第6話 区切りを見出す相談
住宅街の火災から起算して二度目の朝。この日からあずさは学校休むことが確定した。
表向きには精神的な療養や両親の葬儀のためであるが、前者は妖気のことを考えるとあながち間違ってはいない、まっとうな理由だろう。
昨日の午後は昼食を摂り終えてからさっそく瞑想で妖気を祓おうと試みたのだが、それが思うように成果が上がらなかったために仕方なく本職の巫覡退魔師向けの禊をやってみようということになった。
瞑想中に自分のもつ霊力を感じ取ることができるようになったのは収穫といえるだろうが、そういった意味で妖気が根強く残っているあずさを、そのままなんの対策もなしに教育機関へは送り出せない。少なくとも妖気の残滓が弱まる兆候が見えるまでは傍で様子を視させてほしい、というのが本当のところだ。
そして迎えた本日、月曜日の早朝。
いつも通り朝早く目を覚ましたあずさは、いつも通りではない夢を見たことで――普段以上に――浮かない顔になりながら起床することになった。
「今日もこの夢……性質が悪い……。こんなの見るくらいなら、いつものみたいな方がまだマシなのに……」
顔をしかめながら、そばに置いてあった携帯電話で現在時刻を確認した。魔法やマジックアイテムなどの魔法文明の利器は何の問題名もなく扱えるというのに、そう言った科学文明の利器はうまく扱いこなすことができない当たり、現代人としては珍しい部類に入るだろう。周囲の七割以上はスマートフォンを扱っているというのに、あずさがガラケーを扱っているのはそこに原因がある。
どうやら、教えられた朝食の時間まで一時間ほど先である。とりあえずはいつも通りシャワーを浴びるだけの時間は十二分にあるか、と判断し用意された衣服を持って隣の部屋へ続く襖をあけた。保護施設の各室は内部で居間、寝室、シャワールームで構成されており、寝室からシャワールームに向かうには居間を経由しなければならないからである。
「――ぇ?」
だが、居間への襖をあけた途端、あずさは予期していなかった事態に遭遇して固まってしまう。
異性がいないのだから逆ラッキースケベが発生したわけではない。あずさの居室には現在、監視の意味合いも含めて瞳も同居しているが、女性同士ではそう言った趣味がない限り成立しないだろう。恥じらうくらいはするだろうが。
あずさが固まったのは、寝室と居間の間は襖一枚を隔てているだけなのに、まるで雰囲気が違っていることに起因する。あずさたちが寝起きしている部屋の隣部屋は、見ただけで圧倒されてしまうような気で満たされていたのだ。
――記憶の中の、遥か遠い前世で。まだ、あずさがあずさではなく、勇者として抜擢された別の人間であった時。似たような域に辿り着いたことはある。
それは、己の身に宿っている聖剣と出会った場所。聖域と呼ばれる、神聖な魔力で満たされた、決して邪なものは入ることができないとされる神秘の領域。
それと似たような雰囲気を醸し出す、今現在目の当たりにしているその空間も、まぎれもない『聖域』だ。
その聖域を作り出したのが、中央で鎮座している一人の巫女――巫覡退魔師、鈴森瞳であろうことはすぐに察知できるも、ここまですごいとは思っても見なかった。
「………………意外と、早くご起床なされるのですね」
「……え?」
雰囲気にのまれて呆然としていると不意にそんな声が聞こえ、意識が急速に現実へと回帰する。
見れば、それまで目を瞑って意識を集中させていた瞳が、純粋に驚いたような表情であずさを見上げていた。
「えぇっと……」
「あ、私のことでしたらお気になさらず。瞑想を終えてから起こそうと思っていたのですが、終える前にお目覚めになられるとは思いませんでした」
「はぁ……」
鏑木あずさの朝は結構早い。
それは頻繁に悪夢にうなされるからであり、それ以上に朝に強いからだ。
だから、よほど疲れてでもいない限りは、朝も早い時間にいやでも目が覚めてしまうのである。
「驚きましたよ。普段のあなたはこれほどまでに朝早く起きるのですか……」
「普通だと思うけど?」
年頃の女子としてそれは普通ではないと思いますが、と言い返す瞳を見て、あずさは少し首をかしげる。
確かに早めの起床ではあるがその辺は個人差があるはずだし、限りある資産である時間を有効活用するのに早起きするのは果たして無駄なことだろうか、と純粋に思ったからである。
「そ、それがあなたにとっての普通、ですか……」
あずさが本気でそれが普通だとしているのが目に見えたのだろう。はたして、自分が知る学生の常識はどうだっただろうか、と言わんばかりん思案顔になる瞳だったが、すぐに素面に戻った。
そしてすぐに、あずさを気遣うような表情に切り替わる。
「まぁ、早起きなのはいいことだと私も思いますが……しかし、大丈夫なのですか? 眠っている時のあなたはずいぶん魘されていたように思いましたが……」
もしや、先日のことが夢に出たのですか、と瞳に問われれば、あずさとしては肯定せざるを得なくなる。
そう、あずさは毎晩のように見ていた前世の記憶の悪夢ではなく、二日前に目の当たりにした事件の夢を二夜連続で見たのだ。
あずさという名の自分自身に降りかかった出来事ではない、自分ではあるが自分ではない、別の人物が辿ることになった悪夢のような人生の追憶ではなく。
親を失うことになった、忌わしい事件の追憶を見せられ、その夢の生々しさにはやあずさの精神は休まることができなかった。
普段見る悪夢のそれとは違う、直接精神を揺さぶってくるようなそれは、確実にあずさの心をむしばみ始めている。
「そうですか……。私は精神科医でもなんでもありませんので、不躾な言葉しか言えませんが……無理はなさらないように。いざとなればここは退魔館。霊的な治療も視野に考えるのもいいかもしれませんよ」
「れ、霊的……」
あまり高尚な気遣いは期待していなかったものの、返ってきたのは普通では考えられないような言葉。
霊的な治療など、予想がつくはずもなく。無意識のうちに、あずさはそのままおうむ返しに聞き返してしまっていた。
「あぁ、申し訳ありません。霊的な治療とだけ言っても分かりませんよね。ようは、善良な妖怪、この場合は中国から渡ってきた獏という妖怪なのですが、その妖怪に頼んで悪夢を食べてもらってはいかがでしょうか、ということです」
「妖怪に……っ!」
それを本気で言っているのか。
それを考えた瞬間、あずさの中でどす黒く澱んだ何かが沸き起こった。
「ぁ……ぐ、ぅ……」
急にひどい頭痛に襲われ、あまつさえ吐き気さえ催す、気持ちの悪いそれ。
それが妖気によって増幅された、自身の妖怪に対する憎悪なのだと気付くのにそう時間はかからなかった。その感情に呑まれてはならない、飲まれたら非常にまずい状態になる、と。
「か――ぎ――――ぃ――まま――――」
至近距離に瞳が来たが、気にしている暇などない。
必死な形相で何かを言っているが、そんなことすらどうでもよくなってくる。
――身を委ねろ。思うままに行動しろ。
(黙れ……)
次々と湧き起ってくる不吉な欲望の波に抗わなければ、自分は自分ではなくなる。昨日瞳から聞いた、瞳自身の過去。それが自分に降りかかってしまう。
――報復しろ復讐しろ。
(うるさい、引っ込んでて)
それを避けるためにも、すべての外部情報を遮断し、内面に打ち勝たなくてはならない。だからあずさは、叫びながら、もがきながら。
ただ、それらの黒い欲望から逃れ続けた。
――命を奪え。根絶やしにしろ。この世カら消し去っテなニもかも否定シて存在スらデキないヨウニしてヤレ。
(消えろ。私の中から、消え去れ!)
しかし妖気によって増幅された衝動は思いのほかしつこく、粘り強く、あずさを取り込まんと強く語りかけてくる。
――復讐ニ、走レ!
(…………っ!)
「ぅぁぁぁあああああああああああああアアアアアア!」
それを振り払うかのように、あずさは喉が裂けるのではないかというほどの叫び声をあげた。
次第に外界の情報が流れ込んでくる。
少しだけ、頭が明瞭になった気もする。どうやら今の叫びであずさ自身の感情が制御された感情の波を上回ったらしい。
そんな彼女を見て今が好機と見たのか、ここぞとばかりに瞳が何かを構えて声を発した。
――この者に宿りし不浄の気を祓い、清め給え!
その瞬間、あずさの体がぼんやりと光を放ち始め、清浄な気で満たされていく。
「……ッ、はぁ、はぁ…………」
感情に呑まれるわけにはいかないと必死にそれを静めようとしていたあずさは、唐突にそれが萎えていくことに驚きを隠せないでいた。
だが、瞳が詠唱していたのを聞き取れていたので彼女が何とかしてくれたのだ、ということには気付くことができ、同時に何となくいたたまれない気持ちになる。
「危ないところ、でした」
「はぁ、はぁ……今、のは……」
「妖気による悪意の増幅です。昨日話に上がった通り、祓い切れていなかった妖気があなたの悪意に影響を与えたんですよ」
見てくださいこの符。真っ黒です。
苦笑しながらあずさの目の前でひらひらさせたそれは紛れもなく、森で瞳が使っていた呪符だ。だが、書かれている字は全然内容が違う。
どうやらあずさに霊力を送り込むと同時、その符に悪意と同質化した妖気を吸い出したらしい。
「これはあくまでも応急処置です。しばらくはあなた自身が禊なり座禅を組んで瞑想するなりして妖気を浄化しなければなりません。しかもあなたに宿っている妖力は素が素なので相当粘着質です。厳しい戦いになりますから相応の心構えを持ってください。わかりましたか?」
「……わかった。気を付ける」
先ほど感じた黒い感情に恐怖を感じ、あずさは本能に近い部分でそれを実行しなければ大変なことになると理解してそれを了承した。
シャワーを浴び、そのあとは簡単にできる妖気の浄化方法である、座禅を組んでの瞑想をすることになった。
そして迎えた朝食時。
あずさは少し沈んだ面持ちで食堂に入った。
どうにも、今生における妖気というものの在り方に無知すぎて、それそのものに出会って以降翻弄されっぱなしという事態に若干悔しさを感じているためだ。
「……ねぇ、鈴森、さん……」
「はい、なんでしょう」
本当にこのままではまずいと思い始め、あずさは昨日昼間に瞳の話を聞いた際思ったことを、ここで打ち明けることにした。
その時点で打ち明けなかったのは、まだ彼女の中で迷いがあったからで、まさか自分がここまで危機的状況にあったとは思ってもいなかったからでもある。
「私が敵を討つのには、鈴森さんについていくしかないって言ってた。それはつまり、私も巫覡退魔師っていうのにならないといけないってことなんでしょう?」
「…………間違いではない、とだけ言っておきましょう」
暗にそれは、正解でもないと言っている、とそこで言葉の意図にあずさは気づく。
彼女は思い出した。目の前にいる瞳は巫覡退魔師を名乗っているが正確には、『神道式退魔課巫覡係所属』という肩書だったはずだ、と。
神道式退魔課巫覡係。つまり、それ以外にも係という名のくくりは存在し、答えは一つとは限られていないということ。
「あなたが単純に退魔師になりたい、というのであれば普通退魔係が最も効率がいいでしょうね。純粋な妖怪退治だけが仕事になりますから。ただ……どちらかと言えば、あなたは巫覡退魔師こと、巫覡係の所属になる方があなたにはお勧めできる進路だと私は思います」
「……なんで? 同じ退魔師だと思うんだけど……」
「そうですね。気になるのは道理ですが……同じ神道式退魔課で、基本的には同じあっても、実力には違いがあるんですよ。付加価値がない退魔師と、付加価値がある退魔師。差を言葉で表すならそんな感じでしょうか」
神道式退魔師は日本妖怪に対して特に効力を示すが、一般の神道式退魔師の場合は神職ではないため、荒神に対しては交渉手段を持たず、撃退することはできてもいたちごっこに陥りかねない。
その一方で巫覡退魔師の場合は退魔師であると同時に神職者でもある。巫覡と言えば神に対する交渉手段は基本中の基本であるし、場合によっては荒神を鎮め、その土地を豊かにすることさえも可能となってくる。
他にもいくつか巫覡退魔師にしかできないことはあるが、そう言った関係上、神職としての制限も多く付きまとうものの、そう言った付加価値を踏まえてそちらを推奨する、と瞳は説明する。
「巫覡退魔師にできて、他の退魔師にできないこと、か……」
「えぇ。まぁ、説明した通りしがらみが強くなりますから一概にいいとは言い難いのですけれどね。ですが、あなたにはそれ以外でも強く推奨したい理由があります」
「…………この、呪いのこと?」
「そうです」
怨霊じみたものとはいえ、あんまりな悪質さを醸し出していたそれ(実際その効果を知るあずさにとっては悪質そのものでしかない)。普通に祓うことはできず、神と交渉するのと同じようにして何とか鎮まったという『急転直下の呪い』は、明らかに人や妖怪、霊によってかけられた呪いに用いられる方法で対処できるようなものではないという。
「あなたの呪いは、普通の方法では祓えませんでした。巫女としての直感、とでもいうんでしょうか、解呪することも困難と思われます。なら、あとはいかにうまくその呪いと付き合っていくか、それを考えるほかありません」
「……そう…………」
「そうなってくると、精神体に対し精神体で語りかける……そう言った、巫覡としての力はどうしても必要になってきます。それだけなら一般の退魔師でも可能といえば可能ですが、効率や効き目という面では大まかな思念しか送れない関係上、どうしても我々専門家には劣ってしまいます。専門技能を最速で身に付けたいのなら、退魔師であると同時にそう言ったことの専門家でもある巫覡退魔師や、少し指向性は違いますが調伏法師などが最善なんです」
特に、悪霊じみているとはいえ相手はどちらかと言えば神寄りの存在と言えるものだったと語る瞳。
とするならば、より神に対して効率よく対抗できる巫覡退魔師を推奨するのは当然のことだ、とあずさに告げる。
話しているうちに朝食を食べ終わり、昨日案内された運動場に出て基礎体力トレーニングをしようと思っていたあずさは、瞳にいざなわれて運動場とは異なる方向へと向かう。
「いずれにせよ、いかな退魔師になるかは鏑木あずさ様、あなたが決めることですのでこれ以上の推奨は致しません。ただ……心に留めておいていただきたいのは、いかなる選択をした場合においても、禊や瞑想など、妖気の浄化については真面目に取り組んでください」
「……言われなくても、妖気の浄化はサボらないよ。あんたみたいにはなりたくないし。それに……昨日、あんたが私のこの呪いの鎮静化をすんなりと成功させたって話聞いた時点で、私は、もう決めたから。霊力の扱い方学ぶなら、巫覡退魔師を選ぶって」
だって、これがある以上それしか私には生きるすべがないから。
最後にぽつんとそう呟いたあずさは、それまでは感情の起伏に乏しくともどこか抜身の刀めいた鋭い感情を前面に押し出していたのに対し、この瞬間だけは迷子になった子供のような顔をしていた。
事情を詳しく知らず、予知能力があるわけでもない瞳はなぜそうと言い切れるのか知らないが、少なくともそれが何の根拠もなしに言っているのではないと直感でそう判断する。
纏う雰囲気が、そう物語っているからだ。
――そう、あずさの纏うそれは、希望という希望をことごとく砕かれ、絶望の淵でただうずくまるしかないとあきらめきっている。ただひたすらに、諦観の二文字しかなかった。
おそらくは巫覡退魔師になろうというのも、そう言った意味では希望的観測はほとんどなく、どうせこれも、というような否定的な感情の方が強いのだろうと瞳は思う。
そう思ってしまうのは似たような人種と幾度か相対した巫覡退魔師としての経験則からか、それとも鈴森瞳一個人としての理由か。
「それで、あんたは私をどこへ連れて行こうと?」
「事務棟の総務課ですよ。もぐりの退魔師として修行を積ませても問題はないのですが、やはり登録しているとしていないとでは気の持ちようが違いますし、なにより退魔館に退魔師として登録しておけば生活の支援がされますから、まずは申請書類をと思いまして……」
「……そういうのはやっぱりどこの組織団体でもあるんだね。ちょっと面倒」
あまりそう言ったものが得意ではないあずさは、感情の変化に乏しいその顔に珍しく辟易とした表情を浮かべて、落胆していた。
ああ、なんかわかる気がするなぁと思いながらも、ほら行きますよ、と瞳はそんな彼女を促すばかりであった。
ただ、その裏で瞳はひそかに、しかし強くこう思っていた。
――あずささん、あなた一体……何を、抱えているの?
その疑問は瞳の心に深く根付き、いつまでもそれが頭から離れることはなかった。




