第4話 忘れ形見を諭す先達
――ただ今戻りました。
――それが……。
――はい。わかりました……。
――えっ!? よ、よろしいのですか!?
――はい。
――わかりました。ただちに準備に取り掛かります。
夢を見ていた。
あずさにとってはとても珍しい夢といえる夢だ。とても穏やかで、悪夢とは程遠い、家族とゆったりと休日を過ごすという素朴な内容のそれ。
彼女にとっては貴重も貴重、まさに至福の時……だった。
それが夢とも思っていないあずさは、けれど。夢の終わりで、唐突にそれが夢であるとわかってしまう。
『あずさ……』
『うん? なに母さん、急に改まって……それに父さんも』
『あずさ……ごめんな。俺たち……もう、お前と一緒にいること、できなくなっちゃったんだ……』
『そうなの……一人きりになってしまうかもしれないけれど、どうしても私たち二人で行かなくちゃいけないところがあるから……』
『帰って……帰って、来るんだよね……?』
『……ごめんなさい……。遠いところからでも、ちゃんと見守っているから。悲しまないで、前向きに頑張って?』
『……ッ!? い、やだ……嫌だよ……。また、また……私は、一人になっちゃうの!?』
『俺たちも、お前を一人になんてしたくはないさ。けど……仕方がないこともあるんだ。わかってくれ、あずさ……』
『本当にごめんなさい……』
あずさの両親は、そのまま立ち上がると居間から退室し、そのまま玄関へと直行。あずさが駆け寄る間もなく、まばゆい光で碌に先が見えもしない屋外へと出て行ってしまった。
残されたあずさは、両親がそのまま手の届かないところへ行ってしまうような気がして、玄関から飛び出し両親の後を追おうとした。
しかし――あずさが玄関先へ出たころにはもう、両親の姿などどこにもなかった。
『母さん? 父さん!? ぃや……いや……母さん、父さん! どこにいるの!? ……いやああああああああああぁぁぁ……置いていかないでええええええええぇぇぇぇぇ……!』
その声は、どこまでもむなしく木霊し、あずさとあずさの自宅しかない白い空間に響き渡った。
「……はっ!? こ、こは…………ッ!?」
とても悲しい夢を見たような気がして、あずさは目を覚ました。
慌てて上半身を起こせば、目に差し込んでくるのは何かに遮られながらも突き抜けてくる優しい日の光。鼻腔をくすぐるのは上質な畳の匂い。
それらを認識した彼女は見渡すまでもなく、ここはどこぞの和室だと認識できた。
何があったのか、なぜ見慣れない天井の下、明らかに上質な布団にくるまれて寝入っていたのかを思い出そうとする。
そして、その顔は悲壮に歪む。
脳裏に浮かぶのは焼け焦げた街並み、調査に訪れた巫女、異様な雰囲気を放つ雑木林。家屋が焦げた匂い、身を突き刺すような妖しい力、果ては破壊衝動など負の欲望をかきたてるナニカの気配。それらが鮮明に思い出され、その過程で決して失いたくなかった者を失ってしまったことも思い出す。
「ぁ、あ……私、わたし…………そんな……」
それは、十六歳の少女にとってはとてもつらい現実。『呪い』の効果で記憶を受け継いでいるとはいえ、前世の精神を受け継いでいるわけでもなし。
どれだけ特殊な事情があっても、あずさはあずさであり、他の誰でもない。
泣き崩れてもおかしくはない話だろう。
あずさ自身は泣き崩れていないとはいえ、それでもその目尻には、輝くものが滲み出ている。
「……気が付かれましたか……」
「……ッ、なんの、用……?」
「いえ……様子見に。目覚めたようであれば結構ですが……」
具合はどうですか。
そう言いながら近づいてきたのはあずさを『保護』した巫覡退魔師、鈴森瞳だった。
彼女があずさをこん睡させ、無理矢理撤退させたことも当然ながら知っている。そのためか、あずさの瞳に対する対応は辛辣なものとなっていた。
「そっちこそ結構よ。よくも邪魔してくれたわね……」
「ああでもしなければ、あなたは今頃ここにはいませんでしたからね」
さすがに命には代えられないでしょう、といわれて、カッとその目を大きく開くあずさ。その瞳には決して目の前にいる存在を許さないという、固い意思が込められていた。
「そんな、必要なんてなかった! 仇を取れるなら、相打ちでもよかったのに!」
だが、それは自暴自棄ともいえる状態で、口から出た言葉も売り言葉に買い言葉。とてもほめられたものではない。
実際、それを聞いた瞳は一瞬で絶対零度の表情になり、その冷徹な視線であずさを射殺すような勢いで睨み付けた。
パァン、と乾いた音が、室内に木霊する。と、同時に。あずさの顔は、無理矢理左へと向けられた。
説明するでもなく、頬を張られたのだ。
「…………ッ!?」
「事後になりますが、最初に謝罪させていただきます。鈴森瞳という一個人として、本来なら保護対象として手を挙げてはならない貴方様に対し、ご無体を働くことをどうかお許しください」
呆然とするあずさ。そして、彼女に対し雑木林から撤退する直前に見たものと同じ『絶対零度』の視線を送る瞳。
そのまま瞳は口火を切る。その口から出た言葉は針のように鋭く、ダイレクトにあずさに突き刺さる。
「…………仇を取れるなら、相打ちでも……ね。……本当に、甘い考えしか持ってないのね、あんた!」
「なにを……ッ」
「口を閉じなさい! ……今のあんたに発言権はないわ」
再び、乾いた音。一切の手加減なくはたかれ、今度は右方向へと容赦なく転がされる。
そこでようやっと、あずさの理性が追い付いた。と同時に、今度は再度無理矢理自身を起き上がらせる目の前の少女に対し、唐突な恐怖心がこみあげてくる。
とっさに聖剣を召喚しようとしてしまうくらいにその恐怖心は強く、しかしそこで今度は聖剣を呼び出そうとしても呼び出せないことに混乱する。
その間に、さらにもう一発。
「うぁ……ッ」
「あぁ、あの剣は厳重に封印させてもらったわ。気付いていないようだけど……勾玉の首飾りがかけられているでしょう?」
「…………そん、な……痛っ!?」
「あぁ、無理して触らない方がいいわよ? 仮にもそれはあんたごとあの剣を封印しておくための触媒なんだから」
「…………く、」
「あんなものがあるから、あんたは無茶ができるようになる。その身に宿す不釣り合いな異能によって、何でもできるって無様な万能感に酔いしれる。それで仇討ちをして失敗して、あんたの両親は喜ぶとでも思って!?」
「あぅ……ッ」
「あたし、確かに最初あんたを強く引き止めようとはしなかった。止める権利もないと思ってたのも事実。だから、なぜ今更、なんてこと言われてもどうにも答えようはないよ。それは認める。でもね…………あの場で無駄死にして、せっかく助かった命をそのまま散らして。それがあんたにとってご両親への手向けになるわけ!?」
「うるさい! だったら! あんただって一緒だったんじゃないの!? 私と同じだったんでしょ!? 妖怪とやらに親殺されて、復讐望んだんでしょ!? なのになんで、なんで……どうしてあんたは復讐を果たして、私は止められなきゃならないのよ!」
「黙りなさいっ!」
「あぐ…………!」
「少なくともあたしはあんたより早計じゃなかったわよ。自分の理解の及ばない何かが原因だって聞いたから必死になってそれを学ぼうとしたし、修業だってしたわ。少なくとも、少し不思議な力が扱えるからってどうにでもなると勇み足で突っ込んでいったあんたほどじゃないのは確かよ!」
「う、ぐぅ…………!」
三度四度と次々に放たれる平手と一緒に突き刺さる、いっそのことすがすがしいまでの侮蔑の視線。本気でバカにしているような上から目線。有無を言わせない、一方的な折檻。しかし、そんなことをされても、あずさは実力を行使して反抗しようという気にはなれていない。
明らかに、勝てる気がしない。そんな気がしてならないからだ。
武器を相手が持っているわけではない。聖剣を封じられている以上は自分も同条件だ。その上で、自分には多種多様な異能の力を持っている。相手が霊能力者といえど、勝てない道理などない。理屈でそう判断しても、なぜか手を出すことは不可能だった。
「ふふ。無様ね……。でも、それが本来の貴方なの。ほんの少し、他と違うからって思いあがっていた生意気娘。それを思い知りなさい」
言いたいことを言い終わったにもかかわらず、絶対零度の目を向けてくる。その視線が、自分を徹底的なまでに見下していることなどわかりきっているというのに、それでも気を失う前のように気丈に振る舞うことができなくなっている。
だから、その苛立たしさを隠さない視線が、あずさにできる唯一の抵抗だった。
だが、それすらも瞳には柳に風。本人が気にも留めず流すその様は、決して何をしても無駄なのだとあずさに思い知らしめる。
「随分とまぁ、気に食わなさそうな顔をしてるわね。ま、当然といえば当然だけれど。それとも……単純な力強さで優っていたはずなのに、いざ私と相対してみたらまったく抵抗できずこうなったのが悔しいの?」
「わかりきったこと聞かないで。腹立たしい……」
「へぇ、あれだけ叩いてもまだ抵抗の意思はあると…………その諦めの悪さだけは称賛に値するわね」
「こ、の…………ッ!」
諦めの悪さだけは。その部分だけ繰り返し伝えることで、どこまでも今のあずさを貶めようとしているのは十二分にわかってしまう。
先ほどの応酬とも呼び難い一方的な肉体言語で抵抗の意思がだいぶそがれながらも、いまだそれが消え去っていないあずさは何とか目の前の邪魔な存在を再起不能なまでに叩き潰し、ここがどことも知らないまま再びあの雑木林へと向かおうとするが――
「…………くっ、やっぱり駄目……今はあんたに勝てる気が、しない……。どうして…………」
いざ飛び掛かろうとしたり、魔法を行使しようとすれば、言いようのない恐怖に苛まされ、思うように攻撃できなくなってしまう。
誤差と受け取ってしまえそうなくらい無駄のない動きで交わされた挙句、カウンターを食らって再びこん睡させられてしまいそうな、そんな予感がしてならない。
本能の部分で、恐怖を感じてしまっている証拠であった。
それに対し、何度目になるのか敵意を向けられた瞳。彼女はここでもまるで意に介さず、そのまま素の状態でその原因を当たり前のように話す。
「当たり前よ。あんたが気絶している間、どれだけ隙があったと思ってるの? その手の甲の紋章を鎮めるついでに、徹底してあんたに上下関係を叩きこんだんだから」
「……どういう、こと……?」
その内容に、二つほど聞き捨てならない情報が含まれていて、思わず、といった感じで聞き返してしまう。
それすらも、瞳にとっては予想していた質問だったのだろう。その返答は用意していたかのような速さでもたらされた。
「どういうこともなにも、その手の甲に宿ってる魂の断片に直接語りかけて、鎮まっていただいただけよ? よかったわね、しばらくは溜飲も下がったことだし、何もしないでいてくれるそうよ?」
仮にも巫覡退魔師なのだから神だのなんだのといった存在と語り合うのはお手の物なんだけど、と当たり前のことを言わさせないでほしいと言わんばかりの顔でそう告げる瞳。
あずさは不覚にも、その所業に初めて本当の意味で驚いてしまう。
これまで、自分では、自分たちではどうしようもなかった、魔王の呪い。文字通りそのすべてを賭して掛けられたその呪いは侵蝕が始まれば留めようがなかったというのに。
それを目の前にいる巫女は、おそらくはたった一晩でどうにかしてしまったという。
あまりの衝撃に、茫然自失となるあずさ。
と、今度はそんなあずさを見て、瞳の方が思わず、といった感じで声をかけた。
「……どうしたのよ、そんな呆けた顔をして」
「……だって……あり得ない、ことだったから……。私達が……どれほど耐え忍んできたことか……それが、たった一晩でこんなに、静かになるなんで……」
「わたし、たち……?」
ほとんど意識しないで発せられたそれに瞳が眉をひそめたが、あずさにとってとても重い意味のある言葉を聞いてしかし、彼女の顔を窺いそれに安易に踏み入るべきではない、と判断したのだろう。瞳はその疑問に思った言葉を、聞かずに飲み干したようっだ。
そのタイミングを見計らったかのように、あずさが瞳に問いかけた。
いままで、幾度となく生まれ変わるたびに孤独に戦い続けてきた彼女達にとって、決して他人が気づくことのない悪質なその呪いに気づけた瞳は、神のように見えていた。
「そもそもなぜこの呪いに気付いたの? 普通なら、他人に気付かれない類のものなのに」
「それこそ愚問よ。鏑木さん、さっきも言ったけれど私は『巫覡退魔師』なの。退魔師であると同時に、霊的資質を備えた巫女としての側面も持ってるの。貴方の肉体に宿る精神体を見定めることくらいわけないわ。というより、そんなこともできないようでは、妖怪退治もできないし」
そもそも、荒ぶる神を鎮めることすらあるというのにその程度のことができないようではどうしようもない、と告げる瞳だった。
そのあっけらかんとした言葉にどうにも価値観がかけ離れすぎているなと思いながら、ではどういう風に自分は映っていたのかと問いただせば、それもまたさっくりとしたものだった。
「どうって……普通に怨霊に取り付かれているような感じだったわよ? あぁ、でもそれより何倍も悪質な感じだったのも確かね」
「……多分、その印象は間違っていないとは思う」
何せ、魔王だから。極悪非道、かつては別の世界とはいえ人類を滅ぼそうとした諸悪の根源なのだから。
悪質で間違いはない。
苦笑しながらそれは正しいと告げたあずさに、瞳もまた、そう決めつけるのもどうかと思うけどね、と苦笑して返してきた。
そこでおそらく、瞳の方で一区切りついたのだろう。素の顔から『巫覡退魔師』としての顔に戻った彼女は、改めてあずさに向き直った。
「さて。長々と話してしまいましたが、私個人として言いたかったことは以上になります。話が長くなったうえ、幾度にもわたって貴方の顔を叩いてしまったことについて改めてお詫びをさせていただきますが……先人よりの戒めとして、どうか受け入れていただければ幸いに思います。申し訳ございませんでした」
「……そこで、仕事中の姿勢に戻るのは卑怯な気がしないでもないけど……わかったよ。気に食わないけど、とりあえず今はおとなしくしとく。……今は、ね」
「…………ありがとうございます」
今は、の部分をことさら強調してとりあえずは了承したあずさをみて、一瞬ムッとしたような顔をしたが、すぐに仕事人として、作り笑顔に戻った。
そして――おもむろに印を結び、霊力を纏う瞳。
――ここにこの者に施した縛めの開封を宣告する。解き放て!
それは、霊力を大雑把にしか感知できないあずさにもわかる、力ある言葉だった。
その命に従い、あずさの中に眠る聖剣を封じていた縛めは瞬く間に消滅し、その首飾りは色を翡翠から群青へと変えた。
「……いいの?」
「えぇ。もう貴方を束縛する必要性もありませんので。ただ――一時的な措置ですので、必要と判断した場合には再び封印させていただくことになります。その際はご容認ください」
「…………はぁ。どうせ断っても無駄なんでしょう? わかったよ、その時は素直に聖剣の封印を受け入れる」
「ご理解とご協力、ありがとうございます。……それから、今の貴方は、当施設の保護下にあります。当面の間、貴方の担当となった私もできる限りのことはしますが、みだりに危険な行動を起こされないよう、改めてお願い申し上げます」
「……わかってるって。もっとも……ここがどこかも分からないから、どうしようもないって言った方がいいんだけど」
「それについては後程――そうですね。あと少しで昼食の時間となりますので、その前後についでに当施設のご案内をいたしましょう」
「つまり、それまでは引きこもりをしていろと……」
時計がないのでわからないが、それまでは暇をもて余すことになりそうだ、と眉をひそめるあずさ。
その気持ちを汲み取ったのか、瞳は素直に謝罪を入れてきた。
「不自由をさせてしまい申し訳ありません。お手洗いについては部屋を出て、右方向突き当りにございますのでそちらをご利用ください」
「……ん。わかった」
「それから、最後になりますが、その首飾りはまだ自己着脱拒絶の術式が有効なままですので、決してお手を触れぬようご注意ください」
「……そこは外してくれたっていいと思うんだけどなぁ……」
「重ねての謝罪となりますが、申し訳ありません。上からの指示ですので、独断での着脱は致しかねます」
「そう……」
「ご不便お掛け致します……」
「いい。上からの指示じゃあ仕方がないもんね」
「いえ。お力添え出来ず申し訳ありませんでした」
その点については心底同情しているのだろう。本当に申し訳なさそうな顔で、平身低頭謝られては、さすがに受け入れるしかない、とあずさは素直に引き下がった。
それを見届けた瞳は、『では、私はこれにて』と、最後にそう言い捨てて、瞳は退室した。
途端に襲ってきたのは、言いようのない寂しさ。
上質な畳から漂ってくる匂い。あずさの自宅ににあったどの布団とも違う、旅館に使われていそうな布団。それらが、あずさが感じたそれをさらに助長させる。
具体的に表すなら、そう――不足感。いつでもそばにあった、決定的な何かが足りない。
なんだろうかと考えるまでもなく、即座にそれはここには自分しかいないからだ、と答えを見出す。
そこに至って生まれてきたのは耐え難い喪失感。学校に行けば、学友はいるだろう。だが、失ってしまったそれはもう、取り戻せない。
両親はいない。数少ない、無愛想なあずさにも根気よく付き添ってくれていた幼馴染もいない。
全員、あの火災がすべてを奪ってしまった。もう、それらの、今切実に遭いたいと思っている誰とも会うことができないのだと今、正しく認識してしまったが故の孤独感。
静まり返った和室の中で一人、あずさはここへ来てようやっと――自分は一人きりになってしまった、と再度自覚して、静かに、声を殺して――泣いた。




