奇跡などいらない
始まりは、一杯のお茶だった。
開け放たれた障子の向こうから、嫌という程の熱気が流れ込んでくる。わざわざこのクソ暑い日に窓を開け放つぐらいだから、この部屋に冷房などない。庭の木のどこかで鳴いている蝉の合唱が、ますます腹立たしい。正座をぞんざいに崩すと、襟元のネクタイを軽く緩めた。申し訳なさげに座卓へ置いてあった団扇を揺らめかせていると、いつの間にか舟を漕いでいた。しとやかな足音が近付いてくるのを微かに聞き取り、身を正す。
ふすまの向こうから、すいませんと声がかかった。慌てて居ずまいを直して、ふすまへ振り向くと、少女が廊下へ膝をつき、頭を下げていた。
「わざわざ遠くからお運びいただきまして……」
口上を続けようとする少女を止めると、彼女は頭を上げた。まだ女学生くらいであろうか。こんなに暑いというのに、着物を着て、涼しげな顔をしている。笑みを浮かべた頬に、えくぼ。夏の日差しにも負けない目の輝きに、思わず吸い込まれるように視線が引き寄せられた。
「すいません。お父ちゃん、まだ帰ってこないみたいで」
部屋へ入ってくると、盆の上の茶を私の前に差し出した。カラン、と氷のぶつかる音がする。これも夏の音だ。
「娘の鈴乃といいます」
「どうも……」
軽く頭を下げながらも、鈴乃を伺う。彼女は何が楽しいのか、微笑んでいた。途端に恥ずかしさが襲い、ぱっと目を逸らす。
誤魔化すようにガラスの湯のみを手に取り、一口……愕然として、手を止めた。
(なんだ、この茶は……)
今まで出会ったことのないほど清秀な香り。澄み切った喉越し。舌を刺激する苦味と、悼むような甘やかさ。
「これは……どこぞの名のある茶かなにかですか?」
放心したまま訊ねると、鈴乃はころころと笑う。
「いいえ、どこにでも売っているお茶です。何かおかしな味でもしました?」
不思議そうに首を傾げる。
確かめるように一気に茶を飲み切った私を見て、怪訝な顔を浮かべる。
「……あのぅ、もう一煎お入れしましょうか?」
鈴乃が湯のみへ伸ばした手を、私は思わず掴んだ。少々どころか、かなりぶしつけな振る舞いだったと、後に反省するところだ。
「きゃっ……」
当然、鈴乃は驚きの声を挙げた。しかし私は構わずに、鈴乃の腕をぎゅうと握る。若さ故の走りだ。しかし、それほどに真剣だったのだ。
「いきなりこんなこと言うのもなんですが……」
「はあ……」
訝しがりながらも、鈴乃は私の手を振り払う真似はしなかった。それどころか、こちらの言葉を待ってくれる。
「私と結婚してはいただけないでしょうか?」
静まり返る室に、蝉の鳴き声が戻ってきた。一陣の風が、爽やかに駆け抜けて、二人の髪を微かに揺らした。刹那のようで、永遠の時のようでもあった。
「私は、あなたを生涯かけて守りたい」
ガラスの湯のみが、かいた汗をしたたらせた。
ぱちくりと丸くした目を瞬かせた鈴乃は、ゆるゆると頬を緩める。
「ご存知ですか? 愛する人のために願うと、たった一度だけ、その人のために奇跡を起こせるのだそうですよ」
「……はあ」
「私は、あなたのためにその奇跡を使いたいと思いますわ」
こうして、私と鈴乃は結婚することになったのだった。
まるで冗談のような申し込み口走らせたのは、紛れもなくあの一杯の茶だった。恩師に礼を言いに訪ねたはずなのに、嫁さんをもらって帰ってきたというのは、今でも笑い話で語られる。それでもあのときの直感が間違っていたと思うことは、一度もなかった。だがなぜ鈴乃があんなに簡単に頷いたのかは分からない。もう永久に知ることも出来なくなってしまった。
「鈴乃、君と出逢えたことが、私の一番の幸せだったよ」
白い顔に最後の口付けを落とし、棺の蓋を閉めた。
がやがやとした集団が帰ると、急に家の中が暗くなったように感じる。誰かが雨戸も立てていったようで、小さな箱のような部屋の中で、ジージーと危うげな音を立てる蛍光灯だけがやけに現実的だった。それ以外は、ぽつんと。これからは一人なのだ……。その現実が、まるで他人事のように遠い。
新しい祭壇に線香を供え、喪服を着替えると、もそもそと飯を食べる。
「ああ、風呂も入れなくちゃいけないな……」
誰かに言うような独り言は、これから増えるのだろうか。これからは、ずっと、誰にも語りかけることはできないのだろうか……。
「すず…………」
喉の奥から慟哭が漏れるのをきっかけに、視界がぼやける。大きくわめき声を上げながらも、涙が出るときは目が熱くなるんだと、ぼんやりと思った。
「すずの……」
呼びかけても、返事が返ってくることはないのだ。これからはずっと……。
『愛する人のために願うと、たった一度だけ、その人のために奇跡を起こせるのだそうですよ』
ーーそんなものがあるなら、鈴乃を返してくれ。
泣き叫び、疲れては意識を失い、目覚めては泣く。茫洋とした日々が過ぎた ぼんやりとした頭で、遺品を整理しなくてはと思いつく。
鈴乃の少ない荷物の、一つを見ては涙を流し、後悔をする。それを繰り返して、すぐに一年が過ぎた。最後に残った小さな行李の中に、鈴乃の手帳を見つける。ほんのりと黄色くなった小口は、開かれることを阻むように鍵が守っていた。整理をした中に、鍵などあったろうか? しかしそれは見かけだけのものだったようで、小さく錆びた音を立てて、床へ落ちた。
『あなた……』
顔を上げるが、私の名を呼ぶものなどもうない。気のせいと、手帳に手をかけたときに、ようやく異変に気付いた。
カタカタカタ……箪笥の上の写真立てが揺れ、落ちる頃には立ち上がれないほどの揺れが襲っていた。
地震か……そう思ったのも束の間、最後に私の目に入ってきたのは、倒れこんで来る大きな桐箪笥だった。痛みというよりも衝撃に倒れこみ、薄れゆく頭で思い出した。
鈴乃の嫁入り道具の箪笥だ。これは皮肉なのか。それとも……。
※※※
「……さん」
頭の中で破れ鐘が鳴っているみたいだ……。他のことが考えられないくらいこめかみが痛む。まるで万力に絞られているようだ。起き上がろうとするが、ひどい頭痛に身動きが取れなくなる。
「いたーー……」
「あ、ゆっくりと起き上がってください。水は? 飲まれますか?」
頭を上げることも出来ず、微かに頷くと、視線の先にグラスが差し出された。まだ井戸から組み上げたばかりらしく、冷たい。一気に飲み干すと、目を数回瞬かせる。口の中には塩辛さが残っていた。
「大丈夫ですか?」
柔らかな声、額にそっとあてられる冷たい手に懐かしさを感じたが、そんなはずはない。急に心臓が、ひやりとした鼓動を刻みだした。
「大丈夫……」
恐る恐る顔を上げると、
「鈴乃っ!!」
私を後ろから支えるようにしていた鈴乃は一瞬びくりと身を震わせ、しかしすぐに眉間に皺を寄せた。
「まだそんな大声を出してはいけません! めまいは? 身体がだるくはありませんか?」
心配そうに覗き込む女は、まさしく鈴乃である。だが、理解ができない。茫然と空想を漂い、ようやく一つの可能性を見出した。
「そうか。私も天国へ来たか」
なぜその選択を考えもしなかったのか。天国へ来れば鈴乃に会えたなら、あんなに悲しむことはなかったのに。しかし鈴乃は、ふふとおかしそうに笑う。
「暑さで混乱しているのですね。お庭で倒れているのを見つけたときは、驚いたんですからね。お医者様は熱中症ですって」
しっかり塩水を飲んだらよくなるとか、鈴乃の医者からの受け売りが続く。
「すると、ここは天国じゃないのか? ここはどこだ?」
寝ぼけているのだと思い込んでいた鈴乃は、心配そうな顔をして、私を布団へ寝かせた。
「ここは私たちのおうちです。もう三ヶ月も経つのに、まだ慣れないんですか? 嗣人さん」
は? と声に出す寸前で飲み込む。呆然と鈴乃を見つめると、確かに若い。出会ってから半年、結婚式してすぐの頃の彼女の姿だった。すると、私は少しの時を遡ってしまったということか?
「……結婚してから、三ヶ月の頃か……」
勘違いした鈴乃は、ようやく安心したような笑みを浮かべる。その笑顔に、私も懐かしさで口元が緩んだ。
「これが、奇跡……」
鈴乃の死がたまらなかった私が起こした奇跡だろうか。奇跡でもなんでも、こうして鈴乃と再び暮らすことが出来るのだ。
目の淵にたまった熱いものを見られないように、寝返りを打つと、自然に口からこぼれ出た。
「幸せだな……」
心の奥底に眠っていた言葉が零れた。鈴乃がどういう表情をしているかはわからない。だが、
「はい、嗣人さん」
きっと柔らかく微笑んでいる。
そうして五年ほどの時を遡った私は、その生活を楽しんでいた。鈴乃にとっては初めてのことも、私にとっては二度目のことだ。最初は懐かしく思いつつ、驚いたふりなどをしていたが、次第にもっと鈴乃を喜ばせたくて、本来しなかったことを考えついた。過去を変えてしまうことの罪悪感を抱きながらも、鈴乃の笑顔を見ると、そんな思いは吹っ飛んでしまう。
それでも、ガラス細工のように美しい日々は、きらきらと過ぎて行く。
それに気付いたのは、四年の月日が経った頃だ。愕然とした私に、鈴乃はいたわしげに首を傾げた。
「いや、なんでもないんだ……」
もうすぐ鈴乃と結婚して、五回目の夏が来る。それは、あの悪夢のような日が訪れるということだ。
「顔が青いわ、嗣人さん。どうしたの」
覗き込んだ鈴乃を、そのまま絡め取り、腕の中に抱きしめる。今もまだ信じられない。この腕の中には確かに鈴乃がいるのに。
「鈴乃」
再び、鈴乃と言葉を交わすことが出来なくなるなんて。
「鈴乃……」
「……嗣人さん」
ぽんと鈴乃の手が、私の背中をあやすように叩く。心臓の鼓動と同じ早さで。
「私はここにいます。ずっと嗣人さんの側に。あなたがずっと守ってくださるから」
「そうだな。ずっと守ると言った」
そのとき、私の頭の中で記憶が弾ける。
アノヒ、スズノヲエイエンニウシナッタ。ソノヒガモウスグヤッテクルーー。
***
嵐が過ぎた後の、蒸した日だった。鈴乃は暑い盛りに、買い物に行くと家を出た。私は仕事に追われていて、空返事を返した。夕方になって、何やら外が騒がしいことに気付き、机から立った。救急車が数台、忙しく走っていったようだ。
「鈴乃、何かあったのかな。おい」
いつもその時分にはいるはずの台所に、鈴乃の姿がない。そこでようやく、彼女がまだ買い物から帰っていないことに気が付いた。鈴乃は何時頃家を出ただろうか、記憶にない。つっかけで騒ぎの元へと近付いて行くと、どうやら川で子どもが溺れたということだ。夏によくある事故。それも昨日の台風で、川は増水している。それでも今回流された子どもは助かったという。
暑さがいい加減にたまらなくなり、帰ろうとした私の視界に、さっと見覚えのあるものが飛び込んだ。
「ちょ、ちょっとそこを通してくれっ!」
訝しげな人を掻き分けて、川辺にそっと置かれたものに走り寄る。それは竹の買い物籠と草履。間違いなく鈴乃のものだった。
身体の中心がキュゥっと冷える。身体の全ての機能が止まったかと思った。
近くで事故のことを話している主婦たちへ視線を向けると、びくりと身を震わせた。
「なにが、あったんですか」
主婦たちは顔を青くして、何かをまくし立てたが、私の耳には入ってこない。
「おしえてください。なにが」
「コドモガカワニナガサレテ、オンナノヒトガタスケタガ、ソノヒトハナガサレテ」
「なぜここに、つまのぞうりがーー」
「ーー見つかったぞっ!!」
その声に、下流をばっと振り向く。
「ホラ、ハヤクイッテヤンナ」
背中を押され、その反動のまま、倒れこむように走る。人影はすでに救急車へ運び入れられそうなところだった。
「鈴乃!」
叫びながら飛びつくと、押さえつけられる。
「離してくれ! 私の妻だ!! 」
「旦那さん、今は一刻も早く病院へ。乗らないのなら、離れて!」
力づくで引き離された隙に、車のドアは閉められ、救急車が走り去っていく。しかし、閉められる一瞬垣間見えたのは、やはり鈴乃の着物だった。
「どうして鈴乃が……」
『奥様の命は助かりました。これは奇跡としか言いようがない。しかし、川の中で頭をぶつけ、頭の中で血管が切れ、血が溜まってしまった。そこから時間が経ってしまっています。そのため意識が……非常に言いにくいのですが、奥様の意識が今後回復するかどうかは、奥様次第です。一週間後かもしれないし、一年後、あるいは一生……』
「痛くないか?」
返事はない。シューという酸素を喉に無理やり入れる音が響く。
「私は生涯君を守ると言ったなあ、鈴乃」
握りしめた手は、暖かい。しかし、握り返す手に力が入ることはない。
「……また君の茶が飲みたいんだ……なあ……」
それから鈴乃は回復することなく、日々は過ぎ、半年後、院内で流行病に感染し、あっけなく逝った。
***
あの引き千切られるような悲しみを、辛さを、もう一度味わえというのか? いや……。
ーーそうだ、鈴乃への誓いのとおり、私が守るのだ。あの日を繰り返させはしない。
「嗣人さん、お夕飯……」
「済まないが先に食べてくれないか。この仕事だけ終わらせたいんだ」
「……分かりました」
鈴乃の淋しげな声に、心がつきりと痛む。だが、これも鈴乃を守るためだ。一層仕事の速度を上げて、鈴乃が温め直した夕餉にありつきながら、私は鈴乃に一枚のメモを差し出した。
「清白温泉……取材ですか?」
「最近どこにも連れて行っていなかったからな。豊くんにいい宿がないか聞いたんだ」
それを聞いて、鈴乃の顔がぱっと輝く。
「連れていってくださるんですか?」
確か台風が来たのは、今週の金曜のことだった。早めに動けば、鉄道もさほど影響はあるまい。
「水曜日にでもと思うが」
「ええ……あ。水曜日は町内会の集まりがあるので」
「では木曜日に出よう」
早く、早く――この土地から離れれば、きっと鈴乃は助かる、いや、必ず。しかし無情にも、この旅行は中断することになったのだった。
「残念ですね、まさか宿の裏手が山崩れだなんて」
縁側でなんでもなさそうに微笑む鈴乃だが、実は相当落ち込んでいることを知っている。
「今からでも他のところを探そうか」
「いいですよ。雲行きも怪しいし、また今度ゆっくり考えましょう」
「そうか……」
本当は私が鈴乃をここから引き離したいのだ。それを話せないもどかしさに、なんとも言えぬ気持ちになる。
「それに、今日はやめておいてよかったのかもしれません」
ぽつりと呟いた鈴乃の顔は、なんだか少し赤らんでいるように見える。
「どうした? 体調でも悪かったのか?」
近寄って鈴乃に手を伸ばすと、頬に当たる前に両手に取られた。弱々しくも力の入った掌に、余計心配が増す。もしかして……と、鼓動が急に早くなる。
「病気、とか?」
自分の言葉に恐怖を抱く。鈴乃を失うことからは逃れられないのだろうか。
「鈴乃、なんだ? 言ってくれっ!!」
俯いたままの鈴乃の肩を揺さぶると、やっと顔を上げた鈴乃は、ぽろぽろと涙を零す。
「泣くほどのことを、なぜ隠していた!?」
「いえ、隠していたというより……今日言おうと思っていたんです」
悲しげではない。むしろ嬉しそうに泣いている。これはどういうことなのだろう。
「嗣人さん、今度の旅行は三人分の予約を取ってくださいね」
「三人……まさか!」
「えぇ」
鈴乃が、自分の腹を柔らかく摩る。
「鈴乃っ、やった! やったぞ!!」
思わず鈴乃をぎゅっと強く抱き寄せそうになり、慌てて柔らかく包み込む。
「そんなにお喜びになるなんて」
「当たり前だろう! 今夜は寿司を取ろう! 竹、いや松だ!」
その夜は、二人とも浮かれた気分で、素面のまま、おかしなぐらい笑いころげた。しかし、堅牢に閉めた雨戸の外では、荒れ狂う夏の嵐がようやくやってこようとしていた。
――私はどうすればいいのだろうか。
唯一できることは、鈴乃を明日、家から出さないことだ。私が代わりに買い物に行くか? いや、その間に鈴乃が何かのはずみで外へ出てしまったら、あのときのように……あのときも、お腹には私たちの子がいたのだろうか? 私が知らないままに生まれ、知らないままに死んでいったあの子は……今度こそ手に抱いてみせる!
「もしもし豊くんかい。明日うちへ来ないか? いや、来なさい。手の空いてる編集部の人間をありったけ連れてきてくれ。いや、そうじゃない。子ができた祝いだ。ああ、そうしてくれると助かる。とにかく酒も食い物も、食べたいものを食べたいだけ買ってきてくれよ。余るぐらい。大事なときだから、こんな暑いさなか外に出すのが恐ろしいんだ。そうだな、昼過ぎたらすぐに来てくれ。うん、じゃあ頼んだよ」
電話を切って、ほくそ笑む。これで明日は鈴乃は外出する余裕がない。家の中にいれば、川に流されることなんてない。これで鈴乃を救える。生まれてくる子と、三人での生活が生まれるんだ。
「奥さーん、すみませーん。酒なくなっちゃって」
呂律の怪しい豊くんが、酒瓶を振りながら台所に身を乗り出す。
「はーい。急いで買ってきますね!」
いつものように鈴乃が手早く割烹着を脱いで、買い物の支度をする。ちらと時計を見ると、まだ事件の起きる前だ。
「だ、だめだ。私が行く。重いものを持つなんてダメだ」
余るぐらい買ってこいと言ったのに、日が暮れる前にこれとは、使えない編集たちだ。
「嗣人さんはすぐどこか寄り道しちゃうでしょう? 任せられません」
これではあの日と同じになってしまう。どうしようか。どうしたら……!
「じゃあ、せめて一緒に。荷物持ちぐらいさせてくれ」
すると鈴乃の表情がまるで少女の頃のようにはにかんだ。
「初めてですね。一緒にお買い物なんて」
私が買い物籠を持つと、嬉しそうに日傘をくるりと回す。あれやこれやととりとめのない話に相槌を打ちつつ、私の目はちらちらと川面を窺う。しかし鈴乃は隣で気付かないふりをし続け、とにかく話の切れ目を作らない。振り返ってしまったら、恐ろしいものに捕まるとでも言うように。
「きゃあぁぁぁっ!!」
子どもの金切り声が川辺から飛んでくる。
「嗣人さん!」
鈴乃を支えながら土手を下りると、川べりで少女が泣きじゃくっている。
「兄ちゃ、やっ、死んじゃ……助けてっ!!」
少し離れたところで、水面が泡立っているのがわかる。鈴乃はすぐに少女の肩を抱きしめると、
「あそこでお兄ちゃんが溺れているのね?」
少女はこくこくと大きく首を縦に振る。鈴乃はそのまま川へ飛び込んでいってしまいそうだった。
――コレガアノヒノデキゴトカ。
「鈴乃っ!!」
腹の底から出た声に、鈴乃も少女もびくりと飛び上がる。
「私が行くから、君はその子を頼む。そして、もっと人を呼んできてくれ」
「でも……」
泳いだ経験はない。運動も得意ではない。それを知っている鈴乃だから、私へ頼るという判断をしなかったのだ。だが、ここで鈴乃を行かせるわけにはいかない。
「大丈夫だから。君は絶対に川へ入るな」
落ち着かせるようにわざと穏やかな声を出した。そのままサンダルを脱ぎ捨て、川へと入っていく。
増水した川は濁り、腰の深さだというのに、気を抜けばそのまま流されてしまいそうな勢いがある。
「大丈夫か!?」
身体を引き上げると、少年はがむしゃらに掴まりかかってくる。
「わっ、ちょっと待てっ! ほら一度力を抜いて」
しかし抱きつくように首を締められて、転びそうになる。
なんとか橋桁のところまで連れて行き、丸太を抱くように掴まらせる。これで最悪な事態は回避される……そう、気を抜いたときだった。
大きな石を踏んで、バランスを崩した。あっという間というのは、本当に「あっ」としか言えないんだなと思っているうちに、私は濁流へ飲み込まれてしまったのだった。
ここで誰かが死ななければならない運命だったのだろうか。それでも、鈴乃と子どもを守れたのなら、私は本望だ。残念だったのは、生まれてくる子が男であれ、女であれ、名付けることができなかったこと。
どうか、この世に神がいるというのなら、天から私の家族を見守らせてほしい。それで鈴乃への約束を守れるのだから。
だけど、だけど……できることなら。
もう一度、暑い日に、鈴乃のあの茶を飲みたかった……。
唇が湿った。それが第一の目覚め。
カラカラで、もっと、口いっぱいに……茶を、押し入れてほしい。
「……」
唇を動かすことさえ苦痛だった。まぶたなど到底動かすことはできない。しかし、ばたばたと慌ただしい足音が耳に届く。どうやら夢の世界ではないようだ。
「嗣人さん!」
ぎゅうと手を握られたことで、ずっと握っていてくれた温かさに気付く。
「……すず……?」
必死に目を開けると、鈴乃が戸口で大きく目を開け、そこから大粒の涙が流れる。泣きじゃくる鈴乃は、すぐに助けられた嗣人だが、三日眠っていたと説明した。それがどんなに鈴乃に恐怖を与えたのかは、握られる手の強さから感じられた。
助かったのだ。二人とも。
手にこぼれる涙の温かさ。目に刺さる朝の光。全身を襲う倦怠感。 その全てが息苦しい。
だがこれが新しい人生の始まりなのだと、強く感じた。
それから、あるはずのはなかった人生だった。
息子が生まれ、三人で明るく、ときにケンカをし……とても楽しい日々だった。だからすっかり忘れていた。その一年後に地震が起きることなど。
※※※
目覚めたのは、箪笥の下だった。遠くで子どもの泣く声が聞こえて、現実に戻った。
そこでようやく気付く。これが、自分の起こした奇跡――夢だったんだと。
「なんてちっぽけな……」
涙すら出てこない。このまま死ぬのだろうか。……それでもいい……。
「あなた、大丈夫ですか! 今、人を呼んできましたから!」
「す、ず……?」
声は続かなかった。肺が潰されているのだ。だが、私は確かめなければならない。
「すず……すずの……」
「喋らないで、もうすぐですから! 大丈夫ですから!」
すぐに助けられ、荒れ果てた室内で息子を挟んで、鈴乃と抱き合う。二人の温もりを腕の中に……ようやく実感を取り戻す。
現実だ。これは鈴乃が起こした奇跡の現実だ。そこでようやく流れた涙に、鈴乃は勘違いをして、さらに涙を深くした。
時を遡ったとき、私は自分が奇跡を起こしたと思った。だが、そうではなかった。君が起こしてくれた奇跡は、私たちに過ぎたはずのときをくれた。そして今ここにある未来は、私が君のために用意する奇跡。
「改めて誓う。生涯かけて、君を……君たちを守るよ」
一生に一度奇跡が起こせるという。その力は、もう私たちにはない。けれど、それ以上に大切なものを育んでいく。だから……。
ーーもう奇跡などいらない。
(了)
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