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守りたかった時間。

【2034年、春。黒き父】




 地表に緋が落ちる黄昏時。赤き大地を口に運ぶよう、その全てを闇の中に食む時間。私たちは揃って顔を見合わせ、『ホーム』と呼ばれる住み家へ集まる。


「今日は、何人の人々を救えたのかい? どれだけの家族を守れたのかい? レッドボーイ」


 首から上を闇へ隠し私は隣に座る長身の彼へ言葉をかけた。


「66億人。全てを守ってみせたよ。ブラックダド」


 それはあどけない口調。顔の上半分をダドと呼ばれた自分と同様に闇へ隠す彼、『レッド・ボーイ』。彼は闇からはみ出した顔の下半円、その中央に位置する月に似た口の割れ目を誇張する。


「マムもガールも頑張っているみたいだね。この世界の父としてその労苦をねぎらわせてもらおうかな」


 私の声に2つの影が姿を現す。

 1つは長身の女性の姿。その豊満な胸部を見せ付けることなく影に隠して歩を進め、その脚線美を僅かに晒した。


「ダド。礼には及びません。これも我が家を守るためですもの」


 この場に居ない者がその足から察するなら、絶世の美女を思わせるのではなかろうか。それは熟成をまじかに控えた葡萄の如く。


 もう1つはすっ飛んだような少女の声音。素顔を光に臆することなく嬉々と晒している。


「そうよダド! こんなお仕事。ピンクガールな私にはお茶の子さいさいなんだからっ!」


 整った楕円、早熟した檸檬を思わす煌めきはまさしく美少女の面容。光を吸いこみ放さない眼差しは漆黒の豹、その眼を思わせるもの。


 黒なる父。赤き息子。紫たる母。桃色の娘。私たちはこの世界の管理人、そして世界を統べるもの。


 人は我々を『ホームホルダー』と呼ぶ。この地球の“持ち主”という意味である。




 2030年。

 彼の“動物王国の聖女”が三十路を数えた頃の事だ。地球に変革的事象が起きた。

 外地球から『ノア』と呼ばれる地球外知的生命体が大都市規模の宇宙船『箱舟』に乗って地球の大地へ渡来、避難してきた。

 ノアの民の記述によれば、外宇宙に在る彼らの惑星は大いなる科学によって発展を遂げてはいたが遙かなる時の流れを経て、間近、超新星化を迫られていたと云う。その命運を刻一刻と迎えようとした惑星の住民が取った行動こそが、“惑星放棄”だった。

 彼らは太陽系第3惑星、この地球を新天地に選んだ。

 否。早急に命を根付かせるには、澄んだ大気と肥沃な大地を持つこの地球しか選択することが出来なかったのだろう。

 愚鈍なる地球高官はノアのその驚異的技術に唖然。その技術力の提示と引き換えに、彼らと彼らの連れてきた動植物の移植を認めたのだが……。


 ――しかし、早計かな。彼らが連れてきた命の数はあまりにも膨大であった。

 これを直接的原因とし、地球人類は僅か数年で莫大な科学力を得、反面、人口、動植物の数を想定以上に肥大化させてしまったのである。


『ホームホルダー』。私を筆頭とするメンバーは地球外人類ノアにアフリカの大地と多大なる資金を提供しその見返りに技術力を優先的に提供された。我等は情報技術を皮切りに戦略、戦術兵器の開発に成功した。

 その後、情報技術を掌握し軍事下においても圧倒的なチカラを以って我らは“世界”を手中に治めた。




 2034年。あれから4年後の今日も、我等は世界の事情を淀みなく確認し、世界、己の国の“管理”を行っている。

 父は黒、息子は赤、母は紫、娘は桃色、それぞれのモニターを各々の管轄に従って開いていく。私の眼前には立体地図に投影された世界の情勢が幾重にも重なり映し出されている。家族の皆は倣うように私へ続く。日々、事の始めだけは共同作業で行っていく。


「アジア、アメリカ、両大陸に主だった動きはないようだね。ヨーロッパも右に同じ。動きがあるのは……」


 各々が仕事を始める。各モニターの明滅が激しくなっていくのが傍目にも分かる。私の左隣、赤の縁取りあるモニターがボーイの指の動きに倣いアラートを鳴らす。画面には3つの色。海の青、支配の赤、抵抗の黄、我等の支配率に合わせ赤と黄の中継の色が決定される。

 ボーイは皆に詳細を表す地球儀を中央の3Dモニターへ表示させた。


「アフリカ。『ノア』の移民達、……か」


 我等はノアから得られるだけの情報、技術を受け取ると、彼らに対する援助を一方的に打ち切った。


『吸い取れるだけの養分を吸い取ったキノコ』


 保護下の家族がそう形容しているのを聞いたことがある。このキノコは本体たる幼虫、ノアの身体を割って大地に芽を出したのだ、と。……なかなかに巧い表現かもしれない。

 私の右、ガールが陽気な顔を歪ませて地球儀へ指を伸ばした。


「ボーイ。アレ、あんたあの存在は気にならないわけ?」


 彼女の指は地球儀の一部を指し示している。

 丸い球状映像の隅にある小さな黄色の点滅をガールの指先が拡大。関東平野、その中心を更に拡大、旧名『イバラキ』に当たる一都市をマークする。


「『なゆちゃん王国』かい。もちろん忘れてはいないさ。島国日本のアニマルランド、僕たちホームホルダーに反する狂信者どもはね」


 ボーイが嘲るように笑う。モニターへ口の割れ目から零れた歯の白が映る。それははしたなくも達観とした息子の姿。その笑みが頼もしく見えるのは父の贔屓目であろうか。


「けど、もう終わりさ」


 ボーイは卓上にゆったりと肘を乗せその上に尖った顎先を休ませる。


「そろそろかな。データがトンデくるのは……」


 程なくして関東平野の右端、太陽をイメージさせるような黄色が赤い鮮血を浴びていた。黄の点滅が脅えるように3次元の画像を震わせる。


「……さっき、狩ったからな」


 そして一区域が目にも眩い、……赤へと代わった。


「王国の母たる、……柊なゆたを、ね」


 私はただ淡々とボーイとガールの顔を見渡す。そんな私を慎ましやかに母の名を冠する娘が見つめている。


「で、だ。話を本題に戻そう」


 私は顔の前に指を翳しそれぞれの家族に、こう訊ねた。


「みんなは何匹、……狩ったのかい? 我々、家族の生活を損なう非生産的な隣人、もとい害虫を」


 ボーイは両手を上げおどけた表情で指を3本立てる。

 マムは椅子に腰掛け足を組みなおし、片手全ての指をおもむろに広げた。

 ガールは口から舌をちょこりとはみ出し、合わせて7本の数を示した。

 単位は言わずとも通じ合える。そしてその数が表すものは確かなのだ。


 ――――殺した害虫(生き物)の数。

 己が家族を守る為、その生活をより豊かなモノとするために狩った幾数、幾十、幾百、幾千の人々。0の数を定かにするつもりは無いが、闇に閉ざされた室内の映像、その統計上の数値、人類、動植物の総数は0.01秒ごとに変動を表している。その数を常に66億へ保とうとしている。


 我等家族は選んだ民を残して、移住地、食料、財政、それぞれの妨げとなる動植物を駆逐している。

 何を責められることがあろう。それはひとえに人類、我等の“家族”の為なのだ。

 心地よい想いをそのままに、私は眼前で手を組んだ。笑みが自然と零れてしまう。


「みんなよく頑張ってくれたね」


 モニターが作る影の下、マムが右手でその長い髪を梳きつつ問うてきた。


「ダド、貴方はどれだけの数を駆除したのですか?」


 私は応えた。顔を緩ませ、こう。


「判別出来ないのだよ。みんなみんな、……焼いてしまったからね」


 モニターの明かりが占拠するだだっ広い室内に朗らかな声が木霊した。

 やがてそれにディナーの時を知らせる音源が混じる。笑いを堪え執事の呼び出しに応えた。このタイミングを以って夕食前のマニュアル(雑談)を一時中断する。


「今日も頑張ったね。明日も家族のために皆で働こう」


 今日も疲れた。より良い未来のため明日も元気に頑張ろう。


「……さあて、本日の晩餐を始めるとしようか」


 私(父親)の声に家族による素朴な夕食が、……今、ゆったりと始まる。





【2034年、春。柊真紅ひいらぎ まあか




「ママ。マァマ? どうして起きてくれないでしゅか?」


 ぼろきれを纏ったボクの足元には血まみれのママの姿。ママの瞳は目の前、顔から30センチも離れていないボクの腕、娘の姿を探している。


「……真紅まあか?」


 ママの眼が小刻みに揺れる。光を失ってしまったかのように瞳孔が開き、そして閉じていく。ママの腕は宙を泳いでいた。

 雲で陰った夕日のもと、廃墟となった町並みを意識することなくママはボクを求めていた。


「マァマ。ボクのこと視えないでしゅか? 今、今お医者さん呼んだでしゅからね」


 大丈夫でしゅよ! 大丈夫でしゅよ! ボクはママから流れ落ちる血を自分の上着で優しく覆う。細い腕でママの傷ついた手を抱きしめる。強く強く、帰ってきてくれるように抱きとめた。


「真紅。ごめんね。お、お母さんね」


「声を出しちゃ駄目でしゅ。マァマ、もう少しでしゅ。もう少しの辛抱でしゅから」


 大丈夫でしゅよ! 瞳から零れるものを必死に塞いでママを応援した。ママの右腕が宙を彷徨っている。ママの姿を見ているのが苦しかった。


 そんなボクの前、霞む視界の下に、――ママは辿り着いた。

 ボクの頬。変なのが流れる目の淵を。ボクのちっぽけなまなじりを撫でてくれた。


「泣いちゃ駄目だってばぁ。真紅」


「マァマ! 嫌ああああぁぁぁ!!」


 涙は止まることなくママの指を流れた。ママの赤と混ざり合う。けれど、忌々しい赤の量に涙の量は勝てなかった。


「お母さんね、負けちゃった。みんな、みんなを守ること、出来なかった、の」


 ママは血に染まった腰のポーチを指差した。中から出てきたのは犬耳の付いた耳飾り。


「これ、これを真紅にあげるね。……こ、これね、スゴイんだよ」


「ママ、ボクはこんなのいらないでしゅ! お願いだから動かないで! も、もう少しでしゅからっ!」



 それからいくら待っても、ママを救う影は現れなかった。ママの瞳が徐々に閉じられていく。


『時間よ止まれ!』


 ボクは何度も念じた。何度も! 何度もっ!



「真紅と、もう1度だけ……、もう1度だけ、……」


 ――辺りを土煙が流れた。静寂の中、その腕がゆっくりと地に落ちる。ボクとママを埃と風が追い立てる。もう、どうすればいいのか分からなかった。


「マァマ? もう、……もう少しでしゅよ。も、もう少しでお医者さんが」


 ママの時間がこの世界から止まってしまう。


 その手が土に横たわる。大地に体を、その傷ついた足を痛く、痛く横たえている。

 流れた涙が地に吸われた。この腕で強く、強く大地を叩きつける。それしかボクには出来なかった。抗えなかった!


「お願いでしゅ!! ボクを置いていかないで!! マァマぁぁぁぁぁ、嫌ぁぁぁあっ!!」


 陽が落ちていく中、ボクは犬耳の飾りを握って喘いだ。いつまでもいつまでも世界に逆らった。落ちゆく光、その先っぽの大地には、




 ……ボク1人しか残っていなかった。





【2037年、夏。柊真紅】




「ふぃーしぃ。行きましゅよ。この世界を守るんでしゅ!」


【Yes,master!】


 今日も変わってしまったこの町をボクとフリーシーが駆け巡る。紅いリボンでこの街の風を急き立てながら。


 ボクはあれから3年ずっと戦い続けている。ママの守り続けた人を、愛し続けた動物を、多くの友達を守るために。

 頭上にはためく犬の耳飾り。ママの形見に恥じぬよう戦いに明け暮れた。世界の支配者、ママの仇『ホームホルダー』に向かって、地を跳ね空を駆け、子供が子供を守るために創られた剣を振るった。


 今は2037年。ボクたち『なゆちゃん王国』の生き残りは補給を閉ざされ苦しい生活を強いられている。

 時にはホームホルダーの補給庫を襲うこともあった。生きていくには仕方がなかった。僅かな大地を耕しての収穫、それはこの逃げ延びたアフリカの地ではとても少なく貴重だった。


「今年のキュウリは甘いでしゅね~!」


 けれど、その野菜は美味しかった。

 敵から奪った料理よりも、

 ママの笑顔みたいなお日様が、ママの膝枕に似た大地が育ててくれた野菜の方が遥かに、比べることが出来ないくらいに……、

 ……美味しかった。


 今日もボクはみんなの為に敵を狩り、みんなのために鍬を振るう。

 けどボクにはママを忘れることが出来なかった。目蓋を閉じるとママの笑顔が今でも映る。

 ボクは思う。あのときにこの耳飾りの力があれば、ボクがあのとき弱くなければ、ママを……、助けることが出来たのにっ! お別れしなくてすんだのに! って。

 頭を振って、地面を打ち付けて、強く後悔した。


 ……夏も終わりかけようとする中、月明かりが差し込む中頬を涙が伝ってくる。苦しくて。悔しくて。どうしようもなく、……寂しくて。

 鈴虫が鳴き声を聞きながら、壁穴から吹き込む風に煽られながら瞳を閉じた。


『――真紅。つらいときには笑ってみるんだよ。苦しくても、悲しくても、1回泣いてから命一杯泣いてから、笑ってみるんだよっ!

 悪いことばかりじゃなかったよね? って、ちょこっと思い返してみるんだよ。

 するとね。みんな、真紅を包んでくれる周りのみんなも笑ってくれるの!

 笑顔が人々を渡り歩いて、どこまでも夕焼けの後の星空みたいに、辺りに広がって輝いちゃうんだよっ! ――』


 ……ママの声が聞こえた。はげ落ちた屋根から夜空を見上げる。遠い、遠い月を見つめた。

 どんな星よりもこの月は微笑んでいた。兎が独りボクを覗き込んでいる。


「マァマ。明日はきっといい天気になるでしゅね。マァマもこの空を、……見ていてくれてましゅかね?」


 空は東から西、南から北。海と空、空と地平。この世界を光のアーチで覆うように何処までも輝かせていた。





【2037年、秋。1人の少女】




 ホームホルダーに占領されたアフリカの旧首都。ここに私は住んでいる。お父さんから届いた手紙を手に、救われる日を待っている。


《私達ノアの技術によって旧地球民にはありえないとされることが起こるようになったのを、由香ゆかも知っているよね。

 連動する時間の合間を渡る技術、“タイムウォーク”だ。

 私はこの技術と管理を地球における法の執行者、“導きの園”に委ねた。

 けどね、由香も知ってのとおり、私は導きの園にタイムウォークの技術を伝えた後、姿を隠してしまった。

 みんなは、ノアの民を守ることに限界を感じたから。とか、日々の過労で死んでしまったから。とか、銀河の彼方へ旅立った。とか色々噂しているんじゃないかな?

 由香。本当のことを言うとね。

 私は由香を、そしてお母さんを守るために、ノアを捨てたんだ。由香とお母さんを守るためにだけ生きようと決めたんだよ。

 私は必ず帰ってくる。だからお願いだ。それまでお母さんを助けてあげてね。》


 一度、手紙を捨てようとしたことがある。そのときはお母さんにものすごく怒られた。これはお父さんが残したものだから大事にしないといけないよ! って。

 だから私は手紙だけは肌身離さず持っていた。

 お父さんから届いたお便りは今のところこの1通だけなのだけれど。


 私が悲しくなると、お母さんはいつも1人の女の子の話をしてくれた。お母さんの『ヒーロー』なのだそうだ。

 私の手には3つの耳飾りがある。それはお父さんの手紙と一緒に入っていた私の大事な宝物。


「由香。なゆちゃん王国っていう国があってね。そこには1人の女の子が住んでいるの。自分の母親を守れなくて泣いていた女の子が」


 私は犬の耳飾りを頭にかけてお母さんへ問いかけた。


「なんでその子はお母さんを守れなかったの?」


 お母さんを守れなかった理由、それが分からなくて何度も聞いた。不満げな私を前に、猫の耳飾りを取って、にゃー、とおどけながらお母さんが答える。


「女の子は普通の子だったの。普通の女の子だったから、世界のみんな、毎日お食事が出来るたくさんの人を敵に回して母親を守る事が出来なくなったの。

 けどね。その女の子は母親の意志を継いで私たちを守るために戦っているのよ! 私の、お母さんのヒーローなのよ! 一番強いの!」


 私は訊ねた。そのヒーローの名前が知りたくて。母の瞳の煌めきが眩しくて。


「その! その女の子のお名前は?!」


 お母さんは祈るように空を見上げて、最後に残ったクマの耳飾りを手に持って笑った。


柊真紅ひいらぎ まあか。すごく可憐で、誰よりも、……誰よりも強い女の子よ」


 その言葉を反復するように私は呟く。けれど舌足らずだったから、私はこう言ってしまった。




「ひいらぎモカ?」


 お母さんは笑いながら応えてくれた。頭に猫の耳飾りをはめ、温かい指先で私の髪を整えてくれた。


 どうしてだろう。そのときのお母さんは祈るように瞳を閉じていた。何故だろう。その腕が小刻みに震えている。いつまでも惜しむように私の体を抱きしめていた。


「そうね、モカちゃんよ。お母さんも由香の為に、モカちゃんみたいに、強く、……強く生きてみるからね」



 ――その夜、お母さんが私たちの家に帰って来る事はなかった。お隣に住むおじさんが私を家から外へ連れ出そうとする。

 私は拒んだ。ここに居ないとお母さんが心配する。それにここに居ればいつものようにお母さんがミルクを持って来てくれる。明日からまた2人でお父さんの帰りを待つのだ。温めたミルクを飲みながらずっと待つのだ。




 ……3時間と少しが経った頃、ホームホルダーの食糧保管施設に爆発が起こったことを私は知った。何故爆発が起こったのか、私には分からない。町の人は皆、ここから居なくなっていた。


 闇の中、私はカラのビンを抱いて待っている。

 何故だろう。手に持っていた3つの耳飾りはいつの間にか消えていた。

 誰か、誰か大事なお友達にあげてしまった気もする。それがいつの事なのか私は覚えていない。


 そんなことはどうでもよかった。私はただお母さんの無事を願った。




 待って待って、待ち続けて、……夜が明けるのをひたすらに祈った。





【2037年? ルーク・バンデット】




「――ボクを過去に送ってくだしゃい」


 導きの園、決まった時を持たないこの地へ彼女は現れた。その言葉に皆が驚いていたものだ。目の前の彼女は世界の法則を壊すためにやってきたのだろうか。

 禁忌を望む彼女の言葉に私は声を閉ざすしかなかった。彼女は自らが今行う罪を“認めてくれ。手伝ってくれ”。そう自分達に言っていたのだから。


「真紅の狩人、柊真紅さんですね?」


 私は訊ねる。

 私は目の前の少女を知っている。21世紀前期、世界の支配者たるホームホルダーの治世に反して、処分される生き物を、人々を救っている孤高の戦士。3種の神器が壱、紅狗フリーシーの纏い手として。

 あの時代を知る皆が彼女を知っていた。その名前を知らぬ存在は、1人として、1匹として居なかっただろう。

 ホームホルダーの管理下において、『駆逐されるべき卑しき獣』と報道されている。ホームホルダーの管理外、数少ない地域では母親が自身の産んだ子に数少ない希望として語っていると聞く。


「真紅さん。何故過去に飛びたいのですか?」


 彼女の境遇を知ってはいても、その問いだけは聞かざるを得ないものだった。

 彼女は答える。その瞳は必死に言い募っていた。


「マァマを助けるんでしゅ。過去に渡ってマァマを救うんでしゅ」


 彼女の言葉へ、園の民は誰一人として答えることが出来なかった。私とて同じ。然りとて一蹴することも出来ない……目の前の少女は、当時、あの時間軸における希望。そう。生き物が望む数少ない可能性だったと思うから。


 導きの園は完全中立の機関である。時間軸における過去、未来への介入を妨げ、時の流れを平穏に保つ為の公的機関だ。

 我が同胞であるマイク・ミーシャが言いはねる。


「何を馬鹿なことを。ここは完全中立の園だ。……帰りなさい」


 皆が彼と同じ意見なのかは分からない。助けたいと思うものも多数居るだろう。

 しかし何故だろう? 私が見渡した先では驚くほど多くの瞳が語っていた。


 助けよう! 彼女を行かせよう! そう、訴えかける眼差しが数多く在った。


 そしてその想いを一番強く感じたのが、誰でも無い、先ほどのマイクだ。針のように逆立てた髪を揺らす事無く、喉を震わせている。人一倍苦しんでいた。彼はあの世界に妻と子を残している。彼の想いが、彼の想いに反して溢れた言葉が痛かった。

 黙して語らない皆を前に、少女はただ前を見ていた。真っ直ぐな瞳が訴えかけている。


『……ボクを過去に行かせてくだしゃい!』


 答えを閉ざした皆が一様に彼女を見守り続けた。やがて我等は1つの決定を下す。交わし合う瞳の先で分かり合った。想うことは、叶えてみたいことは皆が同じだったのだ。

 私が代表して彼女へ言葉をかけた。


「今日の夜半過ぎにもう1度訊ねてきなさい。

 真紅の狩人。いや柊真紅。今度来る時は決して、決して『大きな家』のドアは叩いてきてはならない。分かったかね? 理解出来ないなら2度とこの地へ訪れることは許さない」


 厳しい目で私は、いや、全ての大人が彼女を見ている。

 零れる涙を抑えることなく流すその子をいつまでも、地平の先へ消えていくまで、……私達は監視した。





【2037年、秋。由香】




「……お母さん。まだかなぁ」


 私は暗闇を前に呟いた。

 体が冷えきってしまった。抱きしめた瓶の重さを感じていた。


「……お母さん。まぁだ?」


 空を眺めお母さんを想った。帰って来ることを信じている。


「ミルクなんていいから、早く帰ってきて」


 私は待った。セーターの内側の布地が寒い。身体がとても痛い。


「真紅の狩人の馬鹿っ!! ……お母さん一人守れないのに、ヒーローになんてなるな! 偉そうにするな!」


 見たことも無い英雄を罵った。どうにもこうにも彼女が許せなかった。


 私の両足に冷たい風が降り注ぐ。歯を食いしばって踏みとどまった。今気を抜いたら、全てが終わってしまう気がした。




 ――それからまた幾つもの時間が経った。見渡す景色に変化は無かった。

 体が思うように動かなくなっていく。秋の寒気のせいか、空腹のせいか、手足が痺れていく。腰が砕ける。力が出ない。――膝から腕、そして頭が重力に抗えず倒れた。

 大地にひれ伏しても手紙と瓶だけは放さなかった。片腕だけは、この腕だけは抗った。これはお母さんと私を繋ぐものだから。


「……お母さん」


 目蓋を開けていられない。全てが空っぽになったような感覚に陥る。もう、……疲れた。

 冷たい大地へ横たわる。


 ――どうしてかな。何も見えないはずなのに、聞きたくないはずなのに、目蓋の隙間に光が流れ込んでくる。霞むように、でも確かに風の音が耳に聞こえてくる。意識の奥で懐かしい匂いを感じたような。私にはその足音が聞こえていた。


「……ただいま」


 それが誰の声だったのかよく分からない。腕にも足にも、乾いた目蓋の裏にも力が入らない。硬直した腕は瓶を抱きしめたまま動かない。四肢には動かせるパーツが1つも無かった。


「ぉ、……ぉかあさ」


 90度ずれた視界、細く開けた世界にお母さんの泥だらけの足が見えた気がした。――眠くて仕方がない。


「――あさんね。頑張ってね。由香の牛乳を手に入れてきたの。ほらっ!」


 地に沈んだはずの私は抱きかかえられていた。反転した視界、地面と水平な世界、目の前で高く、高く牛乳の白が輝いていた。地平に顔を出した太陽にその白が映えている。私はそれをただ、呆然と見守ってしまった。




「キミのお母しゃん、キミのためにすごく頑張ったでしゅよ。キミだけの為に命を賭けたんでしゅよ?」


 閉じてしまいそうな目の先に見知らぬ女の子を見た。その頭には赤茶の犬耳。以前私が持っていたものとそっくりなそれ。


「も、……モカ?」


 私の言葉に彼女は笑った。はにかむ笑顔はどこか天使のようにも思えた。悪魔だと罵ったのに、あんなにも恨み募ったのに。


「みんなみんな、モカっていうでしゅね。ボクの名前は真紅でしゅのに」


 この腕が空を仰いだ。動かなかった足が地を蹴った。無かったはずの力が瞳の奥に溢れる。お母さんのようなこの星の重力にさえ抗った。これはどこから沸きでた力だったんだろう? 最後の、限界以上の力だった。私は彼女へ飛びついた。


「モカっ、モカお姉ちゃん! ありがとうっ! 由香の、由香の一番大事なお母さんを助けてくれて、本当に、……本当にありがとうっ!」


 夜が明けようとするなか、モカお姉ちゃんは時間を気にするように空を見上げ、誰かへ呼びかけていた。


「ふぃーしぃ。脚部跳躍ユニットを用意してくだしゃい! 一気に空を飛ぶでしゅよ!」


【Yes,master!】


 ――壊れた世界に緋が駆ける。赤い陽と青黒い闇、その全てに抗うようにお姉ちゃんの緋色が空を奔った。その影の通り過ぎる先、私の持つ手紙へと暁の光が射しこんでいる。


 お手紙とミルクの瓶を手に私は可笑しくなって笑った。涙が出た。だってあのお姉ちゃんはやっぱり


『……私にとっても世界一のヒーローだったから。』





【2034年、春。柊真紅】




 風が頬を撫でる。遠い先には昇り行く朝日、緑の大地。聞こえてくるのは小鳥のさえずり、(とり)の声。

 2034年。在るべき時間から3年前の故郷、まだ平和だった頃の我が家に、……ボクは帰ってきた。

 辺りを見渡す。そこは花の園。ママとの思い出の場所。お互いの髪に花輪を捧げた地。


「……マァマ」


 ボクは花の香りに導かれるようママを探した。


「マァマぁぁ!!」


 走り出す。追った。必死に探した。ボクの中に残っているママの笑顔を。


『――……真紅。お母さんね、昔からお花畑が好きだったんだぁ。

 ここはお母さんのお母さんにいつも連れてきてもらった場所なんだよ? ここはお母さんの思い出の場所なんだぁ。――』


 ママの言葉が脳裏に浮かぶ。


「マァマ」


 時間が無かった。おそらくあと数分でここは地獄と化す。その前に、


「マァマ! どこでしゅか!」


 見つけなければならない。しかしボクに応える声、求めた姿はそこには無かった。


 ――爆音。ボクの頭上で光が瞬く。緑が織り成す思い出を、ボクとママ2人の楽園を悪魔たちが踏みにじろうとしていた。


「ふぃーしぃ、守護の衣を!」


【Yes,master!】


 目の前でボクの思い出が欠けていく。その緑の色を壊していく。あの時ママを失った時と何一つ変わらない映像だった。

 絶叫。悲痛な叫び。苦しげな嗚咽。ボクの前に、人々の、仲間たちの泣き声が響き渡る。




 今、――ボクは時代を替える。


「……もう、」


 蒼き聖剣ゲイボルグを正面に構えた。


「2度とやらせないでしゅっ!!」


 声を張り上げた。


「ぁぁぁぁあ!!!」


 蒼い剣を構えて大空を薙いだ。跳躍ユニットを背に足に、この世界を汚す弾幕を1つ払うごとに新たな宙を舞った。

 空を墜ちるように1つ。……世界に羽ばたくように、また1つ、2つ。

 地を統べるように1つ、2つ。ボクが起こす破壊の数は、……数え切れるものではなかった。

 背の光をフルに稼働させ天と地を交互に渡り黒き花をしたためる。蒼い空に母なる大地に、幾多の血潮が溢れ散る。ボクはただ、愛しい記憶を、仲間を守りたかった。


「マァマ! どこでしゅか?!」


 逃げ惑う敵は追わなかった。我が家に続く道を走った。奔る風に黒煙を感じながらもそれ以上に見慣れた景色が嬉しかった。故郷の緑に、そしてきっと会える母親を想って鼓動が抑えられなかった。ボクの足は確実にママの元に近づいている。


「ここはツトム君の家。この桃の木を右に折れれば!」


 視界の先に望む建物、緑に包まれた我が家の前に彼は、そして“そいつ”は居た。


「ちび! 来るんじゃない!」


「……ふ~~ん。キミが未識別戦力の正体? ただの女の子じゃあ……ないわけか?」


 短く整えられた髪、体中から赤を浴びた男性。それはボクの家族、守りたかったものの一つ。――『いっか』だった。

 向かい合う男のその髪は燃えるような赤。その歪んだ口元が嫌にでも目に付いた。そいつはボクを見下ろし笑った。いやらしくも覇気を含んだ嘲笑で。


「あれだけの戦闘力を持つ装着型武具。3種の神器ってやつか。裏切りの民、ノアの神秘とか云う」


 ボクを守ろうといっかが前に立ち塞がる。それは広くて大きな桜の樹。いつもボクの頭を豪快に張り倒していた父親のような背中だった。ボクは数年ぶりに彼を見た。それは何一つ変わらない、精悍で愛しい横顔だった。

 こみ上げてくる想いを振り払う。ボクはいっかに並んで立った。


「お前、一体誰でしゅか」


 男、その青年の尖った肩がコキリと1度音を立てた。首をカキリ、コ、2度奏でる。


「僕はホームホルダー、世界の管理人宅の一住民。

『レッド・ボーイ』、通称ボーイさ。名前なんて元から無いね」


 その不気味なヤツを前に、いっかがボクを押しのけた。流れる赤をそのままに笑っている。懐かしいえくぼの筋と笑みの塊のようなその瞳の光がボクにエールを送っていた。


「ちび。……なゆたと一緒に逃げろ」


「いっか! そんな体で何が出来るというん、」


「……行け。お前の母さんが待ってる」


 いっかの腕が左に1本、右に1本。この世界を守るように張り出す。見上げるボクの瞳には彼の歪むこと無い眼差しが映った。


「いっか、……死んだら絶対許さないでしゅよ!」


 ボクは振り返らずに駆け出した。血の臭いが鼻についても振り切った。


 ……心配だった。一緒に戦いたかった。けれど、

 ボクはママの元を目指した。それがボクに任されたことだから。大好きな人が望んだことだから。




 ……空には雨雲が迫っていた。まるで、……ボクといっかを飲み込むように。



 飛び込んだ先はボクの家。思い出の場所、ここも戦場だった。

 そこに居たのは紅い剣を振るう黒髪のあの人。その手の剣には蒼く輝く石が在る。


「みぃちゃんの仇だぁ!!」


 剣を手に奔るあの人、その傍らには横たわる友達。流れる風にまつ毛を泳がせながらもその眼差しはひっそりと閉じられている。その姿は争いとはまるで関係無いように、眠っているだけのようにも見えた。


 ――その口から流す赤を見ていなければ。


 華奢な身体に蒼い衣を纏って、あの人はタクトのように刃を振るう。


「これはパブロフのだぁぁぁ!」


 ふて腐れているように大柄な彼が、ボクの友達が部屋の隅で眠っている。

 その瞳はボクの存在に気付くことは無かった。甘えてくれなかった。たるんだ口元をそのままに時間と共に眠っていた。


 ――声が掛けられなかった。虚無と絶望の映像に何も考えられなかった。


「……ぶっち。……シロくん。し、……しまちゃん?」


 みんな、みんな眠っていた。起きてはくれなかった。


 蒼い騎士、あの人はボクに気が付くことなく刃を振るう。背の光を元に敵を追い高く舞い上がる。穴の開いた屋根から空へ飛び出し多くの涙を流しながら。


「ファジー、蒼弓ラ・ピュセル用意だよっ!」


【OK! なゆちゃんっ!】


 空から転移した金の長弓。その長いアーチにあの人、ママは剣を固定する。その剣先を高い空へ、空を覆うような機械の群れへ翳して。


「そしてこれは、みんなの仇だあああ!!」


 放たれた刃、紅い矢から飛行機雲のような軌跡が奔る。伸び往く金の光は大空を超えた。ママはその弓の握り手を大きく上下に振りきる。

 遥か彼方へ延びるアーチは空間を両断した。ママの手が掴む光は残った敵艦を、世界を、跡形も無く――切断する。


 風を帯びたしなやかな脚が大地に下りる。ボクの前で、全てを癒すように、包み込むようにスカートのフリルが揺れていた。その瞳には涙が溢れ、悲しみにピンクの唇が歪んでいる。




「マァマ、会いたかっ……」


 ボクが呟く。


 ママが、


 ……ボクの声に振り返ろうとした。やっと会える瞬間だった。




 その一瞬。

 1粒の弾丸が、1粒の悪意がママを貫いて――……た。




「なゆちゃん王国の聖母、柊なゆたはこの僕、レッドボーイが、……狩った」


 その声に、目の前で崩れるママの姿に、ボクの全てが無くなった。……真っ白になった。右の方に立つ、“アレ”の歪んだ口元をぼーっ、と見つめた。言い知れない虚無の中、ボクは目を見開いて刹那の時を駆けていた。


 ――もう、何をすればいいのか、ボクの脳は教えなかった。言葉だけが溢れて、足だけが動いていた。


「なんで! ボクからみんなを、全てを奪っていくんでしゅかあああ!!」


 フリーシーの力で時間を閉じる。その中でも歩みを止めない“アレ”に斬り付け、その腕の銃を1つ切り払い、“アレ”の放つ弾丸を撥ね除け、




 時間が動き出した時、ボクは“アレ”の片腕を斬り払っていた。


「……マァマ」


 振り返り、重くなった足を10数進ませた先で、

 ママは眼の前、ボクの指から1センチも離れていない場所に居た。なのに、それ以上先、この手は1ミリも近づくことは無かった。


「な、なんで、」


 それはホームホルダーの仕業だろうか。彼らがボク達を消す為に、存在ごと消し去る為に、きっと過去を壊したせい。


 ――恐怖に狂ってしまいそうだった。震える指先が、ボクの意に反して踊っている。


「マァマ、か。……笑えるな。まんま子供じゃないか。いっそ、お前も消えちゃいなよ」


 片腕をもがれた“アレ”の声が耳元で聞こえた。脇に見た“ソレ”は片腕を無くしつつも逆腕で銃を構えている。ボクはただ、


 ……それを観ていた。


「さよなら、だ」


 その口が弧を描く。片目を歪める。




 ――鈍い炸裂音に、ボクはただゆっくりと、顔を上げた。そこに居たのは、


 大木のような……。

 あの人が……。


「まぁ、サヨナラするのは、お前だがな」


 拳を上げて待っていてくれた。大きな、ボクがぶら下がっても揺るがない太い力瘤で。ボクの大好きな、自信に満ちた眼差しで。そこに居てくれた。


「い、いっか、生きて……、生きていたでしゅね!」


 信じた人。彼、いっかが大きく笑う。その顔は鮮血に染まって尚、力に溢れていた。


「俺が、か? 俺が死ぬわけ無いだろ。……相変わらず馬鹿だな、ちびは」


 いっかは流れる血汗を拭って、ボクの頭をその太い指で弾いて、


 ……撫でた。

 ボクの大事な人。いつも傍にいてくれたヒト。その変わること無い姿が、そこには在った。初夏の朝日のような笑みで、……在り続けてくれた。





【2034年、春。桜壱貫】




 逃げ足だけは速いのだろう。気が付いた時あの赤い男は居なくなっていた。奴の所在、ホームホルダーの野望、そんなものは俺にはどうでも良かった。


「……いっか。マァマが。ま、マァマが!」


 泣き叫ぶちびを前に言葉を閉ざす。ちびを抱き寄せ、消えていく己が愛したただ1人の女を見守った。


「ボクはどうすればいいでしゅか、どうすれば、ど、どうしたら」


 ……口が閉じる。俺の胸で泣くちびもまた輝き始めた。この時間には存在していない者、この時間軸から見放された存在へと、形を代えようとしていた。


 徐々に姿を、うつせみ(現)の身体から架空の存在へ……。この世界はちびを、ちびが生きることを、拒み取り除こうとしていた。


『……助けて。』


 眼前の娘はそんなことは言わない。俺の前で、こいつはただなゆたを助けてほしい! と訴える。そのためだけにこいつは泣いていた。




「マァマぁ……」


 ちびが嗚咽を漏らす。ただ、絶え間なく涙を零し、母を求めていた。

 ……俺が出来ることは何も無い。


 その時だった。大地を転がるように1人の覆面がやって来たのは。馬鹿げた覆面と黒スーツを纏ったあの人が来たのは。


「誰かのために、どんな事でも、ど根性!! そこのお兄さん、楽しい、夢のような新聞は如何でしょう?」


 俺の拳が考えもせずに前に出た。正確無比、確実にモノを壊す鉄拳を言葉無く突き出す。


 ――マスク越しに鮮血が舞う。黒い、その覆面が弾け飛ぶ。




 ……思わず、言葉を失っていた。


「あ、あなたが何故!!」


 ――ここに?!

 俺の目に映った顔は、とても見知ったものだった。しかし再会を喜ぶことも無い。“彼女”は言った。流れる鼻血をものともせずに俺へ言う。


「いっくん、この指輪をモカちゃんの指へ! 早く!」


 彼女の言葉に我へかえる。

 懐かしい、その甘ったるい声に泣きたくなるというのに、その青い目はそれを拒絶した。

 ちびへと指を差し伸ばす。その細い身体を抱き寄せ、白く眩い細指に受け取った指輪をはめ込んだ。




 ――、

 淡い光がそこには在った。この世界へちびの姿が帰ってくる。俺の腕の中でその胸の膨らみが鼓動を伝えてくる。

 一時の空白を経てちびは俺の中で瞳を広げていた。生きていることを訴えた。


「……いっか。ボクはいったい」


「……」


 言えなかった。何故姿を隠すのかは知らない。ただ、……知ってはいけない気がした。

 彼女は慌てて覆面を被りなおすと、照れるように頭を掻いた。俺とちびを交互に見渡し話し出す。……元の口調で。


「我々DDD団は新聞配達もお仕事でして。そのおまけが、時間軸の干渉から身体を護る輝石。この“存在の石”なのですよ。

 真紅さん、1ヶ月のご契約をして戴けるなら、この石をあと2つ程差し上げるのですが。……如何でしょう?」


 ちびは唖然としながらも懐を探って、飴の包みを2つ取り出した。

 それはちびの宝物のはず、だった。俺やなゆたとつつましく分け合い食べたミルク味のそれ。


「ご契約ありがとう御座います。ここにサインを」


 覆面の彼女はポケットからペンを取り出しちびに手渡す。


 サインを受け取ったあの人は足早に駆け去った。

 遠く去り往く張り出した肩の先、彼女の声が聞こえてくる。


 ……軽やかに、そして幸せそうに揺れる厳つい背中が俺に、彼女が、“俺の知っている彼女”では無かったことを伝えていた。


 覆面の彼女を見守るもつかの間、ちびが俺の腕の中で暴れだした。その頬は幾多の傷を負って、焼けるように火照っている。


「い、いっか、離れるでしゅ。ぼ、ボクは……、」


 俺は、真っ赤になって抵抗するちびを抱きしめた。


『落ち着け。……ちび』


 言葉にはせず、体を合わせる。この胸を叩き続けたちびがようやく落ち着きを見せた頃、改めて言葉にした。……笑ってみせる。




「……無事で良かったな。ちび。」


 ちびは何も言わなかった。俯いてこの腕に身を任せている。最近めっきり甘えてくれなかったちびが、久しぶりに甘えてくれたことに安堵した。顔を真っ赤にする姿に、娘でありながらも可愛げを感じる。


 不意に気が付いた! ちびの体が以前よりも大きくなっている! 眼球を圧迫、再度確かめるが、やはり大きい。己は娘の成長の何を見ていたのだろうか。歯がゆくて頭が痛くなる。




 辺りから歓喜の声が1つ、2つ、細々と聞こえた気がした。

 遠く前方に、時空を管理する中立の紋章、麦の穂を示す旗が見えた。

 10数人の団体は散開することなく歩を進め、1人2人と集まってきた人々へ物資を配っていた。

 何故か、真っ直ぐにこちらへ足を向ける数人が居る。


 娘の前に体を構えた。


「いっか……」


 ちびが俺を見上げてくる。首を振って、彼らが敵ではないことをこの手を握り返し伝えている。


 ――そして、ちびは彼らの元へと旅立った。


「いっか。ぼ、ボクは、マァマを、いっかのことを……」


 別れ際にそれだけ。ちびはそれ以上言わなかった。涙ながらに笑うちびの姿に、俺は想う。


『こいつは、これからあいつへ会いに、あいつを守りにいくのだろう』


と、それだけを。


 中立たる時空の民へ、俺は娘を任せた。ずっと娘のように育ててきたちびのことを、頭を下げて頼んだ。




 ――いつしか訪れた夕日の中を1隻の船が駆けていく。流れる雲を突き抜けて、無限の空へ飛び去っていく。

 光の粒となった彼らには、もう俺の姿など映らないことだろう。


 大きくため息。陽の影を歩む中、空を仰いだ。

 ちびの無事を願った、のだが……。


 意思とは裏腹に笑いが込み上げてしまう。己の頬を叩いた。俺は何を心配しているのだろう?


『この俺、桜壱貫が育てた娘が、』


 ……誰かに、いや、巨大な何ものかに負けることがあるというのか?

 あまりの愚問に大声で笑った。先ほどの己が問いに、俺はいつでも答えてやれる。断言できる。




「……無いな。」


 そう、簡潔に。


 太陽が落ちる間際の茜色の雲を眺めた。――風に両の頬がやたらと染みる。それがどうにも可笑く思えた。





【2015年、春。柊真紅】




 幾つもの時間、時空の旅を経てボクは辿り着いた。ママが消えた時間から19年前、ボクがまだ生まれてもいない世界へ。

 見上げたこの街の空はため息が出るほど綺麗だった。

 一面に広がる銀の夜空を1人静かにボクは眺める。流れ続ける景色を見上げ、その輝きにそっとため息。軽く首を捻る。


「キミたちは、マァマを知っていますか? マァマの笑顔を覚えているんでしょうか?」


 空は瞬きを以ってボクに答える。

 ポリバケツの中で星を見ていた。時間の流れがとても曖昧だった。追い立てるでなく流れていた。


「マァマの名前、柊なぅた言うんでしゅよ。知ってましたか?」


 星は煌めくばかり、優しく笑いかけるだけ。


「本当に来てくれるでしょかね? ボクのこと、また、

 ……あの時と同じように拾ってくだしゃいましゅかね。どう思いましゅか?」


 路上を歩く黒猫にも聞いてみた。生き生きとした瞳、伸びやかな動きにボクはあの頃のママを思い出す。


「マァマはボクを見てどんなお顔をするでしょね。驚くでしょか? 好きになってくれるでしょか?」


 黒猫は答えない。闇の中へと帰っていく。

 脇へ並ぶ空き缶が目に映った。ボクは彼にも話しかけた。


「キミの名前、ボクが借りていいでしゅか?

 キミの名前をボクに、少しだけ使わせてくだしゃい。きっと、きっといつか、

 マァマに言えるようにするでしゅから。ボクがマァマの子供でしゅよ。柊“真紅”なんでしゅよ、って」


 某コーヒー飲料である彼、『モカ』くんはボクの問いには答えない。ただ、電灯の明かりに瞬いただけ。

 苦笑してしまった。ちょこんと頭を下げてみる。


 まだ逢っても居ない、知らないひとだけれど、真紅と名乗るのは、貴女の娘だと名乗るのは、どうしてだろう、……ボクにはとても怖かった。

 だから、その無機質な笑みに甘えてしまった。


「……ありがと。モカ君」


 彼が笑っているように思えたから、ボクは慌ててまなじりを擦った。

 ……大丈夫。ボクはまだ頑張れる。


「ありがと。……でしゅ」


 ――ボクは静かに目蓋を伏せた。


 ぶっち、みぃちゃん、パブロフ。みんな、みんな元気にしているだろうか。

 気になって仕方が無い。再びみんなに逢える。そう思うだけで胸の高鳴りが抑えられない。

 見上げた先に月を見た。思い出す。ふてぶてしくも逞しい笑顔を。曲がらない生き方を。今のあの人はどうしているのだろう。母を困らせてはいないだろうか。


「……マァマ」


 硬く張り詰めた足が緩んだ。瞳を閉じ眠気に身を委ねる。この世界はとても平和だった。


《――真紅。真紅。起きてよぉ。今日の朝ごはんは、なゆちゃん特製オムライスなんだよ。

 いっくんと先に食べちゃうよぉ?》


 優しいまぼろしに涙が溢れる。もう零さないと誓ったのに、勝手に出ていた。

 ……母の笑顔が、あの人の太腕が愛しくて、止めたくても零れるものが止まらない。




「――……猫と出るか。犬と出るか? ――」


 外から探るような呟きが聞こえる。

 ――とても眠かった。


「お出でませっ!」


 半ば閉じようとしていた視界にあどけない少女が映っている。……そのえくぼには見覚えがあった。


「お、女の子を捨てるなぁ!!」


 視界に映ったその大きな黒い瞳をボクが忘れるわけが無い。絶対に間違えるわけがなかった。


 それは髪の短い、まだ若かった頃のマァマの姿。

 まぶたを広げる。その顔を意識へ深く刻み込む。


 ……腕を伸ばした。

 ママ、『柊なゆた』が戸惑いつつもこの手を掴む。


 それは初めて届いた、数年ぶりに掴んだ母のぬくもり。それは証。ボクが、いや捨て犬の“モカ”が“柊なゆた”に拾われたという記念の日。

 今日こそが本当の出逢いだと、始まりだとボクは信じた。






「ボクを、拾ってくだしゃいますか?」


 ……信じたいと心から願った。


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