第10話 窮地が知らせる不可逆
葵衣が去った後、再び作業をし始めるあずさ。だが、葵衣が部屋から離れていくのを見計らったかのように、数分もしないうちに瞳が戻ってきたので、作業を中断せざるを得なくなる。
思うように進まないことに対してため息を吐きながらも、瞳に対してはお帰りと軽くねぎらいの言葉を投げかけた。
「それで、どうだった?」
「今のところ異常はなかったようですね。張っておいた呪符も無事でした」
「ん。ならよかった」
「そちらはどうですか?」
「見ての通り。まだ一つしかできてない」
「結構時間が経ったと思うんですが……割と時間がかかる作業なんですね……」
一体どんな効果を持たせたんですか、と興味津々ですといわんばかりの表情でそう語りかけてくる瞳を制して彼女の首にそれを掛けた。
もとから持っている封印用のそれもあるせいか、若干見栄えは悪くなるものの、効果を知りたいならそっちが手っ取り早いだろうと思ってのことだった。
「怪しげな術とかかかってはいないですよね……?」
「失敬な。敵意ある物理的干渉を和らげる効果を持たせただけだよ」
ただし。その効力は込めた魔力で実行可能な限り、敵意ある干渉を無効にするという強力極まりないもの。
魔力によるエネルギーシールドという贅沢品だが、あずさの記憶に残る『勇者』の知識によれば、マジックアイテムであるがために多少値は張るものの、一般的に出回っていた類のものではあるらしい。
「多分、私が聖剣使って本気で切りかかっても、一回なら余裕、運が良ければ二回くらいは弾くかもね」
「それは頼りになりますね……」
妖怪に対して有効打となりうる霊力の扱いに長けているといっても、相手とて黙って討伐されるようなものではない。抵抗は当然してくるし、そうなれば備えはあって困るモノでもない。
魔法理力をはじめとする、あずさの扱う魔力を用いた異能の力は妖怪に対してもある程度効力を持つことがすでに証明されているが、それでも霊力ほどではないのも確か。
それでも、妖気によって生み出された街一帯を呑む炎を鎮火させることができたということは、妖気そのものに効果は薄くとも、それによって生じた『現象』自体には有効である証拠だ。
その線引きがどのようになっているかはあいまいだが、少なくとも妖怪から受ける攻撃は減りそうだといくらか気が楽になるのを、無意識のうちに感じていた。
「ですが頭が痛いですよ……。まったく、なんて贅沢品作ってるんですかあなたは……」
「前に作ってたのがあの雑木林で見事にボロボロになったから、自重捨ててみた。まだ本気を出してはいない」
「…………お願いですから自重を捨てないでください」
「……善処は、する」
まったくあなたは……。
ジト目でそう見ながら、あずさを睨む瞳だったが、柳に風と判断するとため息一つついて、話題を切り替える。
その後、話をすると再び瞳は巡回の時間となり、部屋から退室していった。
「…………い……ッ!」
直後。
呪いの痣が、痛みを与えてくる。
まるで、瞳が行動を起こすのに合わせるように、その呪いは淡い痛みを与えてくる。
「……一体、これは何を示しているというの…………?」
だんだんと痛みを増してくるその痛みに、一抹の不安を覚えながら、再び作業をし始めるあずさ。
しかし、瞳が部屋から出ていってしばらく経つと、突如ガラスが割れる、ではなく、弾ける、と形容したほうが正しく思えるほどけたたましい音が鳴り響き、まるで全身を突き刺すような殺意に満ちた空気が外から流れ込んでくるようになる。
それに呼応するかのように、右手の甲からは刺すような痛みも襲い掛かってくる。
「この、感じは……まさか…………うぅ……!?」
さらに。それに呼応するかのように、あずさの中でも何かが弾ける。
それはおおよそ、あずさの心臓あたりで起こり、それを境に――あずさの体は全身に黒い靄を、纏い始めた。
あずさは最初、何が起こっているのかわからず混乱したが、次第に感じた覚えのある頭痛で事態を把握。
聖剣を顕現させ、それを媒体に結界を展開。聖剣に備えられた『破邪』の属性により、疑似的な聖域の構築を試みた。
部屋に清浄さが戻り、心なしか安堵するも、直後それでも侵食してくる妖気に、思わずぎょっとする。
――おかしい。おかしすぎる。
効率は悪いとはいえそれでも妖気に対しても効果が期待できるはずだった、聖剣の浄化作用をもってしても、効果が見られない。
手の施しようがない避難することも視野に入れるが、動きながら結界の維持をするのはこの状況では困難だし、敵が侵入してきている可能性もある。もしそうだとすれば、むやみに外に出るのは自殺行為ともいえる。そしておそらくは、避難しきるまで意識は持ちそうにないと判断し、あずさはこの場をしのぐことにした。
施設を守る結界が一部破損した。
その凶報が携帯電話を通じて瞳にもたらされたのは、彼女があずさの部屋から最も遠い位置にいる時だった。
(よりにもよってこんな時に……。)
一体なぜ、というのもそうだが、それよりも気がかりなのが、今観察対象としているボッチな少女のことだ。
彼女はその身に宿している呪いのおかげで、精神的に安息とは程遠い生活を余儀なくされていたという。
そして、その呪いの効力のほどは、瞳もよくわかる。なにせ、本格的に発動してしまえば地方都市の住宅街が跡形もなく焼け野原と化してしまうくらいの『不幸』が、本人を襲う。その『現場』に居合わせてしまったのだから。
もし、今回の一件にそれが絡んでいたのだとすれば、結界の一部破綻はほんの前触れでしかない。
「……急がなきゃ…………何かが起こってからでは、遅い……!」
瞳は身をひるがえし、来た道を全力疾走で引き返す。
幸か不幸か、不穏な反応は施設内に配置した対妖感知符にも出ている。
ゆっくりと、しかし着実に。
結界が破れたポイント付近から『陰性』反応はあずさの滞在している部屋へと近づいて行っている。
このペースなら、余裕でそれよりも先にたどり着ける――
「……か、はぁ…………っ!?」
はず。
そう思った彼女の見込みは、果たしてあっているのかいないのか。
横合いから突如放たれた攻撃をもろに食らってしまい、彼女は壁に打ち付けられた。
あずさは次第に自分が自分ではなくなっていくような感覚が強まるのを感じていた。心なしか、気も遠くなってきている気がする。
そしてそれが妖怪になるということなのだと、正しく理解していた。
(……違う。私は妖怪にはならない。私は屈しない)
今、頼りになるのは聖剣の浄化作用だ。
正確には聖剣に魔力を注ぎ続け、危険を顧みずその刀身を『抱く』ことで、無理やり妖気を浄化しようという試みだ。
一種の自傷行為にはなるが、結界を敷くよりもはるかに効率は高い。
(…………大丈夫。私は……まだ、私だ…………)
体を傷つけないよう、刀身を軽く抱いて魔力を送り込む。
主の魔力を受け取ると、聖剣はその刀身に触れているモノに対し、そう呼ばれるにふさわしい『破邪』の魔力を放出し始める。結界という形より濃密なその力は、確かに妖気に対して効果を発揮している。あずさを包む黒い靄は、目に見えるほど弱り始めた。
だが、妖気は外部からまるで無尽蔵であるかのように連続して流入してくる。
聖剣といえど、燃料たる主の魔力がなくなれば、あとは周囲からその聖剣たる力を維持する最低量を吸収し続け、何とか聖剣としての存在を維持し続ける程度の性質しか持たなくなる。
根本的な解決ではなく、対症療法でしかない。
――その首筋に、怪しく輝く幾何学的な文様が浮かんでいることに、気づく人物はこの部屋にはいない。それは、彼女にとっての最大の不幸と言えた。
(一体何が……!? 塗壁……じゃ、ない。あいつらは確かに壁を操って攻撃できるけど、今のはそうじゃなかった……。…………まさか、シェイプシフター? 西洋妖怪の……。このあたりの感知符に、反応はなかったはずなのに……っ)
――シェイプシフター。RPGなどを好んでプレイする諸兄には、『ミミック』などの名前で、トラップモンスターとしてなじみ深いモンスターといえよう。または、その原典ともいえる西洋のモンスターが、こいつだ。
ドッペルゲンガーという妖怪が『人』に特化したモンスターなのに対し、このモンスターはRPGなどにおいてトラップモンスターとして登場することから知れるように、様々なものに擬態し、油断してテリトリーへ侵入したものに攻撃を行うモンスターである――
何とか攻撃の来た方向をたどって視線を向けてみれば、まるで壁から手が生えているかのような光景。
よほど強い攻撃を受けたのだろうか。
瞳の側頭部からは血が流れだしており、一瞬だが意識ももうろうとする。
その間に相手はまた周囲の風景に擬態したのだろう。ふらつきながら立ち上がった時には、少なくても目視はできなかった。
(厄介な相手……。……時間がないのに)
シェイプシフターのその厄介さは、一度擬態するとなかなか判別が難しいところにある。
退魔館における瞳くらいの実力者では、立ち向かうのは困難とされるクラスで、対抗するなら探知などの術も扱える退魔師を同行させるか、探知と戦闘の両方を並行して行える程度の実力がなければ不可能とされている。
(…………妖力を、解放……だめ。こんな状況になっているということは、施設内部が混乱状態にある可能性もある……。むやみに妖力をまき散らしては、同士打ちのもと……どうする……)
一応、探知系の術が使えないわけではない。
むしろ、得意といえるくらいには扱いこなせる。だが、シェイプシフターを相手取るには少々心もとないのもまた事実だ。
完全に擬態しきっているそれを見極めるほどの術式は扱えるが、それと退魔剣術を併用できるほど、まだ器用にはなり切れていない。
だが。
(……あまり考えるだけの時間もない……)
というのも、また事実である。
こうしている間にも、あずさを含む、施設内にて生活を送っている居住者たちに危機が及んでいないとも限らない。
しかし、こんな状況だからこそ、逆に野放しにもできない、という思いもある。
ここでシェイプシフターの相手をするか、それともこのまま走り去るか。どちらを選択するかを考え――。
「なにをぐずぐずしているのですか瞳! あなたには優先して護る対象が割り当てられているでしょう! 早く安全確認に向かいなさい! 妖気が中に入り込んできているのに気づいてないのですか!?」
「っ…………先輩……ですが」
「全く……わかってるわよあなたが考えていることは。ほら、この場は任せて、早く行きなさい!」
「で、ですが……先輩は…………」
「私は大丈夫です! ですから早く!」
自分と同じ轍を踏ませたくはないのでしょう!
そう叱咤された気がして、ハッとして葵衣を見返す瞳。
そして、そんな彼女の背中を押すかのように、葵衣に続いて管内警備にあたっていた退魔師達の一部も駆けつける。
葵衣は手早く彼ら彼女らに指示を飛ばしながら、早く行けと視線で瞳に訴えかける。
不安そうに見つめていた視線は一転して、全信頼を預ける眼差しに変わった。
「は……はい、ただちに!」
「……視たところシェイプシフターといったところかしら……部下を手ひどく扱ってくれたみたいね。これはそのお返しよ! そこと、そこっ!」
「――――――ッ」
上司の頼もしい声を背後に、瞳は再び走り出した。
あずさは――もとい、あずさらしき少女は、浄化しきれずに吸収してしまった妖気の影響を受け、もはや彼女であるとはわからないほどにその様相を変貌させていた。
もともと彼女の髪は黒髪で、肩口くらいまでの長さだったのだが、今は腰下くらいまでの金糸と見まがう輝く髪。
その目は平均的な日本人らしき黒目から翡翠色のそれに、衣服も巫女装束だったはずが、いつの間にか西洋人形が着ていそうな、フリルがあしらわれたワンピースドレスにそれぞれ変化していた。
さらにその顔には、いつも以上に感情を感じさせない、絶対零度の仮面を張りつけている。
そして、それ以上に気になるのは、いつそうなる暇があったのか、全身が土でひどく汚れていることだった。
「鏑木様ご無事で……ッ、……あなた…………誰です……?」
「…………ぁ、ぅ…………、」
「…………え……あずさ、さん……?」
部屋に飛び込むように入りそれを見た瞳は、最初誰なのか皆目見当がつかなかった。
しかし、床に倒れ伏している少女が抱え込んでいる、清浄な力をたたえた西洋剣を見て、それがあずさで間違いないと確信する。
そして、気づく。
あずさの四肢が、人のものではなくなりつつあることに。
(間に合わなかった…………?)
金糸の髪。
美しい西洋人の顔。
その二つの特徴に合わせた、ワンピースドレス。
ボロボロな――『人形の体』。
それらの特徴を兼ね備えた妖怪――というより怪異に、瞳は心当たりが一つあった。
(メリーさんの電話…………。妖気を吸収しすぎて、妖怪になりかけているんだ…………。でも……あずささんは諦めていない)
確かに、外見はもう、ほとんど『メリーさん人形』のそれだ。しかし、四肢が、体が人のものではなくなりつつあるとはいえど、まだ完全にそうなったわけではなく。触れてみれば、人としての温かさはきちんとあったし、脈拍も鼓動も、呼吸も確かに感じられた。
まだ、手遅れではないということだ。
「それにしても……ここまで異常だともはや、どうにも驚きようがなくなるわね……」
呪いの力がここまで非常識な現象を引き起こすとは思ってもいなくて、瞳は若干顔を引きつらせる。
まさか、結界が破れて、あまつさえ狙ったかのように彼女のもとに妖気が密集するとは思ってもいなかった。
おかげで、局所的にではあるが瞳があずさを『保護』した森と同等以上の魔境と化している。
おそらく、あと数分でも遅ければ、あるいはこの部屋からあずさが離れていたりしていれば、半妖から戻れなくなる、という事態は免れなかっただろう。
あずさが聖剣に頼ったからこそ生まれた、奇跡のような数分に瞳は感謝せざるを得なかった。
そして。
瞳はその場にしゃがむと、そのままあずさの現状を改めて確認し始める。
体内に取り込んだ妖気の総量は、過去に自身が半妖となってしまった時のおおよそ八割ほど。
妖怪に変質し始める条件としては、ほぼ平均的といえよう。これからさらに妖気を取り込むか、増幅され続けると妖怪化はどんどん進行の一途をたどってゆく。
つまり、今が分岐点なのだ。
幸いなのはあずさが急激な妖気の吸収に耐えきれず失神している影響で、妖気とあずさの負の感情が結びついていないことだろう。
この上負の感情の増幅による、妖気の相互増幅作用が起きていたらと思うとぞっとする。
だが、こうしている間にもあずさは異様な速度で周囲の妖気を取り込み続けている。
はっきり言ってこれは異常だ。なにか、原因となりうるようなものはないかと今のあずさの『体』に障りのない範囲で診てゆく。
あずさは今、『メリーさんの電話』に登場するメリーさん人形そのものとなりつつある。人形というものにとっては、衣類も立派な『構成要素』の一つ。今身にまとっているワンピースドレスは、彼女の体の一部といってもいいものとなっている、と考えてもいいくらいだと判断してのことだった。
幸いにして目に見える位置に『それ』は存在を示していた。
あずさの首元に浮かぶ、幾何学的文様。鈍く光を放つそれは、妖気によって薄暗くなった部屋の中ではたやすく見つけることができた。
(これだ……! これを破壊すれば、妖気の吸収は止まる……!)
呪術のようなそれは、明らかに霊能力とは違う、魔法的なもの。あずさの言うそれとは違う、瞳の知るそれだ。
ならば話は早いと言わんばかりに、彼女は呪符をあずさの首筋にあて、そこにある魔法の強制解除を試みる。
魔法を構築しているらしい幾何学的文様は、その呪符が触れた瞬間。音もなく、ただ静かに、その役目を終えて、一瞬強く光った後スゥッと消えてなくなった。
これでまずは一安心。
一息ついた瞳は、続けて急いで妖気を浄化しなくては、と緊急時用の、妖気を吸い出して中和する命令が書き込まれた、今朝あずさに使ったものと同じ呪符を何枚も取り出し彼女に張り付けてゆく。
真っ黒になり、使い物にならなくなったものから順に取り替えてゆき、安全と判断できる水準まで妖気が薄まったことを確認すると、瞳はほぅ、と胸をなでおろす。
そして――シェイプシフターからの不意打ちに続き、ダメージを残しながらの全力疾走。館内に入り込んでいた他の妖怪とも幾度かやり合った。そしてそのまま、あずさの霊的治療。倒れてもおかしくないくらい、短時間で疲れがたまり切っていた瞳は、そのまま静かに意識を手放した。
それからほどなくして、意識を失っていたあずさは目を覚ます。
最初は意識がもうろうとしていたために何が起こったのかわからなかったが、明瞭になるにしたがって、徐々に把握し始める。
部屋に妖気が流れ込んできたこと。それも尋常ではない量だと、自分でもはっきりわかってしまうくらい多量の流入だったこと。
それはどういうことか自分に狙いを定めているかのように集まってきたこと。
そして、その大量の妖気を急速に吸収してしまったのか、これまた急速に妖怪に変貌しかけていたこと。
それらのことを思い出すと、慌てて自らの身に異常がないかどうか確認しだす。
薄れゆく意識の中で認識できた範囲で、自身に起こった異常がどうなったかを、調べてゆく。
毛髪は質が急速に柔らかくなり、色も変わり果てて腰下近くまで伸びていたはずだ。慌てて髪に触れてみると、相変わらず変化したままだ。しかしくすんだような金髪は腰下から背中くらいまでに短くなってきており、元に戻り始めているのだと判断する一つの指針となった。
衣服が巫女装束から趣味に合わないワンピースドレスになっていたはずだ。体を見下ろしてみると、衣服は変わっていないものの、下の方から半ばまで赤くなっており、上半身は純白になっていた。
白衣に緋袴、巫女装束一式と同じ配色。こちらも元に戻り始めてはいるようである。
「………………んん……」
と、そこまで調べたところで、瞳が目を覚ました。
「……気が付かれましたか」
「ん……。ありがとう、助かった……」
「いえ、仕事ですから……。気分はどうですか?」
「見ての通り、私の体じゃないみたい」
一応、元に戻り始めてはいるという指針は見つかったが、まだ確証に至れていないあずさ。
予期していたかのように、瞳はクスリと一つ笑う。
「確かに。でも、妖気は危険と判断される水準よりだいぶ吸い出したはずです」
そういって、周囲を指さす。
見ればなるほど、見覚えのある、黒く染まった符だ。例の応急処置。それを行ったのだろう。
「こんなに持ってたんなら、少しくらい楽をさせてくれてもいいじゃん」
「そうしたいのはやまやまなんですが、この呪符はそれほど融通のいいものではないんですよ……」
「そうなの?」
「そうなんですよ、困ったことに……この呪符では、大雑把に妖気を払うことはできても、その残滓まで吸い出すことは困難なんです。妖気の大部分はふるいにかけて引きはがすことができますが……そのままふるいを透過してしまう部分もあります」
「……それが、何度も聞いてきた……『残滓』?」
「そうなります。私だって、できればあなたを早く治したいとは思ってますよ? でも……そのためには、あなた自身の協力も必要だということを、忘れないでください」
「……わかった」
幸いにして、今回は妖怪になることは回避できた。
しかし、懸念していた通り、呪いの胎動は再び始まっている。今回の一件は明らかに『急転直下の呪い』の効力が発揮されている。
その最たる証拠は、あずさの右手に現れている。
昨日瞳が呪いを鎮めてくれた際には再びほとんどゼロの状態に戻っていたのに、この一件だけですでに三割近くまで成長してしまったのだから、これ以上の証拠はない。
「…………この一件は……これがもたらしたと考えてもいいのでしょうか……」
「……なんともいえない。そうであるとも……逆に今回の騒動が原因でこれが活発化したともいえるから」
「…………そう、ですか」
どちらにせよ、これでまた楽観できない状況になってしまったのは確か。
しかし収穫があったのも確かである。
「妖気が低下するどころか、逆に増え続けていた原因はわかりました。それだけでも、収穫はあったと言えましょう」
「そうなの……?」
一体それは……と首を傾げようとして、瞳が自身の首を凝視していることに気付く。
何かあるのかと思い、首周りを触ってみるも、特に違和感はなかった。
「なにもなくて当然です。悪さをしていたモノは壊しましたし、それは物品ではなく魔法の術式だったんですから」
「魔法……って、昼間に聞いたやつ?」
「そうです。どうやら……あなたの仇敵の狙いも、あなたにあるみたいですね」
「…………、」
「術式のイメージとしては呪術のそれに近い感じがしました。おそらくは……血縁者の血か何かを使い、あなたに遠隔地から呪いをかけた……そう考えるのが妥当でしょう」
「………………そう」
少なくともこの退魔館でそんなことをすれば魔法を使うのに必要なエネルギーを感づかれて袋叩きにされますからね。
険しい表情でそう言う瞳をよそに、あずさの中で停滞していた復讐心に、淡い、けれど鮮やかな火がともった。
あずさはそれを自覚したが、表面上には出さず、しかし内心では改めて固く誓う。
――必ず、追い詰めて仇討ちをしてやる、と。
その決意をあざ笑うかのように、呪いの刻印がズキリ、と痛みを発した。
――時間は少し過去にさかのぼる。
どことも知れない、実験室のようなつくりの部屋の中で、一人の男が不気味な笑いをその顔に浮かべながら、作業をしていた。
二つある作業台の上に横たわっているのは――遺体だ。
横たえられている彼らは、男が先日、とある民家から調達してきたもの。
男はそれから血を抜き取ると、魔法陣の中におかれた数冊の本に垂らし、なにやら呪文を唱えた。
すると、置かれた本が見る見るうちに形を変えてゆき――何の変哲もない本一冊に付き一匹、紙でできた鳥が誕生した。
男はその笑いをさらに深いものへ変えてゆき――。
「くく……もう少しだ……。もう少しで、私の、生涯をかけた――――が成就する……。くくく……。さぁ、あなたの足掻きを見せてもらいますよ、異質な力を持ったお嬢さん……そしてせいぜい私の役に立ってください。はーっはっはっはっはっは……!」
不気味な笑いを高らかにあげる、男。
その眼には――狂気の色しか、浮かんでいない。
――退魔館・御常支部。関東地方のとある山岳地帯にある退魔館の支部。
ここに妖怪たちの襲撃事件が起こる、その前の晩の話であった。
あくる日の昼前。
あずさは、退魔館支部事務棟の総務課で、急ごしらえながら整えた書類を提出し、巫覡退魔師となるべくその修行を受けたい旨を申し出た。
説明を聞き、現在あずさの目付け役となっている瞳がそのまま指導役に転ずる旨の連絡を受け、登録作業は昼過ぎに終わった。
「…………いいのですね、これで」
「……うん。父さんや母さんを殺して、あまつさえ死んだ後も死者を冒涜するような扱い方をする……そんな奴、絶対に許せない……。必ず見つけ出して…………」
「……それであなたは後悔しないのですね?」
「………………」
無言の肯定。
何よりも重いそれで示された答えを見て、瞳もまた、覚悟を改めた。
「いいでしょう。先日言った通り、あなたが望むならば、私にそれを止める権利などありません。しかし、これだけは言わせてください、鏑木様――いえ、あずさ」
一昨日、寝起きに感じた威圧感に勝るとも劣らないその重圧に気おされながらも、それで引いてなどいられないと、意地でその場に立ち続ける。
しかしその重圧はあずさの精神を根元から崩さんと重くのしかかる。
膝は笑い、全身が震えだし止まらなくなるほどの存在が、そこにいた。
「この道に、復讐目的で入った以上――復讐を掲げ続けている限り、引き返せるとは思わないで。他者を憎む心で妖怪を祓えば、代償は大きい。あなたがそれを望む限り、退魔師であり続けなさい」
「………………ッ!?」
変わりゆくその姿を見て、思わず息をのむあずさ。
変化が終わると、瞳がいたはずのその場所にいたのは――妖精のようにとがった耳を持ち、手には鋭い爪、釣り目がちの、蒼髪蒼眼の絶世の美女だった。
「……あなたも、昨晩感じたはずよ? 憎悪の感情が、何よりも妖気と同調しやすい。その結果、思ったよりもかなり早くその時は来てしまった。この辺に仕込まれていた呪術の兼ね合いを差し引いても、早すぎると言えるほどにね」
首筋をさすりながら紡がれたその言葉に、その場の雰囲気にのまれてしまったあずさは何も返せない。
その人間離れした少女がそこに存在していたのはほんの数舜。
まるでそれが白昼夢であったかのように、はっと自意識を取り戻した時には、もうすでに瞳その人が、そこには立っていた。
「…………それじゃ、行くわよ、あずさ。見習いとはいえ、巫覡退魔師になったのだもの。部屋替えの準備をしないとね」
しかし、有無を言わさない雰囲気はそのままで。
必然、逆らうこともできないまま――あずさは間近にある、されど果て無く遠きにある背中を追って、巫覡退魔師としての第一歩を、踏み出した。
Chapter First Fin.
To Be Continued Next Chapter...
ちなみに次は第一章ではありません。
この小説では基本的に、章は可能な限り番号ではなく序破急で表す方針でいきます。
この法則にのっとると…………次は破ですね。いよいよ物語が本格的に動き出す…………といいなぁ、と思ってます。




