<1>赤と青
とある抜けるような青空がが眩しい春の朝のこと。今日も多くの人々が通学や通勤のために乗り込んだ電車の中で一人の男が静かに下卑た笑みを浮かべていた。その笑みの先には一人の学校指定であろう制服を着た少女の背中があった。彼の手はその少女の下腹部へと伸びている。言わずともわかる状況ではあるが彼は今痴漢の真っ最中である。それも一時の気の迷いではなく、この時間帯の電車で彼は痴漢を繰り返しており、事前に同時間帯に乗る女性を入念にチェックし、気の弱そうな女性を選んで事に及んではタイミングを見計らって人の波に消えるかのように姿をくらます。もはや熟練の域に達した男であった。
この日も事に及び、その醜悪でいやらしい欲求を満たした彼は次の停車駅に到着すると何食わぬ顔で駅のホームに降り立ち人の流れに紛れ込んだ。
「(キシシシ……あの尻の感触、たまんねえなぁ。それにこの感覚、やめらんねえよ)」
男が無表情のままで『日課』の余韻を楽しみながら移動していると、途中で何かがひっかかったのか、後方へと引っ張る力を感じ、後ろを振り向くと小柄な少女が彼の上着のすそをつかんでいた。背は140㎝ほどだろうか、男とは頭一つ半ほど差がある。大きな目に小さな瞳、所謂三白眼というやつであろう。頭の後ろでまとめられたセミロングの髪は黒紅色。学校指定であろう制服を着ており、その上にでかでかと<Nobody Stopped>と書かれた真っ赤なパーカーを羽織っていた。そんな少女は男をキッと睨んだ。
「テメェか。ここら痴漢繰り返してるクソ野郎ってのは」
少女の見た目に似つかわしくないドスのきいた声で威嚇された男は少し驚きながらも頭は冷静だった。彼にしてみれば疑われることは日常的に起きうることであり、その対応にも慣れていたのだ。
「何のことだい、お嬢ちゃん。私はそんなことはしていないよ。何かの間違いじゃないかい?」
男は出来るだけ困った顔をして少女に目線を合わせるために腰を下ろした。男は少女を見た目から小学生から上がりたての中学生だと認識していた。そのくらいの年の頃ならまだまだ子供。大人が目線を合わせて挙動不審にならずに話をし、言い負かせなくしていしまえばしぶしぶでも納得して去ると考えたのだ。
「うるせぇ。言い訳すんな。こちとら、この目でしっかり見てんだ。言い逃れようったってそうはいかねぇよ」
「困ったなぁ。本当に僕は何も知らないんだけど……」
「だまれ。戯言はいいからさっさと駅員のとこいくぞ」
「そんなことを言われてもなぁ……証拠は実質ないようなものだし……」
「……まぁ、確かにそうだけどよ」
男は少女の自信を失いかけている表情を見て心の中で勝利を確信した。そんな彼の背後に大きなため息をつきながら別の少女が近づいてきた。背は男と大して変わらず、170cmほどあった。先ほどの少女とは違い、切れ長の目で男を冷ややかに見つめている。腰まで届きそうな髪は青褐色。もう一人の少女と同じ制服を着ており、同じ学校の学生なのがうかがえた。
「香那だけで済むかと思ったけど案外しぶとそうね」
「北斗」
どうやらこの二人は知り合いらしい。しかもどうやら痴漢の常習犯の男を捕まえるために待ち構えていたようだ。北斗と呼ばれた少女は制服のポケットからスマートフォンを取り出し、男に突き付けた。そこには下卑た笑みを浮かべる男と泣きそうな顔をしている少女が映り込んでいた。男は驚きと焦りで顔をゆがめた。
「言い逃れはもうできないわよ。バッチリ証拠は押さえてあるし、さっき被害にあった子にも待機してもらっているわ。大人しく捕まったほうが身のためよ」
わざとらしく大きめの声で話す少女の声を聞いて周囲の人間が止まり始めた。これ以上注目を浴び、好奇の目でさらされるとと逃げ出しにくくなる。まずい、と内心焦りながら何とかこの場を脱出するための手立てを考え、一つの考えに至り、笑みがこぼれた。
「なるほど、確かにそうだ。まいったよ。でも君たち、いいのかい?証拠を押させるためとはいえ、その写真はいわば盗撮写真。君たちを肖像権の侵害で訴えることだって……」
「アハハ。そうしたければそうしなさい。警察や弁護士に『僕は痴漢をしているところを写真に撮られたので訴えますぅ』って」
少女の目はさきほどまでとは打って変わり小馬鹿にしたような、憐れむような表情をして笑った。その態度に男は激昂した。
「子供だと思っていればなめやがって!クソがッ!」
男はジャケットの胸元に手を入れるとナイフを取り出し、自分を嘲笑する少女へと向けた。刃物を見るなり、周囲がパニックになった。そのパニックの嵐の中で少女はこめかみを押さえてまたため息をついた。
「あーあ……抜いちゃったよ」
「あ?何余裕ぶってやがるんだ。お前は終わりだ」
「いかにも雑魚キャラのセリフよねぇ……私から最後の忠告をあげる」
「忠告だぁ?今から死ぬやつが何を──」
少女はまた憐れむような目を──さきほどよりも強い憐れみの込められた目を男に向けるとこう言った
「せいぜい舌、噛まないように気をつけなさいな」
その直後、男の意識は途切れた。覚えているのは手首と側頭部への重い衝撃と痛み、そして獲物を見つけた獣のような歓喜の表情を浮かべながら宙を舞う小柄な少女の姿だった。