<2>『日常的』な朝
人のには一人ひとり、思い描く正義がある。刑事、火野坂斗真<ひのさか とうま>はそう考える。
形は三者三様。小さなことから大きなことまで、差はあれど人は自身の守るべき正義を持っている。たとえそれが他人から見れば歪であろうが悪であろうがそこにはその人物の信念があると信じている。
彼の前、机を挟んだ向こう側に明らかに不機嫌そうな顔をした少女が座っている。小学生のような小柄で華奢な体、大きな目に小さな瞳の三白眼、これで高校生なのだから彼女を知らない人間からすれば目を疑うか耳を疑ってしまうのも無理はない。そのどんぐり眼で火野坂をまっすぐ見据え、黒紅色の髪をいじりながら『不満です』というオーラを垂れ流す彼女、明松香那<かがり かな>も己の正義を持つ人間の一人である。
ここはとある警察署の一室。部屋にいるのは香那と火野坂の二人だけだ。少しの間の静寂を破り、火野坂は出来るだけ優しい笑顔を作り、優しく香那に問いかけた。
「それで?何がどうしたら電車で通学途中の一介の女子高校生がナイフを持った男に延髄蹴りかまそうなんて考えるんだ?」
「そんなの決まってるじゃん」
彼女にとっての正義、それは一言に尽きる。
「「気に食わなかったから」」
彼女の声と被る形で火野坂の声が発せられた。彼は知っていた。知りすぎていた。自分の姪である彼女、明松香那はそういう人間であると。
「なんだ。わかってるなら聞く必要なくない?」
彼女がとぼけたような顔でそう返すと流石に笑顔を維持出来ず、火野坂はこめかみを押さえながらため息をつき、うなだれた。
「お前が今月警察のお世話になったのは何回目だ」
「えーっと……二回目?」
「それは、俺が、担当した、回数で、実際は五回目だろうが!」
机をバンバンと叩くことでこのどうしようもない憤りを発散しようとした彼だったが後に残るのは少々へこんだ机と手と胃の痛みのみ、むなしさが募るばかりであった。彼は大きなため息をつき、机に顔を突っ伏した。
『痴漢を許さない』という思いから行動に移してしまったこと自体は悪いことではない。だが彼女はその解決方法のせいもあってあまり褒められるものではないのだ。毎回『気に食わない』というだけでほうぼうの事件に首を突っ込んでは怪我人を出す。だが、始末の悪いことに香那自身に悪気はまったくないのだ。自分自身の行為が正しいと疑わないこの小柄な獣には叔父の立場である火野坂も昔から手を焼いていた。
「いい加減にしてくれよ……本当に。これ以上、俺の胃に負担をかけさせないでくれ。マジで穴開くから」
「心配しすぎなんだよ。叔父さんは」
「身内の心配して何が悪い。昔からヤンチャで危なっかしいと思ってはいたがここ最近は特に度が過ぎる。
それにこれ以上、怪我人を出されるといくら身内といえど、かばいきれなくなるぞ!?」
火野坂は体を起こし、自分の姪を睨んだがそんなことはお構いなし、叔父さんのぉ役に立てると思ってぇ、と彼女なりに精一杯声と表情を作って見せたが、叔父の表情の変化がないのを見て彼女は火野坂に聞こえるように舌打ちをした。
「とにかく、今後はぜっ……たいに何が起きても自分から危険に首突っ込むような真似はしないこと。いいな?」
「あーい」
「返事ぐらいちゃんと出来んのか、まったく……」
彼は胃薬を取り出して口に含むと、持参していた缶コーヒーで一気に流し込んだ。そのとき、タイミングを見計らったように部屋のドアがノックされた。
「入っていいぞ」
「終わりましたか?火野坂さん」
「あぁ。終わったよ」
慣れた様子で彼の部下である宮前巡査が入ってくる。彼を含めた火野坂の部下たちにとってはこの『家族会議』は日常風景のようなもので、いつも通り火野坂が薬を飲んで空にした缶コーヒーを片づけつつ、新しい缶コーヒーを火野坂に手渡した。火野坂も心得たもので何も言わず追加のコーヒーを胃に流し込んだ。
「んで。何かあったか」
「いえ、大したことではないのですが、香那ちゃんがぶっ飛ばした男の意識が回復したようです。まだ興奮状態なのか暴れてしまいましてね。詳しい事情聴取が難しそうだという報告を新谷警視に言われたので伝えに来ました」
「いや、わりと重要だろそれ。あー……わかった、今行く。あー悪いがミヤ。コイツを学校に送ってやってくれ。ここからならまだギリギリ一限目の授業には出られるだろ」
「わかりました」
そう言い残すと彼は頭をかきながら立ち上がり、あかんべえをする姪を尻目に部屋を後にした。