな女でもないの。わかってくれているわよね?」

「うん。もちろん」

「そしてそれはあてもない旅になるんでしょうね。きっと」

「いや、あてはあるんだ。うちのラーメン屋の店主の3番弟子の親友っていうやつが中野でラーメン屋をやっている。早朝4時までその店はやってるんだ。今なら間に合うかもしれない」

 俺が昔付き合った女で、結構おれも思い入れのあった女がいた。その女はラブホでことを終え、何もかも俺は念入りに観察したその身体を、隠そうとはしないのに、着替えをするところは見ないでくれ、そう俺に言ったんだ。じゃあ、俺はこっちを向いているから、と俺は窓の方を向いていたのに、タバコをとりたくて、少しだけ振り向いてしまったんだ。その時その女はブラジャーとパンツをつけ、一生懸命ストッキングをはいている最中だった。女はおれの目線にすぐ気が付き、俺をパーンッと思いっきり殴った。その女はおれを着信拒否にし、俺はなんだか大事なものをうっかりなくしてしまったような気がしたが、今思うと、何をかっこつけた女だったんだ、そういう風にしか思えなくなっている。そうだ、ゆき以外の女には、何かしらの欠点があるような気がしてしょうがない。その女たちのそれらの欠点は、きっと俺にとって許しがたいに違いないんだ。少し名残惜しかったり、さみしかったとしても、チャーシューメン大盛りを食べれば忘れてしまう。それらの女はきっとそんな風なんだ。

 ゆきは部屋の隅で着替えはじめた。クローゼットからノースリーブの白いブラウスと黒いスカートを出して、まず初めに俺の行為によってめちゃくちゃにされてしまった、タンクトップとショートパンツを脱いで、まずブラウスを着て、それをインしてスカートを履く。オードリー丈の上品なスカートだ。その着替え方はとても理にかなっている。そんな着替え方をできるゆきをもういっそう好きになってしまう。でもうちの父親も、確か靴下を履いてから股引を履いていたっけと思い出す。それもとても理にかなった着替え方だ。

 俺たちは大通りに出て手を振った。深夜3時半に走っているタクシーは案外少なく、俺たちは急いでいる。そして時間の中に停滞などない。それは矛盾だ。そして俺たちも時間の中にいるのに停滞を余儀なくされている今、それは矛盾なのだろうか。多分違うだろう。アインシュタインは実を言うと読んでいない。ゆきは頭上で光る、街灯を見上げ、まぶしいのか目を少し細くしている。その光景を見ながら俺はこう理解した。おそらく、すっぴんの女ってやつは、少しの光もまぶしく感じるらしい。

「少し寒いわ。カーディガンを羽織ってくればよかった。外がこんなに寒いなんて、昨日からずっと部屋にこもっていれば、分からなくなるわよね」

「ごめん」

俺はなぜか誤ってしまった。俺はなんだか、しょっちゅうゆきに謝りたくなるんだ。どうしてかは分からない。なんだか無性に謝りたくなる。俺は普段は俺が悪いな、と思ったって、めったに謝らない。アラブ人ではないが、俺は謝ると負けを認めるような気がして、それは俺の強さではなく、俺の心弱さから、謝れなくなってしまうんだ。そう、もちろん今だって。それはなおさら俺は心弱い気分を連続して感じている。ゆきに対してだ。それなのに、ゆきにはやけに謝ってしまう。俺が何もかも悪いのさ。そうだ、ゆきはいついかなる時も正しいんだ。

「なんで謝るの?」

とゆきが言う。

「俺がタクシーを捕まえられないから、ゆきに寒い思いをさせちゃってさ」

と言うと、

「何それ?タクシーが通らないのに、タクシーを捕まえるすべはないわ。少し変よ」

「そうだよな、そうだ、タクシーが通らない。ゆきが寒いのはそのせいだ」

俺の気に入っているディーゼルの黄色い腕時計を見ると今3時40分だ。分からない。よくわからない。間に合いそうにない。もし間に合わなかったら、何度も味わっている絶望だが、その時に世界で最も大きな絶望が俺を見舞うのだろう。そして俺は立っていられるのだろか。俺はラーメン屋で働いている。ゆきはつまり、ラーメン屋で働いているから、その特性のみで俺を選んだというのなら、俺は必ずラーメンを作らなくてはならないんだ。でも間に合いそうもない。

「ゆき、俺の当てにしていた、俺の働くラーメン屋の店主の3番弟子の親友のやっているラーメン屋でめんてぼを借りることは諦めざるを得ないんだ。時間的にね。どうすればいいだろう?」

俺は俺の臆病さを隠し、必死で「それは大した事でもないんだけど」と言うように聞こえるよう画策した。

「健二君が「当てがある」って言ったのよ。そういう時に時間を計算しないで、こうして深夜に大通りに立つなんて馬鹿げてる。がっかりよ」

馬鹿げてる。そうだった。俺が中退した大学はバカで有名な大学だった。バカで有名な大学だったのに、ビールを飲みながらギターを弾いていたら、除籍になりそうになって、ギリギリセーフで中退となった。そうなんだ。それ以来してきたことと言えば、男ならだれでもする行為と、ラーメンを作る、それしかやってこなかった。俺はゆきをがっかりさせるほどにバカなんだ。でもその時、徐々に太陽が空を青く染めだしたんだ。俺はよく知らなかったけれど、朝を染める太陽っていうのはオレンジ色ではないだ。でも夕日だって太陽だろう。それは空をオレンジだったり、紫だったり、赤かったりいろんな色に染める。それなのにどうやら朝日ってやつは空を、人に洗濯を誘うような、そんな青に染めるらしい。洗濯っていうやつはたいてい朝やるものだ。

「ゆき。俺は思いついたんだ。俺には縁もゆかりもないラーメン屋だけど、新宿で5時までやっているラーメン屋に行ったことがあるんだ」

「そこでめんてぼを借りるってわけ?」

「そうだ。今なら間に合うと思う。俺は断固として譲らず、必ずめんてぼを借りてみせる」

そして俺は勇み立って

「ヘイ、タクシー!」

と叫んだんだ。するとタクシーが遠くから見え、ゆきも

「タクシーよ!」

と叫び、ゆきはスカートをひらりとさせ、ひらっとガードレールをまたぎ、今度はゆきが

「ヘイ、タクシー!」

と叫んだ。タクシーは固いクッションにぶち当たるように止まり、俺たちを乗せてくれた。

「新宿まで」

俺はそう言ってバッグシートにもたれかかり

「ゆき、奇跡みたいじゃなかったか?奇跡ってあるんだな」

と言うと、ゆきは

「奇跡を起こせる人と、起せない人がいて、起せる人だっていつもいつも奇跡を起こせるわけじゃない。私はその奇跡を起こせる人が奇跡を起こす方法を知っているけど、教えないわ」

俺はその言葉に、ふーんと言って、運転手に告げた。

「とても急いでるんだ」

「じゃあ、高速乗りましょうか?」

「了解だ。そうしてくれ」

俺は早く走っていく景色たちが好きだ。子供のころからそうだった。母親にそういうと、たかが珍来のパートのくせして、俺に、それは「景色が移り変わる」っていう風に表現したほうがいいんだ、と口をとがらせて教えた。でもその時だって、今になったって、俺はタクシーの窓から見える景色は「走っていく」っていう風に見える。そしてタクシーが首都高に乗りグレーの壁しか見えなくなったって、そのグレーの壁は走っているんだ。

 そして俺ははっとした。男子たるもの彼女を、いや、ゆきを退屈させてはいけないのだ。そしてゆきの方を見ると、ゆきも車窓の方を向いていた。

「ゆき、何を見てるんだ?」

「何言ってるの。健二君がみているものと一緒よ。グレーの壁を見ているのよ」

「すまない」

「私今後、健二君が謝ったら、何を謝るの?って聞かず、いいのよ、そう答えるようにするわ」

「すまない」

「いいのよ」

「ゆき、あのな、俺はただの時給で働くラーメン屋の従業員で終わることはないんだ」

「そういう話なら、そういうタイミングが来たら聞くわ。多分そういう話って、私自身が聞く用意がなければ聞けない話だって思うの。つまりお腹が空いているときにそういう話って聞く準備ができてないのよ」

「すまない」

「いいのよ」


 ピンクフロイドが首都高でイベントでもやっているのだろうか?やけにピンクの豚、オトナ豚もコドモ豚も、首都高を疾駆している。

「豚ね」

ゆきが言う。

「ああ」

俺も言う。

「豚ですねえ」

運転手も言う。

俺たちが乗っているタクシーは透明で運転手もゆきも俺も透明な人間になってしまったような気がする。その脇を豚が真剣な顔をして走っている。ゆきは豚を見ながら言う。

「風が強いか、それほどでもないのかっていうのは、風にはためく洗濯物や、飛ばされた帽子によって表現されるわ。そうでしょう?」

「ああ、確かにそうですよねえ」

運転手が答えた。俺はゆきの独り言に近い、風の表現法に対する答えとしては、この運転手の答え方は大げさなような気がする。この運転手はもしかしたら、もう、このゆきに惚れているんじゃないだろうか、そう思う。そして俺は徹底的にこの運転手を無視することに決めた。

 車は止まった。警察官が警棒を回しながら近寄り、運転手が窓を開けると、

「いや、10キロ先で豚を乗せたトレーラーが横転しちゃってねえ、しばらく通行止めなんだ。すまないね」

俺の心は「どうして謝るの?」でもないし、「いいのよ」でもないんだ。馬鹿野郎。そんな気持ちなんだ。どうして最初っから最後まで俺たちの出会いと俺のゆきへの焦るような、そんな切羽詰まった思いを、何かが阻むんだ?もっとスムーズであっていいはずだ。その豚たちがトレーラーから逃げ出した豚たちではなく、ピンクフロイドの余興であったなら、俺はここまで焦らなかったかもしれないんだ。


 ゆきは後部座席の左側に座っていた。そのゆきの座る窓に、大きな豚が、鼻っ面を突き付け、ブヒブヒと鳴いている。そして運転手がエンジンを入れると同時に、去っていった。

「豚も美人には弱いのかな?」

馬鹿野郎、俺のゆきを簡単に「美人」だなんて言うんじゃねえ。そりゃ美人だろうが。

俺はあくまでも運転手の言葉を無視した。窓にははっきりとさっきの豚の鼻の跡がついている。

「やあだあ、なあに、今の豚ちゃん。かわいい!飼えるものなら、飼ってみたいなあ」

とゆきが言う。

そりゃそうかも知れない。俺は心の内で独り言つ。あの豚野郎、きっとオスなんだろう。多分俺よりはるかに上回る、ビッグマグナムと、大きく垂れ下がる玉を持っているんだろう。俺の女、俺のゆきに簡単に、そして直截に色目を使いやがって。しかもゆきに、「飼いたい」なんて言われやがって。俺はそんな最上級の言葉で表現されたあの豚が俺は猛烈に羨ましかったんだ。つまり飼われたいと切望しているのは、あんな豚野郎ではなく、俺なんだ。

「ゆき、今はそのタイミングかい?」

「タイミングってなんのこと?」

「ほら、さっきゆきが言ってたじゃないか、そのタイミングでって」

「忘れちゃったわ。忘れちゃったけど、きっと今はそのタイミングじゃない」

「そうか」

「ああ、豚ちゃんを見ながら言うのもあれかもしれないけど、そうね、チャーシューメンじゃなくとも、チャーシューとシナチクが大盛りのラーメンが食べたいなあ」

俺は俺の包丁さばきでもって、さっき、ゆきに色目を使った豚を、輪切りにしチャーシューにするさまを想像し、殺気立った。

俺たちは流れるピンクの豚を見ていることしかできなかった。豚たちは今までずっと走るということに憧れていたんじゃないだろうか。いつかの早朝、ひたすらに走ってみたいと、思っていたんじゃないか。もう新宿も諦めかけている今、俺のゆきに色目を使わないのなら、という条件付きで俺も少し優しい気持ちになって豚たちの疾駆を眺めている。それはおそらく条件みたいなものが整ったからなんだろう。タクシーの中をただ前方だけ見つめて走りたいという気分と、つまり諦念だ。このままでは新宿に間に合わない。ゆきが何を今思っているのか聞きたくもない。怖くて聞けない。それなのに姿勢も崩さず、運転手に言う。

「ねえ、運転手さん、エアコン切ってもらえるかしら。私薄着で来ちゃったの」

「ああ、それはうっかりしてました。すみません」

「いいのよ」


 その新宿にあるラーメン屋に着いたのは、5時4分だった。俺は飛ぶようにタクシーから降り、閉まっているラーメン屋のシャッターを叩き続けた。俺は必至で叩き続ける。今までの人生は、だいたいサボっていた。そしてそんな人生っていうやつに対して、サボっちゃいけないなどと思わないでここまで来た。それはだってサボっちゃいないもののように、人生は俺の目に映らなかったんだ。24歳になる今まで。不細工でおっぱいの大きい女とセックスした時、確かにめくるめく興奮は感じたが、それに対して真剣になろうなどとは考えなかったし、俺の今までの人生は、たいていサボってもいいもので構成されていて、サボってはいけないと感じる瞬間など、ほとんどなかったんだ。

 しつこくシャッターを叩き続ける俺に、シャッターが目の前で開けられていく。奇跡を起こせる選ばれた人間である俺が、その時奇跡を起こした。そういう風に思えた。今俺は選ばれた人間、そうドラクエで言えば主人公の冒険家、ヒーローだと俺は感じたし、そういった思いに酔いしれていた。そして

「もう、店は閉めたんだ。帰ってくれ」

という坊主で、小太りで、でも腕の筋肉が盛り上がった、「招魂」と書かれた黒いTシャツを着た男に、

「めんてぼを貸してほしい」

と、堂々と言った。

「何寝ぼけてんだ」

その招魂男はそう言って、またシャッターを閉めた。




もし僕が万物の創造主になれたなら


君に


君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス


みんなみんなプレゼントする


もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ


もし君がそれらを欲しいと願うのなら




そうさ、選ばれし奇跡を起こす人間、ヒーローであったって、世の中にはうまくいかないこともある。でももう終わってしまった。俺が本気で真剣になり、サボらないで向き合おうと思っていた、そんな恋愛は、春、咲いた桜の根元を小鳥が蜜をすったせいで、花弁も散らすこともなく、ぽとっと落ちるように、そんな風に終焉を迎えたのさ。なに次がある。そんな風には今現在全く思えないが。

 俺は帰りのタクシーの中で、全く力が出ないでいた。タクシーが右に傾けば「おっとっと」と身体も右に傾く、そんな風だった。俺は「さみしいな」と思う。それは自分の中でも分かっている。ゆきのせいでさみしいんだ。今この時に、今夜チャーシューメンネギどっさりの大盛りを食べてもさみしさが薄れるとはちょっと思えないんだ。俺にとってゆきは運命の人とやらなんだろうか?そしてゆきにとって俺が運命の人だなんて想像できない。俺はいつからここまで気が弱くなってしまったんだろうと思う。除籍になりそうになった時だって、堂々と「中退します」と言えた。でも今、タクシーの中で、何かを言おうたって言えないし、言うことがみつかったとしても「中退します」同様、堂々とは言えっこないんだ。俺は弱々しく、こう言うしかなかった。

「ごめんね。お腹が空いたろう?」

「そうね、確かにお腹は空いたかも」

「ゆきの家に食パンと卵と牛乳と砂糖とバターは、冷蔵庫に入っているのかな?」

「フレンチトースト。それなら私だって自信があるのよ」

緞帳の様な深い緑色のカーテンは開けられ、そしてゆきは窓も開け、今は女の子らしいレースのカーテンがはためいている、そんな気分のいい部屋で、俺はふさぎ込んでいた。さみしいんだ。食パンはなかったらしくて、セブンで買った。そして今、ゆきは黙ってボールに牛乳と卵と砂糖とバニラエッセンスを入れ、泡だて器でといでいる。俺のそばにもバニラエッセンスの香は漂ってきて、さようならというのは甘い香りがするんだっていうことをゆきは教えてくれる。そして卵液をかけられた食パンをレンジで数秒温め、卵液をたっぷり含んだ食パンは、たっぷりのバターを溶かされたフライパンで焼かれていく。そうなんだな。こういった別れというのは、俺にとって「惜別」というものなのだろうと思う。

 ゆきが作ったフレンチトーストは、俺が作るフレンチトーストより甘く、おいしかった。そしてそれを食べつくした今、それでも空腹でもなければ満腹でもない。俺がゆきに振られるだろうと思い、それを何とか回避したいと思い、諦めるしかないのかもしれないと思い、という中、俺は空腹感をなぜか忘れていた。そしてゆきに土下座したいという気持ちをさっきから抑えている。本当は今土下座をして、ラーメン屋で働くという特性しかない俺が、デート6回目で結局ラーメンを作ることができなかったことを謝り倒したいんだ。ゆきは

「いいのよ」

そう言ってくれるんだろうか?いや、俺はラーメン屋で働くという特性しかないとゆ

きははじめっからそう思っている。いまさら。いまさらなんだ。

俺は突然、毛足の長いグレーのカーペットの上に正座した。

「ゆき、俺にとってもそのタイミングだと思うし、ゆきにとってもそうだって思うんだ。つまり俺はラーメン屋を辞める。俺はフリーターである俺を、酔っていたせいかくわしくは思い出せないんだが、確か内向的先進性とたとえたことがあるような気がする。本当いうとそんなことは思っちゃいない。ただ、大学入学時からラーメン屋で働き、それが今までずるずると続いていた。それだけなんだ。己のことを先進性なんてこれっぽっちも思っちゃいない。ただ、何かを始めるっていう勇気はあるけれど、それが成功するっていうことは、俺の人生にないような気がしていたからなんだ。だからだ、ゆきと出会ったその日から思っていたことを、今話したい。俺は努力して政治なんかも学び、ついでにマルクスエンゲルスの資本論など読んだりして、区議会議員になろうと思うんだ。そして次のステップは区長、そして都議会議員、そしえて都知事、そしてそれから国政に打って出る。もしかしたら総理大臣だって任されるかもしれない。総理大臣ともなれば、スケジュールは分刻み、疲れ果て眠るだけの生活になるかもしれない。けれど。けれどだ。俺はそんなときも必ず、ゆきに電話をかける。そしてゆきがお腹が空いているのなら、ゆきの手を煩わせることなく、すぐにゆきのこの部屋に駆けつけ、ラーメンを作る。そのとき必ず俺はめんてぼを持っている。河童橋で買うのさ。そう、マイめんてぼ」

 ゆきはおれの話を聞きながら、マルボロのゴールドに火をつけ、ふーっと吐いた。そして俺の話が終わると、それだけ?とでもいうような表情をして、こう言うんだ。

「私の元にはそんな話はいくらでも転がってるの。大抵の男性が似たようなことを家の玄関で宣言するわ。私はスリッパも出さず、「入ってよ」なんて言うこともない。それなのに、そういった人たちは、玄関で大声でしゃべるのよ。いずれは売れまくる大作家であるとか、いずれは有名な外科医であるとか、アバンギャルドなアーティスト、そんなことも言う人がいる。果ては現在のエジプト情勢を俺が何とかおさめ、ノーベル平和賞をとると言う人もいたわ。そういうの、もう飽きてるの。だから、もうそういうのはいいわ」

「もうそういうのはいいわ」

と言われてしまっても俺は考えていた。総理大臣とノーベル平和賞だったら、どっちがすごいのだろうか?そして心弱く、俺の方に分がないように思える。ノーベル平和賞。すごい。

 俺はとうとう床に両手をついてしまった。なにを言っていいのかもわからない。それなのに今俺はソファに座るゆきに両手をつくっていう格好で、何かを言わなきゃならない。

「俺はノーベル平和賞はとれない。すまない」

「いいのよ」

ゆきはそう言った。




100メートルくらい

走りましょうよ。


いまのあなたって

捨てられて戻ってきちゃってごめんなさいっていう

犬みたいだわ


もういいからたまには走りましょうよ

100メートルくらい

わたしヒール履いてても


いまのあなたに追いつけるって気がする

そうなんかいもへこたれられても困っちゃうわ



 「ところで、いつ私にラーメンを作ってくれるの?」

「え?」

俺がゆきの言葉に対する感想は「え?」というもので「え?」でしかなかった。俺はゆきが腹を空かせているというのに、あらゆる、俺なりの努力はしてみたものの、結果、ラーメンを作ることに成功しなかったため、俺はゆきに俺が差し出したへその緒のようなシロツメクサのように、駅のゴミ箱かコンビニのゴミ箱かなんかに、名残惜しさもなく、捨てられると思っていたんだ。そしてこんな気分になった。過去なんてまるでないみたいだ。そして未来ってやつは厄介だ。よく見えやしない。過去もなく未来もよく見えず、あるのはただ、今だ。今ならはっきり見えている。ゆきがいる。

 俺の身体中の細胞が活動を始め、その細胞一つ一つが、俺は今生きている、と主張を始めている。おい、俺の細胞とやら、やっと目が覚めたらしいな。そして何もかも、俺の身体を構成する何もかもが、やっと目覚め、立ち、動き出し、生きているんだと喜びに叫んでいる。


 「めんてぼを盗むのよ」

「めんてぼを盗む?」

「そう、それしかないわ」

盗む。おれはそういうことは経験したことがない。そうだな、確かに中学の時に本屋で、いてもたってもいられず、エロ本を万引きした。それだけだ。けれど今、ゆきはめんてぼを盗むのだ、と言った。万引きだってそりゃ「盗む」ということと、何ら変わりがないのだろうが、それでも「盗む」という言葉で想起させるのは、何か犯罪の香りがする。それは確かに犯罪ではあるのだが。けれど「万引き」と「盗む」、つまり「窃盗」は何か大きく違うように感じる。ああ、そうかそりゃ「万引き」だって「窃盗」だ。

そして感じる。「盗む」。これはゆきと俺にとって遊びじゃないんだ。食べるということ。これができなければ人ってやつは死んでしまう。食べるという行為は、そういう人間にとって最上級のレベルで語られるべき、大変重要で、大切な問題だ。そうだ。つまり遊びじゃない。俺は今夜、真剣にめんてぼを盗む。

そう決意すると、俺は体の中に何か力が充満してくるのを感じた。地球のエネルギーを俺は今、足元から吸い取っている。そのエネルギーは、測られるのを拒む。なぜなら、測ることができない、そういう種類のものだからだ。俺は今、夕暮れではないが、オレンジ色に輝いているのを感じている。こういう時に沸くエネルギーは、ただ、まぶしくオレンジ色に輝くしかないものなんだ。俺は24。今それを知った。

「さあ、とりあえずフレンチトーストも食べたし、もう一回寝ましょう」

見るとゆきは濃紺のTシャツと、エルモの描かれたショートパンツを履いている。俺がエネルギー充填中にどうやら着替えたらしい。俺はもぞもぞとGパンを脱ぎ、ゆきの隣に横になった。眠ろうと思う。そうだ、俺は圧倒的に寝不足だ。寝よう。しかし、俺の中の、俺の身体の中の何もかもが、俺を眠らせようとしない。まるで今寝たら死ぬこともありうるっていう風に、俺の身体の何もかもがそう俺を騙そうとする。なに、寝たら死ぬわけじゃない。俺は思う。このまま眠れずに、そのまま明日も明後日も迎えてしまったら、俺は多分奇声を上げながら、新宿の交差点で服を脱ぎはじめ、そうやって死んでいくだろう。

どう考えたって寝ないということは、そういうことを意味している。

「眠れないんでしょう?」

「うん。どうしてなのかは分からないんだけど」

「私も」

「うん」

「じゃあ、寝物語ね、いい?きちんと聞いてよ?」

「うん」

「あのね、たいていね、私がお断りした人に多いんだけど」

「うん」

「こんな風に言う人がいる。『君はどうせ挫折を知らないんだろう?』って」

「うん。ゆきはそういう風に見える」

「これから話す話が、果たして私の挫折なのかそうでないのかは分からない。そして挫折ていうことが、一般的にどういうものかも私は知らないの。でも聞いてくれる?」

「うん」

「私高校一年生のとき、とても親しい友人ができたのね。私は昔から友達が大勢いるっていうタイプでもなかった。でもその友達には何でも話せるような、背を向けても分かってもらえるような、ずーっと話さないでいたって、この前話した話の続きだけどっていう風に、話し始められるようなそんな友達だった。私たちはね、何かとても自然な吸引力でお互いにくっついていくように、そんな風に仲のいい友達同士になれた。でもね、いつからかは分からない。はじめっから内包されていたのかもしれない。太い毛糸で編まれたニットが、裾からほどけていくように、ゆっくりとそりが合わなくなっていった。そうなの。どう表現していいか分からない。そりが合わない。そうとしか言えない感じだった。私は学校がつまらなくなった。勉強はもともと嫌いじゃなくって、勉強はしたかった。でもね、勉強もつまらなくなった。そして私は毎朝、学校へ行く前、おう吐するようになった。そして学校に行かなくなった。それでも私はおう吐するの。それは学校に行かなくなる前より、回数は多くなっていくの。うちの両親は、私が学校に行かなくなったことではなくて、私のおう吐を心配した。その頃私って罪だなって思った。近しい人に心配をかける。心配してくれてありがとうっていう人もたまにいるけれど、私は心配かけてごめんね。そう思った。そして高2になり、おう吐はぴたりと止んだ。そしてまた普通に学校に通うようになったの」

俺はゆきにキスをした。居ても立っても居られないっていう風に。何度も角度を変えて、長く、長く、ゆきの唇にキスをした。

「苦しい、息ができないじゃない」

そう言ってゆきは笑うが俺は笑わない。

 その時初めて知ったんだ。意志を持つ、人格のある、心のある女性を抱くということ。それはとても丁寧でとても優しい。壊しちゃいけない、そう思う。ただ愛しい。とても大事でとても愛しいという気持ちが湧いてくるんだ。そしてその愛しいという気持ちは何がどう変わろうと、空の色が何色になろうと、俺の身体がバラバラになろうと、続くんだ、そう思った。

 そしてゆきは下着をつけたが、俺は真っ裸のまま、ゆきに

「ごめんね」

と言った。多分説明不足だ。俺は昨晩、ゆきを乱暴に扱ったことを後悔していて、それを考えていたら、つい口から「ごめんね」というつぶやきが漏れてしまったんだ。ゆきは「いいのよ」と言わず、

「ありがとう」

そう言って寝息をたてはじめ、俺もやっと問題は山積みであっても、それはその時、直面した時に考えればいいさ、という気持ちにもなって、やっと安心して眠れたんだ。


 起き際、俺は激しいばちーんっというびんたで起こされた。

「健二君、私は何度も健二君を起こそうとして呼んだし、身体だってゆすった。何故起きないのかしら?私は前回は何発ものびんたで起こしたけれど、今回は効率的に一発で起こしてやろうと思ったっていうわけ。さあ、早くシャワーを浴びて」

ゆきは体育座りをして、マルボロのゴールドを吸っている。そういえば俺はマイルドセブンだ。俺はありきたりな男だ。これからはマルボロのゴールドを吸おうかな?と考えて、いや、俺はそれだから、そういう風に今まで考えてきたからダメなんだと考え直し、一生マイルドセブンを吸い続けてやる、と決意した。

 ゆきの香りのシャンプー。昨日は酔いと、目前に迫るミラクルに圧倒されて、シャンプーの裏書までは読まなかったが、俺は今日頭をごしごし洗いながら、読んでみた。

「シャンパンハニージュレ」

シャンパンは分かる。あの飲むやつ、酒だろう。ハニーは多分はちみつだ。ジュレ?確か食べ物だったよな。

 風呂から出ると、ゆきは髪を後ろでまとめている最中だった。それを横から見たとき、俺はドキッとした。白い、その首から肩にかけてのライン。それは造形的に完璧に思えるんだ。そしてその首から肩にかけてのラインを、俺は今独り占めにしている。その独り占めにしているっていう状態を、なんとか終わらせないよう、少なくとも短く終わらないよう、そう切実に願うばかりだし、その為なら窃盗だって企てる。そして実行もするんだ。

 「ゆき、俺はめんてぼを盗む」

俺は俺の一言が、何か国政を決定するような大いなる問題に結論を出したみたいに言った。

「つまり、結果、俺はめんてぼを盗む」

俺はもう一回言った。ゆきは

「今度は失敗しないよう、慎重にね」

と言う。その目には強い意志が宿っているように見えたが、俺がゆきの目を見ることなどほとんどないから、いつもなのか、それとも今に限ってなのか、それすら分からない。

「そして」

ゆきは続けて言って、クローゼットの中から、大きなバッグを取り出した。

「これは昨年、友達と温泉旅行に行くために買ったバッグよ。大きいでしょう?これならめんてぼも入るわよね」

見るとそのずた袋には「シーバイクロエ」と書いてある。ゆきが持っているそのシーバイクロエのバッグは確かに大きいように見える。もしかしたらめんてぼだって入るかもしれない。

「ゆき、もうあまり時間もないけれど、作戦を一緒に練らないか」

「そうね。私たちは今まで、少し行き当たりばったり過ぎた気がする。よくよく作戦を練りましょう」

「俺は今日はいつもより1時間早い5時に店に入ろうと思うんだ」

「そして?」

「つまりいつも俺は6時に店に入るんだけど、5時っていうと厨房で仕込みをやっている奴らがいるんだ」

「うん」

「そこにはめんてぼが、めんてぼが置いてあるわけだ」

「うん、うん」

「俺は後ろ手に持ったシーバイクロエにめんてぼをさっと放り入れる」

「ナイス」

「俺はちょっと煙草を吸わせてくれと言って、いったんバッグルームに戻る。その時、厨房からバッグルームに戻るとき、鼻歌を歌いたいと思うんだけど、なんの曲がいいだろう?ゆきはどう思う?」

「そうね、木綿のハンカチーフなんてどう?」

「それもいいな」

「もしくは、そうね、健二君はその時大きなシーバイクロエを肩に担いでいるわけだから、その後ろ姿に似合うのは、『宿はなし』なんて、抒情的だしいいと思うな」

「OK。そうしよう。そうだな俺は厨房から去り際に、宿はなしを歌うことにする」

「そこで煙草を吸うの?」

「違うんだ。シーバイクロエを、そうだな、乱雑に並べられたパイプいすの上に置いて、トイレに駆け込むんだ」

「どうして?」

「いいから、聞いてくれ。俺は結構長い時間トイレにこもる」

「うん」

「そして青ざめた顔で、厨房に行き『やばい、何かにあたったらしいんだ。そういえば今日、賞味期限の過ぎたちーかまを食べてしまったんだ。あれがいけなかったのかもしれない。タバコを吸おうと思ったら、いきなり催してしまって、今までずっとトイレさ。俺は今日は帰る。店長によろしく言っといてくれ』と言って、むんずとシーバイクロエを担ぎ、店を後にする。そして俺の中古で買った、ホンダの軽、ゼストを走らせ、ここまで戻ってくる」

「そしてここでラーメンを作ってくれるっていうわけね」

「察しがいい。その通りだ」

「よく練られた作戦だわ。いつ思いついたっていうか、いつそんな作戦を練ったの?」

本当は作戦を練ろうと言いだしたとき、俺の中には何の腹案もなかった。けれどいつもゆきは俺に奇跡を起こす力みたいなものをくれる。確かに俺のたてた作戦は、完璧ですきがなく、よく練られている。その一方でその作戦はゆきとの会話の中で、勝手に生まれてきた、 妄想に過ぎない。

「ゆきは俺をばちーんっと殴って、俺を起したろう?俺はその時寝ていたんじゃない。作戦を目をつぶって思考していたんだ」

「そんなの嘘よ。よだれまで垂らしてたわ。それに私は殴ったんじゃなくって、びんたをしただけよ。少し強めに」

「違う。よだれを垂らすほどに深い思考の迷路に俺はいた」

「ふーん」


「行ってくる」

「いってらっしゃい!気を付けてね!」

そんなゆきの部屋のマンションの玄関で交わされた言葉やその風景ははもしかしたら、新婚さんに見えやしないか?俺は駅へ急ぎながら、笑いたくなるのを抑えるのに必死だった。幸せだったんだ。その駅への道は坂道を登っていくのだったが、俺は「宿はなし」を早くも歌い、その坂道を登って行った。

 

 そして緞帳がまた開く。向かいのホームに赤いラインの走った電車が止まり、乗客を吐き出してから吸い込む、そう深呼吸するようにして、また走り出す。そうだ。俺の目の前の緞帳は開かれ、何かが走って行った。始まるのだ。俺の冒険の第2章が。俺は腕が震えるような気分で、そしてそれは本当に震えはじめ、両手をぎゅっと握り、ワクワクした気持ちはあの赤いラインの走った風景と同じように見えたんだ。つまり走っていく。そういうことだ。

 ホームでゆきに電話をかけた。ゆきに電話するなんて久しぶりの様な気がする。ゆきが笑いながら

「なあに?」

と言う。

「何でもないんだけどさ」

そこで特急が走り、俺の声もゆきの声もしばしかき消される。

「俺の目の前を電車が通って行ったんだ。それは俺たちが走っているから、電車が入って言うように見えるんじゃなくって、本当に電車は走ってた」

「うん」

「つまり、俺たちが走っていても、景色が走っていても、それは同じこと、そう誤解していたんだ。俺は景色にまかせっぱしでいるわけにはいかないっていうことが、最近になって、少し思うようになったんだ。つまり、俺が走って、景色が走っていくように見える。そうしなくちゃならなかったんだ」

ゆきが笑って

「もうすぐ電車が来るでしょう?」

と言うので

「どうして分かった?」

「最近ね、そういうことが分かるようになったのよ。電車に私の声がかき消される前に言うわ。頑張ってね」

 

  俺は予定通り、ラーメン屋に5時に着いた。厨房に行き、

「やあ、おはよう」

と言ってしまう。いつもは

「おはようございます」

だ。

そして厨房の奴らも、

「おはようございます」

と答え、鶏肉と格闘している。

「ちょっと煙草を吸ってくる」

そう言いながら、俺の腕は背後で素早く動き、シーバイクロエのずた袋にめんてぼを入れることに成功した。そうだろう。鶏肉を分解する過程に、一生懸命になっている奴らに、俺に心ときめく恋愛が、内蔵されていることを、洞察できるような奴らじゃない。俺は成功した。そして予定通り、「宿がなし」を歌いながら、厨房を出ていき、バッグルームに戻り、パイプいすに、めんてぼの入ったシーバイクロエをさりげなく置いて、トイレに入った。

 上出来だ。今のところなんらミスはしていない。この後、俺は腹が痛くなってしまうことになっている。期限の切れたちーかまを食べてしまったせいだ。そうだ、今のところ、出来すぎなほど、うまくいっている。俺はさらに上機嫌になり、もう一回最初から、宿はなしを歌い始めた。

 トイレから出ると、店長がパイプいすに座って、タバコを吸っている。予想外だ。そんな予定は立てていない。つまり俺が機嫌よくもちーかまにあたって苦しみ、トイレから出てきたときに、店長がいるなんてゆきと話した作戦には、そんなことが起こりようもなかったが、今現在起きている。

「マスター、おはようございます!」

俺は直立して、店長を、なぜかマスターと呼んだ。

「俺、腹を壊してるんです。さっきも中々トイレから出られなくて。そういうわけで今日は帰らせてください」

俺は恐る恐るシーバイクロエに近づき、持ち手を持とうとするが、持てないでいる。

「お前は機嫌よく歌いながら、下痢をするとでも言うのか」

「俺の下痢は機嫌がいい」

また、俺は変なことを言っているなと思う。

「そしてお前は、めんてぼを盗もうとしているのか?」

 俺は過去に経験している。これも高校の時の話だ。ブルマーの良く似合う、顔もそこそこの女を俺は誉めた。顔がそこそこといったって、特に美人とかかわいいと言える程度でもない。その女の太ももにはセルライトも浮かんでいるような太ももなのに、俺は懸命に、その女子の脚について誉めた。

「なんていうか、君の脚は『黄金比率』としか形容しようのない、素晴らしい脚に俺は思えるんだ。太くはないけれど、そうやせ過ぎでもない。そうなんだ。君の脚は『黄金比率』を形容しているような脚なんだ」

俺は何回か「黄金比率」と言ってみたら、その女の脚は本当に黄金比率に見えてきたんだ。そうやってたまにはウソも役に立つことはあるし、結果それが真実になることもある。そうなんだ。俺はその女の脚が黄金比率であると全身で信じられるようになったんだ。つまり、ウソは貫き通したら真実になる、俺はそう思いしだしていた。

「お借りしたかったんです。俺、最近めんてぼのやり方に少し迷いがあって。ちなみに今日お借りしても、今日はちーかまの食べ過ぎで体調不良っていうわけで、今日は練習できないんですけど、明日早朝5時には起きて、めんてぼの特訓をするつもりでいたんです。ですから、明日の出勤にはめんてぼを持ってくるんで、それまで貸してもらえないでしょうか?」

そうだった。確かに俺は最近めんてぼの扱いに迷いがあった。明日早朝5時に起きたら、めんてぼの特訓をしよう。

 俺はめんてぼを借りるという言葉にうっとりしていた。店長はそう恐ろしいっていう、テレビなんかでやっているような店長じゃない

「クビだ」

「ボス、しけてるぜ」

「お前らにとって、ラーメン屋で働くという意味をつけるとすれば、デート代が欲しい。ラブホに一晩泊りたい、なんとなくラーメンで働くに至った。そういうことなんだろう。でもな、俺には嫁と子供がいて、おれはふざけてやっているわけじゃなく、その嫁や子供を、養っていく。食わせていく、そう2本の足で立つように、ラーメン屋をやってるんだ。そういうバイトの連中が、ふわふわめんてぼを扱うように、または、お前のようにめんてぼを盗もうとするやつに、俺は金を出したくないんだ。クビだ」

店長は、俺のというかゆきのシーバイクロエからめんてぼを取り出し、俺にシーバイクロエを投げ、俺は上手にキャッチしてみせた。

 俺はなんだか無性にゆきの声がききたくなった。俺は電話をしただけで、もう終わってしまうと思っているし、ゼストの中で、ゆきの言葉を聞き、ゆきの表情や仕草も、マルボロのゴールドに火をつけるさまも目の前に浮かぶんだ。俺のこれからの人生は、妄想で終わるのかもしれないとも思う。ゆきが見せたジンジャーエールの飲み方や、手の動かし方、全世界の女に絶対に似合わないだろうという、服装や話し方。それを妄想するだけの24歳、いや、俺がたとえ40になろうとも、それ以上になろうとも、日々妄想し続けるしかないんだろう。

友人が言うかもしれない。

「時間が解決する」

でもそれは違う。ゆきは俺にとっての運命の人にであったんだ。すれ違っていくだけの、そんな恋愛。それとは全然ちがうんだ。それは「絶対」に思えるんんだ。もちろん怖い。今1点目に怖いということは、「ゆきをがっかりしてしまう」と言うこと、2点目は、昨日ゆきの部屋では、もうそこに存在していたゆきを、もう見ることができないということだ。

 俺はやっとスマホを取り出し、少しいじってみる。そして電話帳を開けて、ただスクロールする。ダメだった。そんな心境で電話をしたら、俺の声はのどを狭められ、うまくしゃべれないだろう。そして泣きたい気持ちにもならない。終わりを見るときは他人は涙を見せず、ただふわふわ浮いているだけだってことを知った。そしてゆきに電話をする。呼び出し音が流れて、俺はすぐに電話を切った。やっぱりだめだ。おしまいは見ないで、ただの無職の24歳になってしまってもいい、そう思ったんだ。するとゆきから電話がかかってきた。出た。

「首尾はどう?」

「ゆき、聞いてくれ。俺はめんてぼを盗む子に失敗した。そしてさらに言えば、俺はさっき、ラーメン屋をクビになった。俺にはもはや、ラーメン屋で働く、という特性もなくなってしまったんだ」

「つまりはめんてぼ窃盗を失敗して、ラーメン屋をクビになった。そういうことなのね?」

「まあ、そんな所につきる」

「もういいから、早く帰ってきなさいよ。今日はやけっぱちにお酒を飲みたいかもしれないけれど、飲酒運手には反対よ。ゼストでくるんでしょう?温かいシャワーを浴びれば、何か新しいアイディアが浮かんでくるかもしれないわよ」

「帰ってもいいのか?」

「もちろんよ」

「何か特別な話があるんだろう?」

「そうよ」

男女の別れには、たいてい何かしらの会話があり、そして別々になていく。そしてそれが修羅場でないとしても、

「時間は短かったけれど、あなたと付き合ったことに後悔なんてしてないの。ありがとう」

とか

「いつまでもお元気でね。そして明るい奥さんをみつけて幸せになってね」

等々だ。俺は円満に女と別れるとき、女はみなそんなことを言う。でも、ゆきは音楽家だ。つまり芸術的な女性と言える。そんなゆきがいくらでもいる公園の鳩のように、他の女とおなじようなことを言うとは思えない。ゆきも「惜別」と思ってくるだろうか。最後だ。どうしてもゆきの姿、笑顔が見たい。

 俺のゼストはふわふわと動く。店長もふわふわと言っていた。そしてさっきも俺はふわふわしていた。もしかしたら、ふわふわしていることは罪なのかもしれない。店長の言うように。まるで空に浮かぶ雲の中を走っている気分だ。俺はスピードを出さず、ゆっくりゼストを走らせた。ちょっと先に赤い傘を持った。女の子がいる。俺はその女の子の横を通り過ぎる時、

「そこの赤い傘をさしたお嬢さん、俺のことを俺だと思っているでしょう。でもね、少し違うんだ。俺は俺のように見えるけど、本当を言うと紙風船なんですよ」

そう、俺は空っぽだった。赤い傘に気づいてから、小雨が降っていることに気づく、いつも、いつも、もしかしたら大切だった物事を一瞬忘れてしまってから、気づくんだ。そしてそれは俺の習性なのかもしれない。サボっている、サボってきた、だって、人生に起こる何を見ても、何を聞いても、何を語られても、それらは俺にとって「サボってもいい何か」としか思えなかったんだ。

ゆきは笑って俺を出迎えた。

「さあさ、シャワーを浴びて。私と一緒に明暗でも練りましょうよ。そういうのって健二君、上手でしょう?」

「でも、実行に移すと俺は何もかも終わらせてしまうんだ。俺は計画を練って、事に臨み何もかもめちゃくちゃにしてしまう。それはいつもいつもなんだ。ゆきだって知っているだろう?」

「終わっているように見えるだけよ。本当はきっと続きがあるんだわ」

「そうかな?」

「そうよ。きっとそうよ。バスタブに熱いお湯もためておいたの。ゆっくり入るといいわ」

俺は服を脱ぎ、パンツを脱いだ。その「服を脱ぐ」であるとか「パンツを脱ぐ」っていう動作をするためのエネルギーがどこから湧いてくるかさえ分からない。

俺はいつゆきが致命的な会話を始めるのだろうと、そのことばかり考えていて、ただ湯気の立つコーヒーの中身をのぞいているだけだ。ゆきの言葉なんて聞いているような気もするが、聞いていないような気もする。そしてよく見るとゆきは今日は化粧をしている。俺はつけまをばっちりつけるような、化粧の濃い女は苦手だ。たとえ美しいと思ったって苦手なんだ。その女たちはなにかを隠している。そしてそういう女はシャンプーじゃない、何かの香りを振りまく。動物的個体性さえ、そういった女たちは消そうと必死なんだ。

そこまで考えてみて、ゆきを思う。ゆきは確かに水族館デートの時、化粧していた。俺はそのことを知っていた。というか、分かっていた。そしてゆきがすっぴんを見せたその瞬間だって覚えている。でもそれからはいつゆきがすっぴんであって、いつゆきが化粧をしているその姿を俺に見せたっていうことは、もうあいまいで分からなくなっている。あの時は?あの時は?と思ってみてもあいまいでよくわからない。もしかしたら俺は、ゆきが化粧をしていようと化粧をしていなくても、どうでもよくなっているのかもしれない。

「明日ね、粗大ごみでこのカーペット捨てようと思ってるの。手伝ってね」

「うん」

俺は相変わらず、コーヒーの中身を見ていたが、少し頭をはっきりさせようと思い、一気にコーヒーを飲みほした。「明日ね、粗大ごみでこのカーペット捨てようと思ってるの。手伝ってね」?

俺は仰天した。俺は朝までいていいらしい。しかもカーペットを捨てるというのは必ず、一人ではできない共同作業と言うことになるだろう。ケーキカットの前にあらかじめ予行練習でもするような、そんなカーペットを捨てるっていう共同作業。

 俺はどうとでもなれ、という気もちになり、そして逡巡し、そして考える。俺は今までとことんサボってきたけれど、ゆきに対してはサボったことなどないぞ、と。今、今この瞬間だって、サボるべきではないのだ。サボっていい時もそれはある。というか、俺の人生はその連続で、俺は麺を切りながらよくあくびをしていた。女とその前に見る映画を見ている最中にだってあくびを連発したし、しょんべんをしながらだって大きなあくびばかりしていた。そうだ、今はあくびをしている場合じゃない。カフェインは俺に勇気とエネルギーを注入した。

 そしてゆきが座るソファの向こう側、コーヒーテーブルを挟んだ向こう側に俺は正座をした。俺もまた正座か、芸がないなと思うのだが、それ以外やりようがないんだ。

 「俺は現在24歳で、無職だ。そして自慢できるような学歴も持ってないし、ポルシェだって持っていない。そんな24歳だ。そんな24歳だから、なんの自信も持てやしないし、俺だってゆきが俺のことを好きになってくれるとも思わない。へまをしてめんてぼ窃盗も失敗し、おまけのようにラーメン屋もクビにもなった。どこに、どの辺で自信をもっていいのか分からないし、今はただひたすらに自信がない。それは多分自信をもっていい場所を俺が持っていないからだって思う。今こそ、宿はなしを歌うべきなんだろうなって俺はここに来るゼストの中で考え続けたんだけど、そんな歌声なんて出てこないんだ。そう、宿はないのかもしれない。でも宿はなしを歌えない。矛盾だとも思う。でも歌おうとおもうのに、口から出てくるのは空気なんだ。溜息ですらない。空気が漏れていくだけだ。そうやってここに着いた」

俺はそこで深呼吸をした。話しながらブレスの瞬間がうまくつかめない。

「俺はデートの最中、いつもゆきの爪ばかり見ていただろう?それは爪が貝殻みたいできれいだっていうこともあるけれど、それは他にも理由があるんだ。つまり、君の目を見れなかった。顔も見れなかった。まぶしすぎたんだ。太陽を直視できないように、まぶしすぎて、まぶしすぎて、ゆきの顔が見れない。ずーっとそうだったんだ。まぶしいんだ。どうしよもないんだ、どうしようもない、俺は君が好きなんだ。どうしようもないんだ。変なことを言うようだけど、今はゆきのことを普通の髪の長い女性って言う風に見える。そして下の歯が少しがちゃ歯なのも知ってるし、奥歯に虫歯があることだって知っている。だけど好きで好きでしょうがないんだ。俺にとってはゆきは特別なんだ。多分一生特別なんだ。俺は多分ノーベル平和賞をとれないし、おそらく区議会議員にもなれない。いや、もしかしたら努力すればなれるのかな?俺はそういうことに正直疎い。なれるのかもしれないけれど、多分なれないだろう。でも俺にできることがたった一つだけあるんだ。それは空き地に座って、時間も忘れ、眠ることも忘れ、お腹が空くのも忘れ、お尻が湿っていくのもかまわず、ひたすらシロツメクサを編んでいくっていうこと。それはできる。だから、だから」

思うように息ができたらなあと思う。うまくブレスをつかめないから、一気に呼吸することもなく言ってしまっているような気がする。そしてその「だから」と言ったあとに、何を続けていいのか分からない。ゆきはしばらく笑いをこらえるような顔をしていたが、俺が「だから」を2回言った後、笑い出した。


 「しょうがないわねえ、ほんっとしょうがない。いいのよ。私がピアノ教室でもやって、食べさせてあげるわ。だから次の3点を守って。一つ目はいたずらに部屋を散らかさないこと。これは少し健二君に見られる傾向よ。ポテトチップを食べ終わったって、袋をゴミ箱にだって捨てようとしない。二つ目はね、いつかみたいに、私のために、閉まっているシャッターを、必死で、本気になって叩き続けてくれること。そして三つ目はね、いつかピカピカの帽子をかぶって、ギターを弾きながら歌って、客席にいる私に向かってピカピカの帽子を投げてくれること」

そしてゆきは、ゆっくりコーヒーを一口飲んで、脚を組みなおしてから、

「あとはいいの、いいのよ。それだけよ。健二君が健二君であるならばそれでいい。ノーベル平和賞に幻惑される様な、そんな簡単な女じゃ、私ないつもり、そしてね、私の大事にしてた秘密を教えてあげるから、ちょっと私の横に座ってくれる。いつまでも正座してたら、足がしびれるわよ」

俺は立ちあがったが、よろけた。ゆきの予言通り足がしびれていたっていうわけだ。

何とかソファのゆきの横に座り、ゆきはなんだか今、初めて見るような表情、戸惑い?違うな。そう、恥ずかしがっているようにも見えるんだ。そして内緒話をするときのように、俺の耳に手をあてがい、息が漏れていくみたいに、小さな声でささやく。

「あのね、大きい声じゃ言えないんだけどね、私がね、いつも使っているグロスにはね、名前がついててね、いつも使っているグロスの名前は、『花のみつ』、そして健二君には限定で『内密に』をつけてるのよ。私、その程度の女なの」

って言うから俺たちはこの世から不幸が一切消え去ったのかもしれない、やっと世界中の空がつながったのかもしれないって言う風に、大声で笑いだしたんだ。そして、ゆきはそのままこう言ったんだ。

「駅前のラーメン屋に行かない?こってり塩ラーメンを食べたいの」

俺はなんていうだろう、そうだ。そのこってり塩ラーメンを大盛りで食べようと思った。大盛りがないのならば替え玉を。今奇跡を起こしたのは俺じゃない。ゆきなんだ。



もし僕が万物の創造主になれたなら


君に


君によく似た芍薬の大きな花束と

キラキラ輝くダイアモンドと

アンティークなイス


みんなみんなプレゼントする


もし君がそれらを欲しいと願うのなら

今、僕はどうしたって万物の創造主っていうやつになってやるって

そんな気概が湧いてくるんだ


もし君がそれらを欲しいと願うのなら




か結婚式をあげよう。俺はそう言っていた。そのまま俺は29になりゆきは27になった。俺はというと、大学の頃の友人に電話しまくって、何とかバンドを組み、妥協しながら、それでいて時にはむきになって、のみこまれたり、まきこまれたり、妥協をやめたり、そんな風にしながら、何度もメンバーチェンジを繰り返すという変遷をしながらも、今は、そこそこの動員数のある、それでいて地味だが確かな存在感のあるなそんなバンドになることができた。

 そして俺は売れてくると、ゆきと内緒話をした数日後に見つけたラーメン屋に努めたが、それも辞めた。それはそれほど真剣にラーメンを作っていたわけじゃなった。サボりながらやっていた。たまにはあくびもした。けれど今は真剣に、サボれないものを持っている。

 

俺たちはオープンガーデンで式を挙げた。式って呼べないかもしれない。パーティーのようなものだ。俺は29にもなるのに照れまくっていて、照れすぎて赤ワインに酔ってしまった。ゆきは隣で笑っている。ウエディングドレスを着たゆきはとてもキレイだった。けど、そのことに動じるほど俺は弱くなくなっている。その日空には雲さえなく、どこかのデパートの屋上なのか、それともモデルルームなのか分からないが、ピンク色の丸いアドバルーンが浮かんでいる。近くで見れば、それはバカでかいんだろう。けれどここからでは、そう大きく見えるわけじゃない。それだけの装飾しかないそんな青空だ。そんな青空の元ゆきは笑っている。笑い続けている。なにがおかしいのか知らないが、照れている俺の横でゲラゲラ笑っているんだ。頭にはシロツメクサの冠が乗っかっている。ゆきは笑っているんだ。高い青空に突き抜けていくようなそんな、笑い方で。


                                   了


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